今は遠い或る日、宍道湖の畔のホテルに一泊した事がありました。その日は偶然「母の日」に当たっていて、夕食をとりにレストランへ行った私に、案内係の男性が入口で赤いカーネーションを一輪下さいました。思いがけないプレゼントは嬉しくて忘れられない記憶になりました。
花は好きなので、義父が植えたり私が植えた薔薇や山茶花、山吹、金木犀等、庭回りには四季折々の花木が、今では石塀より高く育っています。庭草取りや庭の掃き掃除は、きれい好きの夫がせっせとしてくれています。
私が 床の間に花を活けて飾るのは、お正月とお盆くらいでしょうか。普段は家族が頂いた、京都の妙心寺の管長であられた河野大通老師直筆の「本来無一物」と書かれた掛け軸を大切にして飾っています。以前は様々な掛け軸を掛けては鑑賞していたのですが、今はこの掛け軸が気に入ってその前に兜を一つ置き、やや控え目な生け花をこの斜め前に飾っています。
床の間の隣は30㎝くらい上げて仏段置き場があります。この家が出来て引っ越した後に、義父が少し遠いのですが仏壇製造業の多い街へ出かけて、丁度よく納まる大きさの漆塗りの仏壇を買って来て呉れたのです。その様な事まで気が回らなかった私達でしたが、家の設計の段階で仏壇置き場まで作ってあったのでした。お陰で今は毎朝仏壇の前で、二人で般若心経をあげるのが日々の習慣になっています。
般若心経は30年程前に二人で四国遍路の旅に出かけたのですが、その時は札所の寺院では紙に印刷された経典を読んでいました。札所の寺院の本堂・大師堂・もう一度本堂と、一つの寺院で三回読経しますので、自然に般若心経は暗記して今日に至っています。その後NHKの学習講座でも「仏典」の講座で、般若心経を学ぶ機会がありました。
何故四国遍路の旅に出たのか、その始まりは本当に「ご縁があったから」としか言えません。或る時私の先輩の女性が「団体で四国遍路に行って来ましたが、とても良い旅でした。将来もしご縁が有ったらあなたも行かれると良いですよ」と仰って、遍路鈴を一つお土産に下さいました。四国遍路などと云う言葉さえ遠い感じでお聞きしたのでしたが、「とても良かった」と云うその時の言葉は私の胸の底にしっかりと届いていました。
退職後の或る日、ふと思い出して遍路旅の本を一冊買いました。それは遍路旅の身支度や心構えから始まって、一番札所から88カ所のお寺の解説や電話番号、最寄り駅や地図などと、一つ前の札所からの道順や交通機関、所要時間、お休みどころなど、とても丁寧に写真や図面入りで説明してあったのです。
八十八ヶ寺は全て回った訳ではなく合計三回遍路の旅に出かけて、幾つか纏めて回りやすい順に歩いたり、遠い処は一部交通機関を使ったりしました。
心に残った札所として室戸岬の最御崎寺(ほつみさきじ)に行った時、海沿いに私の背丈より高い見事なサボテンが自生していて、まるで異郷をさまよう旅人の気分でした。室戸岬や足摺岬は、よく台風の通り道として耳にしていましたし、足摺岬の断崖を見晴るかす道を歩いた時は、その高さに足がふらつきそうでした。何処の札所でも無心に祈ることによって、心が安らいだ良い日々でした。
仏壇の義父母と娘の遺影に飾る仏花等は、毎日お水を取り替えるのが習慣で仏前にお花が絶える事はありません。水を替えた後に夫と般若心経をあげるのが四国遍路から帰って以来、何故か習慣になりました。心が安らぐ時間です。花瓶には今蘭の花が生けてあります。親しんで過ごした日々を思い浮かべながら「般若心経」を上げる事は、今は亡き人々を思い出すよすがとなって、良いひと時になっています。
五月の遍路にとって、四国の風景は特別強烈な印象を与えるものではありません。ですが温かい陽の光と、爽やかな風の薫りと、住民の皆さんの優しい眼差しが、又行きたいとの思いを呼び起こして来ます。
佐藤春夫の望郷五月歌が、明るい中でも哀調を帯びて囁きかけて来ます。
望 郷 五 月 歌
佐 藤 春 夫
塵(ちり)まみれなる街路樹(がいろじゆ)に
哀れなる五月(さつき)來にけり
石だたみ都大路(みやこおほぢ)を歩みつつ
戀ひしきや何(な)ぞわが古里(ふるさと)
あさもよし紀(き)の國の
牟婁(むろ)の海山(うみやま)
夏みかんたわわに實(みの)り
橘(たちばな)の花さくなべに
とよもして啼くほととぎす
心して、な散らしそかのよき花を
朝霧(あさぎり)か若かりし日の
わが夢ぞ
そこに狹霧(さぎ)らふ
朝雲(あさぐも)か望郷の
わが心こそ
そこにいさよへ
空靑し山靑し海靑し
日はかがやかに
南國(なんごく)の五月晴(さつきばれ)こそゆたかなれ・・・
花は好きなので、義父が植えたり私が植えた薔薇や山茶花、山吹、金木犀等、庭回りには四季折々の花木が、今では石塀より高く育っています。庭草取りや庭の掃き掃除は、きれい好きの夫がせっせとしてくれています。
私が 床の間に花を活けて飾るのは、お正月とお盆くらいでしょうか。普段は家族が頂いた、京都の妙心寺の管長であられた河野大通老師直筆の「本来無一物」と書かれた掛け軸を大切にして飾っています。以前は様々な掛け軸を掛けては鑑賞していたのですが、今はこの掛け軸が気に入ってその前に兜を一つ置き、やや控え目な生け花をこの斜め前に飾っています。
床の間の隣は30㎝くらい上げて仏段置き場があります。この家が出来て引っ越した後に、義父が少し遠いのですが仏壇製造業の多い街へ出かけて、丁度よく納まる大きさの漆塗りの仏壇を買って来て呉れたのです。その様な事まで気が回らなかった私達でしたが、家の設計の段階で仏壇置き場まで作ってあったのでした。お陰で今は毎朝仏壇の前で、二人で般若心経をあげるのが日々の習慣になっています。
般若心経は30年程前に二人で四国遍路の旅に出かけたのですが、その時は札所の寺院では紙に印刷された経典を読んでいました。札所の寺院の本堂・大師堂・もう一度本堂と、一つの寺院で三回読経しますので、自然に般若心経は暗記して今日に至っています。その後NHKの学習講座でも「仏典」の講座で、般若心経を学ぶ機会がありました。
何故四国遍路の旅に出たのか、その始まりは本当に「ご縁があったから」としか言えません。或る時私の先輩の女性が「団体で四国遍路に行って来ましたが、とても良い旅でした。将来もしご縁が有ったらあなたも行かれると良いですよ」と仰って、遍路鈴を一つお土産に下さいました。四国遍路などと云う言葉さえ遠い感じでお聞きしたのでしたが、「とても良かった」と云うその時の言葉は私の胸の底にしっかりと届いていました。
退職後の或る日、ふと思い出して遍路旅の本を一冊買いました。それは遍路旅の身支度や心構えから始まって、一番札所から88カ所のお寺の解説や電話番号、最寄り駅や地図などと、一つ前の札所からの道順や交通機関、所要時間、お休みどころなど、とても丁寧に写真や図面入りで説明してあったのです。
八十八ヶ寺は全て回った訳ではなく合計三回遍路の旅に出かけて、幾つか纏めて回りやすい順に歩いたり、遠い処は一部交通機関を使ったりしました。
心に残った札所として室戸岬の最御崎寺(ほつみさきじ)に行った時、海沿いに私の背丈より高い見事なサボテンが自生していて、まるで異郷をさまよう旅人の気分でした。室戸岬や足摺岬は、よく台風の通り道として耳にしていましたし、足摺岬の断崖を見晴るかす道を歩いた時は、その高さに足がふらつきそうでした。何処の札所でも無心に祈ることによって、心が安らいだ良い日々でした。
仏壇の義父母と娘の遺影に飾る仏花等は、毎日お水を取り替えるのが習慣で仏前にお花が絶える事はありません。水を替えた後に夫と般若心経をあげるのが四国遍路から帰って以来、何故か習慣になりました。心が安らぐ時間です。花瓶には今蘭の花が生けてあります。親しんで過ごした日々を思い浮かべながら「般若心経」を上げる事は、今は亡き人々を思い出すよすがとなって、良いひと時になっています。
五月の遍路にとって、四国の風景は特別強烈な印象を与えるものではありません。ですが温かい陽の光と、爽やかな風の薫りと、住民の皆さんの優しい眼差しが、又行きたいとの思いを呼び起こして来ます。
佐藤春夫の望郷五月歌が、明るい中でも哀調を帯びて囁きかけて来ます。
望 郷 五 月 歌
佐 藤 春 夫
塵(ちり)まみれなる街路樹(がいろじゆ)に
哀れなる五月(さつき)來にけり
石だたみ都大路(みやこおほぢ)を歩みつつ
戀ひしきや何(な)ぞわが古里(ふるさと)
あさもよし紀(き)の國の
牟婁(むろ)の海山(うみやま)
夏みかんたわわに實(みの)り
橘(たちばな)の花さくなべに
とよもして啼くほととぎす
心して、な散らしそかのよき花を
朝霧(あさぎり)か若かりし日の
わが夢ぞ
そこに狹霧(さぎ)らふ
朝雲(あさぐも)か望郷の
わが心こそ
そこにいさよへ
空靑し山靑し海靑し
日はかがやかに
南國(なんごく)の五月晴(さつきばれ)こそゆたかなれ・・・