ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

睦月のできごと

2014年01月29日 | 随筆・短歌
 お正月の松の内も過ぎて、新年の街の空気でも吸おうかと、ぶらりと出掛けた時のことです。心ならずも詐欺まがい?の不愉快な買い物をしてしまいました。さしたる買い物でもなく、そう大げさに気にする程のことではないのですが・・・。うかうかと買った自分にも落ち度はあるのですが、何よりも世の中が悪い方向に変わっていくことが身にしみて悲しく思われました。
 ある有名デパートで「大江戸職人芸」の催し物があり、買い物ついでに顔を出しました。特別に欲しい物がある訳でもなく、ブラブラ細やかな職人さんの芸を見て回っていました。ふと見ると片隅に家紋の小さな置物が飾ってありました。
 縦横それぞれ10㎝余りの桐の板に、黒い○が彫られていて、黒地に金泥で描いてある家紋が並んでいました。立てて飾られるようになっています。その中の一枚に我が家の家紋「立沢瀉(たちおもだか)」を見つけました。
 家紋は紋付を着る女性には興味がありますが、男性は余り興味がなさそうです。万一の時の大切な書き置きには書いてあるのですが、これがあれば、お葬儀の時にもまごつかないだろうと、一枚買うことにしました。
 お店にすわっていた人は直ぐに箱に入ったものを手渡してくれ、私はそれを貰っていそいそと帰宅したのですが、家で箱を開けてビックリしました。家紋は素人のデコボコ塗りで、金泥は膨れてアワを吹き、黒地の塗りもザラザラしていてお話にもなりません。お店に飾ってあった見本とは別の物に思えました。飾ることも憚られ、そっとお仏壇に置きました。
 オレオレ詐欺が流行って、もう長い年月が過ぎています。しかし残念なことに、去年は更に多くの人が詐欺に遭っているそうです。騙された人の中には「私は絶対大丈夫」と日頃から思っていた人も多いそうです。勿論私もそう思っていた一人です。
 意外にあの手この手の小さな詐欺まがいの売り物に、私達は知らずに引っかかっていることに気付く結果になりました。
 デパートの名物展で買い物をしたことは、近年これで三回目でしたが、三回共おかしなもの(有名店なのに、食べても名前ほどに美味しくない物など)を買って帰り、家族に「あれは特殊な業者が全国を回っているので、老舗とは関係ないのだそうだ」と聞いていました(何時か週刊誌にも出てたと記憶しています)が、今回ばかりはがっかりしました。箱の粗末な包装にも気付かず、包みを取ると真っ白なボール紙の箱で、中に店名もありません。包み紙の店名をみましたら、人形店の名前があるだけで、住所も無いのです。「松○」とありましたから、ネットで引きましたら確かに数代の老舗の人形店のようで、沢山の人形が出て来ました。桐の家紋を売っているとは書いて無く、人形店が作るとも思えませんし、第一こんな粗末なものを老舗が作る筈もありません。 
 去年金沢の県立工芸館で求めた九谷焼は、それは見事で、家族で使う度に嬉しく思い出していましたから、そんなイメージがあって、この家紋を良く見えるように床の間にでも飾ろうと思ったのです。私の夢は見事に砕かれました。
 私はお人好しで、その場でお店について聞くでもなく、いそいそと箱を抱えて帰って来たのですから、自分の愚かさを知る良い機会でもありました。
 しかし、考えてみると、騙されることは悔しいですが、疑わずに信じた自分を少しは褒める気になりました。ですからこんな買いもの一つでそう悲しむことも無いのです。ですが、これだけでは済まなかったのです。ついでに買って来た名物と言われるお団子も、矢張り表の紙を剥がすと、箱に店名も住所も製作日も賞味期限もなく、調べた訳ではありませんが、中身は違うもののようでした。こういった催し物にはレシートが無いこともあり、有名デパーとしては売り場を貸しているだけで、商品については責任を持たないのだと思われますが、客はデパート名を信用して来るものも居る訳ですから、もっとしっかり監督をして欲しいものだと思いました。 
 先日来、テレビで魚など、本来と異なる食品名をどうするか、ということが再び話題になっていました。鮭とあっても鱒であったり、銀カレイが全くカレイと関係無いことは知っていましたが、なじみが無いと言わずに、正しい名前で売って欲しいものです。消費者は必ず安くて美味しいものを見つけますし、やがてその名前は必ず覚えられます。
 偽って粗悪品を売る等という商法で、会社が繁栄した例はありません。私は日頃から、スーパーに集まる主婦の眼力の鋭さに、脱帽することがしばしばです。商売は信用でなりたっていることは、今も昔も変わりません。正直なお店には人が集まりますし、廃れません。安くて良いものは、見る見る売り切れてしまいます。「皆さん良く勉強しておられるね」と買い物に同道してくれる夫と、時折感嘆しています。
 年と共にのろまになって、人には遅れがちな私です。もっと賢くならないといけないのですが、人を信じることが出来なくなったら幸せは逃げて行くことでしょう。身のまわりには優しく親切な人達が多くおられて、何時もありがたいと思って居ます。
 今読んでいる坂村真民の「二度とない人生だから」の詩に、「三不忘」というのがあって、ついさっき読んだところです。
 貧しかったときのことを忘れるな
 苦しかったときのことを忘れるな
 嬉しかったときのことを忘れるな
とあります。 また、別の本には、
 天才でない者は
 捨ての一手で
 生きるほかはない
 雑事を捨てろ
 雑念を捨てろ
とありました。大好きな坂村真民の本を三冊揃えて楽しんでいるところです。身にしみます。今の自分が恥ずかしくなります。
 春はそこまで来て居ます。お天気の良い日はお買い物にも出掛けようと考えています。


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自分色の花を咲かせて欲しい

2014年01月16日 | 随筆・短歌
 親が子を育てる、社会が人間を育てる、自然が植物を育てる、動物を育てる等、様々な存在が育てるものとなり得る訳ですが、その中にあって、人間を育てることの大切さは誰しも感じるところです。
 子供を産んだ母親は世の中にこれ程可愛いものは無いと思いますし、是非立派な子供に育てたいと願うことしきりです。
 育てるとは「養育する、教え導く」ということになりますが、基本的には、たっぷりと愛情を注ぎ、必要な栄養を与えていれば、自ずと育っていくでしょう。
 しかし、この基本的な事さえ出来ない親が最近可成り多いことを知り、とても憂えています。幼い子供の虐待のニュースほど悲しいニュースはありません。十分に食べさせて貰えなくて、やせ細っていたとか餓死したとか、痣だらけだったとか、裸でベランダに出されていたとか、とても親のすることとは思えません。しつけとは言えないひどさで、親の心が病んでいるとしか思えません。何故そのようになって来たのか、社会が親の心を不安と焦燥に追い込んでしまっているのでしょうか。 
 罪の無い子供には本当に気の毒なことですし、そう言う幼児体験を持った子供たちが、次には親になっていく事を思うと、虐待の連鎖が果てしなく続くようで、危機を感じるのは私一人ではないでしょう。
 私の子育ても、もっと子供たちと話し合う時間を持つべきだったと、折々思うことがあります。働いていたから、というのは言い訳にしかなりません。幼い頃の我が子について、知らなすぎたのではないかと思うことがあります。
 子供たちはそれぞれ様々な素晴らしい遺伝子を持って生まれて来ており、早くから芸能面やスポーツ面でその才能の芽が出て、恵まれた環境の子供たちはぐんぐんとその素質を伸ばして、やがて立派な花を咲かせることが出来るのです。
 しかし、多くは普通に教育されて、親の「教え・導き」によって、人生の方向付けが成されるような気がします。たまたま職業が才能や好みと一致していれば問題は余りないのでしょうが、少子化になるに従って、無理矢理仕向けられる勉強や仕事であったりしたら、それは子供にとっても、ひいては親にとっても気の毒なことです。
 個々の人間は、本来何に成らなければならないということは無く、幾つになっても自分のやりたいことが見つかった時に、それを天職と心得て、打ち込んで行くのが最も自然な生き方だと思うのですが、(厳しく言えば世襲の家庭にあっても)世間体を気にする親がいれば、矢張り子供は苦しむでしょう。次に詩を一編紹介したいと思います。
 
あなたがたの子どもたちは
 あなたがたのものではない
 彼らは生命そのものの
 あこがれの息子や娘である
 彼らはあなたがたを通して生まれてくるけれども
 あなたがたから生じたものではない・・・
 あなたがたは彼らに愛情を与えうるが
 あなたがたの考えを与えることはできない
 なぜなら彼らは自分自身の考えを持っているから。
 あなたがたは彼らのからだを宿すことはできるが
 魂を宿すことはできない
 なぜなら彼らの魂は、 明日の家に住んでいるから。
 あなたがたは彼らのようになろうと努めうるが
 彼らを自分のようにならせようとしてはならない
 なぜなら生命(いのち)はうしろへ退くことはなく、
 いつまでも昨日のところに
 うろうろ ぐずぐず してはいないのだ・・・(以下略)
              カリール・ジブラン「予言者」より
 
 これは親が子を我がものと誤って、子供の人生を支配しょうとすることは間違いであるという教訓に満ちた詩として、私の好きな詩です。
 教育とかしつけと言っても、子供が学ぶのは、2×3=6といった教育の内容そのものばかりでなく、親や、教師や社会のあらゆるものを良く見ていて、後ろ姿も言葉の調子も心配りも、総てが学ぶ対象なのです。
 絵画の良し悪しがよく解るようになるには、優れた絵画の鑑賞をすることだといわれるように、親が子供に与えられるものは、「良い教材」だけであれば良いのですが、悪い教材を与えておいて、困ったといっても遅いのです。溢れる程の有益な・又有害な器具や情報に満ちた社会にあって、選ぶ能力が未熟な我が子には、親が選別して与えることも、又社会が放出する有害な有形無形の情報を排除することも大切です。未成年による犯罪の温床になる恐れのあるものは、規制もしなければならないと思います。
 しかし、良し悪しを選別する人間本来の正しい意識は、総ての人間の心の中に生まれ落ちた時から備わっているといいます。それをのばすこと、則ち日頃から自分の心の言葉に耳を傾けて、善なるものに従う教育を、親が言い聞かせたり実際にやって見せることで、正しく成長していくものと思います。
 後は子供自身が努力する姿を見た時に、こころから褒めて自らも喜ぶことでしょうか。子供の喜びに共感する親の姿は、子供を励まし、良い方向に導いてくれます。子供たちの心は素直で鋭く、おだてや誤魔化しはききません。褒める所はいつも直ぐそこにあるのに、気が付かないだけなのです。
 自分自身は凡人ですから、我が子も凡人で当たり前、生きていてくれるだけで有り難い存在だと思えます。
 一番大切な心の教育を軽んじ、その子の天性を軽んじて、親の価値観を押しつける育て方は如何なものでしょうか。
 早く咲いて早く散る花、遅く咲いたのに大きく咲く花、それぞれ自分色に染めて咲く、それでこそ人生が楽しいと言えそうです。ただ、自分の心に恥じないようにすることさえ、身に付けておけば、やがて子供自身が自分の道を探し当てて生き、やがて自分色の花を咲かせることでしょう。

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中村元(はじめ)博士を慕う

2014年01月05日 | 随筆・短歌
   「慈しみ」  
 一切の生きとし生けるものは
幸福であれ 安穏であれ 安楽であれ
一切の生きとし生けるものは幸であれ
何ぴとも他人を欺いてはならない
たといどこにあっても
他人を軽んじてはならない
互いに他人に苦痛を与える
ことを望んではならない
この慈しみの心づかいを
しっかりと たもて
   中村 元 「ブッダのことば」から

 皆様あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
 元日の午後、昨年の暮れに録画してあったNHKの「心の時代」の「東洋の智慧を訪ねて」を見ました。中村元博士とその業績についてでありました。対談は東京大学名誉教授の前田専学博士と聞き手は何時ものように金光寿郎氏でした。
中村元博士は、膨大で難解な仏典を現代語に訳され、世界にその名の知れた偉大なインド哲学者・仏教学者です。博士が書かれた「ブッダの言葉」という本から、博士が現代そして未来に残しておきたい、いわばブッダの説く真髄のような言葉を、上記の詩の形にして、碑にもされました。
 上記のいしぶみとその傍らに立った博士の映像も拝見しました。私は、そのいしぶみの言葉に強く引かれて、今回の冒頭に引かせて頂きました。
 日本人の心は次第にすさんできて、以前よりも自己本位で、他人を愛せないばかりでなく、自己さえ見失っているようです。被災者や弱者が置いてきぼりになっているように思えてなりません。お叱りを覚悟で申しあげますが、オリンピックは東京でなくともよいのではありませんか。何処かで必ず開かれているのですから、東京招致よりも先に、全力を挙げてやらねばならないことがあるのではありませんか。まだ仮説住宅に暮らす人達や、原発汚染から一日も早く元の生活を取り戻すことが、緊急の課題です。
 東京招致で、誰が得をするのでしょうか。莫大な税金が、建設業者に渡り、それが経済を押し上げるとしても、それで復興復旧の工事が遅れるとしたら、政治は一体誰の為にあるのでしょうか。
 お金は天下の回り物で、回り回ってやがて庶民の手に入るのでしょうか。少なくとも東北の被災者に渡り、復興が早まるとは到底思えません。むしろオリンピックの為に人手や資材が不足して、遅れると聞いています。
 「一切の生きとし生けるものは幸福であれ、安穏であれ 安楽であれ」という言葉には、一層ひしひしとこれで良いのかと思わざるを得ません。
 そして「何人も他人を欺いてはならない」と言われていますが、「拉致被害者は必ずお救いいたします」とか、「東北の復興を第一に致します」とか次々に口にされている政治家は沢山いますが、今や本気で聞く人はいるのでしょうか。
 「互いに他人を軽んじてははならない、他人に苦痛を与えることを望んでははならない」とありますが、私達も今でも東北の人達や災害に遭った人々を思い、僅かではありますが、税金以外に拠出金を出していますし、現状に胸を痛めています。「この慈しみの心づかいをしっかりとたもて」といわれているように、自分の心の善なる声に耳を傾けて、日々行動しなければならないとしみじみと思ったのです。
 ひろさちや氏の本に次のようなエピソードが載っていました。幼稚園で徒競走がありました。一番先頭を走っていた女の子が直ぐ後ろを走ってきた子が転んだのに気付いて、戻って来て「大丈夫?」と抱え起こしたのだそうです。園長先生は、それを見て「競争なのだから、転んだ人に構わずに走るように指導しようか、それとも良いことをしたねと戻ったことを褒めてあげようか、」と迷ったのだそうです。私は何より戻った子の優しさを褒めてあげたいとそう思いました。それが教育というものではないでしょうか。それこそブッダの「慈しみ」の心を体現したシーンだと感動致しました。
中村元博士の「慈しみ」の碑とお墓は多摩墓園にあると、この番組で聞いて、早速行きたくなり、家族に私の好奇心とお墓好きを笑われました。しかし、今年は可能であれば、多摩墓園に行って、過去のNHKの仏典の学習でも何回もお名前が出て来て、今回このようなご縁で、その人となりを身近に感じたのですから、お参りさせて頂けるように、と願っています。老いた私に今年の希望が一つ新しく生まれたことを嬉しく思っています
 ひろさちや氏は別の本で、「私達は皆仏のシナリオを生きて居る」とも書いています。病気になって欲しいと頼まれても、損な役を頼まれても、仏の物差しによる配役はすべて有意義で素晴らしいと思って、しっかり演じきること、則ち頂いた命を素直に生ききることが何より良いことだと言っているのだと思います。
 人間の本質は平等で、貧富の差も健康な人も病む人もそれは役柄の上であって、等しく一個の人間なのだと説いています。そうであれば私達は、驕ることも卑下することもありません。人生を正しく全うするには「慈しみ」の心をしっかりとたもちながら生きていくことが大切だと、心にしみて感じたのです。
 私は感動しやすく、また人の言葉に動かされ易く、かく有るべしという気持ちが強くて、兎角しゃちこばった生き方をしやすい方です。そのあたりは、このブログの読者さんはとうにお見通しだと思います。残された時間は僅かですが、感動したことを、素直に行動に移して今を生かして頂いていることに感謝し、日々を過ごして行きたいと願っています。
 最後にもう一度「慈しみ」の心づかいをしっかりとたもつことの重要性を、新年の始めに気付かせて頂いたことに感謝して、日々励みたいと念じています。
 

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