ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

温かい手

2018年06月28日 | 随筆
 人は誰しも思いがけなく、温かい手に触れた想い出があることでしょう。たとえ冷たい皮膚の感触であっても、しっかり握手したときなどに、握りしめた掌の温かかったことなど、忘れられない想い出があるのではないでしょうか。
 私には、折りに触れての温かい手の想い出があります。何時もそれは不思議な感覚で、後々まで掌にも心にも残っています。
 まず第一の想い出は、初めてお会いした方との握手です。その方は夫の学生時代のクラスメイトでありました。私達夫婦はそれぞれに友人と、メール交換もかなり頻繁でしたし、電話で話すこともあります。夫婦ですから、当然どういう電話だったとか、メールも場合によってはコピーして、ファイルすることもありますから、お互いつき合いの濃淡が良く分かります。お互い直接繋がっていなくても、旧知のような親しさをもって、日常の話題になるのです。
 夫が「愚痴庵閑話」と題して、メール交換していて、とても親しくしていた友人がいました。奥様が外出されて一人の時など、良く電話が来ました。残念なことに已に鬼籍に入られましたが、ある大学の医学部の助教授になって居られた方です。何となく馬が合うというのか、価値観が近いのか、わざわざ急行電車で5~6時間の距離を会いに出かけたり、あちらからおいでになったりして、旧交を温めて来ました。
 以前触れましたが、越路吹雪が好きな彼のために、越路吹雪を中心に何人かの歌を、テープにコピーして送りました。とても喜んで下さって、一人で寂しい時や、夜お布団に入ってから何度も聞いて、とうとう擦り切れる程聞いたとお聞きしました。(当時CDもあったのですが、良い曲を選んでテープに纏めました。)
 その方の他に同級の女性も数人いて、或る時特急で数時間離れた駅頭で落ち合うことになりました。お互いメールや電話の行き来はありましたが、再会するのは卒後初めてだったと聞きました。そろそろ人生の残りの時間も少なくなりましたし、このあたりで会っておかないと後悔しそうでした。
 私は初めてお会いする方だったのですが、日頃からの夫の親しいおつき合いを通して知っていましたので、お合いした瞬間、思わず手を握って「何時もお世話になっています」と、何故か固い握手になりました。不思議でしたが、すんなりとその方の温かい手に包まれて、とても嬉しかったことを覚えています。
 何だか久しぶりにお会いしたような、不思議な感覚でした。初めて出会う人と、このように親しく握手をしたのは、生まれて初めてでした。でも、ハグせんばかりに受け入れて下さって、固い握手になったことを、今考えるととても不思議に思います。良い出会いでした。きっと前から出会うべくして出会ったからなのか、と思ったりしています。
 二番目は、私の家庭医の看護師長さんとの握手です。去年私は思いきって股関節の置換手術を受けました。何と言うのか、奇跡的に出会った人から「私も手術したのです。とてもよくなって助かっています」とお聞きして、たまたま当日は股関節の、半年に一回の定期検査で、病院へ向かっていたのです。自分が手術することは余り考えていなくて、このまま行けたら、そうしたいと思って居たのですが、出会ったその方の「手術して良かった」と言う感想をお聞きして、その時ハッキリ「私も手術して頂こう」と思ったのでした。ベテランの医師でしたし、私にはまだ体力がありました。夫も元気でしたから、家族的にも恵まれていました。この三拍子が揃っている今が最適な時期だ、と気が着いたのでした。
 たまたま主治医も「そろそろ手術したらどうか、時期的にも寒くなる前だし」と考えて居られて、その日に手術の日が決まったのでした。
 さて入院するとなると、家庭医にも入院の期間中の、日頃の薬を処方して頂かなくてはならず、或る日その医院に出かけました。その時看護師長さんが「手術ですって?」と出て来られて、私の手を握って「どうぞ頑張って」と仰いました。そして「大丈夫。必ず良くなりますから。」と仰った言葉と共に、あの時の手の温もりが、今もなお思い出すたびによみがえって来ます。
 人には時として強い感動と共に思い出す、さまざまな想い出があるようです。以後無事に退院してきて、時々お会いするのですが、以前とは、またひと味違ったおつき合いになった気がしています。
 次はフォレスタの今井さんとの握手です。近くのコンサートホールで、二回目のコンサートがあった時です。その年私は二階席しか取れずに、丁度通路脇に座りまし。ところが後半になって、出演者と観客との交流で、歌手の皆さんがそれぞれ席近くに回って来られた時です。私の脇に今井さんが来られたのです。合唱の時は声を合わせるので、ハーモニーに気をつけられて、そう大声では歌われないのですが、席に回って来られた今井さんは、オペラ歌手ですから、マイクなしでホール全体に響き渡る程の声でした。
 私の身体の周りと言うより、二階席全てが今井さんの声に満ちあふれて響き渡りました。そのボリュウムに驚き、目を見張ったのです。そして、今井さんの手に幸運にもハイタッチ出来ました。 この感激は、またひとしおでした。とても温かく柔らかなタッチでありました。あの声の温かさが、身体を巡り掌にも温かい血液や心までも伝わって来ている感じが、良く分かりました。「身近で聴く生の歌声は素晴らしい!」と感激もひとしおで、その声に身をスッポリ埋めていました。幸せで忘れられない想い出です。
 夫は、若くして亡くなった娘が、夢に出て来て、足を揉んでくれた事が忘れられないと言います。丁度娘の命日の日だったそうですが、その時、温かい手の感触を、ありありと感じたと言います。目覚めた後も暫く温かい感触は続いたそうです。
 心の奥で生まれた感情が、血流に乗って手の先まで来て、「温かい手」として相手に伝わっていく、心の使者のように思えて、「この想い出は大切にしなければ」と思ったと言います。目覚めた後も暫く温かい感触は続いたそうです。「もう来られないけれど」と言ったようだったと夫は言いますが、事実娘はそれきり夢に出て来ないといいます。「国立(くにたち)って良いところだね」とも言ったといいます。娘の新築マンションは「吉祥寺」にあり、何故国立なのか、不思議だと言いつつ現在に到っています。
 手の温もりをしみじみと味わった事は、その後の忘れられない想い出になったようでした。温かい手の想い出は、誰にも有難く嬉しいものですね。
心の奥で生まれた感情が、血流に乗って手の先まで来て、そこで「温かい手」として相手に伝わって行く心の使者なのだと思うと、その想い出は大切にしなければならないと思っています。

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天才「啄木」に思う

2018年06月15日 | 随筆
 「あの頃」を偲んで、今も私の本だなの「啄木歌集」(昭和28年4月15日 第14刷 岩波書店)を手にしています。すっかり茶色に変色していますが、まだ角川の印紙も貼ってあるものです。
 もう遠い遠い昔のことですが、父につれられて、地方の中心都市とでも言いますか、そんな市の本屋へ行った時に買った、私の大切な想い出の一冊です。父は良く私をつれて、本やその他の買いものに、少し離れた市へ列車で行ったのです。
 この本は、私が短歌に親しむきっかけとなった本として、忘れられない一冊です。石川啄木は今でも憧れの歌人です。夫と二人で東北6県へ車で旅行した時にも(1999年の秋 )啄木が暮らして居た住居を見るのに、東北道を滝沢インターから入って、啄木の記念館や啄木が生活していた木造の家に立ち寄りました。
 木造の煤けた部屋の隅に、古い机が置いてあって、「ここで貧しかった啄木は、あの優れた短歌を紡いだのか」と思うと、涙が溢れそうになりました。記念館の女性職員に「良くおいで下さいました」とお茶をご馳走になった事も忘れません。
 これをブログに書くに当たって、現在はどうなっているのかネットで調べましたら、たまたまその日(2018年6月9日)は、啄木の生誕記念100周年の行事の一環で、ロジャー・パルバース氏と啄木記念館長の対談等が行われる日でありました。何という偶然なのでしょう。すっかり感激してしまいました。
 湯川秀樹はその著書「天才の世界」(小学館 昭和60年)に日本人の天才として『弘法大師と石川啄木と宗達・光琳と世阿弥』を挙げています
 啄木の項では『「一握の砂」は五百何十首かありますけれども、全部好きですね。好きというだけでなく、全部がうまいです。』と書いています。更に『「いのちなき砂のかなしさよ、さらさらと、握れば指のあひだより落つ」というのが、私のいちばん好きな歌ですね』と語っています。
 私は毎日寝る前に読む短歌や詩を、私の裸眼で読める大きさに拡大して印刷して、ポリのポケットのあるノートに整理しています。勿論啄木も1ページあります。
 このノートの詩や短歌を数ページ読んで、最後は何時も「丁度よい」という藤場美津路の詩を読みます。不思議に先ほどまでパソコンにかじりついていたりして、チラチラした目も、落ち着かない心も静まって、ベッドの頭上の間接照明を消すと、そのまま静かに眠りに入って行けるのです。
 湯川秀樹は『この世界というものは、生きた人間が寄ってつくっている。いかにも楽しいこと、悲しいこと、いろいろあって、そこに人間が生きているというふうにもみることができる。しかし、そういう世界というのは、人間だけの世界ではなくて、その背後には、動物があり、植物があり、石もあり、山もあり川もある。あるいは地球以外の星もある、そういう世界に住んでいるわけですね。そうすると、そこに命のないものもたくさんあるわけです。人間もまた逆にいうと、命のない物質からできていて、たまたまそれが命ある人間らしきものになっているけれども、そういう人間というものが、人生のいろんなことを経験する。
 私などはどう感ずるかというと、やはり「いのちなき砂のかなしさよ、さらさらと、握れば指のあひだより落つ」という感じが、ひじょうに近いわけやね。とくに物理学のような学問をやっておりまして、そういう自然法則とか、素粒子とは何であるかというようなことを、研究しておりますと、そういうものはつかもうと思ってもなかなかつかめぬ。握ったつもりでおったのが、指の間からさらさらと落ちていく。これは何度でも経験することですね。そういういろいろのことが実に見事に集約されて、一つの歌に表現されているという意味合いから、私はこの歌がとくに好きですね。ーーー好きというのには、そういう意味がこもっている。』
と書いています。私はこの部分にとても引かれました。
 私の最も尊敬している歌人石川啄木を、天才である湯川秀樹が「天才」だと評価して下さっていることに、まるで我がことのように嬉しく思います。
 啄木は実に平易な言葉を使って短歌を詠んでいますが、その非凡な才能と、そして多くの人々に共感を与える力を歌に籠めています。
 湯川秀樹のような素粒子という命なき世界に取り組んでいると、今度こそ掴んだと思っても、いつの間にか抜け落ちている哀しさの繰り返しだったのでしょう。
 私達のような平凡な人生にあっても、掴んだ筈の幸せが何時の間にかこぼれてしまう哀しさを、何度も体験しながら、終末点へと近づいて行く。そんな人生を歌っているように思えて哀しくなるのです。
 
 呼吸(いき)すれば胸の中(うち)にて鳴る音あり。凩よりもさびしきその音

 さりげなく言ひし言葉はさりげなく君も聞きつらむそれだけのこと

かにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川

 どれもこれも皆皆啄木の秀作で、奥の深い歌です。「かにかくに」の五文字の中に、どれ程の思いが込めらているのでしょう。渋民村と同じような日本人のそれぞれの故郷は、誰にとっても懐かしく忘れがたいところです。
 岩手県盛岡市渋民の啄木記念館を訪れられることをお勧めしたいです。

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神さまの贈りもの

2018年06月05日 | 随筆
 皆さんは「これはもう奇蹟というしかない」という経験をされたことがありますか。私は今迄生きて来た人生の中で、何回も信じられない様な経験をしました。開設してから10年目に入ったこのブログで、それらは紹介しましたから、きっと想い出す人もおられることでしょう。
 立山の登山中に、逢う筈もない遠い故郷の実家の隣人と、ほんの僅かな時間なのに出会った話も、車で京都府丹後あたりを走っていて、「明日はこの橋を渡って次の旅先へ行けばよい」と私も夫もそう思ったのに、実はそこは海辺で橋などのない所でした。その上私と夫が見た橋の色も形も違っていたのでした。
 その日泊まる予定のホテルにたどりつけたのも、雨の日暮れで普段は人の居ない所に、その日に限って働いていた人が数人いて、ホテルまでの道を教えて貰えたからです。もし、もう少し遅くて夜に入っていたら・・・、と思うとゾッとします。
 北海道12日間の車の旅では、霧の摩周湖が、珍しく良く晴れた日だったので、奇蹟的に小島までもハッキリと見え、幸せでした。その日泊まった川湯温泉の、ホテルで知り合ったご家族が、私達の住んでいる市から開拓民として入植した人の末裔でした。
はるばるこのような所へ来ていて、浴場で出会って名乗り合うことになるなんて、神さまの思し召しとしか、考えられません。お互いに奇遇を喜び、親しく話しを交わす事になりました。
 すれ違っていて当たり前のところを、わざわざ合わせて頂くと云う事は、矢張り奇蹟なのでしょうね。どれも忘れられない思い出になりました。
 過日、五月晴れのある日の出来事です。思いがけない時間に、とても逢いたかった人に逢う事が出来ました。それは何時もの日課と言うよりは、その日に限って私の段取りが間に合わず、朝朝の花鉢への水やりも遅くなり、身支度も間に合わなかったのです。 
 その日に限って、普段より遅い時間のウォーキングになってしまいました。いつもの道順に従って歩いて居て、神さまの思し召しとしか思えない、素晴らしい出会いに恵まれました。
 相手は天使のように可愛い、私達夫婦の大切な4歳の友人です。様々な人と出会うという奇蹟は、確かに神さまからの贈り物ですが、今回ばかりは、これがラストチャンスだと聞いて、沢山のハイタッチをして貰いました。小さな手とあの満面の笑顔と、跳び上がって喜んでくれた友人は、一生忘れられない思い出になりました。
 お母様のお勤めが変わって、もうその日が最後でしたのに、何と運の良いことだったのでしょう。それも何時もの時間ではなく、まごまごしていて遅くなったのに、何故神さまは会えるように時間調整して下さったのでしょうか。神さまには特別の時間のお計らいがあるようです。
 もう先の短い私達に、せめてもの贈り物だったのかも知れない・・・と私達は何度も話しては、感激を新たにしています。奇蹟とか偶然とか言われる出来事は、誰しも人生の中で、数え切れない程あるのでしょうが、これを神様からの贈り物と受け止めれば、一層印象強く心に残るのではないでしょうか。
 加えて忘れられないのは、父や母の思い出です。これはきっと誰もがそうなのでしょうけれど、父母の恩の深さを思うと「私は未だ未だ父母を乗り越えられない」と思います。父は筆まめでしたから、嫁いだ後も私に手紙を書いてくれました。「多分こういう手紙はもうそろそろ書けなくなるのでは」と思った頃から、私は折りにふれて届く父の手紙を保存していました。今も私の机の引き出しに、晩年の何年間かの手紙がしまってあります。
 わが家へ訪ねて来て呉れた時の手紙には、夜遅く駅から家まで、「とても月が美しいので、二人で歩いて帰った」とあります。達筆で愛情に満ちていましたし、何時も仲の良かった父母の様子が伝わって来て、私には何歳になっても、とても書けない手紙です。
 いつでしたか「私は大勢の子供達の中でも、父には特に可愛がって貰ったように思う」と夫に言いましたら、夫は「本に書いてあったのだけれど、矢張りそう思う人がいて、他のきょうだいに聞いてみたら、みんな同じくそう思っていたそうだよ」と言いました。
 初めてこれを聞いた時は、信じられない気持ちでしたが、後に良く考えてみると、親というものはそういうものなのかも知れない、と納得するところもありました。母はとても公平な人でしたから、どのきょうだいも分け隔てなく、同じように接していたと思っています。
 母は晩年、私の住む市に引っ越してきて、弟に最後までお世話になり、穏やかに過ごしました。私も毎週弟の公舎へでかけては、弟の出勤後の話し相手をしました。最後は病院で亡くなりましたが、少しは恩返しのまねごとができたのかな、と有難く思っています。 
 亡くなる近くになっても、最後の一人になった女学校の友達に手紙を書く時には、何時もさらさらと和歌(母の女学校時代は短歌と言わず和歌でした)を最後にしたためていました。私はその才能に目を見張りました。母は女学校の授業では和歌は得意だったと言っていましたが・・・。和服に袴で革靴を履き、オルガンの前に立った母の二十歳頃?の写真が残っています。父も母ももう可成り前に亡くなりました。
 私は実父母よりも義父母と暮らした時間の方が、ずっと長く、そう言う面では、義父母の恩もとても深いものがあります。毎朝食後にお座敷の仏壇の前に夫と座って、般若心経を上げるのが日課です。遺影を眺めながら思い出を紡ぎ、その時間は特に心が救われる思いがする時間です。
 私の大切な友人達も、夫の友人達もそれぞれ思いがけない出会いによって、今の温かく穏やかな老後の人生があるのですから、この大きな奇蹟には、矢張り神のご配慮があったものと、感謝しなければならないと思っています。
 様々な事件や事故があって、毎日テレビを賑わせながら五月は過ぎて行きました。世界に戦が無く平和に過ごせて、皆々さんが幸せでありますように、今こそ人類は知恵を絞って欲しいと、念じないではいられません。
 4歳の友人の掌が余りにも優しく、余りにも温かったのが忘れられません。これからの人生が幸せに満ちたものでありますように、祈っています。 
 


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