ちょっと前の事ですが、本年5月25日の日経新聞の記事に、「高齢者の3%に身体拘束」とあり、特養などの4種類の介護施設で身体拘束(ベッドなどに縛り付けられる)を受けている高齢者が、3.1%いることが、厚生労働省研究班の調査でわかった、とありました。又、一日当たり約8000人が、虐待状態にあると報じています。
身体を拘束すれば、歩けないわけですから、身体は弱り認知症状が進みます。これが悪循環になり、ますます拘束の度合いを強めることになるでしょうから、介護される人の苦痛は如何ばかりかと、想像するだけで辛くなります。
将来介護施設で暮らすことがあるかも知れないと考えている私には、まさに驚愕的な記事でした。年と共に認知症になるのではと怖れているのに、その上更に身体拘束の状態で生かされることを考えると、堪らない気がします。
この事実について記事のまとめには、数字は身体拘束の規制がない病院などを含めると、虐待に当たる拘束は数万人に上がると予想され、早急に法的規制が必要だ、とありました。
ふと、もう24年前に亡くなった義母の、最後の入院介護の経験を想い出しました。義母は、倒れる前は意識もしっかりしていましたが、入院して直ぐに一時的に認知症の症状を呈しました。やがて次第に認知機能を取り戻し、問いかける看護師さんにもはっきりと返事をするようになりました。そして、亡くなる2~3日前に 、はっきりした口調で私に「有り難う」と云ったのです。この時の感動については以前も書きましたが 、後になって考えると、亡くなる少し前までは、話は出来ない状態にありましたが、自分を取り巻く状況は良く解っていたということになります。
義母は、末期の高齢者に良くあるように、無意識に手を動かして、蒲団をはねのけたり、点滴にさわって抜いたりたこともありました。夕方から翌朝にかけて付き添って、昼間の介護のお手伝いさんに代わるまで、私一人の看病でしたので、点滴が抜けたりしないように、殆ど寝ないで付き添っていました。夜中に回って来られる看護師さんが見かねるのか、「手をしばりましょうか」というのですが、私はとても気の毒で、「いいです、見ていますから」と応えることが最後まで幾度となく繰り返されました。
実母の時は、病院で過ごした最後に近いころ、朝私が付き添いに行くと、軽く(紐を長くして)矢張り拘束されていました。私はそっと外して、私が付き添っている間は拘束を解いていましたが、母は特に何も言いませんでしたし、私も黙って外してやり拘束については気の毒で何も言えませんでした。
このように一般の病院でも拘束が行われているのが現状だと思います。どちらももう起きあがって歩くことの不可能な病人でしたが、母の場合、紐が長くとも拘束されていると云う意識はありましたし、夜間の看護師さんの忙しさを思うと、あの程度の拘束は仕方ないのかも知れませんが、自分の肉親が手足を繋がれた奴隷のようになって、ベッドに寝かされている姿はとても正視出来るものではありません。
まして歩ける人を、徘徊するからと云ってベッドに拘束するのは、如何なものでしょうか。人間の尊厳は確保するという最低限の条件は、満たされなければならないのではないでしょうか。それを無視して、老人の介護や看護がなされるとしたら、とても堪らないと考えるのは、きっと私だけではないと思います。
リハビリに力を入れたら、徘徊もしなくなり意欲を示すようになって、認知症状が軽くなり笑顔が生まれた、と書いてあった本も読みました。高齢化はますます深刻になり、介護する人もされる人も心労が多くなります。誰もがなるべく最後迄自分の足で歩きたい、と考えているでしょうし、そう出来るように自分自身の努力も必要ですが、医療も介護もそれに近づけるように務めて欲しいものだと考えます。
終末期になった高齢者の最大の願いは、最後まで人間らしく生きるということなのです。医療や介護に携わる皆さん、どうかこの世を去ろうとする高齢者に、人間らしい幕引きをさせるにはどうしたらよいか、そこをしっかり考えて頂ければ有り難いと思うのです。
ちなみに今日(22年5月30日)の日経新聞には、独り暮らしの高齢者の安否見守りのサービスについて載っています。結婚しない人が増加の傾向にありますから、今後ますます独り暮らしの高齢者は増えるでしょう。100%の確率でみな老いて死ぬのですから、全ての人にとって、重要な問題として取り組まねばならないと考えるこの頃です。
身体を拘束すれば、歩けないわけですから、身体は弱り認知症状が進みます。これが悪循環になり、ますます拘束の度合いを強めることになるでしょうから、介護される人の苦痛は如何ばかりかと、想像するだけで辛くなります。
将来介護施設で暮らすことがあるかも知れないと考えている私には、まさに驚愕的な記事でした。年と共に認知症になるのではと怖れているのに、その上更に身体拘束の状態で生かされることを考えると、堪らない気がします。
この事実について記事のまとめには、数字は身体拘束の規制がない病院などを含めると、虐待に当たる拘束は数万人に上がると予想され、早急に法的規制が必要だ、とありました。
ふと、もう24年前に亡くなった義母の、最後の入院介護の経験を想い出しました。義母は、倒れる前は意識もしっかりしていましたが、入院して直ぐに一時的に認知症の症状を呈しました。やがて次第に認知機能を取り戻し、問いかける看護師さんにもはっきりと返事をするようになりました。そして、亡くなる2~3日前に 、はっきりした口調で私に「有り難う」と云ったのです。この時の感動については以前も書きましたが 、後になって考えると、亡くなる少し前までは、話は出来ない状態にありましたが、自分を取り巻く状況は良く解っていたということになります。
義母は、末期の高齢者に良くあるように、無意識に手を動かして、蒲団をはねのけたり、点滴にさわって抜いたりたこともありました。夕方から翌朝にかけて付き添って、昼間の介護のお手伝いさんに代わるまで、私一人の看病でしたので、点滴が抜けたりしないように、殆ど寝ないで付き添っていました。夜中に回って来られる看護師さんが見かねるのか、「手をしばりましょうか」というのですが、私はとても気の毒で、「いいです、見ていますから」と応えることが最後まで幾度となく繰り返されました。
実母の時は、病院で過ごした最後に近いころ、朝私が付き添いに行くと、軽く(紐を長くして)矢張り拘束されていました。私はそっと外して、私が付き添っている間は拘束を解いていましたが、母は特に何も言いませんでしたし、私も黙って外してやり拘束については気の毒で何も言えませんでした。
このように一般の病院でも拘束が行われているのが現状だと思います。どちらももう起きあがって歩くことの不可能な病人でしたが、母の場合、紐が長くとも拘束されていると云う意識はありましたし、夜間の看護師さんの忙しさを思うと、あの程度の拘束は仕方ないのかも知れませんが、自分の肉親が手足を繋がれた奴隷のようになって、ベッドに寝かされている姿はとても正視出来るものではありません。
まして歩ける人を、徘徊するからと云ってベッドに拘束するのは、如何なものでしょうか。人間の尊厳は確保するという最低限の条件は、満たされなければならないのではないでしょうか。それを無視して、老人の介護や看護がなされるとしたら、とても堪らないと考えるのは、きっと私だけではないと思います。
リハビリに力を入れたら、徘徊もしなくなり意欲を示すようになって、認知症状が軽くなり笑顔が生まれた、と書いてあった本も読みました。高齢化はますます深刻になり、介護する人もされる人も心労が多くなります。誰もがなるべく最後迄自分の足で歩きたい、と考えているでしょうし、そう出来るように自分自身の努力も必要ですが、医療も介護もそれに近づけるように務めて欲しいものだと考えます。
終末期になった高齢者の最大の願いは、最後まで人間らしく生きるということなのです。医療や介護に携わる皆さん、どうかこの世を去ろうとする高齢者に、人間らしい幕引きをさせるにはどうしたらよいか、そこをしっかり考えて頂ければ有り難いと思うのです。
ちなみに今日(22年5月30日)の日経新聞には、独り暮らしの高齢者の安否見守りのサービスについて載っています。結婚しない人が増加の傾向にありますから、今後ますます独り暮らしの高齢者は増えるでしょう。100%の確率でみな老いて死ぬのですから、全ての人にとって、重要な問題として取り組まねばならないと考えるこの頃です。