最近何故か残忍な犯罪が多く、例えば、碑文谷で起きたバラバラ殺人とか、身体障害者の施設での弱者に対する残忍な犯罪、未成年による集団暴行致死事件、そしてホテル従業員への性的暴行と傷害罪など、本当にこうした残酷な犯罪が、いつの間にかどんどん増えて、そら恐ろしい社会になって来ました。
世の中の価値観が、変化して来ているのかと不安になって来ます。家庭、学校、社会がそれぞれに、無関係である筈はなく、責任を負わなければならないところだと、切実に思います。簡単にここまで至る犯罪者の心理を分析して、未然に防ぐための、行動を起こす必要を感じています。言うは易く行うは難しですが。
犯罪者の全てに両親がいますし(たとえ未婚・離婚であっても、両親が居ないと子供は存在しない筈です)また、親が我が子を犯罪者にするべく育てた筈がありません。
アメリカでは、成人が起こした犯罪は、親と子は別人格の持ち主として、親が子供の犯罪の責任を取る事は無いそうです。日本でも法律的には、恐らくそうなのでしょう。
いつまでも子供の起こした事の責任を取って、親が事件の尻ぬぐいをしたら、一人前の大人を育てたことにはなりません。ですから、成人をもって親は親、子は子として、別の一個の人間として法律は見ることになるのでしょう。
この度ある俳優が起こした犯罪について、親である女優が「そういう子供に育てた責任はあると思います」と言って、記者会見で謝罪をしていました。
また子供である犯罪者に対しては、「どのような事があろうと、私はあなたの親であるし、姉は姉で決して見捨てない」という意味の話しをしていました。
私はこの会見の様子を見ていて、しっかりした親だと思いました。片親で育ったようですから、仕事に忙しくて手が十分回らなかったとも、甘やかせたとも周囲の人が言うことは簡単でしょうが、子供が何十歳になろうと親は親、子は子であり、その縁は切れません。親が道義的に責任を感じることは、恐らくどの親も同じなのではないでしょうか。
子供も親も、その子の遺伝子を選ぶことは、自分の意志では出来ませんが、生まれた以上は、親には親の責任があり、成人した子には子の責任があると思うのです。
子供が未成年の間は、双方が努力して、親として子として協力しつつ、家族という社会の単位として責任を果たす必要があると思っています。
子供が成人した後は、その責任の範囲は法律の定める処でしょうが、親や子のそれぞれに道義的な責任があることもまた否めません。
子供が何歳になっても、親は親なのですから、精神的に謝罪するのは、納得がいきます。そしてどのような子供であれ、親であれ、信頼感に満ちた心の繋がりは欲しいものだと思うのです。
そのような心の繋がりが、この先の加害者の立ち直りに、大変大きな力を持つという人がいました。もし、「そのような子は持った覚えが無い」等と突き放されたら、子は誰に心の救いを求めるのでしょう。責任を自覚し、償いをし、子自らが心を正して、この先を生きていかねばなりません。そういう時の心のよりどころとして、親兄弟の温かさは大切だと思うのです。
加害者が一人いれば、被害者がいて、それぞれに親も家族もいて、その人達も又突然の事件で被害者になります。仕事を失ったり、世間の冷たい視線を浴びることになるのです。しかし、親兄弟である以上この事には耐えるしかありません。「犯罪加害者家族の会」などという会があるようです。アルコールや薬物などの依存症の人達が、そういった自助努力の会に通って、自らを立ち直らせる為に努力をしていますが、矢張りこうした会は、それぞれの立場から必要なのだと思います。
行政がどうかかわっているのか、私は詳しくは知りませんが、少なくとも再犯を防ぐ為にも、是非ともそのような会を利用しつつ、親子それぞれに、手を差し伸べて貰う必要があるのではないでしょうか。凶悪な犯罪が起きる度に、その思いが強くなっています。
次は私が愛読しているブログ「心の原風景ーーこころの故郷ーー 」の8月23日の文章の最後に引用されていたブッダのことばです。
「われらは実に朋友を得る幸を讃め称える。自分よりも勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過[つみとが]のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め」
「あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし」
(『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳 岩波文庫)
実にブッダは私達が迷い安い時に、適切な言葉で教えてくれています。折りにふれて読みたいものです。
世の中の価値観が、変化して来ているのかと不安になって来ます。家庭、学校、社会がそれぞれに、無関係である筈はなく、責任を負わなければならないところだと、切実に思います。簡単にここまで至る犯罪者の心理を分析して、未然に防ぐための、行動を起こす必要を感じています。言うは易く行うは難しですが。
犯罪者の全てに両親がいますし(たとえ未婚・離婚であっても、両親が居ないと子供は存在しない筈です)また、親が我が子を犯罪者にするべく育てた筈がありません。
アメリカでは、成人が起こした犯罪は、親と子は別人格の持ち主として、親が子供の犯罪の責任を取る事は無いそうです。日本でも法律的には、恐らくそうなのでしょう。
いつまでも子供の起こした事の責任を取って、親が事件の尻ぬぐいをしたら、一人前の大人を育てたことにはなりません。ですから、成人をもって親は親、子は子として、別の一個の人間として法律は見ることになるのでしょう。
この度ある俳優が起こした犯罪について、親である女優が「そういう子供に育てた責任はあると思います」と言って、記者会見で謝罪をしていました。
また子供である犯罪者に対しては、「どのような事があろうと、私はあなたの親であるし、姉は姉で決して見捨てない」という意味の話しをしていました。
私はこの会見の様子を見ていて、しっかりした親だと思いました。片親で育ったようですから、仕事に忙しくて手が十分回らなかったとも、甘やかせたとも周囲の人が言うことは簡単でしょうが、子供が何十歳になろうと親は親、子は子であり、その縁は切れません。親が道義的に責任を感じることは、恐らくどの親も同じなのではないでしょうか。
子供も親も、その子の遺伝子を選ぶことは、自分の意志では出来ませんが、生まれた以上は、親には親の責任があり、成人した子には子の責任があると思うのです。
子供が未成年の間は、双方が努力して、親として子として協力しつつ、家族という社会の単位として責任を果たす必要があると思っています。
子供が成人した後は、その責任の範囲は法律の定める処でしょうが、親や子のそれぞれに道義的な責任があることもまた否めません。
子供が何歳になっても、親は親なのですから、精神的に謝罪するのは、納得がいきます。そしてどのような子供であれ、親であれ、信頼感に満ちた心の繋がりは欲しいものだと思うのです。
そのような心の繋がりが、この先の加害者の立ち直りに、大変大きな力を持つという人がいました。もし、「そのような子は持った覚えが無い」等と突き放されたら、子は誰に心の救いを求めるのでしょう。責任を自覚し、償いをし、子自らが心を正して、この先を生きていかねばなりません。そういう時の心のよりどころとして、親兄弟の温かさは大切だと思うのです。
加害者が一人いれば、被害者がいて、それぞれに親も家族もいて、その人達も又突然の事件で被害者になります。仕事を失ったり、世間の冷たい視線を浴びることになるのです。しかし、親兄弟である以上この事には耐えるしかありません。「犯罪加害者家族の会」などという会があるようです。アルコールや薬物などの依存症の人達が、そういった自助努力の会に通って、自らを立ち直らせる為に努力をしていますが、矢張りこうした会は、それぞれの立場から必要なのだと思います。
行政がどうかかわっているのか、私は詳しくは知りませんが、少なくとも再犯を防ぐ為にも、是非ともそのような会を利用しつつ、親子それぞれに、手を差し伸べて貰う必要があるのではないでしょうか。凶悪な犯罪が起きる度に、その思いが強くなっています。
次は私が愛読しているブログ「心の原風景ーーこころの故郷ーー 」の8月23日の文章の最後に引用されていたブッダのことばです。
「われらは実に朋友を得る幸を讃め称える。自分よりも勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過[つみとが]のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め」
「あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし」
(『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳 岩波文庫)
実にブッダは私達が迷い安い時に、適切な言葉で教えてくれています。折りにふれて読みたいものです。