ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

人間本来のこころの交流

2017年09月28日 | 随筆
 人間同士の心の交流が、温かく感じられる出来事に出会うと、これから先の人生に明るい希望が持てるように思えて嬉しくなります。
 わが家の毎朝の習慣である庭の掃き掃除や水やりなど、何時もほぼ同じ時刻に行いますから、ウォーキングに出掛ける時刻も殆ど定時です。往々にして一巡りのコースで、同じ人達に出会うことになりがちです。
 先日夫は何時の間にか顔見知りになった、未だ2歳の保育園児に突然ハイタッチして貰いました。夫の喜ぶこと喜ぶこと。孫の居ないわが家ですから、その感動はひとしおです。
 ちょうど保育園への道の曲がり角近くが出会いの場所なのですが、丁字路の出会いはなかなか時間が合わず、出会える日はまれです。在る日のことです。互いに手を振って別れたのに、何を思ったのか、園児は小走りに戻って来て、また夫に手を出したのです。
 わざわざ戻って来てくれた事に、夫はもうメロメロになりました。「今度お名前を聞こう」と夫が心待ちにしていましたら、やがて又出会えて「光ちやん」と云う名前が分かりました。「いくつ?」と聞きましたら、以前は指を二本出し、お母さんが「二歳です」と言われたのですが、この時は「三歳」とハッキリ答えてくれました。つい先日三歳になったばかりだったのです。とても賢い子供だと感心しました。
 私も福井の羽二重餅のような柔らかな手でハイタッチして貰って、誕生日前と後の僅かな間の、子供の成長ぶりに驚いてしまいました。「私の職場が変わったので、時間が少しずれました。」と先日お母さんが仰いました。以来会えていないので、心の何処かで「今日は会えますように」と期待して歩いていました。昨日のことです。遙か遠くから手を振る女の子が見えました。夫の方が気付いて、手を振りながら近づくのを待っていました。
「おはよう」と互いにハイタッチして、「行ってらっしゃい」と二人で見送りました。
 夫は自分とこの子の間には、何か見えない縁(えにし)で繋がっているに違いない、と本気で思っているようです。何故こうなったのか、本当に不思議なのです。
 何時でしたか、夫が病院へ行くバスの中で、中学生にサッと席を譲って貰ったことがありました。やゝ体調の悪かった夫は、助かったようです。やがて市の陸上競技場前で学生達は降りて行きました。皆体育着でしたから、何かの大会があったようでした。
 帰って来てから、その善意が嬉しかった夫は、体育着の校名から、その学校の校長先生宛に、お手紙を出したことがありました。それは「先生方のまいた道徳教育の種が、実際の社会で立派に花開いている事」をお知らせすると同時に、御礼の言葉を添えたものでありました。通りがかりの善行を、見ず知らずの人に褒められる事が珍しかったのか、後に校長先生から「該当の生徒が分かり、全校集会で褒めることが出来ました。」と丁寧な礼状が届きました。
 そんな経験があったためか、その後のある日、夫が自転車で左の小路へ曲がった途端に、後ろから直進して来た自転車の小学生(5~6年生の男の子)に接触して、双方が転んでしまったことがありました。
 男の子は立ち上がるや夫に駆け寄って「大丈夫ですか」と聞いてきたと言います。「私は大丈夫、君は大丈夫か」と夫も気遣ったそうですが、男の子はしきりに「済みません。大丈夫ですか。」と繰り返し謝りながら念を押して、とても気遣ってくれたと言います。左を良く見ないで曲がった私が悪いのに・・・、と夫はその男の子の優しさと礼儀正しさにすっかり感心したようでした。
 夫が膝をすりむいて帰って来ましたので、そういう事件があったことを詳しくは知らずに、手当を手伝いました。
 昨日ふと夫が「そうだ。あの時にあの感心な男の子に学校名くらい聞けば良かった。また校長先生宛の礼状が出せたのに。」とウォーキングの途中で言い出しました。事故現場近くでしたから、きっとその時の少年の校区あたりだったのでしょう。
 日頃変わり映えのしない生活を過ごしている老人ですから、滅多に出会えない「子供たちが持っている優しい心を褒めるチャンス」を逃がしたことを惜しがる夫に、私も同感したのでした。
 北條民雄というハンセン病を患いつつも、川端康成にその才能を見出され、励まされて、やがて作家として世に出た人のことが先日(2017.9.23日)の日経新聞の「傍らにいた人」に載っていました。これも矢張り温かい励ましと、更に差別を乗り越えた人の支えがあったからなのです。
 北條は19歳の時に、17歳の妻に真実を打ち明けて離縁し、東村山市の「全生園」に入所しました。川端宛に原稿と共に送った、必死の思いの書簡を「きっと返事を下さい。かうしたどん底にたゝき込まれて、死に得なかった僕が(註 何度か自死を試みて果たせなかった)文学に一條の光りを見出し、今、起き上がらうとしてゐるのです。」と綴って送っています。それは1934年ことです。
 川端は彼を「才能は大丈夫小生が受け合ひます。発表のことも引き受けます。」と励まし、川端のすすめに依って「最初の一夜」は「いのちの初夜」と改題して「文学界」に掲載されたのです。川端はまた自分の懐から寸志を送り、原稿用紙まで手配したそうです。
 こうしてハンセン病で隔離の生活を送りながら、自身の体験に基づく作品『癩家族』『癩院受胎』などを遺しました。
 二人の間に交わされた書簡は、彼の死までに90通に及ぶといいます。どれほどの温かい心を運んだことでしょう。北條は1937年に結核で没したのですが、彼の実名七條晃司(しちじょうてるじ)が明かされたのは、2014年です。ハンセン病に対する偏見や差別により、長い間本名は公表されていなかったのですが、出身地の阿南市が親族に20年間に亘り本名を公開するように説得した結果、2014年6月に親族の了承を得て、没後77年経ってようやく本名が公開されたそうです。
 早くからハンセン病の患者に寄り添われた医師の神谷美恵子がこの事実を知ったら、さぞ悲しんだであろうと思っています。私達もまた、このような悲しみにもっ温かい心で接し、関心を持って向き合いたいものだと思っていす。
 最後に神谷美恵子の「心の旅」(日本評論社1992年)の最後の文章を載せたいと思います。
「生命の流れの上に浮かぶ「うたかた」にすぎなくても、ちょうど大海原を航海する船と船とがすれちがうとき、互いに挨拶のしらべを交わすように、人間も生きているあいだ、さまざまな人と出会い、互いにこころのよろこびをわかち合い、しかもあとから来る者にこれを伝えて行くように出来ているのではなかろうか。実はこのことこそ真の「愛」というもので、それがこころの旅のゆたかさにとっていちばん大切な要素だと思う・・・以下略。
 神谷医師を尊敬していて、その沢山の著書を感動して読んだ私は、「こころの旅」のこのことばを深く受けとめて、これからも生きて行きたいと思っています。

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一瞬を切り取る心と技

2017年09月18日 | 随筆
 携帯もスマホもカメラの機能が進化して、簡単に美しい写真が写せるようになりました。けれども写真は、その場の明るさや差し込む光の角度によって捕らえた被写体を、更にどこを中心にして、どこ迄写すか、構えたレンズの角度や拡大の仕方などなど・・・、それを写す人の芸術的センス次第で、世界に二つとない芸術作品に変えてしまいます。計算し尽くされた一枚と言うか、精魂を込めた作品は、もう息を呑むばかりの美しさです。
 私のようにただ写っていれば良いという記念写真は、単なる想い出でしかありませんが、専門家の作品には、一つ一つの作品に魂が込められていて、鬼気迫るものが感じ取られます。
 私が写真の芸術性に感動させられたのは、山形県酒田市の土門拳記念館の写真を見に行った時からだと思います。秋の終わりに近く、静かな佇まいの美しい写真館でした。入館して驚いたのは、私が住んでいる市の図書館で見た土門拳の「古寺巡礼」の写真が、大迫力で迫って来た事です。
 奈良や京都の寺々には好んで出掛けた私達でしたが、いくら近づいて仏像を拝観したとしても、肉眼では判別出来ない程の、仏像の足の裏の膨らみや、1本1本の指の指紋さえ拡大されて写っている、迫力ある写真には、ただ感嘆するばかりでした。<(室生寺弥勒堂 釈迦如来脚部 結跏趺坐(けっかふざ)>
 一指ごとに、木目が実物の指紋と同じように楕円形に彫りだされている様子が、何とも言えない感動でした。これを彫った仏師の目と、技術の確かさと、それをしっかり捕らえて写し出した土門拳のカメラワークの見事さに、深く胸を打たれたのです。これほど写真にのめり込んだのは、初めてでしたから、とうとう旅先で買い求めるには重過ぎる「古寺巡礼」の「愛蔵版」を買って帰りました。
 <法華寺 十一面観音立像上半身>の右胸から零れている膨らみが、やはり中心が高く盛り上がっていて、それが円形の木目によって、実に柔らかく温かくふくよかに見えるのです。このように表現することは、とても凡人には出来ないことだと、眺める度にその美しさにうっとりします。
 室生寺や法隆寺・中宮寺、法華寺や唐招提寺・浄瑠璃寺などは取りわけ好きな寺院でしたから、愛蔵版はとても見応えがあります。
 かの有名な「法隆寺夢殿月の出」・「雪の室生寺五重の塔全景」や「平等院鳳凰夕焼け」など、後々この一枚を撮る為の苦労話が有名になった、素晴らしい作品が数多く載っています。
 「おほてらのまろきはしらのつきかげをつちにふみつつものをこそおもへ」会津八一の歌でとりわけ有名な「唐招提寺金堂正面列柱」が、感動的な歌をゆくりなく表現しています。列柱は七本だけ並んでいて、白く光る月の明るさが、はっきりと察しられるように、柱の後方に真っ黒な影が直線に引いています。白黒で月影を見事に収めているのです。柱の月影が「つちにふみつつものをこそおもへ」と告げていることは、一目瞭然です。思わず東大寺からこの寺に追われるように来られた、鑑真和上の悲しみに想いを馳せてしまう程の、素晴らしい写真だと思います。
 中宮寺の「菩薩半跏像面相」という一枚は、弥勒菩薩の右頬に四本の指が、中指を中心に近づいている様に撮ってあり、やや俯きの菩薩のお顔を、左右の伏し目によってはっきり捕らえていて、すらりとした鼻筋と軽く結ばれた唇とを入れて、額から左肩の途中まででとめて表現しています。
 この写真を見た人は、きっと皆「こんなに優しい菩薩様は見た事がない」というほどの優しさをたたえておられます。このように「菩薩像をどの角度から見て、どのような光をあてて写し,何処までを拡大して一枚に収めるか」「最も美しく優しく感じ取られる様に撮る」ことに専心した土門拳の心眼が切り取った、最高の一瞬の一枚です。
 全体の光の柔らかさも何とも言えず美しく、彼の芸術性の高さを現すと同時に、み仏のやさしさを一層引き立てています。
 私は、日本の仏像の中で、一番この菩薩様が好きで、中宮寺へ行く度に、お堂に上がってしばらく拝顔して来ます。
 今、私の目の前には、ある方が奈良の中宮寺へ行かれて、わざわざ私の為に求めて来て下さった「弥勒菩薩様の額」が飾ってあります。
 何だか全てが、不思議なご縁というしかない、出会いの賜なのです。とても大切な一枚で、一日の始まりに感謝し、終わりのご挨拶をして、私の人生の大切な一日一日が刻まれています。
 写真との出会いと言えば、夫にも良い出会いの賜である、ヴェネツィア「沈みゆく栄光」という一冊があります。持田信夫の作品ですが、えも言えぬ美しいさざ波の光る運河や、この向きで見て欲しい橋や城など、そして、ごく一部のみが浮き出るようにして、回りはぼかした写真や、今にも崩れんばかりの古城の壁など、矢張りどれもこの一枚に命をかけて、どう受け止めたのか、どう眺めてほしいのか、そしてどう感じてほしいのか、一枚ずつに真剣勝負の時間と心眼が光っているのです。
「スコットランド風物詩」も持田信夫の作品です。
 写真は、有りのままをそのまま写すものですから、ごまかしの効かない芸術だと思います。思えば私達の人生も、有りのままの真実を、正直に表現しながら生きて居ることに気付きます。その真実の一瞬をとらえて、その人の個性を生き生きと写し出す「写真家」という人達の不思議な力に驚きます。
 濱谷浩という写真家の「学芸諸家」という一冊は、人物像の傑作集です。時折開いては、一人微笑んでいます。写っている様々な人物(91人)が、いかにもその人らしい感じで、伝わって来るからです。
 写真集の最後に濱谷は、「虎の皮の斑文は見易いが、人の心は見ることが難しい」「写真は人の心までは写し取れない」などと書いていますが、ノーベル賞の湯川秀樹の写真は、額がとても広くて、眼鏡の奥の伏し目は、四六時中、凡人には想像も付かない難しい考え事をしているようで、生きている尊い方の思惟像に似ているのではないか、とさえ思えます。
 版画家の棟方志功が、下駄の足で土手道を駆け上ろうとしている姿は、まるでそのまま天まで駆け上がろうとしているほどの迫力で写っています。「釈迦十大弟子」の彼の作品が、画面からはみ出さんばかりに、仏弟子の力強さを現して居るように、この写真は迫力に満ちていて、そこがまたユーモラスに写されているようです。
 杉村春子が座して笑っている写真は、自然体の名演技で有名な彼女の技量を如実に現して居るようで、「ねえ、お茶でも如何」と組んでいる指さえ気さくなその心を伝えているようです。きっと無意識な仕草の中にも、濱谷が彼女に感じた、自然体の演技の見事さとその心、を読み取ったのかと思っています。
 佐藤春夫の眼鏡の奥の真剣な眼差しは、「あの骨太の身体の何処からあのような優しく純情な歌が紡ぎだされるのか」という私の日頃からの疑問を解いてくれているようです。「何事も見逃さない」と言うような、その目のひたむきさが、最近夜寝る前に読んでいる「海辺の恋の物語」などを生み出したのではないか、と私には思われるのです。
 人物像を写す時の写真家は、被写体を見つめる時に、その人の個性や心情を引き出して、それをありのまゝ写し出している、と私にはそう思われます。私が実際には知らない人の写真(小杉放庵の後ろ姿や千宗室)を見ても、その人のちょっとした顔や仕草の一枚から、誠実さやひたむきな思いが伝わってくる気がするからです。写真家の被写体を見る心眼と芸術性には、ただただ驚嘆するばかりです。

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薩摩紀行(2)ーー人材育成の町「加治屋町」

2017年09月06日 | 随筆
 「薩摩」という言葉の持つ不思議な魅力に、私は密かに尊敬の念を禁じ得ません。この言葉には、何故か熱くたぎり立つ意志を感じ、努力とか、忍耐などと相まって、頼もしい武士の志を感じるのです。鹿児島出身の偉人が、維新伝承館にきら星のように、今なお光芒を放って見学者を見つめています。
 「加治屋町出身の偉人」に出会い、歴史上第一級の人物を幾人も輩出した、ごく狭い地域についても知りました。「何故限られた僅かな土地から、こうも多くの偉人が出たのか」とその不思議さに先ず心を奪われました。
 調べて見ますと「郷中(ごじゅう)教育」という、薩摩藩の伝統としての縦割り教育がありました。これを集めたものを「方限(ほうぎり)」と呼び、「地域で子供を育てる組織」になっていて、現在で言う「町内会単位」の自治組織で、ここで教えるものは学問・徳育・訓育・体力作りが中心になっていたそうです。
 中でも武術の修練は大変重要で、剣術は特に厳しく、
小稚児(こちご、6-10歳)
長稚児(おせちご、11-15歳)
二才(にせ、15-25歳)
長老(おせんし、妻帯した先輩) の4つのグループに編成されて、二才(にせ)の若者が、小稚児・長稚児の少年達の教育をしながら、自分たちも厳しい修行を積んだようです。
 加治屋町と言われる地域は、当時は6つの郷中があったと言われます。(一つの郷中はおよそ10戸)城下には約30の方限があったそうです。
西郷達が育った加治屋町界隈は、下級武士の集まりでした。ここから維新の三傑と称されている西郷隆盛・大久保利通や、日露戦争において日本を勝利に導き、「陸の大山、海の東郷」と称された東郷平八郎・大山巌、第16・22代内閣総理大臣である山本権兵衛などを輩出しました。
 司馬遼太郎は、「明治維新から日ロ戦争までを、一町内でやったようなもの」で「この狭い町内で、どれだけの人材が輩出されたのか、と思うと驚きを禁じ得ない」と言っているように、本当に不思議です。
 限られた町内から、僅かな時間にこれだけの偉人が纏まって輩出されたということは、全く奇跡であって、天から大きな力を持つ何かが、この一角目がけて降り注いだと云うしか説明のしようが無いように思えるのです。
 世界史を紐解けば、ギリシャの哲学者「ソクラテス」、インドの「釈迦」、中国の「老子」、「孔子」の4人が何れも紀元前500年頃というほぼ同じ時代に、そして500年後にイエス・キリスト、その後約570年くらい後にイスラム教の「ムハンマド」と日本の「聖徳太子」がほぼ同年に出ています。これも不思議な一致の一つです。 
 このような神仏と言われる宗教的人物や、思想家・哲学者達がなぜ世界的に同時代に出現したのか。これも人間の人智を越えた現象であって、「その時代に世界が必要とした」としか説明出来ないでしょう。
 であれば、明治維新の立役者達が纏まって輩出されたのも、同じ現象と云う以外にありません。更にそこには、細やかな教育制度ばかりで無く、鹿児島の持つ独特の人作りへの熱意等の要素もあったと思います。
 現在の日本でも、幼い頃からの家庭や地域における教育を重視して、しっかりとした教養を身に付け、いじめの問題解決に資(し)する為にも、この郷中や方限(ほうぎり)の様に、地域社会の住人が、次代を背負う子供たちの教育に、もっと関心を払うべきではないかと教えられます。
 この旅の時に、維新ふるさと館で、西郷・大久保など鹿児島出身の多数の偉人の様子や、様々な資料を時間をかけて見学しました。西郷の黒いラシャのコートが置いてあり、夫が手を通してみると、指先はコートの中で、胸囲や腹囲も随分だぶだぶでした。直接身に付けて外形の大きさを感じ取ることで、人物の大きさも伝わって来るように思えました。
 数知れぬ弾痕の痛々しい土塀や、南州(西郷隆盛)の終焉の地を巡り、行き着いたのは墓地でした。何という光景なのでしょう。全ての墓石はみな整然と桜島を向いて立っているではありませんか。西郷を中心に主な家臣が回りを囲み、西郷と同じ方向を見つめているのです。思わず涙が溢れました。勿論その他の多数の墓石も、なだらかな丘に並んでいるのですが、みな桜島に向いていることは同じです。
 薩摩の人達には、これほど桜島は心の故郷なのだ、としみじみ感じられました。
 尚古集成館にも行き、「西郷南州翁遺訓集」を求めました。それは今読んでも胸を打つ内容でした。
 第一ケ条には、「政府に入って、閣僚となり国政を司るのは、天地自然の道を行うものであるから、いささかでも、私利私欲を出してはならない。だから、どんな事があっても心を公平にして、正しい道を踏み、広く賢明な人を選んで、その職務に忠実に実行出来る人に政権を執らせるべきである。だから、本当に賢明で適任であると認める人がいたら、すぐにでも自分の職を譲る程でなくてはならない。・・・とあります。
 現代人の高度に便利な生活様式を天上から見つめる南州翁には、恐らく驚きの一言でしょうが、「一番大切なものが、明治維新の時代に置き忘れている」と、お怒りなのではないかと気になるところです。
 また「徳の高いものには官位を与え、功績の多いものには褒賞をを多くする」という中国の故事に習うことを喜んだ、とあります。「なるほど」と納得しました。
 また、「人材を採用する時、良く出来る人(君子)と普通(小人)との区別を厳しくし過ぎると、かえって問題を引き起こすものである。・・・」とか。「どんな大きい事でも、小さい事でも、いつも正しい道をふみ、真心をつくし、一時の政略を用いてはならない」とも、それぞれ六ヶ条、七ヶ条に書いてあります。「新版 南州翁遺訓」(平成29.7.25改版初版発行 角川文庫)が手元にあります。なかなか味わい深い本になっています。
 最近になって、NHKの大河ドラマの「篤姫」のDVDを借りてきて一週に一本ずつ見て、 そろそろ終わりに近くなりました。私達には、二度目の「篤姫」です。ご存じのように、篤姫もまた薩摩藩が産み育てた,傑出した人材だったのです。
 そういえば南州墓地の丘から下って来た時、林の中で、白髪の老人が、薩摩示現流と思われる剣の使い方を、少年(10歳位)に薪を束ねて木刀で打ち込ませて居るのを見ました。気合いを入れて、真剣に稽古している人達を見て、「示現流は今でもこうして脈ゝと引き継がれているのか」と感嘆しました。
 市内の橋に、コートをひらりと翻した大久保像が立っています。城山町の西郷隆盛の銅像は、上野の西郷像とは違い、軍服姿です。歴史書に感動して尋ねて来る観光客ではなく、この地に生まれ育った人達には、もっと身近にこの偉人達を感じて、胸を熱くして居られるのだと思うと、それだけで感動させられる旅でした。
 2回の紀行文を纏めてみて、書き切れなかった様々も含めて、薩摩に対する尊敬の念を、益々深めたことでした。


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