ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

犯罪者の母について思う

2016年08月28日 | 随筆
 最近何故か残忍な犯罪が多く、例えば、碑文谷で起きたバラバラ殺人とか、身体障害者の施設での弱者に対する残忍な犯罪、未成年による集団暴行致死事件、そしてホテル従業員への性的暴行と傷害罪など、本当にこうした残酷な犯罪が、いつの間にかどんどん増えて、そら恐ろしい社会になって来ました。
 世の中の価値観が、変化して来ているのかと不安になって来ます。家庭、学校、社会がそれぞれに、無関係である筈はなく、責任を負わなければならないところだと、切実に思います。簡単にここまで至る犯罪者の心理を分析して、未然に防ぐための、行動を起こす必要を感じています。言うは易く行うは難しですが。
 犯罪者の全てに両親がいますし(たとえ未婚・離婚であっても、両親が居ないと子供は存在しない筈です)また、親が我が子を犯罪者にするべく育てた筈がありません。
 アメリカでは、成人が起こした犯罪は、親と子は別人格の持ち主として、親が子供の犯罪の責任を取る事は無いそうです。日本でも法律的には、恐らくそうなのでしょう。
 いつまでも子供の起こした事の責任を取って、親が事件の尻ぬぐいをしたら、一人前の大人を育てたことにはなりません。ですから、成人をもって親は親、子は子として、別の一個の人間として法律は見ることになるのでしょう。
 この度ある俳優が起こした犯罪について、親である女優が「そういう子供に育てた責任はあると思います」と言って、記者会見で謝罪をしていました。
 また子供である犯罪者に対しては、「どのような事があろうと、私はあなたの親であるし、姉は姉で決して見捨てない」という意味の話しをしていました。
 私はこの会見の様子を見ていて、しっかりした親だと思いました。片親で育ったようですから、仕事に忙しくて手が十分回らなかったとも、甘やかせたとも周囲の人が言うことは簡単でしょうが、子供が何十歳になろうと親は親、子は子であり、その縁は切れません。親が道義的に責任を感じることは、恐らくどの親も同じなのではないでしょうか。
 子供も親も、その子の遺伝子を選ぶことは、自分の意志では出来ませんが、生まれた以上は、親には親の責任があり、成人した子には子の責任があると思うのです。
 子供が未成年の間は、双方が努力して、親として子として協力しつつ、家族という社会の単位として責任を果たす必要があると思っています。
 子供が成人した後は、その責任の範囲は法律の定める処でしょうが、親や子のそれぞれに道義的な責任があることもまた否めません。
 子供が何歳になっても、親は親なのですから、精神的に謝罪するのは、納得がいきます。そしてどのような子供であれ、親であれ、信頼感に満ちた心の繋がりは欲しいものだと思うのです。
 そのような心の繋がりが、この先の加害者の立ち直りに、大変大きな力を持つという人がいました。もし、「そのような子は持った覚えが無い」等と突き放されたら、子は誰に心の救いを求めるのでしょう。責任を自覚し、償いをし、子自らが心を正して、この先を生きていかねばなりません。そういう時の心のよりどころとして、親兄弟の温かさは大切だと思うのです。
 加害者が一人いれば、被害者がいて、それぞれに親も家族もいて、その人達も又突然の事件で被害者になります。仕事を失ったり、世間の冷たい視線を浴びることになるのです。しかし、親兄弟である以上この事には耐えるしかありません。「犯罪加害者家族の会」などという会があるようです。アルコールや薬物などの依存症の人達が、そういった自助努力の会に通って、自らを立ち直らせる為に努力をしていますが、矢張りこうした会は、それぞれの立場から必要なのだと思います。
 行政がどうかかわっているのか、私は詳しくは知りませんが、少なくとも再犯を防ぐ為にも、是非ともそのような会を利用しつつ、親子それぞれに、手を差し伸べて貰う必要があるのではないでしょうか。凶悪な犯罪が起きる度に、その思いが強くなっています。

 次は私が愛読しているブログ「心の原風景ーーこころの故郷ーー 」の8月23日の文章の最後に引用されていたブッダのことばです。

  「われらは実に朋友を得る幸を讃め称える。自分よりも勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過[つみとが]のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め」

 「あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし」
 (『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳 岩波文庫)


 実にブッダは私達が迷い安い時に、適切な言葉で教えてくれています。折りにふれて読みたいものです。 

お盆を終えて

2016年08月18日 | 随筆
 お盆が終わって、再び平常の生活が戻り、賑やかだったご近所も以前の静かさとなりました。この時期になると、急に朝晩の気温が下がって、虫の音も聞こてきます。生きる喜びと哀しみを訴えているように思えてなりません。夏休み中で、登下校の生徒達の姿も未だ見えず、何時もは我が家の前に集まる小中学生達の元気な挨拶にも逢えず、日々静かな朝を迎えています。
 何故か今年は、山奥に行かないと聞けない、法師ゼミの鳴き声が聞こえて驚きました。昭和20年8月15日は、田舎の我が家の庭の木々に、蝉が大声で鳴いていて、抜けるような青空の日でした。正午の玉音放送を聞いて、坪庭に出たあの日の哀しみを思い出すのですが、今は蝉も涼しくなった夕方にならないと鳴かず、日中は無音でジリジリと照りつける暑さばかりです。
 蝉が羽化する為に出て来た穴が、庭に沢山ありますが、暑い日中には一匹たりと鳴かず、日が暮れる頃になると鳴きだし、日が落ちた後も未だ鳴いています。身の回りの自然の様相もひたひたと亜熱帯に近づいているようで、庭の飛び石に、毎年一匹チョロチョロ姿を見せる蜥蜴も、今年は見えなくなり何となく寂しいです。
 先日家の近くの高校のフェンスの際に沿った道路を、何時ものようにウォーキングしていましたら、4センチ前後の小型のミミズが、フェンスの草群から3~40センチ位アスファルト道路に這い出し、数百匹と覚しき数が干からびていました。私達は、フェンス脇を70メートル位歩くのですが、一夜の出来事でしたから、これはどういう現象なのか、理解に苦しみました。まるで集団自殺のように思え、見るに堪えない思いで急いで通り過ぎました。皆一斉に北へ北へと進んだのか、単に車道を横切ろうとしたのかは不明です。車のわだちあたり迄届く前に、前進をあきらめたのか、皆北へ頭を向けていました。
 フェンスの中は現在は廃校になっていますから、草に覆われた前庭は、ミミズにとっては快適な住まいであったのかもしれませんが、余りの暑さに居たたまらず、あちこちから這い出して、コンクリート道路を少し進んだ処で、脱水状態になって進めなくなったのか、とも思いましたが、仏さまと同じく皆北向きというところが、何ともいじらしいく思われました。
 お盆のお飾りも下ろす頃ですが、キュウリの馬と茄子の牛は、義父母と同居した51年前のお盆に、義母が教えて造って見せて呉れました。キュウリの馬に乗って、御霊に一刻も早くおいで頂くのと、お帰りは牛でゆっくりとお帰り頂くという願いだそうです。こんな処にも日本人らしい細やかな心遣いがあります。
 私は義母と一緒に永く続けて来た習慣として、今年も漉し餡を造って、白玉の団子に甘い餡を載せて、供えました。餡が大好きな家族の為に多めに作って、一回はおはぎを作れる分を冷凍保存にしました。
 回り灯籠はお盆にはなくてはならない飾り物です。クルクル回って、様々な彩りの影を映し出し、お座敷の仏壇前が賑やかになります。地方独特のお盆の御菓子や果物籠・お花等、それぞれ習慣があり、これもみなスーパーに売られていて便利です。
 お盆は仏教の盂蘭盆経から来ています。私がNHKの生涯学習講座を学び始めたのは、1991年でした。既に退職して何年も義父母の介護をしての生活でしたが、やがて義母、義父の順に無事に送りました。その後始めた通信教育でしたが、在宅の学習でしたから、とても自由に楽に学習出来て助かりました。書道や、日本史・数学・般若心経など、2~3講座を並行して学んだこともありました。
 やがて96年に仏典入門にたどり着きました。中々難しく、リポートを書くために、何度も何度も、テキストを読み返しました。 仏教の深さに感動して、これはやがて又再学習をしようと思いました。実際に二度目の学習を始めたのは、2005年になっていました。内容も少し変わっていましたが、6ヶ月ずつ4講座は同じでした。テキストの全てを大切に取ってあり、今でも折りにふれて取り出して読んでいます。
 テキストによりますと、お盆の行事を作った「盂蘭盆経」では、自分を育ててくれた親の恩に報いたいと思った息子(木連尊者)が、死後餓鬼の世界に生まれて苦しむ母(食べ物を口に入れて食べようとすると、たちまち火になってしまう)の姿を見て、仏に「救済の方法」をお聞きします。それは飯、100程の沢山の味のあるもの、五種類の果物、水を汲んで置く盆器、香油、灯明、等々を整えて盂蘭盆の供養に加え、十万の徳の優れた僧たちに供養する事が大切だと知り、実行します。
 そこで仏は十万の僧に、「施主家(せしゅけ)のために幸せを願う言葉(呪願)を述べ、七世に渡る父母のために禅定(ぜんじょう=精神統一)に入り、心を安定させ、そのあとで供養の食事を受けなさい」と諭され、これによって目連の嘆きは立ちどころになくなり、母も餓鬼の苦しみを除くことが出来たということです。
 ごく簡単な説明ですが、そこから今のお盆のご供養があり、それによって幸せの御利益を得るのだとされています。未来世の仏弟子で親孝行したい者は、七月十五日に同じようにせよ、と言われました。お寺のご住職がお盆に棚経(たなぎょう)をあげる・供養を受ける・お布施を頂く、の起源とされています。
 私はご先祖様のご供養が、お盆の何より大切な行事だと思っていましたが、実は親孝行したい人の全てに教えて居られるのだと改めて知りました。父母に対する報恩行は誰でもすべきことであると言うわけです。
 私は一番身近な自分を生んで呉れた両親のことを考えますが、七代さかのぼってとあり、確かに両親にも又親があり兄弟があります。延々と遡って、兄弟や配偶者や子供を入れて考えると、再現なく拡がって行きます。七代は永遠に近い広がりを暗示して居るようです。
 いずれにせよ親を大切にし、祖先を大切にすることは、生まれ落ちた時は、何も出来なかった自分が、曲がりなりにも何とか生きて行けるようになった訳ですから、ひとえに「そういう人達のおかげさま」と言えます。感謝以外の何ものでもありません。
 同時にこれから未来を考えると、我が子を愛しみ大切に育てることが、両親や祖先のご恩に報いることになります。きっとそれが御仏の慈悲におすがりする私達のすべきことだと思えるのです。
 鎌倉の円覚寺の管長の横田南嶺老師は、毎月第2と第4日曜日に、一般の人を対象に、法話をなさっておいでですが、毎回法話の冒頭に、父母が出会って私が生まれた、何もできなかった私を育ててくれたその父母の恩に触れられて、「このご縁に掌を合わせて感謝しましょう」と仰います。(老師の法話はネットの動画配信していて、どなたでもお聞きになれます。)
 何かと言うと不満が出てきそうな現代ですが、様々な出会いやその方達から頂くご縁に感謝するということが、幸せな暮らしに最も必要なことではないか、と思えて来ます。
 そろそろ虫が鳴き始めました。八木重吉に「虫」という詩があります。
 
 虫が鳴いている
 いま ないておかなければ
 もう駄目だというふうに鳴いている
 しぜんと
 涙をさそわれる

 いま しておかなければという事を考えると、私の身辺にも多々ありそうです。

 「秋立ちぬ、いざ生きめやも」と言う堀辰雄の美しい言葉もあります。酷暑を抜け出したら、元気を出してまた頑張りたいものだと思います。
 

才能豊かな友の死を悼む

2016年08月07日 | 随筆・短歌
 横山大観の桜を中心にした或るデパートの美術展に行ったのが、私と高校時代から仲良くしていた友人と、二人きりの最後の会でした。この友人は惜しくも今年2月に亡くなりました。もともとの持病だった心臓病の悪化によるものでした。
 思えばどのようにして、私達が仲良くなったのか、はっきりとした動機は忘れてしまいましたが、多分二人とも高校時代の教室では、教卓の前を常席としていて、そこで二人並んで授業を受けることが多かったからではないかと思います。
 後ろの席で授業を受けたのは、あらかじめ席決めがあった場合と、教師の都合でしばらく名簿順に並んだ時くらいで、自由な時は常に教卓の前が常席だったのです。後ろの席は、前の人の動きが気になって、授業に集中出来ません。真ん前だと誰にも邪魔されることなく、とても居心地が良かったのです。
 結婚してHさんになったその人も、きっと同じ気持ちだったのでしょう。選択教科もありましたが、特に三年になって、進学組で一緒になってからは、彼女と二人並んで授業を受ける事が多かったと思います。
 その人は無類の美術好きで、絵画が得意でした。卒業後の大学は美術学科へ進学して、中学校の美術教師になられました。
 生まれ持ったDNAは覆うべくもなく、一番前なので、教師はたいてい半分から少し後ろに焦点を当てて授業をしますから、最前列は目に入らず、彼女はノートの端端に、サラサラと上手い絵を描いたり、持ち合わせの10円硬貨や紙切れの端でさえも、ノートの下に置いて上からなぞり、硬貨の彫り型や紙の端も、格好なデザインの元になりました。私が感嘆する位、暇な時は何か描きながら授業を受けていたのです。
 美術家という人たちは、みなこのようにして、身近な何かを直ぐにデザインしたりする芸術的センスを持つものなのか、大学時代のクラスメイトにも、同様な才能を持つ人がいました。彼女はやがて名の知れたイラストレーターになり、現在はアメリカで暮らしています。矢張り彼女の机の中や一寸した物にまで、様々な絵が描かれていたものです。二人の学生時代は、ダブる処が大いにあります。
 高校時代の彼女と私は、その後別々の市で暮らし、お互いに様々な人生を生きて来たのですが、還暦を迎える頃になって、又彼女と折々逢う機会に恵まれるようになりました。 それは、皮肉にも彼女の病が仲立ちしてくれたものでした。心臓にペースメーカーを取り付けないと生きて行かれなくなった彼女が、私の住む市の病院で手術をし、定期検査や機械の交換に病院へ通うようになりました。高速バスで帰る迄の空き時間を利用して、私達は彼女が出て来る度に逢うようになりました。
 決まってあるデパートの前で落ち合い、デパートの画廊へ行き、絵や彫刻など折々の展示物を見ました。彼女は専門家だけあって、色々と私に絵画・彫刻・焼き物の見方など解説してくれました。画廊には毎回のように訪れましたし、特に彼女は何時もベレー帽をかぶっていましたから、展覧会に即売会が付いていたりすると、係りの人が彼女が専門家であることを察知して、近づいて来ることもたびたびありました。
 そのデパートで私はある程度名の知れた画家の絵を買った事がありました。何時もお世話になっていた女性が家を新築されて、私の家から遠いところへ引っ越されたのです。勤めの帰りは我が家から間もない処にアパートがあり、車で家の近く迄良く送って頂いていましたから、お世話になったお礼の新築祝いには、本物の絵が良いと判断してのことでした。私の財力では、小ぶりな絵画しか買えませんでしたが、有難いことに彼女の目利きが役立ちました。
 似たような絵でも、彼女はこちらが良い絵だと言い、その理由を解説してくれました。画家が違うとどちらが上か、同じ画家の作品でも、描くものの配置や、空間のあり方に可成り重みを置いて、彼女は見ていたように思います。私の芸術作品の目利きは無いに等しいものですが、今の私には彼女の影響は否めません。
 よく、良いものを見極める目が欲しかったら、本物の一流作品を沢山見ることだと言われますが、頷けることです。
 展覧会の後は、必ずホテルのレストランで食事をしました。私と夫が二人で街へ出かけて、食事の時に何時も使うレストランで、静かで上品で、楽しい雰囲気の中で、美味しい洋食を頂くにはもってこいのところでした。
 迷うことなく、何時も同じところに決めていました。同じようでもお料理に工夫があって、何時も新しい感じで楽しませて頂きました。
 彼女の子供さん達も成人されて、陶器を焼いたりしておられ、私も日常の器や飾り皿など分けていただきました。今は良い記念品になっています。ご主人も美術家でしたから、血筋から言っても当然と言えましょう。
 目の大きい優しい人でした。病に勝てず、とうとう立春から一週間を待たずに逝ってしまいました。やや近くに住む妹から知らせがありましたが、聞いたとたんに力が抜けてしまいました。私の年齢になると次々に先立たれる人が増えて、悲しく、また淋しいです。 知る限りその人がどう生きてこられたか、を思い出してみると、いずれもその人らしく、一生懸命頑張ったのだと思うようになりました。五十年六十年七十年・・・とそれぞれの月日を重ねると、矢張りその人らしい生き方があり、それぞれに良い人生を送って居られます。
 神様が与えて下さった芸術的才能を、彼女は早くから自覚して、大切に育て上げ、子供さん達へと受け渡して去って行かれました。彼女の人生に、私は精一杯の賞賛の言葉と、お礼の言葉を贈ります。

連れ立ちて大観の桜を見し時が永遠の別れか今朝訃報来ぬ

君逝きて眠れぬ夜に聞こえ来る最終列車のレールの軋み

友逝きて忌日の今朝の寂しさよ居住ひ正して侘助活ける (いずれも某誌に掲載)
 
我が良き友への鎮魂歌です。