ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

三度訪ねた四国遍路

2022年03月30日 | 随筆
 今は遠い或る日、宍道湖の畔のホテルに一泊した事がありました。その日は偶然「母の日」に当たっていて、夕食をとりにレストランへ行った私に、案内係の男性が入口で赤いカーネーションを一輪下さいました。思いがけないプレゼントは嬉しくて忘れられない記憶になりました。
 花は好きなので、義父が植えたり私が植えた薔薇や山茶花、山吹、金木犀等、庭回りには四季折々の花木が、今では石塀より高く育っています。庭草取りや庭の掃き掃除は、きれい好きの夫がせっせとしてくれています。
 私が 床の間に花を活けて飾るのは、お正月とお盆くらいでしょうか。普段は家族が頂いた、京都の妙心寺の管長であられた河野大通老師直筆の「本来無一物」と書かれた掛け軸を大切にして飾っています。以前は様々な掛け軸を掛けては鑑賞していたのですが、今はこの掛け軸が気に入ってその前に兜を一つ置き、やや控え目な生け花をこの斜め前に飾っています。
 床の間の隣は30㎝くらい上げて仏段置き場があります。この家が出来て引っ越した後に、義父が少し遠いのですが仏壇製造業の多い街へ出かけて、丁度よく納まる大きさの漆塗りの仏壇を買って来て呉れたのです。その様な事まで気が回らなかった私達でしたが、家の設計の段階で仏壇置き場まで作ってあったのでした。お陰で今は毎朝仏壇の前で、二人で般若心経をあげるのが日々の習慣になっています。
 般若心経は30年程前に二人で四国遍路の旅に出かけたのですが、その時は札所の寺院では紙に印刷された経典を読んでいました。札所の寺院の本堂・大師堂・もう一度本堂と、一つの寺院で三回読経しますので、自然に般若心経は暗記して今日に至っています。その後NHKの学習講座でも「仏典」の講座で、般若心経を学ぶ機会がありました。
 何故四国遍路の旅に出たのか、その始まりは本当に「ご縁があったから」としか言えません。或る時私の先輩の女性が「団体で四国遍路に行って来ましたが、とても良い旅でした。将来もしご縁が有ったらあなたも行かれると良いですよ」と仰って、遍路鈴を一つお土産に下さいました。四国遍路などと云う言葉さえ遠い感じでお聞きしたのでしたが、「とても良かった」と云うその時の言葉は私の胸の底にしっかりと届いていました。
 退職後の或る日、ふと思い出して遍路旅の本を一冊買いました。それは遍路旅の身支度や心構えから始まって、一番札所から88カ所のお寺の解説や電話番号、最寄り駅や地図などと、一つ前の札所からの道順や交通機関、所要時間、お休みどころなど、とても丁寧に写真や図面入りで説明してあったのです。
 八十八ヶ寺は全て回った訳ではなく合計三回遍路の旅に出かけて、幾つか纏めて回りやすい順に歩いたり、遠い処は一部交通機関を使ったりしました。
 心に残った札所として室戸岬の最御崎寺(ほつみさきじ)に行った時、海沿いに私の背丈より高い見事なサボテンが自生していて、まるで異郷をさまよう旅人の気分でした。室戸岬や足摺岬は、よく台風の通り道として耳にしていましたし、足摺岬の断崖を見晴るかす道を歩いた時は、その高さに足がふらつきそうでした。何処の札所でも無心に祈ることによって、心が安らいだ良い日々でした。
 仏壇の義父母と娘の遺影に飾る仏花等は、毎日お水を取り替えるのが習慣で仏前にお花が絶える事はありません。水を替えた後に夫と般若心経をあげるのが四国遍路から帰って以来、何故か習慣になりました。心が安らぐ時間です。花瓶には今蘭の花が生けてあります。親しんで過ごした日々を思い浮かべながら「般若心経」を上げる事は、今は亡き人々を思い出すよすがとなって、良いひと時になっています。
 五月の遍路にとって、四国の風景は特別強烈な印象を与えるものではありません。ですが温かい陽の光と、爽やかな風の薫りと、住民の皆さんの優しい眼差しが、又行きたいとの思いを呼び起こして来ます。
 佐藤春夫の望郷五月歌が、明るい中でも哀調を帯びて囁きかけて来ます。

    望 郷 五 月 歌    
               佐 藤 春 夫

塵(ちり)まみれなる街路樹(がいろじゆ)に
哀れなる五月(さつき)來にけり
石だたみ都大路(みやこおほぢ)を歩みつつ
戀ひしきや何(な)ぞわが古里(ふるさと)
あさもよし紀(き)の國の
牟婁(むろ)の海山(うみやま)
夏みかんたわわに實(みの)り
橘(たちばな)の花さくなべに
とよもして啼くほととぎす
心して、な散らしそかのよき花を
朝霧(あさぎり)か若かりし日の
わが夢ぞ
そこに狹霧(さぎ)らふ
朝雲(あさぐも)か望郷の
わが心こそ
そこにいさよへ
空靑し山靑し海靑し
日はかがやかに
南國(なんごく)の五月晴(さつきばれ)こそゆたかなれ・・・



感動の長崎と知覧

2022年03月01日 | 随筆
 過日とても美味しい長崎のカステラを、親しくしている知人から送って頂きました。それは今迄食べたことの無い程の素晴らしく美味しいカステラでした。
 沢山の旅をしてきた私達夫婦の旅の中でも、長崎はとりわけ想い出の深い所です。最も強烈な印象が残っているのは、以前16番館に展示されていた「踏み絵」です。それはキリスト教の信者達が踏めなくて苦しみ抜いた挙げ句、踏まざるを得なかった黒い足跡の付いた踏み絵の実物でした。
 その踏み絵は汚れていて、役人の指示に従って心なくも踏んでしまった信者達の悲しみを訴えるように、足跡が重なって黒く大きく見えました。踏み絵に残ったこの黒い足跡に、私は突き上げる程の悲しみに耐えなければなりませんでした。
 私はキリスト教の信者ではありませんが、苦しむ信者達の耳に聞こえて来たイエスキリストの「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。」と云う遠藤周作の「沈黙」のクライマックスが思い出されて、思わず涙がこみ上げました。
 大浦天主堂では、美しいステンドグラスからの光が差し込む静かな教会を見学しました。正面のキリスト像に向かって右側に白いマリア像が立っていました。残って居るはずのキリスト教信者を探していた神父の所へ「サンタ・マリアの御像はどこ」と訪ねて来た農婦達があり、潜伏していたキリスト教信者に出会えた神父の話は有名です。これが200余年の長い鎖国の後、神父と「隠れキリシタン」とが交わした言葉だったのかと思えば、胸を打つ感動で言葉も出ませんでした。現存するマリア像はその時のマリア像だと聞いて、思わず手を合わせました。何とも言えない感動でした。

 知覧の「特攻記念館」ほど泣きながら巡った展覧会場はありません。これから特攻兵として出撃する兵士のあどけない笑顔の写真、加えて母親から息子の兵士宛に送られた手紙を案内の方が読み上げて下さいました。それは「お国の為に行きなさい」ではなく「南無阿弥陀仏を唱えながら逝きなさい。阿弥陀様の足元で又会いましょう」とたどたどしい平仮名でしたためてありました。この言葉が余りにも切なくて、何年経っても忘れる事ができません。
 もんぺ姿の特攻兵の母親の像や、出撃の前夜一同が集まって寝たという狭い三角兵舎もありました。もんぺ姿は私が幼い頃に母がはき慣れないもんぺ姿になって、当時は小学校のグランドに集まって竹槍訓練がありました。その頃の母の姿が目に焼き付いています。何だか当時は非常時の空気が流れてくるようで緊張して眺めたものです。

 知覧の武家屋敷には早朝のバスだった関係で、とても静かで植え込みの垣の美しい静かな庭を、一つ一つ廻って展示の解説をボタンを押して聞きながら歩きました。深い緑に覆われた武家屋敷などを心ゆくまで見学しました。
 様々を見学した後に帰りのバスに乗ろうとバス停に行った頃、そこには丁度下校時刻だったらしく、高校生も大勢乗って来ました。元気の良い学生達は明るくお喋りでしたし、中には茶髪にピアスの学生もいて、思わず眉をひそめていました。特攻兵として死んでいった同年代の少年達の御霊に祈りを捧げてきたばかりの私達夫婦には、埋めがたい違和感を感じさせられたのです。 
 ところがバスが混んで来て、やがて年を取ったおばあさんが乗ってきました。すると茶髪の男子高校生がスッと立ち上がっておばあさんに席を譲ったのです。おばあさんはお礼を言いながら席に着きました。予想外の出来事でしたから驚きました。混み合ったバスに一瞬涼風が吹いた気がしました。「うるさい茶髪の高校生達」が一瞬にして「マナーを身に付けた温かい高校生」に変化しました。知覧の五月の風に吹かれた私は、人生の軌跡を感慨深く味わって忘れられない記憶になったのでした。知覧の魂は引き継がれている。この国は大丈夫だと急に元気になった私達でした。

 もう一つ切支丹殉教の地である根獅子浜へ廻った時、拷問に逢って殉教した信者達の血で、浜辺が赤く染まったと聞く根獅子浜(ねしこはま)へ行きました。沢山の信者が亡くなって、この地に埋められたと云われる「うしわきの森」では、何となく足元の土がフワフワとした感触の小道でしたし「今でも信者達は此処は裸足で歩く」と聞いて、私達も恐れ多いような気がして思わず足運びが慎重になったのでした。

 その後鹿児島県出身の大学時代のクラスメイトから、思いがけなく「知覧茶」を送った頂いた事がありました。懐かしい想い出が私を一層幸せにしてくれたのは云うまでもありません。

また逢わん約束残して友逝きぬ知覧の茶葉の香り愛しむ 

幸せと思う心が幸せを運び来新芽の緑さやけし

ありのまま老いの寂しさ語る友節くれ立ちし手を握りしむ(あずさ)