ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

気になる新聞記事から

2010年05月30日 | 随筆・短歌
 ちょっと前の事ですが、本年5月25日の日経新聞の記事に、「高齢者の3%に身体拘束」とあり、特養などの4種類の介護施設で身体拘束(ベッドなどに縛り付けられる)を受けている高齢者が、3.1%いることが、厚生労働省研究班の調査でわかった、とありました。又、一日当たり約8000人が、虐待状態にあると報じています。
 身体を拘束すれば、歩けないわけですから、身体は弱り認知症状が進みます。これが悪循環になり、ますます拘束の度合いを強めることになるでしょうから、介護される人の苦痛は如何ばかりかと、想像するだけで辛くなります。
 将来介護施設で暮らすことがあるかも知れないと考えている私には、まさに驚愕的な記事でした。年と共に認知症になるのではと怖れているのに、その上更に身体拘束の状態で生かされることを考えると、堪らない気がします。
 この事実について記事のまとめには、数字は身体拘束の規制がない病院などを含めると、虐待に当たる拘束は数万人に上がると予想され、早急に法的規制が必要だ、とありました。
 ふと、もう24年前に亡くなった義母の、最後の入院介護の経験を想い出しました。義母は、倒れる前は意識もしっかりしていましたが、入院して直ぐに一時的に認知症の症状を呈しました。やがて次第に認知機能を取り戻し、問いかける看護師さんにもはっきりと返事をするようになりました。そして、亡くなる2~3日前に 、はっきりした口調で私に「有り難う」と云ったのです。この時の感動については以前も書きましたが 、後になって考えると、亡くなる少し前までは、話は出来ない状態にありましたが、自分を取り巻く状況は良く解っていたということになります。
 義母は、末期の高齢者に良くあるように、無意識に手を動かして、蒲団をはねのけたり、点滴にさわって抜いたりたこともありました。夕方から翌朝にかけて付き添って、昼間の介護のお手伝いさんに代わるまで、私一人の看病でしたので、点滴が抜けたりしないように、殆ど寝ないで付き添っていました。夜中に回って来られる看護師さんが見かねるのか、「手をしばりましょうか」というのですが、私はとても気の毒で、「いいです、見ていますから」と応えることが最後まで幾度となく繰り返されました。
 実母の時は、病院で過ごした最後に近いころ、朝私が付き添いに行くと、軽く(紐を長くして)矢張り拘束されていました。私はそっと外して、私が付き添っている間は拘束を解いていましたが、母は特に何も言いませんでしたし、私も黙って外してやり拘束については気の毒で何も言えませんでした。
 このように一般の病院でも拘束が行われているのが現状だと思います。どちらももう起きあがって歩くことの不可能な病人でしたが、母の場合、紐が長くとも拘束されていると云う意識はありましたし、夜間の看護師さんの忙しさを思うと、あの程度の拘束は仕方ないのかも知れませんが、自分の肉親が手足を繋がれた奴隷のようになって、ベッドに寝かされている姿はとても正視出来るものではありません。
 まして歩ける人を、徘徊するからと云ってベッドに拘束するのは、如何なものでしょうか。人間の尊厳は確保するという最低限の条件は、満たされなければならないのではないでしょうか。それを無視して、老人の介護や看護がなされるとしたら、とても堪らないと考えるのは、きっと私だけではないと思います。
 リハビリに力を入れたら、徘徊もしなくなり意欲を示すようになって、認知症状が軽くなり笑顔が生まれた、と書いてあった本も読みました。高齢化はますます深刻になり、介護する人もされる人も心労が多くなります。誰もがなるべく最後迄自分の足で歩きたい、と考えているでしょうし、そう出来るように自分自身の努力も必要ですが、医療も介護もそれに近づけるように務めて欲しいものだと考えます。
 終末期になった高齢者の最大の願いは、最後まで人間らしく生きるということなのです。医療や介護に携わる皆さん、どうかこの世を去ろうとする高齢者に、人間らしい幕引きをさせるにはどうしたらよいか、そこをしっかり考えて頂ければ有り難いと思うのです。
 ちなみに今日(22年5月30日)の日経新聞には、独り暮らしの高齢者の安否見守りのサービスについて載っています。結婚しない人が増加の傾向にありますから、今後ますます独り暮らしの高齢者は増えるでしょう。100%の確率でみな老いて死ぬのですから、全ての人にとって、重要な問題として取り組まねばならないと考えるこの頃です。

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お茶の間幼稚園

2010年05月24日 | 随筆・短歌
 手を振ってバイバイと挨拶するのは、何歳頃迄でしょうか。又目の大きい可愛い女の子とか、ややいかめしいカブト?をかぶったようなイラストを見て「可愛いい」と喜ぶのは、何歳頃迄でしょうか。私は恐らく幼稚園児程度かと考えますが、皆さんはどう思われますか。
 日本人の精神年齢が低下してきたと云われて久しくなりますが、最近は一段とその傾向が強くなってきたようです。明治維新の頃の20歳は、今の何歳なのでしょう。以前テレビで有名な評論家が、少なくとも20代の人は、5歳位は精神年齢が低くなっていると仰っていましたが、現在ではもっと低年齢化しているのではないでしょうか。明治維新の立役者達は、ほとんどが当時20代から30代前半でありました。  
 今でもイギリスの首相やアメリカの大統領は、日本に比較して可成り若い方ですが、日本のこの現象は長寿国家になった事と無関係ではないのかも知れません。そしてこの現象は、若者に限ったことではなく、30代は勿論のこと、残念ながら40代50代についても一部にそんな傾向がみられ、一億総低年齢化国家になるのではないかと心配です。 
 時折テレビで世界の若者のインタビューを聞くことがありますが、ヨーロッパもそうですが、お隣の韓国や中国の若者も、しっかりとした自分の意見を述べていて感心します。娘がドイツへホームステイする前に、自分の意見をしっかり持ってはっきりと伝えられないとあちらでは一人前の人間として認めて貰えないとか、無宗教だ等と軽々しく云ってはいけないと云っていましたが、つい人がどう思うか気を遣ったり、曖昧にしがちな自分を振り返って恥じたことがあります。(以来私も自分の意見をはっきり述べるように努力しています)
 現役で活躍している人達も他人の思惑に配慮し過ぎるのか、「○○じゃないかなあって」と云うのをよく耳にしますが、これなども幼児化に自信喪失が加わった表現に聞こえます。
 どうしてこうなったのか、ということを考えてみますと、先ず周りの大人が中学・高校・大学生になっているのに子供扱いし過ぎて、いつまで経っても一人前になれない人が増えたこと、次に読書量が減って、自分の頭でしっかり考える習慣が極めて少なくなった為、自分の意見を持てなくなっている事、コミュニケーションの手だてがメールなどになって、直接自分の意志をダイレクトに伝えることに恐怖心を抱くらしい事、テレビではお笑い半分の茶化した番組でこけにされたり、些細なことをあげつらう報道に出会うと、つい見ている人まで自信をなくしがちな事、等等が考えられます。
 「漫画が大学生にまで読まれるようになって、大学の研究室には漫画の本が積んで有るんだって」、と聞いて驚いたことももう過去の話になり、今は多くのサラリーマンも漫画を読むし、行政のパンフレットも漫画が入ったりしています。漫画が全ていけないといっている訳ではありませんが、何故こんなに漫画が好まれるのか、かつては見られなかった現象です。手っ取り早く簡単に、という風潮がもたらす物と言えましょうか。
 漫画はこの国に昔からあった文化です。但しそれは子供向けの読み物でした。何故ならそれは、物語のあら筋を主として伝える文化だからです。そこには著者が丁寧に伝えたいメッセージや細やかな心理描写や移りゆく風景に対する感性の描写に欠けていて、物語の必然性より、原因と結果が素早く読み取れるようになっているからです。短絡的な思考回路が、次第に人間の行動にまで影響を及ぼし、刹那的な行動に走る若者も出て来ている原因にもなっているようにさえ思えます。
 テレビにしても何となく見流すという受け身の見方でなく、批判的に見聞きすることが大切かと思います。何処かの国の放送を見て、その思想の統制に驚く事があるように、いつの間にか自分も批判精神を無くして、操られているかも知れません。
 上記のバイバイやイラストは、公共放送のテレビで最近目立つことで、もうお解りと思いますが、番組の最後などに手を振る女性アナウンサー、夜十時前のお天気予報の時に出てくる○子ちゃんなどのイラストです。私は見る度に、何だか幼児扱いされているように思えてなりません。別れ際にバイバイと手を振るのは、自分と同等か、或いは目下の人に対して示す親愛の行為であって、少なくとも目上、或いは年長者に対しては行うものではないと思うのですが、皆さんはどうお考えでしょうか。
 まして視聴者の中には、人格識見を兼ね備えた立派な人も多く居られる筈です。そういった人達に対して、バイバイは、礼を欠いた行為だと思います。イラストなど入れなくとも晴れだとか、寒波だとかは口頭でいうだけで十分です。誰を対象にしたイラストなのか、不思議で仕方ありませんが、こんな風潮が蔓延したら、日本人の精神年齢は低下の一途をたどり、お茶の間はいつの間にか幼稚園児化した人間の集団を作り出し、思考の低年齢化はますます進むでしょう。
 この国は世界に誇る文化を沢山持っています。それを大切に守り、次代に伝えましょう。さもないと、やがてこの美しい日本語や表現力も、礼節をわきまえた行動も、日本人特有な侘びさびの心も消える日が来るかも知れません。
 特にお若い人達にお願い致します。新聞や本を読み、自分の考えをしっかり持ちましょう。いけないことにはノーといえる人間になりましょう。笑うことは、健康にも脳の活性化にも大切ですが、下卑た笑いに調子を合わせたり、自分を必要以上に貶めたりしないで、胸を張って生きて下さい。そして、謙譲の心を培いましょう。
 現在派遣切りや、就職難で苦しんでいる若い人々は、この苦労を跳ね返した時、もっと強くなって、きっと次の時代の為にどうあらねばならないかを見据えた、逞しい存在になって下さると信じています。それが日本の活力や底力となるものと信じて期待しています。 どうか自立した考えを持つ努力、そして発言する勇気を持ってください。力は泉の如く、出せば出す程に湧いてくるものだと信じています。

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あの頃という時代 その2  大学時代

2010年05月18日 | 随筆・短歌
 大学時代を思い起こそうとすると、必ず脳裏に浮かぶのは、入試に失敗して挫折感を味わったことです。これについては以前に書きましたが、私にとってはとても良い人生の勉強になって、今こうして在るのも、その挫折感を味わったからだと、むしろ神仏の計らいと感謝しています。
 あの入試得意でありし数学を解けざりて在る今の幸せ (再掲)

 入学して間もなく「大学というところは、学校で一時間勉強したら自主学習を二時間するところです」と教えられ、私は「させられる学習」から、「自らする学習」へと目覚めました。誰も「勉強しなさい」と強制もしなければ、特別なお説教もありませんでしたが、追いかける学習というのが気に入って、神田の書店街をふらついて本を買ったり、図書館を探して出かけたりしました。何となく一人前になった気がして、勉強することの楽しさを初めて実感しました。それはとても心地よい充実感を味わわせてくれました。
 両親は私に大学の寮に入るようにいいました。当時は兄、姉、私と三人が東京の大学にいましたし、弟妹もそれぞれ中・高に在学中でした。父母は一度も学費が大変だとは云いませんでしたが、苦労は自ずと理解出来る年齢でしたから、当然のことと受け止めました。 四人一部屋の集団生活でしたが、お互いに余り干渉しなかったので、楽しくもありました。私は試験の前になると、相変わらず高校時代の延長のように試験間際の勉強になってしまい、朝の一番電車が通る音が聞こえる迄、寮の図書館で学習して(自分の部屋は消灯時間があるのです)それから部屋に戻って少し寝ました。足がすっかり冷たくなっていても、二段ベッドに入ると直ぐに温かくなったものです。それが今では冷えた足が温まる迄可成りの時間を要しますから、そんな時代が有ったことさえ信じられない程です。
 大学では、長机で授業を受け、大抵真ん中の一番前か、二番目に席を取りました。次第に近くの人と仲が良くなって、七人の仲の良いグループが出来ました。皇居のお堀の近く迄出かけ、芝生に腰を降ろして撮ったグループの写真は、今も当時の記念として大切にアルバムに貼ってあります。青春真っ只中の「あの頃」を代表する大切な記念です。
 有名な女性の学長が、時折講堂で講話をされました。どんな話をされるのか、私は興味津々でお聞きしていましたが、何時も感動させられるお話でした。私達がどう学んでいくか、示唆に富んだお話が多かったです。父母はこの学長を尊敬していて、他にも滑り止めは受かっていたのですが、私にこの大学を強く薦めたのです。
 授業は楽しく、中でも文学の時間の中河与一先生のお話は面白く、早速先生の「天の夕顔」を買って読んだりしました。クラスメイトはみな真面目で礼儀正しく、専門の分野にも良く努力しながらも、一方では学生時代をおおいに楽しみもしていて、地方出身の私にはまぶしく感じられました。北海道から奄美大島までの人々が一堂に会して学び、卒業後はそれぞれの個性を伸ばして、各界で活躍しておられます。
 思いがけず専門外の漫画の世界で有名人になって、現在アメリカに住んでおられる人も居たり、舞踊の名取になられた人、刺繍の腕を磨かれたり、大学や高・中の教職に就いた人、家庭に入られた人達も茶道や華道や書道の師範になられた人、院展で日本画を認められた人、それぞれ研鑽を重ねられ、見事に花を咲かせた人達が沢山おられます。
 そんな個性と才能豊かな人達に囲まれて、私は平凡で余り目立ちもせず、自分の学習に自信が有るわけでもなく、何となく当時寮の近くで開かれていた学生の読書サークルに出席したりして、多くの大学の学生と学び合ったりしました。クラシックに引かれたのもこの時代でした。当時のクラシック喫茶に友人と出かけて、結構長い時間をコーヒー一杯で粘ることも覚えたり、そこでたまたま兄とその友達に出会ったりもしました。親元を離れての自由でのびのびとした生活や、様々な文化に触れて、何だか自分が想像以上に、一人前の大人になっていくのを感じたりもしました。
 専門の指導をして下さった良い先生方、良い友達に恵まれて、本当に幸せな時間でした。卒業後は、暫くは街で学生を見かけると、何となく羨ましく、またあの自由で楽しい生活に戻りたいと願う程、人生で最も幸せな時期でした。
 自分の将来像をしっかりと持っていた訳ではなかった私は、友人とある製薬会社の入社試験を受けて採用されず、父に背中を押されるように私の生涯の職業に就いたのでした。 その後仲の良かった私達のクラスでは、時折クラス会を持つようになり、年齢を重ねてそれぞれが自由な身分になった今は、毎年開かれています。当初勤めていた私は出席出来ずにいましたが、娘が大学四年の時に、既に退職していましたので一度参加しました。
 今年も銀座で間もなく39回目のクラス会が開かれるのですが、足が痛くて体調を崩している私は、残念ですが欠席です。娘が東京で過ごした15年間に何度も上京して、二人で様々な国の料理を食べ歩きました。フランス、ロシア、インド、チェコ、ドイツ、ベトナム、等々食いしん坊の二人は良く席の予約をして、その国の生の音楽演奏を聴いたりしながら楽しみました。スペイン料理などは、汗の飛んでくるようなステージ真ん前のテーブルでフラメンコを見ながら、ワインや珍しい料理を堪能しました。
 銀ブラも良くしましたので、娘が亡くなった今は、その銀座は悲しい想い出の場所になってしまいました。そんな辛さもあって、その後東京は素通りする所となってしまいました。去年夫と二人で娘のお墓参りに、娘の夫の実家のある神奈川のお寺と墓地へ行ったのですが、ついでに鎌倉には行きましたが、東京は素通りでした。
 今でも学生時代の友達とメールや手紙を交わしています。去年は特にわざわざ遠くまで出向いてくださった友人と、ある温泉のホテルでお昼の時間を共にする機会に恵まれました。 夫は「良い友人に恵まれて良いね」と云っています。その夫も、学生時代に同じ研究室だった人達などと、現在もメール交換が続いています。学生時代の人からのメールは一瞬の内にあの青春時代に戻れるのですから、こんなに嬉しく有り難い存在はありません。
 一方残念なことですが、この年になると早世される人も出て来ます。京都に住むようになった友人の所に泊めて頂いて、初めて祇園祭りを見物したものですが、その友人も既に鬼籍に入りました。大韓航空の事故でご子息と一緒に亡くなられた人もあり、人生のはかなさを知らされると共に、現在でも多少身体に不具合があっても、何とか毎日を幸せに過ごせることに感謝しているこの頃です。
 
 若くして逝きたる友と似し人に擦れ違ひたり黄昏の街
 不意に響くチゴイネルワイゼンに思ひ出づ心の隅に秘めし恋あり(全て某誌に掲載)
 

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あの頃という時代 その1 高校時代

2010年05月10日 | 随筆・短歌
 高校時代を振り返るとき、それは灰色の時代だったと感じるのは、私一人ではないでしょう。何しろ大学受験のために、兎にも角にも勉強を強いられた時代でした。まるで薄ぼんやりと揺れる明かりを追って、灰色のトンネルをくぐってきたように思えるのです。
 父が教えていた英語が何故か私は特に苦手で、二間続きのお茶の間とお座敷を、夜中にぐるぐる歩き回って英単語など暗記した、苦しい想い出については以前にも書きました。気が付くと、お座敷の大黒柱に寄りかかって、ウトウトと眠っていたりして、ハッと目覚めて又歩きながら、辛く苦しい泥縄の勉強をした記憶が、今も鮮明に思い出せます。
 けれども一方、今思い返してみると、何やら微笑ましいこともあって、時々私達夫婦の間で、想い出話に花が咲きます。
 私も夫も同じ高校でした。と云っても、その頃は新制高校になって間もない頃だったので、男子は旧制中学からの校舎であり、女子は、旧制女学校の校舎だったので、一つの高校といえども校舎は別でした。
 私は汽車で通学していましたが、同じ列車でも男子と女子は離れて乗っていて、学生というプライドからか席に腰掛けた記憶は余りなく、何時も立っていたような気がします。列車を降りると、同じ方向に歩かって行くのですが、男子の歩く通りと女子の歩く通りは別々でした。途中から道は一本に合わさりその後左右に分かれて、男子は左の道を、女子は右に折れるのです。今のように並んで歩くなど考えられないことで、お互いになるべく顔を合わせないようにして、避けて歩いていました。
 3年になる時に、一つの高校は一つの校舎で、という決まりになったようで、女子も希望者は男子校舎で授業を受けられるようになりました。男子校は父が以前勤めていた学校でもあり、弟も一年に入学して来ましたので、私は男子校舎へは行かずに、そのまま女子校舎に残りました。結局三人の勇気のある女性が男子校舎に移り、他は全て女子校舎で過ごしました。
 体育祭だけは、男女一緒に男子校舎のグランドで行われたのですが、女子だけの学校に比べて、何とも言えない熱気が漂っていた気がします。その頃は全く知らなかった夫ですが、「それは女子生徒に良い所を見せようと張り切ったからだ」と冷めた感じで云っています。
 灰色の時代にあっても、仲の良い友達はいて、利害関係のない平等な立場でしたから、今でもそれぞれ離れていますが、仲良くしています。
 そんな灰色の時代に、今も忘れられない想い出があります。それは制服です。これは今まで夫以外の誰にも云わずに過ごして来ましたので、同級生も知らないことだと思います。それまでの制服は大正時代のデザインの旧制女学校のものでしたが、当時既に誰も着る人はなく、生徒達はセーラー服ではありましたが、形もリボンも自由でした。
 生徒からも先生方からも「新しい制服が欲しい」という希望があったのは、聞いていましたし、時代の流れもあったのでしょう。ある日学年主任が私を職員室に呼び出して、「新しい制服はどな形が良いか、紙に書いて持ってきなさい」と仰いました。私はみんなに相談すれば良かったのでしょうが、そうすればダブルかシングルか等様々な意見があって、一旦聞き始めたら、私には収集が付かなくなる怖れもあり、又、みんなの希望の大筋は分かっていた気がましたので、世の中の趨勢がテーラー型のジャケットに向かっていたことから、勝手にテーラー型のシングルのジャケットにして、アウトポケットを付け、襟の角を心持ち丸く落とし、スカートは平凡な襞のスカートにして、紙に前と後ろ姿を書いて持って行きました。
 学年主任が「スカートの襞は何本なのか」と問い返してきましたので、慌てて自分のスカートの襞を数えて報告しておきました。今になって考えて見ると、大変申し訳ないことをしたと思っています。原画は家庭科の先生の手によって、スラリとしたスタイル画になり、やがて職員会議をへたりして、その高校の女性徒の制服になったのでした。
 私の一番下の妹の頃は、もうその制服になっていたのですが、その後その妹の娘が同じ高校に入学して我が家へ尋ねて来たことがありました。その時の制服姿を見て、ああ私が勝手に描いたスタイル画から生まれた制服がこれなのか、と気が付いて、何だか急に大勢の皆さんに申し訳ないことをしたとの思いにかられました。けれどもその一方で、綺麗な明るい紺色の生地のジャケットとスカートは姪に良く似合い、私にはとても素敵に映って、今もこうして後輩が着用しているのかと、感慨無量でした。私が描いた原画が元になったというだけで、私が型紙を起こした訳ではないので、それが少し救いでもありました。
 一学年上だった夫の方は、名うての厳しい先生が何人か居られて、私の兄の時代から有名な先生方でしたが、よくしごかれた想い出話を今でも懐かしがってしています。「豆腐の角に頭をぶつけて死ね」「おまえのような馬鹿は○○大学○○学部しか行くとこないぞ」と決まり文句の雷が毎日のように落ちたそうです。やがて先生は「豆腐買って来い、それからどうするか解るか」と怒鳴られ、生徒は「はい、角に頭をぶつけて死にます」というと、「おお、馬鹿でもそれ位は解るか」と云うようになったそうです。
 何時落ちるか解らない雷に戦々恐々として過ごしたようです。○○大学には大変失礼な話で申し訳ありません。一方英語の先生は、間違えると辞書の角で思い切り殴るので、これが大変痛くて必ず瘤が出来たそうです。でも今になって思うとその雷によって、必死で過ごしたきたのが、現在の生き方に繋がっているように思えるのです。私の亡くなった兄も、良くそれらの厳しかった恩師を懐かしがりました。私も、現在でもその頃の恩師と途切れることなく、文通が続いています。
 誰にもある「あの頃」という時代を想う時、苦しくもあり、またほんのりと懐かしくもある不思議な気分に襲われるのです。
 

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低いようで高いもの

2010年05月04日 | 随筆・短歌
 私達夫婦もそろそろ人生の終末を迎える年になりした。どちらの両親も現在の私達より長く生きていましたが、私達にこれから先にもっと長い年月があるとは言えません。遅れ先立つことは、無常な世を生きている以上、何時どうなるかは誰にも分かりません。夫は「あと10年位は二人揃って元気で生きていたいね」と言っていますが・・・。
 夫は時折「自分は父親を越えることは出来なかった」と云うことがあります。義父は苦労の人でしたが、その苦労を「決して他人に恩にきせるようなことを云わない人だった」と、義母も誉めていましたが、何かに付けてあれこれと私達にも指示することもなく、二人の孫を大変可愛がって育ててくれました。曲がったことが大嫌いで、戦争の為に紆余曲折もありましたし、生命の危機を乗り越えて生きて来ましたが、愚痴をこぼすこともなく、黙って運命に耐えてきた姿に、私も尊敬していました。安心して静かに過ごす晩年があったことのみが、私達のせめてもの恩返しでした。
 夫が義父の何処を指して「父を越えることは出来ない」と云うのかは、取り立てて聞いていませんので知りませんが、多分生きるたくましさにについて及ばないと、自覚しているのではないかと想像しています。
 けれども、これは多分夫の世代が、太平洋戦争を耐え抜いてきた義父の世代に対する、大方共通な思いなのではないかと考えます。若い頃は親は簡単に乗り越えられるとタカをくくっていたように思いますが、この年になると、とても越えられないものを感じることは事実だと思います。
 一方私の父も子煩悩な人でした。私は、父がそう遠くない将来に亡くなるかも知れない、と思うようになって、父から届いた手紙を大切に取っておきましたが、それが13通あって、今も私の宝です。
 何れの封筒にも内容の簡単な要旨を書きとめておきましたので、封筒を見れば、中身が分かる仕組みになっています。どれもこれも我が子(私や私の兄弟姉妹達の事)を案じての手紙ばかりです。直ぐ下の弟の転勤について、生涯を独身で過ごした弟と、妹達の結婚についての相談、マンションを買ったもう一人の弟の事など、何れも細やかな愛情に溢れたものばかりです。母と今どんな風に話しあっているかとか、それに関して私への一寸した頼み事や感謝の内容であったり、時には意見を問う書簡でありましたが、既に人の子の親になっている私には、子を思う親の気持ちが痛い程伝わって来ました。
 子は親を越えて偉くなり、教え子は教師を越えて偉くなって、初めて社会は進歩する、という信念を持って来た私ですが、この年になっても見えるのは親の背中で、父母を越えて前に出ることが未だに出来ないでいます。夫もきっとそんな思いなのでしょう。
 母は75歳で父を見送り、90歳でみまかりました。晩年に母の所へ毎週出かけ、寝込んでからは、看病に付き添ったことは以前書きましたが、入院の前でまだ元気な頃に、「お父さんが亡くなる少し前に(おまえと結婚して本当に良かった、幸せだった)と言った」と言って「一生涯の苦労がそれで吹き飛んだし、嬉しかった」と涙ぐんで私に話して聞かせました。明治生まれの父の口からの思いがけない感謝の言葉に、母は何物にも変えられないプレゼントを貰ったのでした。実に晴れ晴れとした顔でそう言いましたし、私も「良かったね」と二人で喜び、それから何度も、その話を父の想い出と共に母と共有しました。
 その母は、亡くなる三日前にベッドの枕元の私に様々な話をして、「頼んだよ」と帰る私に言い、ニッコリと笑顔を見せ、「有り難う気をつけて」を最後の言葉として別れたのでした。母が声に出して私と話をしたのはそれが最後で、亡くなる前日に家族三人で見舞いに行った時はもう話せませんでした。まさか翌朝に亡くなるとは露も思いませんでした。
 過日、昨年夫に先立たれた姉が、「私は母親と同じ年に夫を見送った」と言いましたので驚きました。そういう数え方をしたことが無かったので、急に死が身近に感じられるようになりました。この分だと永久に親を越えることは出来ないまま終わってしまうだろう、と思っているこの頃です。

何時までも背中ばかりを追いかけてつひに縮まぬあなたとの距離 (実名で某誌に掲載)



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