ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

生きている内に

2013年09月26日 | 随筆・短歌
 
 虫が鳴いている 
 いま ないておかなければ
 もう駄目だというふうに鳴いている 
 しぜんと
 涙をさそわれる      八木 重吉   「虫」から

 9月20日の鎌倉・円覚寺の「円覚寺居士林だより」というブログに、この詩を引いて、横田南嶺管長の法話の概要が乗っていました。「あの虫たちのように自分はただひたすらに生きているだろうか」とあり、私の大好きな詩でしたし、改めてこの詩とともに私の生き方を考える日が続いています。
 我が家で今鳴いている虫は、多分主としてコオロギかと思います。もう一時期のように庭一杯にすだくほどには鳴きませんが、まだ可成りの数の虫が、根気よく朝方まで鳴いています。
 良寛禅師の「花と蝶」の詩にもあるように、私達の身の回りの虫も植物もありとあらゆるものは、お互いに無関係に単独で産まれて生きている様でも、決してそうではなく、時を得て生きています。それが自然とうまく共生するようになっている、という不思議な関係にあります。円を描くように、与え合い奪い合い、食べたり食べられたりして、命を繫いでいます。ですから、今鳴いておかないといけないというのは自然界の真実です。この時を逃したら生きていけないし、種は保存出来ません。生の営みは、皆そのようにして、今を精一杯生きているのだと思います。そんな真摯な姿に涙をさそわれる八木重吉の感性は美しいと思います。
 兼好法師の「徒然草」にもあるように、先に木の葉が落ちて、その後に芽ぐむのではなく、芽ぐむ力に押されて木の葉が散るのだと思えば、庭の木々を見ても、白木蓮もすでに可成りの大きさに芽ぐみ、大きな枯れ葉が毎日ハラハラと散っています。毎朝の庭掃きが仕事の夫が「今年もこれから当分枯れ葉始末が大変だ」と言っています。注意して見ると、沢山の庭木が次の芽ぐみを始めています。
 秋は木の葉が散って寂しいと言いますが、来るべき新緑に備えて芽吹く力強い季節でもあるのですね。あらゆる物が季節に応じて、一心に生の営みを行っているといえましょう。それには太陽も雨も風も総てが必要です。地球上にこんなに沢山の生物がいて、大自然と共に季節を刻んで行くということに、改めてこの不思議な関係とその恩恵に浴している私達には、感慨深いものがあります。
 一方振り返って、私という小さな生き物の現実を、客観的に眺めればどうなるのでしょう。何時も目の前にあるやるべき事に追われて、苦しみながらやっと凌いでいる状態を改めて、少し年相応に余裕のある生き方にしようと、あちこちを切り捨てて、趣味も少なくしました。図書館の本を借りてくる数を減らしたりして、時間的に余裕が出た時は、禅関係のブログを読んだりして、昼間一人の時に椅子に掛けたまま、瞑想している時間も出来る様になりました。なかなか心が落ち着いて良いものだと思っています。(禅については全くの素人です)
 さらに生きて居る限りは少しでも世の中のお役に立てるように、努力したいと思うのです。ボランティアで何かする体力もなく、能力も無い私がしていることは、例えば災害のあった処への義援金拠出とか、ユニセフのものを買うとか、ほんの芥子粒ほどでしかありませんが、ユニセフの物が近くにあると、何となく世界の人々の笑顔と繋がっているようで、嬉しいのです。
 「和顔施」という言葉があります。ニコニコすることで、人々に心地良い思いをして頂けるとともに、自らもそういう顔になりきる。これなら誰にでも出来そうです。自然な和顔は仏様の顔だと山田無文禅師が書いておられます。「40歳になったら人は自分の顔に責任を持たなければならない」とリンカーンが言いました。 日々の心がけで顔の相が変っていくようです。美人であるかどうかということではなく、心の底から微笑む優しさが相手にも伝わるには、矢張りそれなりに日頃から心の有りようが大切だと感じています。 
 仕事を縮めても、その分のひまを何かで埋めることになったりすると、結局また忙しくなりかねず、せっかくの心がけも台無しにならないようにしたいものです。
 ごく最近学生時代の友人のご主人が亡くなられ、訃報が届いた日は、私の心の動揺が収まらず、ミスの連発でした。もし私だったら・・・と思うと居ても立ってももいられなかったのです。時間をかけて、心を込めたお悔みとお見舞いの手紙を書いて、やっと心が落ち着きました。長い間の介護生活でしたが、「ありがとう」といつも笑顔のご主人を支えた素晴らしいご夫婦でした。ご自宅でご家族に見守られて逝かれたそうです。こういう様子をお聞きするたびに、深い愛情に支えられたご夫婦に尊敬の念が生まれます。少しでも近づきたいものです。
 私も今鳴いている虫たちにならって、精一杯一日を大切に生きたいと思います。そして少しばかり新しい芽を育てて行きたいと願っています。自然に逆らわず、皺だらけの顔でも、何時も心から和やかに相対していける人間でありたいと思っています。そして静かに枯れて行かれたらどんなに幸せでしょうか。

砂時計最後の砂が落ちるまで静かに歌おう命の賛歌(あずさ)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私のお気に入りの時間

2013年09月11日 | 随筆・短歌
 時間は誰にも平等に与えられていて、それをどう使うかは個人の自由です。考えてみるとそれは生きている私達にとってとても楽しい贈り物です。
 私が毎日特に楽しみにしている時間は、朝の日常の仕事が片付いて、パソコンの前に座る時間です。先ずはニュースを読みます。それから自分のブログの昨日のアクセス数を調べて、最近はこんな無力のばあさまの書いているブログに大勢来て下さることに驚いたり、何となく罪なことをしているような感じがしています。
 つぎは好みで「ブログ禅」(京都・禅文化研究所の職員のつれづれを発信するブログ)を読みます。暫く夏休みでしたが、今日(9月10日)は法隆寺の百済観音像が、パッと目に入りました。初めて見たあの30数年前の感動が甦ったような、気がしました。あの像があんなにスラリと背が高いとは、拝見する迄知りませんでしたから、そのスリムでありながら均整の取れた美しさに圧倒されたのです。3メートルはあると思います。暗い法隆寺の中よりも、ライトを浴びて写っている姿に感動しました。今朝一番の実に幸せな時間でした。
 それからもう一つ、いつも心が引かれているブログがあります。不定期ですが、「新・心の原風景」(末永遍(すえながあまね) ;苦悩を克服して心安らかにして生きる道を探ります)というブログで、今日は「気の迷いに振り回されない」と題した文章でした。この文の最後は、「一時的な気の迷いを洗い落として身も心も新陳代謝を図り、夜には虫の音でも聞いて少し内省をして、新しい心で生きていきたいですね」とありました。
 このブログは日常のさまざまな出来事や苦しみを、禅の心で見つめ、克服していこうと説いているものですが、何となく私のあれこれ思い悩む心を救ってくれるように思えて、愛読しています。 次に各種新聞社の記事を大まかに読んで、なぜかお天気予報で一日の地震の情報を調べるのが私の癖です。少し大きな地震があるとその地域や震度を調べます。この癖が3・11以後に身につきました。 全体で、かれこれ30分くらいでしょうか。メールが来ているかどうか調べて、不要な業者からのメールは消去して、必要なメールは読んであとで返事を書きます。
 それから、たった10分間ですが、私にはとてもとても大切にしている時間があります。それはNHKのEテレで、月~金までの午後1時50分から2時までの10分間の「視点論点」という番組です。
 私は日々ぼんやり暮らしていて世事に疎く、余り知らないことが多いですから、様々な視点からの問題を、たった10分間という短い時間で、専門家が解説して下さるのが、とても有り難いのです。
 日中はテレビ嫌いの夫(大リーグは別)と共にほとんどテレビはつけませんから、気が付くと番組は終わっていることが多くなり、最近は時計をセットして置いて、ベルが鳴るとテレビを付けるようにしています。これなら聞き逃す事がありません。
 哀しいかな、聞いても直ぐに忘れるという特技が身に付き初めましたから、成るべくメモして後でも記憶として引き出せるように工夫をしています。日々論じられる問題は自分の好みに依りませんから、日頃は考えた事も無い視点から、良いお話が聞けることもあり、今はやみつきです。
 今日は若者の就活失敗に依る自殺の多さなどでした。現在の若者のおかれている立場に本当に同情せざるを得ません。企業の利益優先の為に犠牲になっている状態を何とかしないと、救われないと思いました。若者の自殺については以前書きましたから今回は省きますが、人間を大切にしない企業はやがて潰れるでしょうし、是非そうあって欲しいです。雇う方がいつでも解雇出来るという横暴な身勝手は、是非無くして欲しいのです。多くの企業は消費者から製品を買って貰って利益を受けている以上、社員の生活に責任を持つ義務があると思うのです。
 他にNHKの短歌の時間を見ますし、その日の番組で、是非と思うものはセットしておきます。夕食にとりかかる時間まで時計に入れておけば、もう安心ですが、時折時計から離れていて、ベルを消すのに時間がかかり、夫にうるさがられます。もしかしたらご近所?にも迷惑を掛けているかもと、音を小さくしていても、案外気になる音です。
 迷惑をかけないようにしながら、自分の好きなように、時間を使わせて頂く喜びをこれからも大切にしたいと思っています。

大切な時間が零れて行く不安今を楽しむことで埋めたし(あずさ)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出会いがもたらす幸・不幸

2013年09月01日 | 随筆・短歌
 世の中の誰と誰が、何時どのように出会うか、なんて考えることはおよそ無駄なことです。まして誰の計らいか、などということもおかしな発想ですが、何とも言えない出会いの不思議の一つが夫婦です。
 結婚された多くの人達はどのように出会われたのでしょうか。「この人と私はきっと結婚することになる」と会って直ぐに直感した夫とのことは、以前書きましたが、そもそも断っても断られても不思議ではない、お見合い結婚でありました。
 ともかく引き合わせて下さる人がいらして、私達は出会い、現在に至っています。この上もない出会いの奇蹟であり、心から感謝しています。
 このように図り知れない出会いのチャンスと、その幸・不幸の分かれ道は、考えてみると結構身の回りにあります。たった2~3分、時間がずれて会えなかったら、不幸なことになっていた、というのもあります。
 私とある友人との出会いもその例です。街の中心の信号を渡って、ふと出会った友人に挨拶しました。その友人は立ち止まって「今困っているのよ」といいます。「娘が卵巣嚢腫で手術になった」というのです。私は驚いて「たった一人の医師にそう言われたと言って女性にとって大切な部分を切除なんて」と言い、私がお世話になった名医がいらっしゃるので、「是非そこで見て頂いて、同じ診断なら、仕方ないけど」と言ったのです。彼女もハッと気がついたようで、直ぐに診て頂いたそうです。結果「心配ありません」といわれて、今は何人かのお孫さんがいらっしゃいます。
 私はただ一言わが身の場合を考えて思い付いたままを言ったのですが、それがこのような幸運につながるなんて、予想だにしなかったことです。今でも友人に「あの出会いがあったから」と感謝されます。しかし、その出会いはほんの数分の奇蹟であり、そこから先は彼女がどう行動したかによるもので、私の選択ではありません。幸せに繋がったことは私にも嬉しいことでした。
 又、僅か一分、目の前を通った私に挨拶さえしなければ、このような気の毒な思いをしないで済んだのに、と思ったこともありました。もう故人ですが、私のふる里の近所に住む女性が、男性と二人連れで登山しておられました。そして雪渓際に腰を下ろして休んでおられたのです。婦人は、ふと見おろした時に、一瞬登って来る私を見つけてしまったのです。そして反射的に私に挨拶して下さいました。
 殆どの人はサングラスを掛けると外見からは、別人に見えます。ところがサングラス越しに見ている本人には相手がはっきり見えますから、出会えば挨拶してしまうのですね。住んでいる地域とは違って、遠く旅先の、それも登山道という一本道であって、30名くらいの同僚達と、汗を流し呼吸も荒くひたすら登っている私は、全く気が付きませんでした。挨拶されなければそのまますれ違うはずでした。どちらも既婚者でしたから、私は困ってしまいましたが仕方ありませんでした。お気の毒な場面に出会った事を、このご婦人の誠実さとともに、胸痛く思い出すのです。山道ですから、ほんの一足先に発っておられれば、きっと永遠に会わなかったでしょう。このような偶然は、私にとっても後々まで胸の痛む出会いでした。ふる里は既にどちらの家も更地になっています。
 夫の学生時代の同じ研究室だった二人のご婦人に、ある駅頭で出会った時は、私は勿論初対面だったのですが、このブログを読んで頂いていましたから、とても知らない人とは思えず、会った時には、手を取り合って、まるで長い間あわなかった友人と出会ったみたいに、夫を差し置いてはしゃいでしまいました。
 夫は久々に共に学んだ昔を懐かしんで、お会いするのを楽しみにしていましたし、私は単なる同伴者でしかなかったのです。ところが、とても歓待して下さって、お昼をご馳走になり、お土産や記念品迄頂きました。二人の為のそれぞれの彫金の栞は、今も大切に使い、眺めるたび毎にあの感動を思い出し、温かかった夫の友人に感謝しています。私にとっても有り難い出会いでした。
 50年以上という長い年月も、会えば瞬時に昔の心に還り、あの時の心にもどって、変わりない話しが出来る様子を、私は会食の傍らで、楽しく嬉しく見聞きしました。
 働き盛りの時代は交際も絶え絶えとなりがちですが、学生時代の友人とは、利害なくつきあえて、元に戻ればあの時のまま続けられる友情です。私も夫もそれぞれに、今も何人かの学生時代の友人と、電話やメールで親しく交際しています。たまたま同じ学校で机を並べた、というだけですが、何と良い、そして有り難い友人なのでしょう。
 一生涯の友人はこうして離れて居ても、何処かで繋がっているのですね。
 9月になりました。暑かった一ヶ月は長く、厳しく、老体の健康をゆさぶり、涼しくなったから安心かと思うと、ドッと夏の疲れが出てしまって、予定を総てキャンセルして、ひたすら休養中です。
 虫の音が子守歌です。やがて元気になるでしょう。      
幸・不幸出会いに依りてかわり来る我が過ぎ行きの哀しくも愛し(あずさ)



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする