ばあさまの独り言

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特攻隊の生存者の証言と知覧

2009年04月26日 | 日記
 今日テレビの「兵士達の戦争」で、重爆撃機特攻隊の生存兵士の証言をみました。戦争末期になって、もう勝てる望みが無くなってから、一人乗りの特攻隊機ばかりでなく、六人も搭乗した飛行機が、非常に重い爆弾を抱えて特攻として飛び立ったのです。そして沢山の人が還らぬ人となりました。「出撃ハ特攻トス」と云う命令一つで出撃することになった沢山の兵士は、必ずしも訓練を充分に積んだ人達ばかりでは無く、まだ若く未熟な兵士も沢山いたようです。
 勿論生きて帰る事は考えられませんから、覚悟しての出撃でした。沢山の証言者達が、様々な立場で選ばれ、特攻として飛び立つ事になった運命について、彼等は「正直に言うと死にたく無かったし、同僚に聞いたら同じ事を言うのでほっとした」と云っていました。 たまたま様々な理由で生きて帰って来られた人達の証言でしたが、一度、或いは二度、三度と繰り返し出撃し、覚悟しての出撃とは言え、さぞ辛かったに違いありません。
 それが如何に辛い事か、私は以前夫の希望で、知覧の特攻記念館へ行った事がありますので、良く知っていました。特攻に飛び立つ前夜に泊まる三角兵舎というのがあって、多くの若い隊員が涙して、眠れぬ夜を過ごしたであろう、と書いてありました。
 記念館には特攻隊の兵士の写真が貼られていましたが、どれも二十歳前後で、不思議なくらい明るく屈託ない笑顔でした。遺書にはお国の為に頑張りますとか、先立つ不幸を詫びる言葉、残していく家族を思いやり、弟や妻などに後を頼む等というものが沢山あり、淡々と綴られている遺書に一層涙が溢れたものです。 
 又、送る立場の母の手紙もありました。お国の為に立派に逝きなさい等と言えない母は、「ひたすら南無阿弥陀仏を唱えながら行きなさい、そして阿弥陀様の足許で又逢いましょう」という言葉が書いてありました。日頃は文字など書くことも無かったであろう、たどたどしい文字でした。我が子を思う精一杯の心が伝わってきて、思わず泣けて来ました。
 私も子を持つ親として、その母の気持ちを思うと溢れる涙をどうしようもなく、散っていったあの若人達の冥福を祈らずは居られませんでした。
 茶色に変色してしまった写真が、戦後の長さを示していましたが、知覧の岡にはもんぺ姿の特攻隊の母の像や、零戦の実物が私をその時代に引き戻し、胸が締め付けられました。 麓から岡の上迄続く長い道路の両側には、遺族が建てた灯籠が延々と続いていて、OO県などと遺族の住所が表示され、鎮魂の岡は緑の中に、全山が慟哭している様でした。
 知覧は手入れの行き届いた庭を持つ武家屋敷が多く、茶畑も広々としていて、美しい処です。この戦争の悲劇を伝える記念館は、後世まで長く残して欲しいと思いました。
 鹿児島市からの往復には不便な処で、バスの本数も少なく、帰りは丁度下校の高校生で混み合いました。あの特攻隊員達と同じ位の年齢の高校生達は、矢張り屈託無く明るかったですが、茶髪にピアスという姿を見るにつけ、特攻隊として散っていった人々は、天国からどんな感慨を持って見つめているだろうかと思わずにはいられませんでした。
 ところがその茶髪の生徒が、老人がバスに乗ってきたら、サッと立ち上がって席を譲ったのです。特攻隊員達の魂が今もなお此処知覧には生き続けているのだと感激して、心が暖まる思いで帰って来ました。忘れられない旅になりましたが、今日80歳を過ぎた老齢の元兵士達の証言を聞きながら、知覧の思い出と重ねて、再びこのような悲劇を繰り返してはいけないと心に誓ったことでした。

1 コメント

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知覧 (はまぐりん)
2009-04-29 22:14:12
私も何度も行き感動してます。花を捧げ追悼してきます。
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