ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

心安らぐ旅

2017年01月28日 | 随筆
 人はなぜ旅に心を引かれるのでしょうか。あそこへも行って見たい、此処へも行って見たい、と地図や観光案内を広げると、行きたい所が幾つもあって旅心を誘われます。
 五木寛之氏の百寺巡礼の旅が、初回から13年後の今、再度放映されていて、私達は毎回懐かしく拝見しています。時折は忘れられない想い出話に花が咲きます。ちなみにその100寺の内、私達夫婦が拝観したお寺の数を調べましたら54ヶ寺ありました。百寺の中の奈良・京都の二十寺は全て行っていました。
 (室生寺・長谷寺・薬師寺・唐招提寺・秋篠寺・法隆寺・中宮寺門跡・飛鳥寺・当麻寺・東大寺)(金閣寺・銀閣寺・神護寺・東寺・真如堂・東本願寺・西本願寺・浄瑠璃寺・南禅寺・清水寺)
 先が奈良で、後が京都です。私達にとってもどれも素晴らしく、心に残る寺院ばかりでした。多分皆さんも行かれた方は多いかと思います。
 仏教に造詣が深く、知的で温かく、対象を深く理解して、分かりやすい解説をする五木寛之氏を、以前から畏敬の眼差しで眺めていましたが、氏の解説はしみじみと心を潤すものがありました。 京都や奈良の観光バスの旅に飽きて、自分で計画を立てて見る旅に変わってからは、事前の学習をしっかりするように心がけました。
 ガイドさんが居る訳ではありませんので、行き先は、奈良ならば、回り順を「歩く奈良」等の観光用の本等を参考に、拝観順路を決めました。
 具体的な寺院の参考書は、2007年2月6日初回配本の「週刊 古寺を廻る」全50巻(小学館発行)を、5冊に分けて綴じて保管してありましたが、それを土台にしながら、「日本の街道」全8巻(集英社)「仏像彫刻の鑑賞 基礎知識」(NHK学園)「日本の仏像100選」(主婦の友社)等が主な参考書でした。
 加えて土門拳の『愛蔵版 古寺巡礼』(小学館)です。これは土門拳がその目で見た「美」をどのように写真に切り取っているか、に感動して山形県の酒田市の「土門拳美術館」で求めたものです。とても重い本です。
 有名な「雪の室生寺」の美しさや、写真がないと忘れてしまいそうな室生寺金堂の内陣や、室生寺弥勒堂の釈迦如来座像脚部(結跏趺坐)の写真が、足裏の五指の一本一本や拇指の下の膨らみも、全て木目の渦を指紋の様にしっかり写し出しています。仏師の魂を込めた技術の素晴らしさと、それに目を向けた土門拳という希代の写真家の目の鋭さに、すっかり魅せられてしまったのです。
 写真は仏像や寺院も、光りを当てる方向や撮る角度によって、違った迫力のある映像になり、土門拳が切り取りたかった映像が、私の心を捉えて離さなくなるのです。芸術家の視点がとても参考になりました。この重い本は、それ以後の私の寺院や仏像を鑑賞する目を鍛えてくれる宝物になりました。
 一寺ずつの地図をプリントして、空白に下調べした「見てくるべきもの」を書き込み、国宝とか、重文とか記しました。「週刊 古寺を廻る」の中にある詳しい「境内地図」は境内の俯瞰図で、撮影ポイントやカメラの方向も示されていて、余りに便利そうなので、丁寧に切り取って持参して、持ち帰ってまた元通りに貼り付けました。
 プリントには土門拳の写真から、是非この目で見て来たい仏像の部分や寺院のカメラアングルも矢印で薄く書き加えたのです。
 何回も訪れた奈良では、五木寛之氏の寺院の他に、気に入った寺院は、閻魔王とその眷属があり、五色のツバキの咲く白毫寺・薄暗いお堂内に、迫力に満ちた十二神将が並ぶ新薬師寺・石仏龕(がん)の十輪院・天平特有の少し赤みがかった瓦が残っている元興寺にながい歴史の重みを感じました。
 十一面観音の法華寺は光明皇后に似せて作られたといわれています。やはり十一面観音の海龍王寺なども静かで心引かれるお寺でした。
 大きな寺院では、国宝の唐門のある醍醐寺(秀吉の醍醐の花見の翌年に作られた)三宝院の庭が有名です。庭園の美しい寺院は多く、京都の大徳寺(秀吉が信長の葬儀を執り行った寺です)の大仙院、他の塔頭の庭にも何度かお邪魔しました。塔頭の一つに竹林の参道の美しい高塔院があり、縁側下の外履きを借りて庭に降りれば、細川ガラシャのお墓もあります。苦難に満ちた一生を終えた美しい細川ガラシャが、今は静かに、この墓地に安らいで居られると思うと、何となく私も救われる思いでした。お墓については、いつか別に書きたいくらいに好きで、様々な人の墓地に立ち寄りました。
 奈良・京都・高野山ばかりで無く、格別好きな鎌倉の東慶寺の哲学者達など、何回行ってもまたお参りに行きたくなるのは何故でしょう。
 石庭で有名な竜安寺。裏に回ると、口の文字を中心に「吾唯足るを知る」のつくばいも有名です。
 これも大伽藍を沢山持つ、臨済宗の妙心寺派大本山の妙心寺、ここには瓢鮎図で有名な退蔵院にもレプリカがあり楽しみました。お庭も白砂黒砂の陰陽の造りになっていたり、なだらかな傾斜の庭を下から眺めるようになっている余香園は、格好なお休みどころでした。別の坪庭庭園で修行僧にお茶の接待を受けました。「仏教が好きで、こうして修行しています。」と静かに話す若い僧の心の籠もったお接待に、心を和ませるものがありました。しばらく廊下から緑の透けるお庭の雰囲気を楽しみ、清々しい思いを感じました。
 徒然草に出て来る御室の仁和寺は52・53・54段です。この時代から、門跡寺院として有名だったのでしょう。美しいと言われる御室の桜は低くしつらえられていて、根元から花の枝のようでした。
 中宮寺の弥勒菩薩とどちらが良いかと、良く比較される弥勒菩薩や泣き弥勒のある広隆寺は、様々な仏像があって、圧巻でした。
 当時は静かであった嵯峨野では、夢窓疎石作庭の池泉回遊庭園の天竜寺と、竹垣の道を通り抜けて、高い石段と多宝塔・紅葉が美しい常寂光寺も好きなお寺です。落柿舎(らくししゃ)へ寄ってさらに嵯峨野をゆき、清涼寺へ行きました。宋から持ち帰られた木造の本尊、釈迦如来立像(国宝で、衣紋の流れが特に美しい)があります。体内から絹で作った五臓六腑の模型が出て来ました。(この時代に此処まで分かっていたのか、と驚きました。宝物館でレプリカを拝見しました)嵯峨野の最後は、化野(あだしの)の念仏寺でした。石仏群がみごとです。千灯供養の灯が美しいそうです。
 京都駅から南に行けば、土門拳が流れる雲と競争して撮った宇治の平等院、その屋根の鳳凰など、以前とまた違った趣で眺めて来ました。皇室のみ寺の格調高い泉涌寺(せんにゅうじ)では、天皇皇后もお立ち寄りになられた同じ廊下を、恐る恐る歩いて中庭も拝見して来ました。
 大伽藍の東福寺では,国宝の三門が美しく、又、見た事もない百雪隠に、これほどの修行僧が居られたのか、と驚きました。有名なもみじの通天橋(私達の時は緑が美しかった)を通って、方丈庭園の北・西・南の趣向を凝らした庭園などに目を凝らし、しばらくは留まって眺めて来ました。
 万福寺は、招聘されて中国から来た隠元禅師の黄檗宗の大寺院です。中国式の卍紋の高欄が異国風で目を引きました。
 総門脇に「鉄源版一切経版木収蔵庫」があり、私達が拝観に行ったのは、丁度休みの日だったのですが、わざわざ見学させて下さいました。「今でも毎日版木で印刷しています」とのお話に驚きました。山ほどの版木がビッシリ積み上げられていました。鉄源が一切経の版木造りの間に、度重なる飢饉のために、行脚で集めたお金で、飢餓の民衆に施しのかゆを炊き、その為に幾たびもお金を集める行脚の苦労を重ねたことは有名な話しです。
 以上は五木寛之氏の百寺以外で拝観した寺院の主なものです。勿論五木氏ももっと沢山行かれてその中で選び抜かれたものでしょう。それだけに、この放映はこの上なく有難いものになっています。
 人は何故このように、旅を好むのでしょうか。どの旅も、心の深くに残る想い出や、見知らぬ人達との忘れられない出会いがありました。そして幾つもの心温まる親切を頂きました。それを想い出す度に、人間は助け合って生きているのだと、改めて感じるのです。なによりも記憶に残る何とも表現しがたい心の豊かさのようなものを残してくれました。

東大寺の仁王古りてもそのままに哀しきまでになほも睨みゐる

「寂」と「空」谷崎眠る法然院苔むす茅の山門に雨

弥次喜多の夫婦の旅に満たされて何時か最後となるを恐るる

               (何れも実名で某誌・紙に掲載)

  

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災難を逃れて「すまない」と言う日本人

2017年01月15日 | 随筆
 災難というものは何時やって来るかも知れず、予知出来るものもあるようになりましたが、「運命」としか言いようのない場合が多くみられます。
 「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候」と、これは良寛禅師の有名なことばです。悟りきった良寛禅師ならこその言葉です。
 幾つかの災難に逢った時に、日本人の取った行動を見ていますと、日本人の死生観とか、運命共同体としての一体感、控えめな態度等に、心を打たれることがありす。
 特攻隊員であった人が、たまたま自分が出撃する日が近い時に終戦になり、生き残った人が居られました。復員後に医科大学に進まれて、最後の役職は大病院の院長になられたのですが、その方の生き方は、身を粉にして働いて職務に邁進する生き方でした。
 小児科医でしたから「子供は何時病気になるか分からない」と仰って、一年で病院を休むのは、正月元旦のみで、日曜日も出勤されていました。勤務に対する情熱に対して、勤めて居られた職員の皆さんにも大変尊敬されていました。「私は特攻の生き残りだから、先に出撃して亡くなられた人達に、生き残った私は申し訳ない」と仰っておられたそうです。
 何故か、土日になると病気になったわが家の二人の子供達も、急に高い熱を出したりして、その都度お世話になりました。難しい病気に罹った時は、発売されたばかりの薬を処方して頂いて、助かったこともあり、そのご恩は決して忘れられません。
 戦没画学生の画集を何冊か、夫がその医師に頂いたのがご縁で、私達も夫の車で長野県の「無言館」へ二度訪れることに繋がりました。亡くなられるまで夫は親しくおつき合いをさせて頂きました。
 激戦の生き残りで、同じく「生き残ってすまない」という元兵士は沢山おられます。例えば「戦艦大和」の乗組員で、搭載した主砲を一度も撃つことなく、鹿児島県の坊ヶ崎で、烈しい戦火の中を沈没したのですが、海に飛び込みからくも助かった人もありました。手近に木材のような捕まっていればかなりの時間は海の上に生きて居られた人達が、漂い続けて助け上げられました。当時の乗組員は3300名とも言われ、生き残った人は、その内の276名だったそうです。
 今から五年前に、呉で精密に作られた十分の一の戦艦大和を見学して来た私達は、残された遺品や、資料、人間魚雷の実物も展示されていて、痛々しい思いで眺めて来ました。敵機の待ち受ける中を出航し、日本海軍の消滅を目の当たりにした証人となってしまったのです。その偶然を「生き残りの私は、先だった仲間に申し訳ない」と戦後隠れるように暮らして居られた人、家族に一言も戦争について語らなかった人、体の続く限り働き続けた人など、その使命感・温かさ・思いやり等々、本当に頭の下がる思いがし、また心の痛みを感じます。
 次は良きライバルでありながらも、良き友人だった仲代達矢さんと平幹次郎さんの二人についてです。
 俳優の仲代達矢さん(83歳)が昨年訪米先のニューヨークで、10月22日に亡くなった俳優、平幹二朗さん(82歳)について、「いい競争相手でした。非常に悲しいです」としみじみと話されたということです。
 仲代さんは、俳優座で平さんの一期先輩でした。俳優座でシェイクスピアの「ハムレット」で仲代さんが主役を演じた際、平さんはハムレットの親友ホレイショー役だったそうです。
 「(ハムレットが決闘で死ぬ最後の場面で)僕が死んで、口を開けて倒れていたら、ホレイショーが抱えて泣くところで、平さんの涙が口に流れ込んできた」と、平さんの迫真の演技を回想して仰ったそうです。
 先日の日経新聞にも、仲代さんは、「役者は十年はとにかく修行一筋でなければならない」と役者としての基本をしっかり身に付ける修行の重要さに、力を込めて書いて居られました。平さんはお風呂でのヒートショックか、お一人で亡くなられているのが発見されましたが、告別式には共演者が多かった中で、栗原小巻さんが弔辞を読み、『「強い意志」と「純粋な精神」はご子息・平武大さん(佐久間良子さんとの間の長男)に引き継がれています。』 と言っておられまます。
 共演者双方が尊敬し逢う仲というのは、偉大な役者であるが故に、一層惜しまれます。私も仲代達矢さんの大ファンで、或る冬に、折角チケットを買って楽しみにしていましたのに、当日はかつて経験の無いドカ雪で交通機関が混乱して、とうとう公演に間に合わず、もったいないことをしてしまいました。その仲代さんが、追悼文の中で、「僕だけが生き残って申し訳ない」と言っているのです眞の友情がなければ、この言葉は生まれて来ないでしよう。
 最後は昨年末の新潟県糸魚川市の火災の時のことです。もし南寄りの強風が吹き荒れた日で無ければ、火元の一軒だけの火災ですんだのでしょうが、結果的に140棟の大火災になりました。
 その日たまたまかかり付けの病院の予約日で、出掛けていた私の友人が、持って出たハンドバック一つで、帰って来たら家が燃えて無くなっていたと言います。
 彼女はどのような運命を頂いて来たのか、結び付いた糸に引き寄せられるように、偶然糸魚川市に住まいを持ち、今回の火災に遭ったのでしょうか。心遣いの細やかな方で、私は胸の痛みに耐えられない思いでいます。
 私と同年ですから、これから先の住まいの調達から、お箸の一本に至る迄の家財道具を全て揃えなければなりません。引っ越しのように業者に頼めば、元あったようにして貰えると言うわけには行かないのです。
 どれほどかの気力・体力が必要でしょう。本当に何とお見舞いを言ったらよいのか、言葉にもならないくらいでした。
 新しい最近の家は、不燃性の高い外壁なので、少々の火では燃えないそうですが、あの回り込むような火の粉が、古い住宅の大屋根の下の隙間や、火勢で割れたガラス戸などから家に入り込み、中から燃て行ったそうです。風によっての飛び火が多くあり、あちこちから火の手が上がって、わが屋敷跡に近づくことも出来なかったと言います。
 私達夫婦も、外出から帰った後にテレビを付けて知り、心配の余りテレビの前に釘付けになりました。
 しばらくは、身を寄せて居られる家も分からず、遠いのでお見舞いもできませんでしたが、やっと連絡が取れるようになりました。
 ところがご近所の燃えなかった人達が、「お宅は燃えなくて良かったですね」と言う言葉を掛けられるのが、「燃えてしまった家の人を思うと申し訳なくて辛い」とテレビで言っていました。ご近所の人達も、たやすくそう言う声はかけられないと聞きました。 災難は突然やって来たので、当然「申し訳ない」という言葉は不要なのですが、何と実直な人達なのでしょう。
 このように、お互いに気を使い逢う心は、矢張り日本人の「大和魂」の中に延々と引き継がれて来たDNAとでもいうものなのでしょうか。
 見事な心ばえにただ頭が下がります。ご近所同志がお互いに助け合いながら、先の大戦を初め、幾つかの苦難を乗り越えて来た人達には、血液よりももっと濃い心の交流があるのだと教えられました。
 DNAが不変に近いものならば、これからの日本社会も希望を持てるのですが、少しずつ傷付いて変異してしまったのなら・・・と、現実社会で日々ニュースになる幼児虐待や、いじめなどの残酷な事件に、些かの不安も感じています。
 
 



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人の真価に気づくとき

2017年01月06日 | 随筆
 新しいものは、何でも美しく、瑞々しく、生き生きとして、とても感動的なものが多いです。
 年が明けて、昨日が去年になり、元日の朝は松の緑が一段と映えて見えました。玄関の松飾りも、仏花や床の間の松も、実に生き生きとして見えます。
 寒い季節には、草木も萎れがちですが、松はそのような中にあって、何時も変わらぬ緑で、己の変わらない強い姿を見せてくれます。
 夏の季節には、他の木々や植物の緑に囲まれると、あまり見栄えしないのですが、この寒い季節になっても枯れたりしぼんだりせず、己の真価を発揮して「吾此処にあり」とその存在感を知らしめます。
 逆境に耐える強い姿勢は、何かあると直ぐに変節してしまいがちな人間の弱さを退け、何時も変わらずに生きて行く強い意志の気高さを示してくれます。
 だからこそ、新年に相応しい木として門松になるのでしょう。論語に「子曰く、歳寒(としさむ)くして、然(しか)る後に松柏の彫(しぼ)むに後(おく)るることを知る。」とあります。逆境や苦難のときこそ、その真価を発揮します。
 去年も様々な災害がありました。記憶に新しいものは、
1)新潟県糸魚川市の大規模火災。折からの南風にあおられて、140棟焼失、鎮火に30時間掛かった異例な大火災でした。現在も未だ瓦礫の始末中で、年末の災害に遭われた方達を思うと胸が痛みます。
2)熊本地震・鳥取中部地震・内浦湾地震・茨城県など、頻繁に揺れました。特に熊本は震度5の前震と7.3の本震があり、6⁺が続く異例な地震でした。美しく堅牢だった熊本城も、石垣や天守閣が崩れました。地震の頻発は人智ではどうすることも出来ないだけに、被災者と共に不安が一層つのります。
3)台風10号などによる被害。10号は一旦南に下がって再び戻ってくるという不思議な動きを見せ、現代科学の限界を見せつけられた思いでした。岩手県岩泉町の洪水・北海道にも豪雨をもたらして沢山の被害を出し、野菜類も流されたり長雨で不作になりました。
4)交通事故の多発。軽井沢スキーバス横転事故、死者15名と乗客全員負傷の大事故がありました。加えて高齢ドライバーの事故が目だち、高齢者の免許返納が増えたそうです。加害者は年齢を問わず犯罪ではありますが、特に高齢加害者は、人生の終焉に近づいての犯罪であるだけに、想像しただけで哀れです。しかし、交通事故の被害者は、何時も突然の不幸に見舞われます。最大限の注意を払いたいものです。 
 そんな中にあって、良いニュースも挙げられます。
1)ノーベル賞の生理学・医学賞に大隈良典教授が選ばれました。基礎的な課題を一人で取り組まれ,長く人類史に貢献する研究でした。
2)リオ五輪に卓球・水泳・体操・レスリング女子・柔道・バドミントンなど大活躍、リレーでバトンタッチの妙技で銀、メダルの数は41個と過去最多でした。冬季の活躍も目に新しいです。また、パラリンピックの認知度が高まったことも良いことでした。
3)オバマ米大統領が広島訪問・安倍首相が真珠湾を訪問して慰霊、長い間胸にわだかまっていたものが、溶けて行く爽やかなニュースでした。
4)小池氏が東京都知事に選ばれて初の女性都知事として活躍されています。選挙権も18歳からになりました。今年も多くの部門で、女性リーダーが出て来ることを期待しています。
5)国立西洋美術館が、ユネスコの世界遺産に指定されたこと。また「山・鉾・屋台行事」がユネスコ無形文化遺産に認定、地道な保存活動が実りました。
6)日本人最年少で、七大大陸最高峰登頂の現役大学生・南谷眞鈴さんなども挙げられます。
 みな逆境をはね除け努力を積み上げた上での結果です。

 これからの若者達が世の中の偏狭な価値観に縛られず、自分の持つ能力を最大限に生かす方向を目指して欲しいです。その結果、きっと新しい次の偉大な業績を積み上げてくれることでしょう。そう考えると胸の弾む思いがします。

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