ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

逝く人もあって来る人もある

2019年09月23日 | 随筆
 秋が深くなりました。急な気温の変化に、体調を崩す人が多いらしく、ご近所で高齢の方のお通夜が続きました。広い自治会の中でも、長くお付き合いをして来た方達でしたから、夫と私は分担して出席させて頂き、お別れをして来ました。
 お二方とも充実した人生を過ごされた方達でしたが、人生の終末期は、等しく病を抱えて居られました。
 誰しも例外なく逝かなくてはならない人生です。功あり名を遂げて、家族や親しい人たちに送られて逝くことは、こうも穏やかなお見送りになるのか・・・と思わせられたお通夜でした。
 どちらもお偉い方の弔電も寄せられて、静かな中にも、ご生前のご活躍が偲ばれるものでした。
 喪主を務められた人たちも、どちらも既にご立派な方達でしたし、弔辞は心が籠もっていて、温かく感動的でした。思いがけず菩提寺が我が家と同じだったり、私達が遠い日に父母の葬儀を上げた同じホールだった方もあり、懐かしくもありました。
 それぞれに悲しみはありましたが、どちらもこの世のおつとめを無事に果たされて、病苦に耐えながらも穏やかに静かに旅立たれた、という雰囲気に包まれたお通夜でした。
 そのお通夜の通知の文書が配布される前日のことです。一方の奥様が、まさか急にご主人が亡くなられるとは思わずに、10年近く寝たきりのご主人に「生まれ変わったら、また貴方と結婚したい」と云われたのだそうです。するとご主人は「うんうん」とうなずいたそうですが、「今にして思うとそう云った事によって、死期を三日程早めたのではないか?と悔やまれる。」と夫にそう仰って、悲しそうな顔をされたと云います。
 夫は「それは大変良いことをされましたね。奥様の気持ちをご主人に伝える、多分最後の機会だったでしょう。」と思わずそう感想を述べたと云います。私はこの話を聞いて、たとえ奥様の言葉が、ご主人の寿命を3日縮めたとしても、ご主人にとって、この言葉ほど嬉しい言葉は無いのではないか、と思いました。できたら私もそう言い残したいし、加えて我が家の義母のように、「ありがとう」の一言が言えたらもっと嬉しいと思いました。夫にそのような感想を云いましたら、夫は「充分解っているから心配しないで良い」と云いました。私はとても嬉しい思いで、納得して黙りました。
 最近は亡くなられたご主人と「同じお墓に入りたくない」と云う妻も多いと聞きます。テレビでも、同じお墓に入りたいですか?と聞くような番組があり、最近は夫婦別々も珍しくないそうです。私はこのような話を聞くと、言葉を失うほど辛い思いを感じます。
 夫婦は長い間の苦楽を共にした、最も身近な人であり、生きている間も死んだ後も、いつも心の通じ合う人であり、離れたくない人だと、私はそう思っています。もちろんわが子達は私達から生まれたのですから、分身のようなものですが、結婚によって別々のお墓に入ることもしごく当然だと思っています。
 世の中は様々ですから、不幸にして価値観の合わない人とめぐり会い、結婚する人もあるでしょうけれど、多くは長い人生を共に過ごす内に、幸も不幸も価値観も、共有して生きて来た筈です。そうで無かったならば、人生の大半を過ごしてきた結婚生活の意義を、何に求めたら良いのでしょうか。
 魂は体を失っても自由に浮遊しているから、常に直ぐ近くに居る、ということも有り難く、そういう親しい人たちに守られて、平穏な人生を営んでいるとも思いますが、形のあるお骨の安らぎの場所を思う時、私は常に夫婦は一緒に居たいです。 
 最近近くの保育園で、ご近所のお年寄りを招いて、園児に依る敬老会の音楽会がありました。園児は100人と云いますから、もし父方母方の祖父母を招くとなれば、400人になります。とても入りきれないので、園のごく近くの老人を招待したのだとお聞きしました。
 敬老も教育の一環だと、私達もお招き頂いたので、本当に喜んで出席しました。かつて当ブログで紹介した、あの4歳の天使のような女の子の通う保育園です。参加してみて、本当に驚いた事がありました。
 それは園児達がとてもよく教育されていて、お行儀が良く年齢の異なる上級生の演技を静かに鑑賞していたことです。泣き出したりはみ出したりする子供が居なくて、静かに列を作って並んで腰を降ろし、鑑賞していたのです。園児たちの楽器の演奏や、ダンスや歌も、実に明るく伸び伸びと元気で、演技の技術の水準はかなり高く、年齢の高い園児たちのは、小学生かと思う位でした。本当に心ゆくまで楽しませて貰いました。
 私達の4歳の例の友人も、一年振りに逢って見ると、一層利発そうになっていました。孫の居ない私達は、人様の子供さん達の演技に目を細めて手を叩き、一体になって楽しみました。
 その一週間後に同じ園で、文化祭の作品展がありました。それにも「どうぞ」と云われて出かけました。時間をかけて、1歳2歳3歳4歳5歳と、各保育室での展示を見せて頂きました。保育士さんの心の籠もったお手伝いで、1歳2歳児達は、例えば円筒の形の厚紙を用意してあり、その回りに園児が思い思いに目や口を貼り付けたりして、多分家族の顔をつくってあり、中々個性のある作品になっていました。それぞれの指導の工夫の細やかさにも感動しました。
 我が家の三軒隣の家の園児の狼の作品は、紙で出来た大きな作品でしたが、狼の姿と仕草がとても上手くて感心しました。男の子らしい勢いがあり、遠吠えしている姿に勇敢さがありありと見て取れたのです。
 私は左股関節の手術後が痛むので、階段は必ず手すりに捕まります。園でも同じでしたが、保育園ですから、年齢相応の低い手すりや低めの階段でした。これにつかまって上り下りしている子供達が、やがて国を背負って立つのかと思うと、万感迫る思いがしました。
 もう開園してそうとう長い年月が経つのに、お掃除の行き届いたピカピカの床など、その衛生管理にも驚きました。隅々まで、園児の清潔と健康に心を砕いている様子が見て取れました。
 私は思わず『こののようにして育てられた子供達が担う「日本の未来」は明るいに違いない』と思い、胸の底がツーンとしました。
 我が家の子供達が保育園や幼稚園へ通っていた頃は、義父母にすっかりお願いしていましたから、もう忘れてしまっていました。現在の保育園という所で、日常行われている保育の素晴らしさを知って、とても豊かな気分で帰宅しました。
 
 この世に生を受けて、一生を良く努力されて、つつがなく黄泉に旅立たれる人がいて、一方に未来に沢山の夢を抱えて元気に過ごしている園児も居ることを思うと、限り無く満たされた気分になったのです。どちらもこの秋一番の良い勉強になりました。
 子供達が人生を終わろうとする時、「この国に生まれて良かった」と述懐できるような国を残して行きたいと、願う気持ちで一杯でした。


昭和は遠くなったけれど

2019年09月13日 | 随筆
 終戦記念日が過ぎて、秋が次第に深まる頃だったでしようか。戦艦大和の最後の様子を生き残った兵士の思い出と共に編集された番組を見ました。生き残った兵士の当時の想い出は、全て特攻だった乗組員の、死を覚悟した戦火の中を生き延びた回顧談でしたから、一段と胸が痛みました。
 砲弾を受けた大和は次第に傾き、最後は「艦はもう持たない、沈むぞ!飛び込め!」と次々に艦を離れて海に飛び込んだそうです。波間を泳ぎながら救出を待つことになったのですが、手を繋ぎ合い励まし合った戦友達も、次第に力尽きて、沈みゆく艦の渦に巻きこまれないようにするのが、やっとだったようです。
 生き延びた兵士達は、今はもう90歳を過ぎた年齢で、「よくここまで生きて来た」というのかと思いましたら、「私だけ生き延びて申し訳なかった」と涙を流すのです。その姿は痛々しくて正視に耐えないシーンでした。
 戦後70年が過ぎて、未だにそのような心で生きおられるのかと思うと、私も涙が溢れました。インタビューを受けた多くの人は、両手を合わせながら先立った兵士を悼み、泣くのです。
 夫が勤めていた病院の中にも、お一人、矢張り海中で手を繋いで助けを待っていたのに、「何時来るか不明な助けを待ち続けられなくて、とうとう疲れ果てて手を離してしまった」と折りある度に話されて、手を離した事を一生後悔し続けている医師がいました。「あの時私が手を離さなかったら、もしかして助かったかも知れない」と思うといたたまれない思いで、後悔にさいなまれると云うのです。
 我が家の子供達が病気の度に診て頂いていた小児科の医師は、復員後に医大を卒業されて医師になった方でした。特攻隊として近々出撃する事になっていたのに、それが運命なのか終戦になりましたから、生きて還って来られました。
 「特攻隊の生き残りとして、私のこれからの一生は医師となって、医療に一生を捧げたい」と「一年の内休むのは、元日だけ」と云う凄まじいばかりの働きぶりだったそうです。その姿勢は医師の鏡として多くの人々に尊敬され、後に大病院の院長に成られました。
 その方が夫に送って下さった本があります。「無言館」と言う一冊の本でした。「無言館」は戦没画学生の描いた絵を集めて展示してある美術館で、長野県上田市にあります。絵画を見て感激した私達は、早速車で出かけて見学して来ました。もちろん日帰り出来る範囲ではありませんでしたし、2002年9月にリンゴの実の熟れる頃の信州を廻って来ました。「八ヶ岳~無言館を訪ねて」というアルバムが一冊あります。
 無言館は穏やかな林の中にひっそりと建っていて、白い建物には静かな時間が流れていました。戦地に向かう前の妻を描いた絵画や、母親や、自画像、風景画など、どれも描いた人の心が伝わって来るように思えて、一枚一枚心を込めて見て廻りました。
 戦没画学生を悼むこの本は、第2巻第3巻と買い足して、計三冊を今も大切に本棚に並べています。今は故人になられた、お世話になった偉大な医師の人柄とともに、懐かしく温かい想い出になっています。
 特攻機の「ゼロ戦」は鹿児島の知覧の「特攻記念館」で実物を見ましたが、人間魚雷と言われた「回天」の実物は、2012年に呉の「船艦大和」の美しい1/10の模型の隣の展示室で見ました。どちらも死を覚悟の特攻ですから、今に至るも尚その回りには犯しがたい悲しみと悲壮感が漂っていました。ボロボロになった遺品なども展示されていました。
 「その時」を待っていて奇跡的に生き残ったり、好運にも海中から助け出されても、「申し訳ない」と泣く兵士達に、今の幸せを享受している私達は何と言ったらよいのでしょう。「皆々さんの志と努力のお陰で、現在の幸せを頂いているのです。有り難うございます」と叫んでも彼らの心の慰めにはならない程強固な思いなのです。「いかにも日本人らしい、誠の心」が今も続いている事を、アルバムを通して、久し振りに嬉しく頼もしく思いました。
 昭和20年8月15日は、とても良く晴れた日でした。雑音で聞きにくいラジオに、ご近所の親しい人たちも集まってきて、必死に耳を傾けました。まだ小学生で幼かった私には、良くは聞き取れず、大人の人たちが「負けた」のだと教えてくれました。悲しくて一人お庭に行って庭石に腰を下ろし、青い空を見上げていたら涙が出て来たことを忘れません。
 知覧への旅も呉や長野県の無言館への旅も、命をかけて戦った大勢の兵士達への鎮魂の旅であり、元気な内に行って来られたことに、今は感謝の思いで一杯です。