人間同士の心の交流が、温かく感じられる出来事に出会うと、これから先の人生に明るい希望が持てるように思えて嬉しくなります。
わが家の毎朝の習慣である庭の掃き掃除や水やりなど、何時もほぼ同じ時刻に行いますから、ウォーキングに出掛ける時刻も殆ど定時です。往々にして一巡りのコースで、同じ人達に出会うことになりがちです。
先日夫は何時の間にか顔見知りになった、未だ2歳の保育園児に突然ハイタッチして貰いました。夫の喜ぶこと喜ぶこと。孫の居ないわが家ですから、その感動はひとしおです。
ちょうど保育園への道の曲がり角近くが出会いの場所なのですが、丁字路の出会いはなかなか時間が合わず、出会える日はまれです。在る日のことです。互いに手を振って別れたのに、何を思ったのか、園児は小走りに戻って来て、また夫に手を出したのです。
わざわざ戻って来てくれた事に、夫はもうメロメロになりました。「今度お名前を聞こう」と夫が心待ちにしていましたら、やがて又出会えて「光ちやん」と云う名前が分かりました。「いくつ?」と聞きましたら、以前は指を二本出し、お母さんが「二歳です」と言われたのですが、この時は「三歳」とハッキリ答えてくれました。つい先日三歳になったばかりだったのです。とても賢い子供だと感心しました。
私も福井の羽二重餅のような柔らかな手でハイタッチして貰って、誕生日前と後の僅かな間の、子供の成長ぶりに驚いてしまいました。「私の職場が変わったので、時間が少しずれました。」と先日お母さんが仰いました。以来会えていないので、心の何処かで「今日は会えますように」と期待して歩いていました。昨日のことです。遙か遠くから手を振る女の子が見えました。夫の方が気付いて、手を振りながら近づくのを待っていました。
「おはよう」と互いにハイタッチして、「行ってらっしゃい」と二人で見送りました。
夫は自分とこの子の間には、何か見えない縁(えにし)で繋がっているに違いない、と本気で思っているようです。何故こうなったのか、本当に不思議なのです。
何時でしたか、夫が病院へ行くバスの中で、中学生にサッと席を譲って貰ったことがありました。やゝ体調の悪かった夫は、助かったようです。やがて市の陸上競技場前で学生達は降りて行きました。皆体育着でしたから、何かの大会があったようでした。
帰って来てから、その善意が嬉しかった夫は、体育着の校名から、その学校の校長先生宛に、お手紙を出したことがありました。それは「先生方のまいた道徳教育の種が、実際の社会で立派に花開いている事」をお知らせすると同時に、御礼の言葉を添えたものでありました。通りがかりの善行を、見ず知らずの人に褒められる事が珍しかったのか、後に校長先生から「該当の生徒が分かり、全校集会で褒めることが出来ました。」と丁寧な礼状が届きました。
そんな経験があったためか、その後のある日、夫が自転車で左の小路へ曲がった途端に、後ろから直進して来た自転車の小学生(5~6年生の男の子)に接触して、双方が転んでしまったことがありました。
男の子は立ち上がるや夫に駆け寄って「大丈夫ですか」と聞いてきたと言います。「私は大丈夫、君は大丈夫か」と夫も気遣ったそうですが、男の子はしきりに「済みません。大丈夫ですか。」と繰り返し謝りながら念を押して、とても気遣ってくれたと言います。左を良く見ないで曲がった私が悪いのに・・・、と夫はその男の子の優しさと礼儀正しさにすっかり感心したようでした。
夫が膝をすりむいて帰って来ましたので、そういう事件があったことを詳しくは知らずに、手当を手伝いました。
昨日ふと夫が「そうだ。あの時にあの感心な男の子に学校名くらい聞けば良かった。また校長先生宛の礼状が出せたのに。」とウォーキングの途中で言い出しました。事故現場近くでしたから、きっとその時の少年の校区あたりだったのでしょう。
日頃変わり映えのしない生活を過ごしている老人ですから、滅多に出会えない「子供たちが持っている優しい心を褒めるチャンス」を逃がしたことを惜しがる夫に、私も同感したのでした。
北條民雄というハンセン病を患いつつも、川端康成にその才能を見出され、励まされて、やがて作家として世に出た人のことが先日(2017.9.23日)の日経新聞の「傍らにいた人」に載っていました。これも矢張り温かい励ましと、更に差別を乗り越えた人の支えがあったからなのです。
北條は19歳の時に、17歳の妻に真実を打ち明けて離縁し、東村山市の「全生園」に入所しました。川端宛に原稿と共に送った、必死の思いの書簡を「きっと返事を下さい。かうしたどん底にたゝき込まれて、死に得なかった僕が(註 何度か自死を試みて果たせなかった)文学に一條の光りを見出し、今、起き上がらうとしてゐるのです。」と綴って送っています。それは1934年ことです。
川端は彼を「才能は大丈夫小生が受け合ひます。発表のことも引き受けます。」と励まし、川端のすすめに依って「最初の一夜」は「いのちの初夜」と改題して「文学界」に掲載されたのです。川端はまた自分の懐から寸志を送り、原稿用紙まで手配したそうです。
こうしてハンセン病で隔離の生活を送りながら、自身の体験に基づく作品『癩家族』『癩院受胎』などを遺しました。
二人の間に交わされた書簡は、彼の死までに90通に及ぶといいます。どれほどの温かい心を運んだことでしょう。北條は1937年に結核で没したのですが、彼の実名七條晃司(しちじょうてるじ)が明かされたのは、2014年です。ハンセン病に対する偏見や差別により、長い間本名は公表されていなかったのですが、出身地の阿南市が親族に20年間に亘り本名を公開するように説得した結果、2014年6月に親族の了承を得て、没後77年経ってようやく本名が公開されたそうです。
早くからハンセン病の患者に寄り添われた医師の神谷美恵子がこの事実を知ったら、さぞ悲しんだであろうと思っています。私達もまた、このような悲しみにもっ温かい心で接し、関心を持って向き合いたいものだと思っていす。
最後に神谷美恵子の「心の旅」(日本評論社1992年)の最後の文章を載せたいと思います。
「生命の流れの上に浮かぶ「うたかた」にすぎなくても、ちょうど大海原を航海する船と船とがすれちがうとき、互いに挨拶のしらべを交わすように、人間も生きているあいだ、さまざまな人と出会い、互いにこころのよろこびをわかち合い、しかもあとから来る者にこれを伝えて行くように出来ているのではなかろうか。実はこのことこそ真の「愛」というもので、それがこころの旅のゆたかさにとっていちばん大切な要素だと思う・・・以下略。
神谷医師を尊敬していて、その沢山の著書を感動して読んだ私は、「こころの旅」のこのことばを深く受けとめて、これからも生きて行きたいと思っています。
わが家の毎朝の習慣である庭の掃き掃除や水やりなど、何時もほぼ同じ時刻に行いますから、ウォーキングに出掛ける時刻も殆ど定時です。往々にして一巡りのコースで、同じ人達に出会うことになりがちです。
先日夫は何時の間にか顔見知りになった、未だ2歳の保育園児に突然ハイタッチして貰いました。夫の喜ぶこと喜ぶこと。孫の居ないわが家ですから、その感動はひとしおです。
ちょうど保育園への道の曲がり角近くが出会いの場所なのですが、丁字路の出会いはなかなか時間が合わず、出会える日はまれです。在る日のことです。互いに手を振って別れたのに、何を思ったのか、園児は小走りに戻って来て、また夫に手を出したのです。
わざわざ戻って来てくれた事に、夫はもうメロメロになりました。「今度お名前を聞こう」と夫が心待ちにしていましたら、やがて又出会えて「光ちやん」と云う名前が分かりました。「いくつ?」と聞きましたら、以前は指を二本出し、お母さんが「二歳です」と言われたのですが、この時は「三歳」とハッキリ答えてくれました。つい先日三歳になったばかりだったのです。とても賢い子供だと感心しました。
私も福井の羽二重餅のような柔らかな手でハイタッチして貰って、誕生日前と後の僅かな間の、子供の成長ぶりに驚いてしまいました。「私の職場が変わったので、時間が少しずれました。」と先日お母さんが仰いました。以来会えていないので、心の何処かで「今日は会えますように」と期待して歩いていました。昨日のことです。遙か遠くから手を振る女の子が見えました。夫の方が気付いて、手を振りながら近づくのを待っていました。
「おはよう」と互いにハイタッチして、「行ってらっしゃい」と二人で見送りました。
夫は自分とこの子の間には、何か見えない縁(えにし)で繋がっているに違いない、と本気で思っているようです。何故こうなったのか、本当に不思議なのです。
何時でしたか、夫が病院へ行くバスの中で、中学生にサッと席を譲って貰ったことがありました。やゝ体調の悪かった夫は、助かったようです。やがて市の陸上競技場前で学生達は降りて行きました。皆体育着でしたから、何かの大会があったようでした。
帰って来てから、その善意が嬉しかった夫は、体育着の校名から、その学校の校長先生宛に、お手紙を出したことがありました。それは「先生方のまいた道徳教育の種が、実際の社会で立派に花開いている事」をお知らせすると同時に、御礼の言葉を添えたものでありました。通りがかりの善行を、見ず知らずの人に褒められる事が珍しかったのか、後に校長先生から「該当の生徒が分かり、全校集会で褒めることが出来ました。」と丁寧な礼状が届きました。
そんな経験があったためか、その後のある日、夫が自転車で左の小路へ曲がった途端に、後ろから直進して来た自転車の小学生(5~6年生の男の子)に接触して、双方が転んでしまったことがありました。
男の子は立ち上がるや夫に駆け寄って「大丈夫ですか」と聞いてきたと言います。「私は大丈夫、君は大丈夫か」と夫も気遣ったそうですが、男の子はしきりに「済みません。大丈夫ですか。」と繰り返し謝りながら念を押して、とても気遣ってくれたと言います。左を良く見ないで曲がった私が悪いのに・・・、と夫はその男の子の優しさと礼儀正しさにすっかり感心したようでした。
夫が膝をすりむいて帰って来ましたので、そういう事件があったことを詳しくは知らずに、手当を手伝いました。
昨日ふと夫が「そうだ。あの時にあの感心な男の子に学校名くらい聞けば良かった。また校長先生宛の礼状が出せたのに。」とウォーキングの途中で言い出しました。事故現場近くでしたから、きっとその時の少年の校区あたりだったのでしょう。
日頃変わり映えのしない生活を過ごしている老人ですから、滅多に出会えない「子供たちが持っている優しい心を褒めるチャンス」を逃がしたことを惜しがる夫に、私も同感したのでした。
北條民雄というハンセン病を患いつつも、川端康成にその才能を見出され、励まされて、やがて作家として世に出た人のことが先日(2017.9.23日)の日経新聞の「傍らにいた人」に載っていました。これも矢張り温かい励ましと、更に差別を乗り越えた人の支えがあったからなのです。
北條は19歳の時に、17歳の妻に真実を打ち明けて離縁し、東村山市の「全生園」に入所しました。川端宛に原稿と共に送った、必死の思いの書簡を「きっと返事を下さい。かうしたどん底にたゝき込まれて、死に得なかった僕が(註 何度か自死を試みて果たせなかった)文学に一條の光りを見出し、今、起き上がらうとしてゐるのです。」と綴って送っています。それは1934年ことです。
川端は彼を「才能は大丈夫小生が受け合ひます。発表のことも引き受けます。」と励まし、川端のすすめに依って「最初の一夜」は「いのちの初夜」と改題して「文学界」に掲載されたのです。川端はまた自分の懐から寸志を送り、原稿用紙まで手配したそうです。
こうしてハンセン病で隔離の生活を送りながら、自身の体験に基づく作品『癩家族』『癩院受胎』などを遺しました。
二人の間に交わされた書簡は、彼の死までに90通に及ぶといいます。どれほどの温かい心を運んだことでしょう。北條は1937年に結核で没したのですが、彼の実名七條晃司(しちじょうてるじ)が明かされたのは、2014年です。ハンセン病に対する偏見や差別により、長い間本名は公表されていなかったのですが、出身地の阿南市が親族に20年間に亘り本名を公開するように説得した結果、2014年6月に親族の了承を得て、没後77年経ってようやく本名が公開されたそうです。
早くからハンセン病の患者に寄り添われた医師の神谷美恵子がこの事実を知ったら、さぞ悲しんだであろうと思っています。私達もまた、このような悲しみにもっ温かい心で接し、関心を持って向き合いたいものだと思っていす。
最後に神谷美恵子の「心の旅」(日本評論社1992年)の最後の文章を載せたいと思います。
「生命の流れの上に浮かぶ「うたかた」にすぎなくても、ちょうど大海原を航海する船と船とがすれちがうとき、互いに挨拶のしらべを交わすように、人間も生きているあいだ、さまざまな人と出会い、互いにこころのよろこびをわかち合い、しかもあとから来る者にこれを伝えて行くように出来ているのではなかろうか。実はこのことこそ真の「愛」というもので、それがこころの旅のゆたかさにとっていちばん大切な要素だと思う・・・以下略。
神谷医師を尊敬していて、その沢山の著書を感動して読んだ私は、「こころの旅」のこのことばを深く受けとめて、これからも生きて行きたいと思っています。