ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

墓地という心の拠り所

2023年07月18日 | 随筆
 私達家族は、一寸変わっているのでしょうか。それとも多くの人達も同じような考え方を持って居られるのでしょうか。墓地が好きで、夫の祖先のお墓参りを大切にしたり、長いこと私の祖先のお墓参りも毎年の夏休みの行事でありました。
 また夫婦二人で良く旅行をしましたので、奈良・京都へは幾たびも行きました。有名な寺院へ行って、その墓地にお参りして来ました。北は北海道から南は九州鹿児島まで、太平洋側や日本海側を手作りの日程で回りました。お参りに行った有名な墓地を挙げると、高野山とか大谷祖廟とか東慶寺とか西郷南州の墓地でしょうか。
 夫の父は私達が子育てをする頃には、現在の県都の居住地に家を建ててくれて、やがて義父母と私達夫婦二人と息子と娘の家族6人が集まって暮らすようになりました。
 夫の父は現在の「文部科学省」の官僚でした。住んでいたのは、東京の渋谷の道玄坂を登った辺りだったそうです。夫が小学生の頃に、義父は樺太の中等学校の管理職になって栄転し、当時の家族四人(夫の両親と義姉と夫)で樺太に移住したのです。
 終戦後樺太はロシア領となり、義父一家は何とか樺太を脱出して、故郷の家に戻りました。その後私達が結婚して現在の県都に、義父に家を建てて貰って義父母と私達夫婦の四人が集まりました。やがて二人の子供に恵まれて、すっかり義父母の手を借りて子育てをしたのでした。

 数日前樺太からの脱出に間に合わず、抑留されてやむを得ずウクライナに住みついた日本人の様子がテレビで放映されていました。夫の家族ももう少し遅れていたら、この人達のような運命を辿ったかもしれません。考えると身震いする思いです。そうであれば現在の家族構成ではなく、全く違った運命の道を歩いていた事でしょう。
 この地に家を建ててくれた義父には感謝しかありません。家が建った後に、義父はこの市の市営の墓園に、一区画の墓地を求めてくれました。未だ誰も入る人が居なかったのですがお墓を作りました。義母が入り義父が入り、嫁いだ後に亡くなった娘のお骨の一部も、遠い地でお墓参りも頻繁には行けないので、嫁ぎ先から少しばかり頂いて来て、入れました。次は私達が入る番です。
 故郷のお墓は大谷祖廟にある親鸞上人のお墓を真似て、お墓に載せてある自然石もそっくりな石を、祖先が様々な谷筋を探させて載せたのだと聞きました。私達夫婦が京都へ行った時、親鸞上人の大谷祖廟へもお参りに行ったのですが、親鸞上人のお墓に載っている石と、私の実家のお墓の石が確かにそっくりであることを知りました。何となく親しみを感じました。お墓の上に載っている自然石に幾筋かの凹みが入っているのですが、その凹みの様子や丸みがとても良く似ているのです。
 親鸞上人のお墓は、早い頃はむき出しのお墓でしたが、その後お墓に囲いが出来て、入口でお茶の接待をしている人達がいました。今はどうなっているのでしょう。
 よくまあ似た石を探して来たものだと思っています。今は故郷も遠いので、毎年夏休みに通った実家も、長兄が更地にしましたし、墓地にはお墓だけが残って居ます。「多分もうお参りには来られません。有りがとう御座いました」とお礼参りに行って、今年で数年になります。
 私が嫁いだこの家の菩提寺は、京都駅のすぐ近くの智積院ですが、現在の墓地は、この市の大きな市営の霊園にあって、現在私達家族にはここが心の拠り所です。
 我が家の庭には小石を敷き詰めた石池があり、松やツゲの木や金木犀があり、薔薇も咲いているし揚羽蝶も舞って来る、ささやかですが、この住まいを作ってくれた義父母に感謝して過ごしています。
 年老いて墓地がこれ程心の支えになるとは思ってもみませんでした。安らかに眠れるお墓が在るということが嬉しいこの頃です。 

 密やかにこの世の最後の音立てて娘の骨は墓に納まる  あずさ