ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

一向に進まない少子化対策

2015年08月25日 | 随筆
 女性の社会進出が進むにつれて、少子化に歯止めがかからなくなって来ています。価値観の相違により、子供を持たない人生を選択する人も増えました。こうした価値観の相違にとやかく言うつもりはありませんが、私自身は子供を産み、育てる事によって自らも成長し、私を育ててくれた両親や孫育てに手を貸してくれた義父母に、心から感謝する気持ちが大きくなったと言えます。
 子供は夫婦にとって宝であり、国にとっても宝です。若い夫婦が子供を持たない理由、もしくは一人しか持たない理由を考える時、社会的な環境の整備の不足に思いが到ります。
 仕事に生き甲斐を感じている女性にとって、子育てに適した環境が整っているとは言い難いからです。職場に保育園があったら、通勤途上の駅に保育園があったら、子育てもずっと容易になるでしょう。
 働き方の多様化に対応して、最近は24時間保育の保育園も多くなりましたが、保育園の長時間保育と、家庭における子育てとでは、親がたっぷりの愛情をそそぐと言う面で、大差があります。そこを補ってきたのが、孫育てのお年寄りでしたが、都会に住む核家族と遠くはなれて住む祖父母の組み合わせが増えて、孫育ては不可能となってしまいました。そう考えると、子育てはあきらめてしまうのでしょう。
 加えて高齢出産が増えたことや、若い頃の痩せ願望から痩せすぎによる不妊に悩むケースも増え、先ずは産むことが困難になってきたことが挙げられます。
 カメラを通した姿が実際よりも太って見えるとかで、テレビのアナウンサーやタレントと呼ばれる人達も、正視に耐えないほど細い体で、これでは将来母にはなれないだろうと容易に想像されるようにもなりました。
 イタリアでは若い女性に悪影響を及ぼすと言うことから、痩せ過ぎのモデルは使わないことになっていると聞きました。教育上とても良いことだと思います。
 女性が仕事に生き甲斐を持って働く様になれば、どうしても仕事と子育ての両立に苦労がつきまといます。夫婦で助け合うにしても、職場や社会の目は今以て必ずしも幼い子供を育てている家族には、優しいとは言えないようです。
 ところが三つ子の魂百までも、と言う諺があるように、三歳までの子育てが、人生の中で最も両親を必要とし、良い環境で子育てすることが大切だと言われています。先ずは三歳までの子育てをしっかりすること、それから幼稚園帰りや学校帰りの子供の面倒を見る施設の重要性が挙げられます。  
 核家族の増加により、育児に手を借りたい祖父母が、身の回りに居なくなりました。加えて保育園や幼稚園が不足したり、職場から遠いと、それは働きながら子育てする両親にとって、大きな負担になります。こうした施設面での対応が追いつかず、もしこのまま推移していけば、やがて日本はもっと少子化が進み、現在限界集落といわれているところに住む人は絶え、至る処空き家だらけの街が増えていくことが予想されて、とても寂しい思いを致します。
 蝉にしても夏の虫にしても、オスはせっせと鳴いて繁殖活動にいそしんでいます。それが自然界の当り前のことの筈なのですが、「考える葦」である人間は、さまざまなことに思いを巡らせて、自分に最も有利なように生きることに余念が無いように思えます。
 結婚も、子供を産むことも、育てることもみな神さまの思し召し、と何処か運任せに考えて居た頃は、もう遠い昔なのでしょうか。大家族でわいわいがやがやと暮らした頃も、遠い昔になり、若者は都会に、農業や漁業に携わるお年寄りは、地方に取り残されているようです。「味噌汁が冷めない位の距離に住める」親子が理想といわれたのも、今や過去のものになったようです。
 個人の自由が尊重される世の中は、確かに基本的人権を重んずる憲法から言っても、正しいように思えますが、動物達の生き方を見ていると、現在の人間の暮らしは、大自然の意志にそぐわない気がして来ます。
 しょせん人間も宇宙のごく一部でしかなく、私達もその一端に僅かばかりの時間だけ、ヒョイと顔を出して、自分に与えられている役目を果たしているに過ぎない、と思われもします。そういった与えられた生き方よりも、もっと積極的な生き方が在るのではないかと考えて、理想を求めて男性は男性で、女性は女性で頑張るのも、無理はないのかも知れません。我が家の回りも結婚しない単身の男女が沢山おられます。
 ほ乳類は、一人前に成るまで、親に育てて貰うことが必要です。私も子供を育てて初めて親の苦労を知り、育てて貰ったことへの恩を感じ、有り難いという気持ちを味わいました。そして年老いて、矢張り年老いた人の役割を感じています。
 子供は一人子よりも可能であれば、二人以上育てた方が、子供の成長には良いと思いまます。助け合いの精神は、先ずきょうだいの間から芽生えて来るものと思っています。良い環境や良い教育に育まれて、その助け合いの精神は、大きく広く成長して行って、やがて世の中に役立つ人間へと成熟していくのです。
 ところで私の家から5分程の所に新聞配達の拠点があります。夕刊を配達する時間になると、スクーターが集まり、一斉に配達する人達が出て行きます。その建物の一角に、絵本館という多角形の一室があります。ここで小さな子供たちが、ボランティアの人に絵本を読んで貰ったたり、遊び相手をして貰ったりしています。
 我が家の近くに、早くに奥様を亡くされた御老人と、娘さんとお孫さん二人計四人で暮らしている家があります。娘さんの夫は現在単身赴任で、時折帰って来られますが、多くはおじいさんに当たるご老人が、お孫さんの面倒を見て、娘さんも働きに出ておられます。
 ご老人曰く「あの絵本館には助かりました。保育園から帰って来た孫を、一人で二人の面倒を見ることは、とても大変で見られません。あそこで遊ばせて貰って、私は送り迎えすれば良いので本当に助かります。」と言っておられました。
 確かに預かる老人の方にも、育児は難題ですから、親が帰宅するまでの空いた時間をどこでどのように面倒を見てもらうか、それは矢張り重要な事です。孫育てに関係が無い私でも、その辺のご苦労は良く解りますし、このような部屋を運営して下さる新聞社に、改めて敬意を表したいと思います。
 世の中の多くの企業が、少しばかり、この様にして子育てのお手伝いをして下されば、どれ程安心して子供を育てられるでしょう。
 地域で健康でボランティアをしたいご老人に、お手伝いして貰えるとしたら、まだまだ健全な育児や介護のために、沢山のお手伝いが欲しいと思います。そのような助け合いの社会の広がりを夢見て、少子化対策が進むことを切に願っています。 
 

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五本の線香

2015年08月14日 | 随筆・短歌
 盂蘭盆会です。日本のあちこちのふる里で、お盆を迎えて居られる人も多いかと思います。我が家も仏具をいつもより綺麗に磨き上げて、お供えの花や盆菓子などを整えました。夕食にはこの家の伝統であり、恒例の献立のお素麺を器に盛って仏前に供え、蝋燭を灯し線香を焚いてお参りしました。
 一昨日から雪洞(ぼんぼり)を仏壇の両脇の畳に置いて、回り灯籠が良く回るように調整して、赤や青や黄色のともし火の動きを楽しむと同時に、この家で先だった人達の思い出話をしています。
 ところで、線香ですが、一本目は我が家のご本尊の大日如来様、二本目は我が家のご先祖様、三本目は先に逝った娘に、四本目はやや控えめに私の両親や亡くなった兄弟に、(一人は妻子がありましたが、一人はずっと独身で母と暮らしていた弟で、祀って呉れる家族をもちませんでしたから、私が夫の許しを得て、命日にも家族と同じに偲ぶ会をしています。)そして最後の五本目の線香は、この世に生きて来られた全ての人々に、お供えしています。
 人間はみな沢山の人々のお世話になって生きて居る、という思いが強い私は、何処か思いも掛けない所でお世話になっている人達にも、何時も感謝の念を持ちたいと願っています。それが五本目の線香です。
 つい先日お隣の、奥様が亡くなられた後一人住まいして居られた御主人が亡くなられました。ボランティア精神の旺盛な方で、雪が少しでも降ると、小路の奥に住む人達の車が出せるように、早朝に雪除けをしたり、ゴミ集積所の整頓など、率先してして下さっていましたし、先にもこのブログにその生き方の素晴らしさを書きましたから、想い出される人も居られるかと思います。奥様に先立たれてから、一層家の周りに花を咲かせ、ゴルフやスポーツに取り組んで、実に一人暮らしの人のお手本のような人でした。私達も会えば楽しく立ち話をしたり、時には、手作りのおこわなど、少しお裾分けをしたりして来ました。
 入院されたとお聞きして、直ぐに夫と二人で病院へお見舞に行きました。ベッドサイドから声をかけましたら、私達の話は解って、返事をしようとするのですが、口から言葉が上手く出て来ず、もごもごと口が動くだけで、会話が成立しません。何故なのか、不思議でした。後で、町内会長さんにお聞きしたのですが、「肝臓ガンなので、入院して手術をして来ます」ととてもお元気で言って、入院されたと聞きました。それから約5日しか経っていなかったのです。手術は未だして居られませんでした。
 「与える人の喜びは、与えられる人のさびしさとなる」と山頭火が書いていましたから、私も日常はあまり差し出がましいことはしないように、ごく自然に、を心がけて来ました。それなのに、お聞きした翌日何故あんなに急いでお見舞に行ったのか、今考えると不思議なのですが、それから足かけ4日めには、もう亡くなられたのです。余りにも儚い最後ではありましたが、ひどく苦しい日が長く続いた訳ではなく、一人残された人の最後としては、我が身に置き換えて考えてみてもお幸せではなかったか、と思っています。立派な方は、仏様も見放されないし、先立たれた奥様も、きっと見計らってお迎えに来られたのだろうなどと、家族で話しあっていました。
 そのお宅のお向かいの、これも一人暮らしの男性が、残されたお花の鉢に毎日お水を与えて呉れていて、今もあるじの居た時と同じように、玄関や塀の外には、お花が暑さに負けずに咲いています。我が家はお隣といっても玄関の向きが異なり、小路を通ることもないので、回り込まないと玄関は見えませんし、私はぼんやりなので、お花の水まで思いが到りませんでした。
 従ってこのお盆は、五本目の線香は、亡くなられたその方も加わって、俄然身近で賑やかになりました。
 ご近所の人達で年老いた方達は、皆さん「次は私の番」と仰って、ご冥福を祈っておられます。未だこの辺りは、昔の隣組の近親感が残っていて、温かい心の交流を有り難いと思っています。
 

盂蘭盆会花から花へ黒き蝶新たに一人鬼籍に入りぬ(あずさ)
 

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私達の戦中戦後

2015年08月04日 | 随筆
 終戦記念日を前に、今年ほど戦時中の想い出や、戦後の想い出が語られ、映像が流れた年も少ないと思います。戦後70年という節目の年であると言うこともありますが、集団的自衛権が、再び若者やその子孫の時代に暗い影を落としているからです。日本人は当時内地の人も外地にいた人も、それぞれ年相応に、理解出来る範囲内での苦しい想い出を引きずっています。
 想い出は、必ずしも悪い面ばかりでなく、私達は全ての経験を生かして、今の人格が育まれて来て居る訳でありますから、成長過程の記憶に残っているものは、我慢とか、いたわり合いとか、信じることの強さとか、あらゆることを人間形成に必要な基本として、叩き込まれて来たことも事実です。
 東京から樺太に渡った小学生だった夫には、自由で伸び伸びしていた戦時中だったようですが、終戦間近になるにつれて、内地からのお米の輸送が滞り、主食はカボチャでしたから、手も顔も黄色くなったと言います。内地に帰ってからも、お米は手に入りづらく、春や秋の農繁期休みに、自宅から峠を一つ隔てた親戚に乳児のお守りに行き、お腹いっぱいお米が食べられるのを楽しみに、一週間のアルバイトに行ったそうです。帰りにその赤ちゃんの父親が、復員の時に持って来た、革のベルト一本を報酬として貰って来ました。本革の太くて長いベルトは、後々まで大切にしたと聞いています。
 私は、小さな地主だった実家に引き上げてから、小学生になりましたから、三度三度のご飯に困ることはありませんでした。しかし終戦後には、自作の田んぼの無い我が家は、お米が手に入らなくなってしまいました。けれども「日頃から良くして上げていると、この様な時に助けて下さる人が居る」と母が言っていたように、夜陰に乗じて、元小作の人達が、リヤカーでこっそり土蔵までお米を運んで下さったのです。野菜類は、早朝に玄関の戸を開けると、どなたか知りませんが、しょっちゅう季節の野菜が何種類か置いてありました。
 両親には分かってたようですが、私達は何も知らされず、困った時に助けて下さる人にとても感謝しました。日頃の心がけの大切さを、しっかり教えて貰いました。
 母はやがて作ったことも無い畑を耕し、人に教えて貰いながら、慣れない畑仕事をしましたが、野菜の出来は何時も悪く、それを見ている農家の方が、矢張り玄関前の届け物を続けて下さったのです。農地解放があって後は、幾ばくかの田畑が地主にも戻り、お米も食べるには困らないようになりました。稲作りを手伝ってくださったのは、矢張り昔からの小作農家の人達でした。
 敗戦が近づくと、父は私達を田舎に疎開させて、単身残っていましたが、やっと転勤して家族と暮らし始めて間もなく、B29の爆撃で、私達が以前住んでいた所は、すっかり焼け野原になりました。お向かいは警察にお勤めのご家族でしたが、逃げ切れずに、奥様は赤ちゃんを負ぶったまま亡くなられました。私の友達も、お母様と一緒に亡くなられました。今思い出しても涙が止まりません。
 戦後可成り経ってから、私一人で昔の住居地へ出向き、父の知人で親しかった人のお嬢さんに、我が家の跡地を案内して貰いました。広いと思っていた小路はささやかな小道で、向こう側に渡るには勇気が必要だった広い大道りも、実は普通の道路でしかなく、子供の感覚と大人の感覚では、こんなに違うものかと初めて知りました。見事に変わってしまった自宅跡や、友達の家は、間取りさえ良く思い出せるのに、跡形もなくなっていました。 
 戦争が終わり、小学校では黒く塗りつぶした教科書で学びましたし、折りたたんだ新聞のような教科書を切って製本しました。遠くはなれていても、国の政策は行き届いていて、新制中学校では、勉強は自習にして新しい中学校を作る作業を全校で手伝った想い出など、私と夫は共通の経験をしていたのです。思えば高校に入学してから、分数や一次関数など、何故学びなおすのか不思議でしたが、沢山の中学から、ろくに学ばないで来たばらばらな人達の為に、超特急のおさらいだった事に思いが到り、先生方に感謝したものです。 
 小児結核でひ弱だった夫は、環境が変わった田舎の暮らしで、すっかり元気になり、都会育ちの私は、田舎で蚊に刺されて手足にウミがでて、包帯で腕や足をすっかりぐるぐる巻きにしたり、自生している漆にかぶれて顔が腫れ上がり、恥ずかしくて学校へ行きたくない思いもしました。何故かきょうだいの中で私が特にアレルギー体質のようでした。それでも学校は大好きで、一日も休まずに通学しました。
 私達は二人ともそれぞれ下手な農業を手伝いましたし、お米を粗末にすると目が潰れるとか、罰が当たると教育されて育ちましたから、お米は一粒たりと無駄にせず、現在も残れば冷凍保存して、食べ尽くします。
 困難な事があれば、「戦中戦後の苦難の時代を思えば、なんのこれしき」と夫が言いますし、小さなほころびを見付けると、針と糸を出して繕おうとする私、ささやかな幸せを有り難いと思う心や、勿体ないという心はずっと深く浸透しています。
 今、一つの法案を巡って、様々な解釈がありますが、はっきりと言えることは、「二度と戦争をしてはならない」という事です。戦後70年を経て、今こそしっかり考え行動する良いチャンスでもあります。
 夫が樺太から引き上げて来る超満員の汽車の中で、「これからは君たちの時代だから、しっかり頼んだよ」と言って、洗面台のわずかなすき間に座らせて呉れた兵隊さんの言葉を、夫は生涯忘れずに生き続けています。今私達が青少年に伝えたい言葉は、「70年間一発の弾も外国に向けて撃つことなく、平和を維持してきたこの国を、どうか再び戦火にまみれさせないで欲しい」ということ、そして「これからはあなた達の時代ですから、どうかしっかりと教養を積み、子々孫々まで平和な望ましい社会を作って下さいね。」とお願いしたいです。
 わずかなお金に目が暗んで簡単に人を殺したり、惨いいじめを平気でしたり、日々の事件を見聞きしていますと、あの物資の無い時代を、わずかな食料を分け合って食べた、私達にしてみれば、根本は矢張り家庭や学校や社会の教育だと思わざるを得ません。分かち合い、いたわり合い、励まし合い、他人の立場になってものを考える、そういう生き方を私達自身がして見せなければ・・・、としみじみ思います。
 今世界的に経済至上主義に走り、人間の尊厳など眼中に無いかのようにさえ思われます。人間が幸せな人生を送るには、何が最も必要か。その基本を一言で言えば「心の教育」と言えると思います。果たしてそれが現在の日本で出来ているでしょうか。「日本人であるならば、必ず出来る」と戦中戦後の体験者として、断言したいです。

 次に日本経済新聞の今年の7月19日(日曜日)の黒田杏子選の俳句の、上位から三句を引用させて頂き、紹介します(作者略)。

 戦争を平和と言ひて梅雨に入る
 憲法九条とは何ぞ新茶汲む
 六月や国民の命その軽さ

 
  

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