ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

心にしみる日本の歌

2020年02月25日 | 随筆
 何処の国にもきっとその国民の心にしみる歌があり、旋律があるのだと思いますが、私はごく普通の日本人として、「荒城の月」ほど日本人の心にしみる名曲は少ないと思っています。歌詞も曲も名作で、世界中の人々が感動する名曲だと思っています。ご存じのように、作詞 土井晩翠 作曲 滝廉太郎です。
 同じ歌でも歌い手によって、当然おもむきが変わります。だれが歌うのが良いかは、聞く人によってそれぞれでしょうが、音楽には疎い私の場合は、身近な歌い手としては「フォレスタ」が一番かと思っています。
 とりわけ今井俊輔さんの独唱部分にしびれます。(2019in東京のコンサート録画から)歌詩や曲が心の奥深くしみこむようです。日本人独特な細やかな感性が曲全体から伝わって来て、「涙が出るくらい」と云っても過言ではありません。かつてフォレスタのメンバーだった白石さんが、「クラシックから抜け出るのに苦労した」と云っておられましたが、日本人独特の演歌や叙情歌を歌うには、オペラのような歌い方では「涙が出る程」とはいかないことに、私も在る時痛切に気づかされました。オペラを歌っている男性が、島津あやと共演して「帰らんちゃよか」を歌ったのです。日本人独特の「情感」を伝えるには、心にしみる歌い方でないといけないと感じました。
 若かった頃は、洋楽に比べて日本の歌、特に民謡は、何となく馴染まない感じがしましたし、知識も無い私には、一段劣るようにさえ思われたのです。日本民謡の「さんさ時雨」や「相馬盆唄」なども、今聞くととても哀愁があって良いと思いますが、若かった頃は日本の歌の良さも解らずに、西洋の音楽が優れているかのように思われたのでした。
 啄木の「砂山の砂にはらばい初恋の痛みを遠く思い出づる日」に曲が付いていて、過日フォレスタのメンバーの小笠原さんが歌っていました。高校時代の「選択音楽の時間」に学びました。厳しかった音楽教師の指導で何回も練習して学びました。何歳になっても忘れられない、厳しかったが故に一層懐かしく、想い出の多い名曲です。多感な時代に学んだ名曲は、今以て懐かしく歌えます。大学を終えて職についてから今日までにも、沢山の本を買って読みました。
 短歌や詩に曲が付いていて学んだものもあります。例えば三木露風の「ふるさとの」に斎藤圭三が作曲した歌があります。
    
 ふるさとの
             三 木 露 風
ふるさとの
小野の木立に
笛の音(ね)の
うるむ月夜や。

少女子(をとめご)は
熱きこゝろに
そをば聞き
涙ながしき。

十年(とゝせ)經ぬ、
おなじ心に
君泣くや
母となりても。
   
 露風が四歳年上の恋人をしのんだ、十九歳の折りの叙情詩です。十年が過ぎゆき、人妻となり又母となった君は、あの頃の心で泣いてくれるだろうか、という名詩です。これに斎藤圭三がメロディーを付けていて、しみじみと聞くことの出来る歌になっています。

 又北見志保子の平城山も有名です。

 人恋ふは悲しきものと 平城山(ならやま)に もとほり来つつ たえ難(がた)かりき.
  古(いにし)へも夫(つま)に恋ひつつ 越へしとふ 平城山の路に 涙おとしぬ.

歌人・ 北見志保子が磐之媛陵(いわのひめりょう)をテーマに詠んだ上記の二首に、斎藤 圭三が作曲しています。

 日本の名詩・名曲は、数えれば沢山あります。
 おりしもコロナウィルスに翻弄されている日々ではありますが、家に籠もって出来るだけ外出を控えている私達ですから、この機会に日本の名曲に改めて聴き入って、心を洗い流そうと思っています。

 

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私の神田川

2020年02月09日 | 随筆
南こうせつに「神田川」と云う歌があります。私はこの歌に一方ならぬ思い入れがあります。
学生時代と卒後しぱらく東京で暮らしていましたので、神田川流域は懐かしい場所でもあります。しかし実際に想い出深いのは、神田川そのものではなくて「小さな石けんカタカタ鳴った」と云う下りです。
 人生の中でも新婚時代は、多くの人にとって想い出が深いものだと思います。私達夫婦も共働きでしたから、新居として地方都市の、夫の勤め先からさして遠くない新築アパートを借りました。
 玄関ドアを開けて入ると二階に上る階段があって、廊下の奥にこじんまりとしたダイニングキッチンがありました。階段を上がると二間続きの部屋と押し入れが並んでいて、南側に二間窓、北側に一間窓がありました。二人暮らしには明るくゆったりとして、手頃なアパートでした。
 当時アパートはまだ珍しく、間借りが多かったのですが、通りの奥に大きなお屋敷とお庭のある大家さんが、廃校になった学校の木材を譲り受けて、表通りに面して建てたアパートでした。古材とは言え削り立ての新築アパートだったのです。二階建ての4戸が一棟に納まっていました。
 当時はそのアパートにお風呂が無くて、裏の大家さんが時々声を掛けて下さいました。お屋敷の大きな湯船に、それぞれゆったりと入れて頂いたことも度々でした。私は勤務場所の都合で、始めの一年近くは別居でしたから、私が帰った時には二人で近くの銭湯に出かけたのです。
駅前近くに一山公園になっている所があり、二人でよく散策に出かけました。東屋や石塔や爺杉があって、大きな池が三つもあり鯉が泳いでいました。気が向くとわざわざ和服を着て出かけました。木もれ日のきらめく散策道を通って池を巡る時、幸せとはこういうものかと胸をおどらせる思いでした。
 土曜日の夕方、二人揃って公園隣の銭湯へ行き、帰りを待ち合わせて隣の食堂で夕食を取って帰る事もしばしばでした。結婚当初の1年には冬もありましたから、待ち合わせの時間によっては、寒さに「小さな石けんカタカタ鳴った」日もあったのでした。
 帰りに立ち寄る食堂は、年配の女性が切り盛りし、若いご夫婦がお手伝いしていました。せっせと立ち働くお嫁さんはまだ初々しくて、丁度私達と同じ位の歳に見えました。今はみなみな懐かしい想い出です。
 私達は翌年に双方の勤め先に近いように、或る駅前の二階建ての空家を借りて暮らし始めました。二年後に娘が産まれて、その年に現在の我が家が完成しました。
 それから半世紀も過ぎて老夫婦となった私達は、懐かしくて二人で一山公園のあの地を訪ねました。公園には大きな池が段差をつけて整備され、滝になって水が落ちたり噴水が上がっていて、巨大な鯉が沢山泳いでいました。池のほとりの茶店で鯉に餌の麩を買って与えたりしつつ、一時を過ごしてから、「もう無いかも・・・」と話しながら、かつて新婚の一時期を過ごしたアパートへの道をたどりました。すると驚いたことに、何と当時のままの姿でアパートが残っていたのです。
 アパートは真ん中が私達の入り口でドアだったのですが、その懐かしいドアがまだそのまま残っていました。言葉も出ないほどの感動でした。それは50年の風雪に耐えて、私達を待っていてくれたのだと思われる位でした。
 公園入り口の、かつてチャーハンを食べたあの想い出深い食堂へも行って見ました。当時うら若かったお嫁さんは、立派な女主人になって、誰も居ないお店に一人毛糸を編んでいました。私達は迷うことなく、あの頃美味しいと思って食べたチャーハンを頼みました。出て来たチャーハンを一口食べた時「全く同じ味」であることに、思わず二人で顔を見合わせました。何十年も経っていましたのに、ずっと同じ味を守り通した本当に懐かしい味でした。隣の銭湯は駐車場になって、周りの風景は昔日の面影もなくなっていました。
 南こうせつの「神田川」は川のほとりの小さなアパートに暮らす若き二人の思い出です。私には川の想い出はないのですが、「小さな石けんカタカタ鳴った」場面が強烈な印象となって脳裏に浮かんでくるのです。
 食堂の女主人が一人で客待ちしながら編んでいた物は誰の為の物であったのか、と他愛のない事まで考えながらの日帰り旅行でした。 
   

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