ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

翻訳と日本人の感性

2017年03月24日 | 随筆・短歌
 カール・ブッセの「山のあなた」という詩をご存じの人は多いと思います。私は高校の国語の時間に学びました。上田敏訳のこの詩は、日本人の多くの人が諳んじることの出来る詩として、有名ではないかと思います。

カール・ブッセ 「山のあなた」 上田敏訳

  山のあなたの空遠く
「幸(さいわい)」住むと人のいふ。
 噫(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、
   涙さしぐみ、かへりきぬ。
 山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ。
※尋(と)めゆき 訳「尋ねゆき」 筆者加筆

 カール・ブッセはドイツの詩人ですから,原文とその訳は次の通りです。

Über den Bergen   Karl Busse 山のかなた カール ブッセ

Über den Bergen weit zu wandern 
山のかなた 果てしない遠くに
Sagen die Leute, wohnt das Glück. 
幸福が住んでいると人が言う  
Ach, und ich ging im Schwarme der andern,
ああ、そして私もみんなと一緒に行って
kam mit verweinten Augen zurück.
涙のあふれた目のまま帰ろう
Über den Bergen weti weti drüben,
山のかなた遠く遠く向こうに
Sagen die Leute, wohnt das Glück.
幸福が住んでいると人が言う

 これは、ほぼ原語をそのまま訳したものですが、これを上田敏は日本語に訳すにあたり、古くからの日本の調べのように七五調にして意訳したのです。それが「海潮音」(かいちょうおん)に載っています。
 ※註「海潮音」は上田敏が1905年(明治38年)10月、本郷書院から出版した主にヨーロッパの詩人の訳詩集です。上記の詩やヴェルレーヌの「秋の日の ヴィオロンの ためいきの…」などは、今なお愛誦されています。
 
 沢山のヨーロッパの詩を訳した上田敏は、「果てしなく遠く」を「空遠く」「涙の溢れた目のまま」、を「涙さしぐみ」と訳すなど、とても日本的に情緒深く訳されています。とてもリズミカルですし、多くの日本人に愛され,本場のドイツよりも遙かに多くの人に愛されているそうです。
 これと同じく、大胆というか、全く違う訳詩として有名なのが、「庭の千草」です。これはアイルランド民謡の「夏の最後の薔薇」に、日本語詞:里見 義(ただし)(1824~1886)が「庭の千草」として訳したものです。

1 庭の千草も 虫の音も
  枯れて淋しく なりにけり
  ああ 白菊 ああ 白菊
  ひとりおくれて 咲きにけり

2 露にたわむや 菊の花
  霜におごるや 菊の花
  ああ あわれあわれ ああ 白菊
  人の操(みさお)も かくてこそ

 この詩と曲は、 日本人にはとても馴染み深いものです。元々はスコットランド民謡から採ったものです。元の詩はつぎの通りなのです。
The Last Rose of Summer
 夏の最後の薔薇    作詩 T・ムア(1789-1852)
            作曲 不詳(但しT.ムーアにより補作)
'Tis the last rose of Summer,
Left blooming alone;
All her lovely companions
Are faded and gone;
No flower of her kindred,
No rosebud is nigh,
To reflect back her blushes,
Or give sigh for sigh!

1)夏の名残のバラ 一人寂しく咲いている
  他の花々は既に枯れ散り
  近しき花も芽も消え失せた
  美しいバラ色を思い起こせば
  ただため息をつくばかり
   ※ 2・3番は省略します

 ここで私が驚くのは「夏の最後の薔薇」を純日本的に「庭の千草」という詞を当てはめた里見 義(ただし)の作詞能力です。薔薇は西洋ガーデンでは高貴な花の主役ですが、秋には当然枯れてゆきます。日本の秋の終わりに咲く菊の美しさや健気さは、日本人には、とても親しみがあり、ものの哀れを伝えるものです。見事な迄に日本的に訳し、しみじみと聞かせてくれます。現在活躍中の合唱グループの「フォレスタ」のファンですが、彼らの歌う「庭の千草」も素晴らしいです。
  何故か、私はこの「夏の最後の薔薇」の一番だけは、原語で歌えます。何処で覚えたか、たぐり寄せて見ますと多分高校の英語教師であった父が持っていた、手回し式「蓄音機」と長い針で聞くあの古い古いレコード盤のソプラノの歌だと思います。素晴らしい声でしたが、誰が歌っていたのか等は、不明です。もう長く廃家だった実家は、10年くらい前に家も土蔵も壊してしまいました。
亡父が集めたレコードは多種にわたり、こういった外国の曲も、宵待草等の日本の曲もあり、私達子供の遊び道具でした。
 言葉は魔物です。漢詩でも書き下し文に近い言葉で訳したものではなく、少し離れて訳詩者の心のままの表現が、原作の詩よりもストンと私達の心に落ちるものがあります。次の詩などはどうでしょう。
 ここでは、中国の唐時代の詩人「于武陵(かんぶりょう)」の詠んだ「勧酒(さけをすすめる)」という漢詩の現代語訳です。友との別れを詠んだものです。
※左から読んで下さい

勧 君 金 屈 卮
満 酌 不 須 辞
花 発 多 風 雨
人 生 足 別 離

(書き下し文)
君に勧む金屈卮(きんくつし)
満酌、辞するを須(もち)いず
花発(ひら)けば風雨多し
人生、別離足る

 (井伏鱒二の口語訳) この漢詩には、井伏鱒二が独自の解釈で口語訳をつけています。

コノサカズキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
 
 漢詩そのものを見て、書き下し文を読めば、普通はそれで漢詩の心が伝わり、心を打たれたりするのですが、井伏鱒二の独自の訳が、リズミカルで分かりやすく,最後の「サヨナラダケガ人生ダ}、と言われると何だか急に名残惜しく感じられて、私は一度で暗記してしまいました。井伏鱒二の訳そのものの文学性が心憎い迄に感じられます。
 漢詩は決められた語数で、しかも韻を踏まなければならず、「平仄(ひょうそく)」など決まりに従って書かれていて、とても制約の多い文学です。NHK学園生涯学習講座の「漢詩」の3講座を、一年半かけて全て学んびました。漢詩好きの私はその後も読み返し読み返ししましたし、好きな詩が沢山ありました。
 それを中国語の朗読で聞くと(朗読テープが付いていました)平仄(ひょうそく)の美しさが加わって、一層美しいのです。まるで音楽かと感嘆してしまいます。
 日本人は中国から漢字の「字形」「字音」「字義」を学んだのですが、字音の声調「(トーン)」を欠いたまま取り入れました。ですから、トーンを規定する平仄に従わずに読みますから、音楽のように美しい感性を伴った詩を感じ取ることは出来ません。
 しかし、日本人が漢詩を作る時は、韻を踏み平仄をきちんとあてはめていますから、その教養は実に見事です。私などは韻字韻目一覧表を探して読んで納得するだけで精一杯です。夏目漱石や子規などの詠んだ漢詩を見ると、実に感嘆しきりです。
詩吟でも漢詩は歌われますが、これはこれで又別の美しさがあります。
 美しいものを「美しい」と感じて、心が爽やかに豊かになることの幸せを思います。
 最後になりましたが、夏の終わりの薔薇を「庭の千草」という詩にした里見義も素晴らしいですが、「夏の最後の薔薇」は、省略した2・3番を加えると、それはそれで私達の年齢に近い人達には、心を揺さぶるものがあると感じています。
 花にちなんだ私の短歌を少しばかり拾わせて下さい。(何れも某誌・紙に掲載)

白き薔薇一輪活ければそれだけで救われてゆく五月の孤独 

活けられし紫陽花のように涼やかにあなたは生きていたのだけれど

藍深く抱きて静もる紫陽花に分かちてもらわん水無月の夢

束の間の命咲かせし冬の薔薇滅びの前の輝き持てり

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あなたの知らない旅

2017年03月13日 | 随筆・短歌
 今回も「さだまさし」の歌詞を引かせて頂こうと思います。彼に「遍路」という歌があります。恋人でしょうか、夫婦でしょうか、二人で歩いた遍路の思い出を抱きながら、今はこの世に居ない人を偲びつつ一人の遍路旅を「あなたの知らない旅」と歌っています。

作詞:作曲 さだまさし

いつかあなたと来た道を今ひとり
転(まろ)び転(まろ)びあなたのあとを追う
夢で幾度か追いついて目が覚めて
膝を抱いてまた あなたの夢を見る
うず潮の 生まれて消えて
また結び また解けるように
わずかな思い出 くりかえしたどる道
あなたの知らない 旅

ふいに名前を呼ばれて振り返れば
別の物語の二人を見るばかり
橋のない川のほとりで迷うように
あなたを越えて向こうまでゆけない
吉野川の 流れ静かに
あなたから生まれ あなたに帰る
なつかしいあの唄 くちずさみ歩く道
あなたの知らない 旅

 私達夫婦も合計三回の遍路の旅をしました。一回で八十八箇所を巡る積もりはなく、又初めから三回で一巡りしようと思った訳でもありません。
 第一回目のきっかけは、長女が生まれて以来、同居の義父母が逝って、加えて33歳の娘まで逝ってしまったからです。義父母には、長い間私達の二人の子育てを助けて貰いました。娘は結婚して、やっと念願の新築マンションを吉祥寺駅近くに買ったばかりでした。娘の急逝は、一層心に重くのしかかって来て、せめて遍路の旅で先だった家族(三人の他に私の実父母も兄も弟も今は亡く)の冥福を祈って回りたいと思ったのです。
 毎回決めてあったように8日間の旅でしたが、遍路のみでなく、他の観光も加えて、気が付くとどれも8日になっていました。四国へは、大阪駅から高速バスで徳島駅前まで行けます。鳴門大橋から見事な渦潮を眼下に見降ろして、やがて徳島市へ入るのです。
 初めて見た鳴門の渦潮は、「うず潮の 生まれて消えて また結び また解けるように・・・」の歌詞の通りに、幾つもの大きな渦が生まれては消えて、バスの窓越しでしたが、目も心も引き込まれるようでした。
 全ての行程を歩いて回った訳ではなく、リュックにウェストバッグ姿で、時折バスや列車を使いながら、なるべくリュックは駅のロッカーに預けて、サブザックに白衣・輪袈裟姿でお寺からお寺へ続けて歩けるように、札所を纏めて行程を決めました。
 第一日目は徳島駅から一番霊場の霊山寺(りょうぜんじ)へ行きました。早朝にもかかわらず大勢の人がお寺を目指して静かに歩いていました。山門をくぐると冷気が体を包みました。本堂の隣の建物が売店になっていて、身支度に必要な一切が並べられていました。
 輪袈裟は菩提寺の和尚様がこの旅のためにくださったので、白衣・納経帳・収め札・遍路鈴等を買い求め、初遍路の人が使う「白い納札(おさめふだ)」に二人の氏名と住所を書き、裏に供養する人の名を記入ました。一寺に二枚で、本堂と太子堂にそれぞれに一枚ずつ納めます。
 準備の後改めて霊山寺の本堂前に戻りました。身支度を調え、手水舎で先ず手を洗って身を浄め、柄杓ですくった水を手に掛け口をゆすぎました。お蝋燭と線香は、沢山用意していて、各霊場で火を付けました。仏殿前でそれぞれお賽銭を入れて、本尊の釈迦如来像に向かって、声を揃えて般若心経を唱えました。 心を静めて「どうぞ安らかにお眠り下さい」と先立った人達の顔を思い浮かべながら呼びかけました。更に「どうぞ家族をお守り下さい。私はみんなの役にたちますように」と祈りました。深く祈り納札を納札箱に入れました。
 隣の大師堂に祀ってあるお大師様(空海像)にもお賽銭をあげてお経を唱えて祈り、納札を入れました。
 それから納経所で納経帳の記帳をお願いします。納経料を納めますと、どのお寺も達筆な方が、それぞれの札所のページに、墨の文字でさらさらと寺院の名前とご本尊名などを書き、四国第○番等と右上に朱印を押し、中央にこの札所の大きな印と左下の三箇所にそれぞれ朱印を押して下さいました。
 四国霊場第一番 御影袋 霊山寺 と朱筆で書かれた袋に、寺院の名前の入った参拝の印のお札を載せて返して下さいました。 係の方は2~5人程おいでのようで、時折団体バスが着いたりすると、何十冊も重ねて納経帳が持ち込まれ、その分20分とか、30分とか時間を待つ事になります。でも一寺ずつ記帳して頂くと、有りがたい記念になりました。
 「四国八十八箇所を歩く」と云う山と渓谷社の本が、本尊・開基・札所の電話番号と住所・最寄り駅と徒歩時間・地図などが詳しく書いてあり、列車やバスの時刻を調べるにも、徒歩時間や簡単な道案内にもなってとても助かりました。このような正確で便利なガイドブックに出会って幸せでした。
 遍路道では「同行二人(どうぎょうににん)」と言って、「一人で歩いていてもお大師さまは何時も一緒に歩いてくださる」、と言われます。苦しい道のりでも、苦労を分かち合って共に歩いて下さるということは、足が進む時も疲れて余り歩けなくなっても、歩幅に合わせて常に傍らにお大師様がおられるという温かさが、しみじみと伝わって来るようで、身に浸みて有りがたいことでした。遍路旅の収穫の一つに、「苦しむ人には、黙って共に歩いてくれる人が居るだけでも救われる」と云うことを教えて頂きました。
1番から5番迄がが遍路の第一日目の参拝のお寺でした。徳島に戻って、ケーブルで市街が見渡せる眉山(びざん)へ登りました。そこにはビルマの仏塔パゴダがあり、大戦で亡くなった13万3572柱の無名戦士の英霊にお参りしました。遠望のきく展望台からの眺めは今も目に残っています。
 翌日は常楽寺、国分寺、観音寺を回って高知へ出ました。南国土佐の町は、空が青く明るかった事が印象的でした。四日目は道路脇の紅いはりまや橋を眺めたりして五台山竹林寺への石段を登りました。五重塔もあり、広い境内の柿葺(こけらぶき)本堂は古く、歴史を感じさせて荘厳でした。お庭も大きく美しく、夢窓疎石の作でした。二人組の遍路の人達もかなり居て、先になり後になりして、鐘楼の鐘を撞いて音が消えるまで祈り続けました。 高知城にも寄って、桂浜では龍馬像を眺めました。想像よりも大きく、はるか水平線の彼方をじっと見つめていました。波打ち際で五色の玉石を探しました。赤と薄緑と白の三個のツルツルした小石を拾って来て、今もその玉石は仏壇に供えてあります。 
 次は雪蹊寺ですが、鎌倉時代の古い仏像が沢山あり、国の重要文化財だそうで、その多さに驚きました。高知駅から宇和島を目指し「四万十グリーンライン」の一両のワンマンカーで、美しい河をゆったりと眺めつつ、河をまたぐ鯉のぼりも含めて、有名な四万十川を満喫しました。四万十川の清流に浄化された山紫水明の風景は、日本の自然美の象徴だと感動しました。
 宇和島でホテルから外出して、名物鯛飯を頂きましたが、とても美味しく、帰宅後研究して、家族の好みの料理の一つになりました。
 五日目は卯の町下車で明石寺で鐘を撞いたりし、松山へ出て横河原線で久米駅下車、浄土寺、繁多寺、石手寺(山門には上に届く程の大わらじがあり、石柱に手の型がありました)にお参りして、子規記念館に立ち寄りました。さすがに立派で、展示も充実していてとても嬉しかったです。
 松山では有名な道後温泉で「坊ちゃんの湯」に入りました。中央の楕円形の湯船は大きく、湯船は縁石は低いのにとても深く、立ち上がっても大人の腰丈より深いようでした。大勢の人が入浴を楽しんでいました。昔のままの古い建造物で、浴衣姿で一休みの男性もいて、風情がありました。
 五日目は松山から多度津へ行き、乗り換えて琴平で降りて、金比羅神社にお参りしました。噂通りの階段を杖を借りて息を切らせて上り、金刀比羅宮展望台から、遠く青空に美しい讃岐富士を眺めました。
 義父が昔この金比羅神宮に願を掛けたと聞いたことも、思い出しました。(願の内容は口に出せないのだそうです)私が退職してから、80歳に近かった義父が一人で願解きに四国へ渡りました。「どんな願を掛けたのかな」と時折義母は不思議がっていました。義父はついに一言もその内容は云いませんでしたが、戻って来た義父はとても満足そうでした。困難な時代を生きてきた義父でしたから、願が叶って嬉しかったのだろうと夫が云いました。
 午後は栗林公園へ行き、幾つもの池の美しい公園を一時間以上掛けて、様々な茶室や、根上がりの松も見て楽しみました。この栗林公園は私の父母のお勧めの公園でした。伊勢志摩と伊勢神宮・高野山・熊野大社・倉敷の美術館・宮崎の青島の鬼の洗濯岩から堀切峠迄の海岸の眺め・指宿温泉、などを、旅好きの両親は「記憶に残った良い処」として、私達にも勧めていたのです。ずっと後には、私達も旅の途中に全て寄りました。まるで父母の後姿を追いかけているようで、不思議でもありました。
 最後の札所は屋島寺でした。ケーブルに乗り広い寺院の敷地を歩いて、幾つものお堂にお参りしました。願いを込めて瓦投げをしたり、源平合戦の激戦地で、義経の船隠しの岬も見えました。満足感が込み上げました。
 この回の遍路はここ迄で、帰りは岡山から新幹線に乗り、伊豆で一泊して娘のお墓にもお参りをしました。
 ところで、桐の薄紫の花の道を歩いた遍路道を、歩くにつれ、お参りを重ねるにつれ、祈るにつれ、何となく「どうぞ安らかにお眠り下さい」「どうぞ家族をお守り下さい」と祈ることに違和感が生まれました。
 お守り下さいと願うのではなく、「お守り下さいまして有り難うございます」とお礼を述べる方が正しいと思うようになったのです。
 既に「同行二人」でお大師様に守られつつ歩いているのですし、おかげさまで良い想い出を残して元気に歩き通し、こうして魂を慰めつつ、お接待にも預かって遍路の旅が出来たということは、先だった人達やお大師様や、お参りした寺寺のご本尊様などに、守られていてこその無事な旅です。
 いつの間にか心が満たされて、感謝の心で歩いている自分を見出していました。遍路旅とは、そうした満たされた旅なのだと気がついたのです。
 そう思ってからは、ご本尊の前で読む般若心経も、勿論大師堂で読む時も、そして祈りも感謝一色になり、喜びと満ち足りた気持ちになりました。遍路とはそう言う旅なのだと思います。
 家に帰ってから、白衣を洗いのり付けして、多分もう二度とは行けないと思い、和袈裟も納経帳も纏めてタンスの一段に収め、「先にあの世に行った人が、白衣と共に納経帳を棺にいれて貰いましをょう」と約束しました。
 そして好きだったさだまさしの「防人(さきもり)の歌」を葬儀会場のバックグラウンドミュージックにして、小さく流して貰おうと云うことになり、テープにエンドレスにコピーして一緒にしました。今はCDもあります。 そんな時、高知の竹林寺で後になり先になりしていた遍路さん達はどうしているか、とふと思いを馳せました。その時です。もし夫が先に亡くなったら、矢張り私はあのときと同じお寺に遍路姿で行きたいと思ったのです。亡くなった人が知らない一人旅ですが、きっとあの頃を思い出して、一層懐かしく、慰められるのではないかと思ったのです。
 表題のさだの歌は、こんな処をしみじみと聞かせてくれます。どちらが先に逝くかは、分からないのですが「私が残って必ずキチンと送ってあげる」と夫と約束してありますので、その積もりの準備になっています。
 最近夫は、年老いた今の私の様子では、その旅は出来ないかも知れない、と云います。私も段々自信がなくなってきています。
 又、夫も気が変わって、最近は、「千の風」で送って欲しいといいます。何時か書きましたが、ユッカという歌手が歌っているのが、良いと言います。
 
「作詞 不詳・作曲 新井 満」

私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません
眠ってなんかいません 千の風に 千の風になって
あの大きな空を吹きわたっています  (以後略)

 私が「お墓に行っても、そこに居ないの?」と不満そうに聞きましたら、「そうだよ何時も傍に吹いている」と云いました。ですから私は、お墓にも、遍路にも、何処に出掛けても安心です。
 ちなみに第二回は二年後、第三回目もその二年後でしたが、室戸岬と足摺岬も回り、三回でとうとう四国を一回りしたことになりました。


旅立ちの棺に入れてと頼みおく三度巡りし遍路の白衣

仏舎利を拾うがごとく玉石を桂浜に拾う遍路となりて

桂浜寄せ来る波の問ひかけに答への見えぬわが遍路みち
                    (何れも某誌に掲載)
 

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庭木を育て庭木に教えられる

2016年10月15日 | 随筆・短歌
 我が家の庭を庭師さんに造って頂いて、ちょうど30年になりました。学習不十分で、初めに植えた木が枯れて植え替えたり、好きな木を植えすぎて、切るハメになったりしています。剪定は年一回は専門家に依頼したのですが、私が与える12月の肥料のやり過ぎや、日頃の管理に問題があるようで、今年の夏は特に繁茂しすぎに思われました。
 更に三月からは毎月のように消毒していましたのに、8月下旬にアメリカシロヒトリの食害を見つけて、直ぐに枝を切ったり、薬剤で防除しました。今まではこのような被害はあまり無かったのですが、更にまた葉が白く食害されたのに気づき、被害が拡がるのも気味悪く、8月末には、とうとうサンシュユを一本切って貰いました。庭師さんの話では、サンシュユという木がアメシロのとても好きな木だとのことでした。
 おかげで庭が開けてよく見え、後側に咲いていた百日紅が姿を現し、石池も見通しが良くなって、庭全体がすっきりしました。
 そんなこともあって秋の剪定時に、庭師さんに「今回は思い切り剪定して、丈も詰めたりして下さい」と夫が依頼しました。
 さすがに手慣れたもので、樹形が変わる程に剪定して頂きました。専門家の仕事ですから、驚く程にこざっぱりと美しく、すっかり明るい庭になって喜んでいます。
 ところでこの庭の歴史には、忘れられない想い出が幾つかあります。この家が完成した6月に、私達夫婦と生まれて2ヶ月足らずの娘と、同じ日に田舎から義父母に引っ越して来て貰って、5人で住み始めました。義父は早速北側の下水に沿って、50センチ程のカイズカイブキを、生け垣として並べて植えました。それが今は2m位に育って、美しい緑の生け垣になっています。カイズカイブキと同じ年月を生きて来たと思うと、何かしらとても愛着を覚え、丹精して育ててくれた義父を想い出します。 
 東側のピンクと黄色の二種類の薔薇も、後に義父が植えたものです。南側の庭隅に大きな黒松が真っ直ぐに生えています。これも義父が、住み始めた頃に、ずいぶん遠くまで自転車で行って、小さな苗を持って帰って植えたものです。
 南側の庭は長く義父母の畑になっていて、ブドウ棚やイチジクとこの松と、少しの花がある程度でした。子育て時代にお世話になった義父母の看取りの為にと考えて、職を退いた私は、義父母が未だ元気な内にと思って、思い切って庭を造って貰うように、夫と相談して決めたのです。 
 全てを庭師さんに任せましたので、ブドウもイチジクも無くなりました。庭を造る時に庭師さんに、「ただ真っ直ぐに伸びているこの松も切った方が良いのでしょうか。」とお聞きましたら、「いやいやこれはこれで大切な松です。私が持って来た松は、中央の松ですが、やや傾けて植えます。曲っていますが、灯籠を添えて植えますから、これと相対する松になります。頭の先は止めましたから、これ以上伸びることも無く、遠くから庭を見た時に、シンボルの様な松になりますよ」と仰ったのです。
 庭木としては、ただ真っ直ぐで、駄目な松かと思っていましたが、今は確かに遠くから我が家を眺めると、この松のてっぺんの丸い枝葉とその下の木々がマッチしているように見えます。今は故人となった義父の大切な想い出です。義父は庭をとても気に入ってくれていましたので、あの高い松の上から、私達を見守ってくれているようにも思えます。
 「池は石池の方が家がしめらず、池からの水漏れも心配しないでいい」と、義父の部屋の外に造った手水鉢に流れ出てくる水は、石池に注ぎ曲がりくねって、中程過ぎて暗渠の下水に流れ込むようになっています。不要な木を切り、移動し、一つの石も、全て庭師さんが見立てて集めて下さったものです。
 ところで庭師さんが、「これは庭には欠かせません」と植えたのが侘び助です。「白くて寂しそうな花だけど、楚々としていい花よね」と義母が好み、よく一輪ざしに飾っていました。玄関の脇にあり、今は1.5m位にしつらえられています。
 家族の行き帰りを見守り続け、晩秋から春まで比較的長く咲いていてくれますので、この花を見るとホッとします。特に旅行から帰った時に、「ああわが家に着いた」という気のする花です。
 その先には、前庭の王者のように白木蓮と松があります。「年々歳々花相い似たり、歳々年々人同じからず」と言って、毎年白木蓮を懐かしんで下さった近所の方も、今は鬼籍に入られました。
 先日この白木蓮が二輪、返り咲きをしました。義母が亡くなる前の年にも、秋になって返り咲きをした一輪があり、義母は「こんな時期に咲くなんて、縁起が悪いようね。私が死ぬのかしら。」と不安げにいいました。私が慌てて「そんなとはないですよ。よく見られる単なる返り咲きですから。」と言いました。でも次の年の秋に、義母は一ヶ月の入院の後に亡くなりました。この年の春も白木蓮が見事に咲いて、義母はホッとして喜んでいましたのに、とても寂しく思えました。
 また義父母には、庭をとても喜んで貰い、飛び石伝いに転ばない様に気を付けて散策を楽しんだり、草むしりをしてくれた義母と、自室の広縁の椅子から飽きもせずに庭を眺めていた義父には、良い選択だったと、庭師さんにも感謝しています。
 その後も時折返り咲きの花木がありました。キンモクセイが一度満開に咲いて、黄金色に散り果てたと思って間もなく、またびっしりと花を付けて、驚いたこともありました。その度に何となく義母の不安を思い出して、悲しい思いをします。
 きっと気温の変化によるものだと思いますが、美しい花の返り咲きは、嬉しいばかりのものではなく、私には哀しみも連れて来ます。今回咲いた白木蓮はとうに散って、きっと夫が掃いてくれたのでしょう。気づいた時には跡形もなくなっていました。
 家族には、庭木を可愛がり過ぎて、肥料を沢山やったり、水をやり過ぎるのも、良くない事だと時折注意されます。
 確かに水をやりすぎて根が腐ったり、暑い日に水を撒いて枯らすのは私の失敗です。友達が「葉水は木が喜ぶ」と言った言葉をふと想い出して、少し暑さでしんなりしてきたハナミズキ一本に葉水をやったら、たちまち葉が枯れて散ってしまいました。夫 が「秋になればまた葉が出て来るさ」等と慰めてくれましたが。 枯れたハナミズキの跡には、矢張りハナミズキが好きだった娘の為に、同じピンクの苗を植えました。枯れた一木はガレージの屋根よりも高かったのですが、今は未だ屋根までもう一息と言うところです。
 ご近所のお宅を見ると、別宅暮らしで普段はお留守の家でも、夏の暑い日が続いても水撒きはしていないように思えるのですが、柿の木は秋にはたわわに実ります。早朝に来られて撒き、私が知らないだけなのでしょうか。
 私のように、欲しかろう、暑かろうとせっせと水をやってはいけないと反省しています。折角良い香りで咲いていたクチナシの木も枯れました。代わりに植えたシャクナゲも、3回程植え替えましたが、みな枯れました。やはり水の与え方の間違や肥料の与えすぎが、不適切だったようです。
 春のユキヤナギが、塀越しにお隣の家の方に枝を伸ばすので、夫がご迷惑はかけられないと切っていましたら、南方向の枝が全く無くなり、今年はとうとう枯れてしまいました。
 塀境の南側には、私が次々に木を植えるので、混みすぎていましたから、風通しがよくなって、伸び伸びしてきたようです。
 庭木の花などは、毎日お参りする仏壇用に、欠かせないものであり、薔薇や椿、アジサイなど、買ってくる仏花より「きっとこの庭を好んでいた人達が、喜んでくれるだろう」と夫が言い、枝振りの良いところを切るのが、私の朝の仕事でもあります。夫はせっせと庭掃きに精を出して、雨でも庭掃きに出ます。苔庭の為に小さな草取りもして呉れます。家族にとっては癒やしの庭なのです。
 木々も、その花や実も、誰の目にとまらなくても、精一杯に咲き、役目を終えると静かに散って行く姿は、大いなる感動と教訓を与えてくれます。

 毎朝仏前で私は「今日もよい一日を頂きまして有り難う御座います」とお礼を言い、満ち足りた思いで花鉢の水やりに、幸せな一日を始めます。


たんぽぽちるやしきりにおもう母の死のこと    種田山頭火

バラの木にバラの花咲くなにごとの不思議なけれど 北原白秋

風に聞け何れが先に散る木の葉          夏目漱石 
 

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いのちなき砂の囁き

2016年09月27日 | 随筆・短歌
  鳥取の砂丘に行ったことがあります。私の街にも海がありますから、当然砂丘があり、夏には海水浴場の海の家が建ったりします。昔からの砂丘が今は街になって、○○山とか山○○とか言う地名になっています。海の傍の砂山が最も大きい砂丘です。でも鳥取ほどの規模ではありません。初めて砂丘らしい砂丘を見て、日本にもこのような砂丘があるのかと感動しました。
 砂丘へは、長靴を借りて登って行きます。初めての経験でしたから、長靴で登るなどという知識は持ち合わせていませんでした。長靴は一足毎に砂に埋まり、急な斜面では一歩登るとその半分くらいは滑り落ちるのです。ですから前方から見て、そう大して時間は掛かるまいと思いましたが、頂上に登るのには、なかなかの苦労で汗が出ました。
 頂上に登りましたら、海側の斜面を吹き上げて来る、やや強い潮風が大変心地よく思えました。海側は草が生えて絶壁に近い感じで、下りられるような所ではありません。ただこの潮風が運んでくる砂が、丘の頂上を越えて降り注ぎ、砂丘をなしているのです。
 砂丘の頂上に腰を下ろして、しばらく休憩しました。人々が上り下りする所は、足跡で砂は崩れていましたが、人が登らないところには風紋が出来ていました。一吹きすると風紋は直ぐに形を変え、面白いように砂丘の表面の模様が変わりました。
 少し遠くの頂上からややすり鉢方面に下った処に、女性が一人、私達が砂丘に登る前からずっと長い間動かずに、砂紋を眺めて腰を下ろして居ました。何故か気になりました。何か悩みでもあるのかしら、とも思えて来ました。私達夫婦がこの地を訪れた目的と、つい関連づけて心を痛めてしまいました。私達が帰る時も、女性はそのまま動かずに、座ったままでした。
 私達が鳥取の砂丘に出かけたのは、山陰道を見学しつつ、大山や出雲神社、津和野や周防・山口の史跡を訪ねたり、下関では平家の赤間神社等を見学して、九州から船で帰る旅の途中でもありました。
 しかし、鳥取はとりわけ夫には、忘れられない想い出があったのです。夫が二十代の始めの頃に、一緒に勤めていた上司で、とてもやさしく面倒見の良い方で、夫は何かとお世話になったのだそうですが、職場が離れてから間もなく、その方は突然夫のある女性と心中してしまったのです。
 二人の仲が職場内で知られたようで、その方は来春から遠くへ転勤が決まっていたといいます。女性も元夫が、原因は知りませんが投獄されていて、近く出所して来る予定だったそうです。
 男性はやさしい人だったから、女性の身の上に同情したのだろうと夫は言いました。しかし当時は外見はごく普通で、そのような切羽詰まった状態には見えなかったといいます。
 男性は単身赴任でしたが、家庭的にも恵まれていて、将来の家族の夢を語る日々もあったといいます。夫には、何故鳥取の砂丘であったのか、と問う心がいつもあって、亡くなられたその場所へ行けば、ひよっとしてその心境が理解出来るかも知れない、という思いがあったようです。
 ですから一度は亡くなられた鳥取の砂丘に行って、手を合わせて来たい、せめてお世話になったお礼を言いたいと折々言っていたのです。
 てもその地に立っても、砂は何も答えてはくれず、「悲しいなあ、本当に死ぬためにここへ来たのだろうか」と2万年をかけて出来たという砂丘の上で、つぶやいていました。祈ったり周りの風景を眺めたりした後に下に降りて、展示館で風紋や砂廉の美しい写真を眺めました。
 砂と言えば、亡くなった娘が学生時代にドイツの或るご家庭に、大学の語学研修で、一ヶ月あまりお世話になったことがありました。そのご家庭はご夫婦とも小学校の教師でした。子供さんが二人いらして、上が女の子、下が男の子で、どちらもまだ小学生でした。
 そこのお父様が世界各国の砂を集めておいでだと伺って、娘も日本の美しい砂を持って行ってあげたいと言い、私達親も娘と共に、100キロほど離れた鳴き砂と言われる白砂の海岸へ車で出かけ、砂を小瓶に入れて持たせてやりました。
 そこは岩や海岸が美しくて、以前よく海水浴に出かけたところですが、それまであまり砂に気を止めたりしては居らず、瓶に入れて棒でつつくと、確かにキュッキュッと音を立てました。
 お父様がとても喜んで下さったそうです。お父様は焼き物が趣味で、ご自分で土をこねて焼いた、牛乳やスープを入れる大きめの瓶と、持ち手の無い小ぶりの温かみのあるカップを5個、セットで記念として娘に下さいました。今もわが家に大切に飾られています。
 砂丘の風紋は風が吹く度に姿を変え、見ていて飽きません。砂廉(されん)というのは、砂が吹き積もって、お天気の良い日に限度を超えるとザッとある程度の幅で滑り落ちるのです。その跡は砂のすだれのように見えます。その様々な砂廉の跡もまた哀しいものです。「我慢して耐えに耐えてきたのに、遂に限度を越えた時、一挙に崩れて行く様は、あの二人の心象風景に思えてならない」と、夫が言いました。砂には心はありませんが、まるで魂がそこにあるようにも思えます。
 鳥取の砂丘の砂も、鳴き砂も今は遠い想い出ですが、そういえば私が一番好きな歌人の啄木も、次のような名歌を残しているのでした。

砂山の砂に腹這い初恋のいたみを遠くおもひ出る日

東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる

いのちなき砂のかなしさよさらさらと握れば指のあひだより落つ

頬(ほ)につたふなみだのごはず一握(いちあく)の砂を示しし人を忘れず

大(だい)といふ字を百あまり砂に書き死ぬことやめて帰り来(きた)れり
              
  石川 啄木   一握の砂(新潮社)より   



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才能豊かな友の死を悼む

2016年08月07日 | 随筆・短歌
 横山大観の桜を中心にした或るデパートの美術展に行ったのが、私と高校時代から仲良くしていた友人と、二人きりの最後の会でした。この友人は惜しくも今年2月に亡くなりました。もともとの持病だった心臓病の悪化によるものでした。
 思えばどのようにして、私達が仲良くなったのか、はっきりとした動機は忘れてしまいましたが、多分二人とも高校時代の教室では、教卓の前を常席としていて、そこで二人並んで授業を受けることが多かったからではないかと思います。
 後ろの席で授業を受けたのは、あらかじめ席決めがあった場合と、教師の都合でしばらく名簿順に並んだ時くらいで、自由な時は常に教卓の前が常席だったのです。後ろの席は、前の人の動きが気になって、授業に集中出来ません。真ん前だと誰にも邪魔されることなく、とても居心地が良かったのです。
 結婚してHさんになったその人も、きっと同じ気持ちだったのでしょう。選択教科もありましたが、特に三年になって、進学組で一緒になってからは、彼女と二人並んで授業を受ける事が多かったと思います。
 その人は無類の美術好きで、絵画が得意でした。卒業後の大学は美術学科へ進学して、中学校の美術教師になられました。
 生まれ持ったDNAは覆うべくもなく、一番前なので、教師はたいてい半分から少し後ろに焦点を当てて授業をしますから、最前列は目に入らず、彼女はノートの端端に、サラサラと上手い絵を描いたり、持ち合わせの10円硬貨や紙切れの端でさえも、ノートの下に置いて上からなぞり、硬貨の彫り型や紙の端も、格好なデザインの元になりました。私が感嘆する位、暇な時は何か描きながら授業を受けていたのです。
 美術家という人たちは、みなこのようにして、身近な何かを直ぐにデザインしたりする芸術的センスを持つものなのか、大学時代のクラスメイトにも、同様な才能を持つ人がいました。彼女はやがて名の知れたイラストレーターになり、現在はアメリカで暮らしています。矢張り彼女の机の中や一寸した物にまで、様々な絵が描かれていたものです。二人の学生時代は、ダブる処が大いにあります。
 高校時代の彼女と私は、その後別々の市で暮らし、お互いに様々な人生を生きて来たのですが、還暦を迎える頃になって、又彼女と折々逢う機会に恵まれるようになりました。 それは、皮肉にも彼女の病が仲立ちしてくれたものでした。心臓にペースメーカーを取り付けないと生きて行かれなくなった彼女が、私の住む市の病院で手術をし、定期検査や機械の交換に病院へ通うようになりました。高速バスで帰る迄の空き時間を利用して、私達は彼女が出て来る度に逢うようになりました。
 決まってあるデパートの前で落ち合い、デパートの画廊へ行き、絵や彫刻など折々の展示物を見ました。彼女は専門家だけあって、色々と私に絵画・彫刻・焼き物の見方など解説してくれました。画廊には毎回のように訪れましたし、特に彼女は何時もベレー帽をかぶっていましたから、展覧会に即売会が付いていたりすると、係りの人が彼女が専門家であることを察知して、近づいて来ることもたびたびありました。
 そのデパートで私はある程度名の知れた画家の絵を買った事がありました。何時もお世話になっていた女性が家を新築されて、私の家から遠いところへ引っ越されたのです。勤めの帰りは我が家から間もない処にアパートがあり、車で家の近く迄良く送って頂いていましたから、お世話になったお礼の新築祝いには、本物の絵が良いと判断してのことでした。私の財力では、小ぶりな絵画しか買えませんでしたが、有難いことに彼女の目利きが役立ちました。
 似たような絵でも、彼女はこちらが良い絵だと言い、その理由を解説してくれました。画家が違うとどちらが上か、同じ画家の作品でも、描くものの配置や、空間のあり方に可成り重みを置いて、彼女は見ていたように思います。私の芸術作品の目利きは無いに等しいものですが、今の私には彼女の影響は否めません。
 よく、良いものを見極める目が欲しかったら、本物の一流作品を沢山見ることだと言われますが、頷けることです。
 展覧会の後は、必ずホテルのレストランで食事をしました。私と夫が二人で街へ出かけて、食事の時に何時も使うレストランで、静かで上品で、楽しい雰囲気の中で、美味しい洋食を頂くにはもってこいのところでした。
 迷うことなく、何時も同じところに決めていました。同じようでもお料理に工夫があって、何時も新しい感じで楽しませて頂きました。
 彼女の子供さん達も成人されて、陶器を焼いたりしておられ、私も日常の器や飾り皿など分けていただきました。今は良い記念品になっています。ご主人も美術家でしたから、血筋から言っても当然と言えましょう。
 目の大きい優しい人でした。病に勝てず、とうとう立春から一週間を待たずに逝ってしまいました。やや近くに住む妹から知らせがありましたが、聞いたとたんに力が抜けてしまいました。私の年齢になると次々に先立たれる人が増えて、悲しく、また淋しいです。 知る限りその人がどう生きてこられたか、を思い出してみると、いずれもその人らしく、一生懸命頑張ったのだと思うようになりました。五十年六十年七十年・・・とそれぞれの月日を重ねると、矢張りその人らしい生き方があり、それぞれに良い人生を送って居られます。
 神様が与えて下さった芸術的才能を、彼女は早くから自覚して、大切に育て上げ、子供さん達へと受け渡して去って行かれました。彼女の人生に、私は精一杯の賞賛の言葉と、お礼の言葉を贈ります。

連れ立ちて大観の桜を見し時が永遠の別れか今朝訃報来ぬ

君逝きて眠れぬ夜に聞こえ来る最終列車のレールの軋み

友逝きて忌日の今朝の寂しさよ居住ひ正して侘助活ける (いずれも某誌に掲載)
 
我が良き友への鎮魂歌です。


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