ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

もっと話し合えば世の中は変わるのでは

2016年02月28日 | 随筆・短歌
 我が家の家族は、多分世の中の平均よりも、家族間では良く話をする方かと思います。食事が終わっても暫くは何かしら話をしていることが多いです。そして私と夫がウォーキングに出た時は、途切れることなく話していると言う状態になる事がしばしばです。親しい間柄の話はストレス発散に効果的だと言います。
 しかし、一般的に見ると、現代は以前よりも会話の機会が減って来ているように思います。その原因の第一は、電話を掛けずにメールが多くなりました。電話は突然相手の生活の中に飛び込んで来ますので、時として相手に迷惑を掛ける場合があります。そう思えば、矢張りメールの方が時間が空いた時に読んで貰えればよいので、気楽に書けますし、内容も漏れがなくて安心だという長所があります。
 私の住む地域では、以前は町内の女性達が集まって、食事会をする行事が毎年一回ありました。皆さんがどのような事を考え、どのような生活をしておられるのか、理解し合い助け合う心があって、それはとても親密感が持てて、有意義でありました。今はそのような機会が無くなってしまい、とても残念に思います。
 スーパーなどでご近所の親しい人達と出会っても、他の買い物のお客様に迷惑を掛けないように配慮して、簡単な挨拶を交わす程度です。今は趣味の会などでご一緒の人達が、三々五々集まってお茶会や、食事会を持つ位になってしまいました。
 電車やバスに乗れば、主婦たちもあちこちでメールを打っている姿が日常的に見られます。そう言う意味では、意見交換はせっせとされているようですが、相手の表情やゼスチャーが見えませんので、心に深く刻み込まれる内容には、なりにくいのではないでしょうか。
 それに最近は、知り合いに出会っても、「おはようございます」とか「良いお天気ですね」とか、声に出さないで、笑顔ですが無言の会釈のみの人が増えたような気がします。それではやや義理的な挨拶になり、相手に親愛の情は伝わりにくく寂しい気が致します。
 私は、知って居る人には、必ず声を出して挨拶を致します。最近は、バスを降りる時などや、スーパーのレジを通り抜ける時も「有り難うございます」と言います。近所の小学生も挨拶運動があるらしく、良く挨拶をしてくれます。気持ちが和み温かみが伝わって来ます。
 最近何故か県議会も市議会も、議員さんがおとなしくなって、意見を言わなくなってきているよに見えます。賛成・反対の意志表示も曖昧にして、無難に議員報酬を頂くということなのでしょうか。
 市議会などは、発言の記録は各家庭には来ていますが、個々の議員が普段は何をしているのか、議員の顔が余り見えません。どんな人が、どのようなことを言っているのか、聞こえても来ません。議会を傍聴に行けばよいのですが、中々億劫で出来ません。議員さんも地域に親しく回って来ないようです。以前は、もっと議員さんと地域住民との交流がありました。区の身近な市議会議員の名前など、恐らく多くの住民が知っていました。
 去年のことですが、シールズという若い集団が行動を起こしたことから、もの言う集団・行動する集団として心強く思いました。若者が自己の考えをしっかり持って、それを堂々と発表して行くということが、とても爽やかで心強く思えました。こんな若者が増えると良いと思っていましたら、18歳以上で選挙権を持つようになるので、政治に関心を持って、この国の将来について考え、そして行動していこうとする機運が高校性の間に生まれて来ていると知って、大変頼もしく思っています。
 若者の選挙離れが問題化している時代に、大いに歓迎されるべきものと思います。賛成でも反対でも、選挙には参加して、自己の意志表示をしてこそ民主主義です。
 環境大臣が環境の日を知らなかったとか、北方領土担当大臣が離島の歯舞が読めなかったとか、漫画ばかり読んでいる有名大臣が、読み上げる答弁書に仮名を振ってもらってもなお読み違いするとか、笑い話では済まされません。こういう政治家にこの国を任せて大丈夫なのか心配です。
 政治家という人達には、もっと政治に関する専門的な勉強をしっかりして頂きたいと思うのです。政治経済の塾等で充分な勉強をして、単位でも取って貰う方法でも考えないと、ただ血税から高額な議員報酬を貰うだけで、採決要員でしかなかったり、選挙の時に当選したいばかりの、自分の為の活動だけで、後は殆ど遊んでいるようにも見えて来ます。誤解であって欲しいと思います。何年議員をしていても、どのような活躍をされたのか不明で、選挙の時にのみ存在を想い出すような議員の何と多いことでしょう。
 小学校に新一年生として入学して来る子供たちでさえ、三年も経てば立派に漢字も読めば、思いやりも身について、してよい事と悪い事くらいはしっかり判別出来るようになります。そして次に入学してくる新入生の指導者にもなります。せめてこのような子供たち位の努力はして貰いたいものです。
 政治家でありながら嘘つきで、「後ほど必ず精査して国民の皆さんにご説明申し上げます」と言ったA元大臣も、O議員(女性)もその後音を殺して、何も言いません。議員が自ら約束していて説明しないのは、実に不誠実で無責任で、説明出来るような内容ではないので、しないのだということが明確になるばかりす。
 それは国民を騙す行為であって、議員としては失格者です。この国は首相が率先して国民と交わした約束を平気でホゴにする位ですから、もはや国民は徹底的に政治不信に陥っていると言えそうです。
 理解し合う第一歩は会話から始まります。もう少しお互いに意見を述べ合う、または温かく優しい言葉を掛け合って、言語を通して豊かな人間関係を築き、且つ深めたいものです。
 今さら政治家に進歩を期待しても無理だと思われる所迄、信頼が落ちてしまったようで残念で堪りません。
 せめて私達は、誠意を持って人間関係の環を作り上げ、未来を生きる人達のためにも、少しでも役に立ちたいものだと思います。 

今日限りグループホームへ行くといふ人を送れば重き名残雪 (某紙に掲載)
辻褄の合はぬ話に頷きて伝へんとする心を探す       (某誌に掲載)

   

豪雪と助け合う心

2016年02月18日 | 随筆
 立春が過ぎましたのに、まだ雪が少し降っています。今日のようにツゲの木や松の枝にふんわり積もった雪は、冬の庭らしい趣があって見ていて飽きません。
 でもひとたび大雪が降ると、たちまち雪掻きの大仕事があり、凍結した道路は転ぶ不安もあって、日常生活をかき乱します。私にはそんな大雪の道で、大変な思いをした経験があります。自然の厳しさが、人々の優しさと共に、今も忘れられない大切な記憶となって甦って来ます。
 今から五十数年ほど前になります。新卒で勤めた所が、最寄りの駅から夏の道を歩いて二時間という距離にありました。勿論バスがありましたが、雪が降ると山あいの道は雪崩が発生して、バスは途中から先は冬期間運休になりました。
 今は雪崩よけの工事も進み、無雪道路になっていますが、当時は冬期間は雪崩の多い難所だったのです。
 雪の怖さ等知らない私でしたので、回りの人達が折りに触れて無知な私を教育して下さいました。
1)リュックを背負い、手荷物は厳禁。深めの長靴にして厚い靴下を二枚はくこと。凍傷を避け、雪が靴の中にまで入らぬように。
2)あめ玉やパンなど必ず非常食をリュックに入れて持つこと。
3)背中にタオルを二枚折りにして入れて歩く。着いたら直ぐに後ろ首から、汗のタオルを抜き取ると風邪を引かない。
4)谷あいの道では、高い所からサラサラと雪がこぼれ落ちて来たら、雪崩の前兆だと思って、前へ進まず立ち止まって様子を見る事。雪崩に埋まってしまったり、深い雪に足をとられて、身動きできなくなって凍死する人もある。
5)雪道ではリュックを降ろして休憩してはいけない。やや腰を曲げてリュックを背負ったまま休み、少し休んだら兎に角前に進むことを考える。大休止すると歩けなくなって凍死することがある。
6)集落の明かりが見えても、そこで休んではいけない。徒歩の人が凍死するのは、「ああやっと付いた、もう大丈夫」と安心して休むからで、さあ立って歩こうと思っても立てないし歩けない。疲れて気付かぬ内に眠ってしまって凍死する人も多い。
7)一人で移動する時は、知り合いの人に事前にいつ頃着くか、電話などで連絡しておくこと。途中の遭難を予想して村人が救助に向かう。
8)紫外線除けのサングラスをはめること、長い雪道では目が眩しくて見えにくく、雪目になったりする。スキーのストックを持って歩くのも良い。等と実に多岐にわたって注意して貰いました。
 私はなるほどと感心して聴いていましたが、雪崩に遭った事もなく、見たこともありませんでしたから、サラサラと音がしたら・・・と言われても、どういう状態なのか、理解出来ませんでした。
 最初のボーナスをはたいて、スキーを一式を整えましたし、同僚や他の学校の女性教師などとよくスキーに出掛けましたから、背中のタオルの便利さや、非常食の有り難さをその頃にはもう身に浸みて知っていました。
 ところがそんなある時、今でいう「どか雪」が降ったことがあったのです。何時もは、土曜の午後に自宅に帰り、日曜日の午後に自宅を出て、夕方迄に勤務地の宿舎に戻るのが常でした。父が雪の降り方に心配して「この雪では、汽車が思う様に動かないかも知れなから、早く発ったらどうか」と言いました。
 私は直ぐに出発し、お昼前には任地の最寄り駅に着く筈でした。でも父の心配通り汽車は遅れに遅れて、夕方近くになってやっと最寄りの駅に着いたのです。それからはバスも通らず、目の前が白一色に塗りつぶされた猛列な降雪の中を、歩いて宿舎に向かうしかありませんでした。時折風が吹くと道路の位置もあたりの景色も白一色になって、判別困難になる程でした。向かい風の原っぱでは、顔面めがけて吹き付ける吹雪のため、呼吸困難になりました。でも道路幅は広く、何とか半分の道のりは無事に進みました。
 いよいよここから谷あいの道に向かうという処にお店がありました。奥の集落の人達が良く立ち寄るお店です。私はフト思い付いて私が勤めている中学校へ電話を入れました。遠く離れた所に家のある学校長が、冬期間は殆ど宿直室で泊まっておられたのです。
 「それは大変だね。いいかい、その集落の外れの家に寄って、身分を名乗り、必ず<かんじき>を貸して貰いなさい。知らない家でも、きっと貸して下さるから。」「懐中電灯は持って居るね。首から提げて身につけて置きなさい。」と忠告して下さいました。
 何だか悲壮な気分になりつつ、集落の外れの家に立ち寄りました。初めてお会いするご婦人でしたが、快く貸して下さり、「気を付けてね」と見送って下さいました。
 雪をかぶって平らのように見える道も、実際に雪の下の道は、馬の背のように、人が歩いた跡だけが小高く固まり、滑りやすいデコボコ道です。滑れば直ぐに足はずぶずぶと膝上まで雪に埋まってしまいます。右に埋まり、左に埋まり、集落の曲がり角までも歩けないので、そこでかんじきを付けました。借りるように忠告して下さった校長先生と貸して下さった家の人に感謝しました。
 でもかんじきを履いたら楽になったかと言うと、今度は左右の足の間が広がり、人の歩いた跡をはずれないように、横滑りしないように歩くのは、なかなか至難の業です。加えて雪の深さもあって、足が重く、急に歩く速度が落ちました。このような山歩き用のかんじきを履いて歩くのは初めてでした。
 一歩一歩確認するように歩いて行きました。するとどうでしょう。右手の山の上の方から、谷に向かって滑り落ちた雪崩で、道路は途切れて無くなっているではありませんか。仕方無く雪崩の山を越えて、元の道を探して歩くということになりました。
 そのような雪崩の跡にしきりに出遭い、野越え山越えのように、次々に越えて歩くしかありませんでした。ある程度までは右手の山の方からサラサラという音が聞こえると、「すわ雪崩か」、と山側の木々を見あげて確認しながら進んだのですが、このような歩き方の為にすっかり疲れ果てて、途中からは、もうどうでも良くなって来ました。足元をはずさないようにして歩いていると、崖など見ているゆとりが無いのです。
 でも雪崩跡の雪山を乗り越えて行った人の足跡が、全く見えない雪山は、私が雪崩の後で最初に歩く人間だということになりますから、こんなに沢山の雪崩が僅かな時間にあったのか、そして誰もこのような大雪で吹雪きの日は外出もしないのだと気付いて、無事にたどりつけるのか心配になって来ました。
 休む時は教えられたように、リュックを投げ出したいところを我慢して、腰をかがめて荷物を腰骨の上に置き、暫く休んでは元気を出して歩きました。
 段々へとへとになって来ました。小休止が大休止に近くなりましたが、リュックだけは、降ろさずに歩いたのです。確かにここでリュックを降ろしたら、再び担ぐ気力が残って居るのか、と自問したりして、雪の重みをかんじきではね除けられる程の小幅の足取りで、馬の背から滑って道を外れないように、無用な労力を使わないよう気を付けて歩いて行きました。サラサラという木から雪が滑り落ちる音ももう耳に入りません。ただひたすら少しずつ足を前に出すことしか、考えられませんでした。
 ある曲がり角をふと曲がったら、集落の灯が見えました。かんじきを借りてからもう4時間以上掛かって歩いていたことになります。夜9時を回って、真っ暗な中に点った家の明るい灯が、とても有りがたく泣けてきそうでした。「ああ良かった、助かった」という思いがドッと湧きました。気が付くと足が止まっていました。「ここで休んで腰を下ろしたら私は死ぬのだな」と教訓を思い出し、小さく足を前に進めました。
 その頃には、教えて頂いていた全ての事が、全くの事実だと実感していましたので、私はそこで休止することなく歩き続けました。 もう本当にのろのろと、実にのろのろと、足につけたかんじきの半分の長さが、一歩にならない程の歩幅でしか進めませんでした。
 私は何時もお世話になっていた教頭先生のお宅に向かっていました。集落の道を僅か離れて小川の橋を渡った先が先生のお宅でした。ほんの僅かな距離の長かったこと。後少し・・・もう少し・・・、とやっとの思いで辿り付き「ご免下さい」と戸を開けて頂きました。
 出て来られた奥様が、吹雪で雪達磨のようになっている私を見つめて「よくまあこんな時間に、此処まで無事に辿り付いて・・・良かったですね」とフラフラの私を抱き止めて下さいました。リュックやヤッケを脱ぐのを手伝って頂いた時は、もう声も出ない位に疲れていたのです。むしょうに流れ落ちる涙を拭う体力さえ失っていました。
 今考えてもあれほど沢山の雪崩があったのに、私が巻き込まれなかったのは何故か、誰かが守って下さったとしか思えませんでした。
 翌日は、昨日の雪が嘘のような晴天でした。道が消えてしまったので、支所や郵便局や学校に勤めている人たちが連絡し合ったようで、集まって一隊になり、午前9時過ぎに歩き始めました。「おーい。おーい。」と教頭先生始め男性が声を上げました。誰か雪に足を取られて身動き出来なくなっている人がいると助けなくては、ということでした。入れ替わり立ち替わり先頭に立ち、一時間以上かけて村のそれぞれの勤務場所に到着しました。思えば本当に希有な経験でした。 
 ずっと後になって、夫が退職してから、再度その村(今は市の一部)を訪ねました。学校はとうに廃校になり、支所も郵便局も消え、私達の宿舎も消えて回りの家もなく、一つの小集落が丸ごと消えていました。残った二つの集落の一つに、以前は無かった温泉があって、車を止めて疲れを癒やして来ました。
 帰りにお世話になった教頭先生のお宅にも寄りましたが、先生はとうに亡くなっておられ、お墓に行ってお花を供えてお参りして来ました。抱き上げて雪を払って下さった奥様にも、その後度々立ち寄っては、お世話になりましたので、お礼が言いたかったのですが、息子さんの住む静岡近辺に行かれたそうで、家だけは昔通りに未だ人が住んでいるように綺麗に手入れがしてありました。
 不思議なことに、偶然教頭先生のお姉様にお会いして、初対面でしたが古くからの知己のように懐かしく、話しが弾んで二人並んで写真を撮って来ました。
 昔のことは今もありありと心の中にあって、生々しい経験として私の心を揺さぶります。多くの方達にお世話になり、地域の人々も生徒も職員も、本当に温かく、まるで桃源郷に住んで居たように想い出すのです。
 何も知らない未熟な教師を、村の人々や回りの人達が優しく温かく教え育てて下さいました。素朴で素直な生徒達が、教師としての成長に大きな支えとなってくれました。このような助け合う環境の中から、幸運な私は教師の第一歩を踏み出したのです。


心を通わせる

2016年02月09日 | 随筆
 我が家に住み着いているわけではないですが、鵯(ひよどり)が冬になると必ず我が家の庭にやって来ます。いつも同じつがいかどうか解りませんが、もう40年も来ています。今年は、もう一羽弧独な鵯も来る日があります。
 冬は餌がないので、どうやら葉ボタンを食べに来るようです。雪が少し積もっても、もう鵯のついばめる餌はありません。二羽で来ても必ず一羽は近くの松やツゲやサンシュユに止まって、仲間の一羽が食べ終わる迄見張りをしています。毎年の事ながら微笑ましい限りです。
 庭の木々に花が少ない冬には、石池のデコボコした縁石のあちこちに二個の葉ボタンの鉢と、矢張り二個ほどのビオラかパンジーの鉢を置くのが、私の毎年の冬支度なのです。葉ボタンは必ず白と紫を一対にして、丸鉢に植えています。葉ボタンはキヤベツの一種のようですから、美味しいかと思えば、そう美味しい餌にはならないようで、少しずつしか食べません。鵯なりに緊急の食料にしているのか?とも思えます。
 今年は新年間もなく5~10センチほどの雪が降り、銀世界となって、鵯の餌は途端に無くなりました。葉ボタンも雪をかぶってしまいました。息子が気の毒がって、柿の種やピーナツなど、砕いて食べやすくしてやりました。すると直ぐに飛んで来て、餌だと解って交互に食べます。「不思議なことにピーナツから先に食べるんだよね」と、鳥の智慧に驚いています。
 野鳥ですから、人間を警戒するかと思っていたのですが、幾日かたつとやがて息子がガラス戸を開けても警戒して逃げ出さず、餌が撒かれるのを、居間の直ぐ前の木の枝などで待っているようになりました。自然の中で生きている小鳥などに餌づけしたりすることは、餌の取り方を忘れたりするので、雪が降って餌の無い日の朝だけに限っています。
 このような野生の小鳥でさえも、可愛がる人間の心が通じるのでしょう。私達夫婦と息子とでは警戒心が違うようです。ましてや人間同士では、心が通じるのは当たり前のことです。それだけにもしも子供たちにとって、親の愛情に満ち足りない思いがあったとしたら、それはどれ程寂しいことでしょう。
 つい最近ある雑誌に次のような短歌が載っていて、その感想がありました。
 
箸止めて「食べる私を見てゐて」と働く母に孫は言ひたり

感想 働く母親は多忙で、子供の悩みをじっくり聞いてやれません。愛情を求めて「こっち向いて」と心から叫んでいるのでしょう。深刻な状態のようです。共働きだった経験から、子供の叫びが痛いです。

 この短歌を詠んだのは、その子のおばあさんでしょう。愛する孫の苦しみと、即座には要求に応じて救ってやれない忙しい母親を思い、第3者の立場に身を置いて冷静に見つめている祖母の様子が、私には手に取るように感じられます。愛情不足の子供たちの「こっち向いて」という気持ちの痛切さは、私にも理解出来ます。どんなにおばあさんが孫を可愛がっても、親に変わることは出来ません。親でないと救ってあげられないこともあるのです。そういう子育ての要諦は、年を重ねて始めて解るもののようです。
 そのおばあさんは、それに気付いていて適度な距離と頻度で、自分の出番を推し量っているように感じられます。母の愛の不足に気付く、温かい祖母が傍にいる限り、子供はやがてその苦しみを克服して、立派に成長していくことでしょう。
 最近の未成年のいじめや、凄惨な殺人事件の根っこに、この愛情不足を感じることがあります。育てることの第一は、先ずは無償の愛情から始まります。親子間の愛情も夫婦間の愛情も、簡単に代換えが利くものではありません。お互いに心を通わせることで愛情は育つのであって、これは生きとし生けるもの全てに共通の原理だろうと思うのです。
 立春が過ぎて日脚も延び、春と聞いただけで、心の何処かに温かいものを感じ、清らかな水音が耳元に聞こえて来るようです。
 「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」かの有名な志貴皇子の万葉集の御歌です。今からそのような春がやって来る日を心待ちにしています。