ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

仁左衛門のおせち

2009年12月29日 | 随筆・短歌
 今年もあと少しばかりになりました。先日キッチンの換気扇の分解掃除を、脚立が危ない私の為に、夫の手を借りながらすっかり綺麗にして、新品みたいに磨き上げました。以来毎日少しずつ棚や引き出しの中までお掃除して、やっと家の中を磨き終え、後はおせちを作るばかりになりました。
 我が家では義父母の時代から、私が手伝いながら少しずつ改良した「仁左衛門おせち」を毎年手作りします。それはもう何十年となく続いています。
 義母は高齢にも拘わらず、毎年水羊羹を練り上げて、口取りに加えていました。本練りはとても時間も掛かるし、なるべくしっかり練り上げた水羊羹を、田舎から持ってきた漆塗りの流し箱一つ分を作り、お正月の間中頂きました。きんとんも手作りです。サツマイモをベースにして栗の甘露煮を沢山いれた、栗きんとんです。義母が亡くなってからは私が受け継ぎ、口取りももう少し賑やかにして、四つのお重とオードブルの入れ物一つとに形良く納め、時折追加します。
 夫はお酒が飲めないので羊羹に目がありません。ずっと以前に娘がとらやの羊羹をお土産に、年末に帰って来たことがありました。当然その年は、とらやの羊羹がおせちの仲間入りをしました。父親の喜びようを見たせいか、以来娘は良くとらやの羊羹を買って来るようになりました。私達のような慎ましい年金生活をしている者には、とらやの羊羹はそうそう手の届かない高級品です。毎年自分達でデパートで買って、というわけにも行かず、以来とらやが手に入らない年は、仕方なく近くの和菓子屋さんで調達して、手間のかかる水羊羹は作らなくなりました。
 ところが私の昔の同僚の女性が、日頃何かと夫にご自分の病気のことについて、電話で聞いて来たり、相談していましたので、お礼にと昨年末とらやの羊羹を送って下さいました。
 夫の喜びようは申すまでもありません。彼女からの電話には、何時も私と夫が代わる代わる電話口に出て話をしますが、夫がとらやの羊羹をいたく喜んだことを知ったためか、今年も先日送って下さいました。何かとご縁のあったご家族でしたが、ご主人に先立たれてから長い間を独身生活を送りながら、非常に前向きに積極的に生きていらっしゃいます。 ご主人が外語大の中国語科を出られた方であったせいもあるかも知れませんが、80歳になられた今でも中国語を一生懸命勉強しておられます。「夫と共に生きているといつも思っています」と仰る愛情豊かな先輩です。ご主人が専門とした言葉を学ぶ意義を、こんなところに見出すとは何と素敵なことでしょう。
 おせちの中でも、鶏のもも肉の黄金焼きというのが家族の人気で、沢山作りますし、厚焼き卵の好きな息子の為に、これも詰め合わせます。煮しめを作るのも我が家の慣わしです。お重一つは煮しめです。ぜんまいや筍、椎茸、芽出しくわい、こんにゃく、昆布等、甘い口取りや、肉類に飽きた時に好評です。お重一つが煮しめというところが、仁左衛門独特と言えるかも知れません。
 最近は、スーパーのお総菜売り場に並ぶ詰め合わせや、デパートなどのおせちで済ませる家も多いようですが、私は料理が好きなので、三日間を掛けて楽しみながら、仁左衛門 の伝統を守ってせっせとおせち作りをしています。
 何だか今年度最後のブログは自慢話になってしまったようで恐縮です。今年は三月三日に急に思い立って、ブログを立てみたのですが、何時まで続くか、先はどうなることかと不安で一杯でした。以来皆さんに支えられながら、何とか書き続けて来ることが出来ました。これが私の今年の一番の大仕事でもあり、また私の生涯の記念すべき年になりました。
 皆様には平凡な老婆の愚痴や他愛もない昔話といったような内容の文章であるにも拘わらず、飽きもせずに読んで頂き、折りに触れて励まして頂いて、ここまでどうにかやって来られたと思うと、感謝の気持で一杯です。有り難うございました。 
 途中で足に怪我をして、ギブスを嵌めたり、病に罹ったりしながらも、こうして今日が迎えられましたのは、基本的には何とか健康を維持できた事と、皆様の支えがあったからだと思っています。
 どうぞ皆様もお健やかに良いお年を迎えられますように、お祈り申し上げます。

  独り言つ何とかなるさこの先も雲も自由に流れてゆくよ  (実名で某紙に掲載)
  かにかくに今年も暮れて新年に恥じらいそむか南天の紅  (あずさ)

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ささやかな日課で始まる一日

2009年12月24日 | 随筆・短歌
 私は朝食が済み、片付けも終わると、お仏壇の前に座って、般若心経を上げます。膝の痛みで正座が出来なくなって、椅子に掛けての読経です。
 義母、義父、娘の順に亡くなって、位牌も遺影も増えました。娘が亡くなって何年か経った頃、夫は「仁左衛門(我が家の屋号)の供養を長くしてきてくれたし、君の実家の家族の遺影も飾ったらどうか」と言って呉れました。義父と義母の位牌と遺影が仏壇の上から二段目の左右にあり、その下の左に娘の遺影があります。娘は結婚したので、我が家に位牌や遺影があるのは異例かも知れませんが、たとえ他家へ嫁いだ子であっても、私達の子供である事には違いありませんので、我が家で供養もしています。右には、幼くして亡くなった夫の弟の位牌が置いてあります。そこで私は、ずっと下の壇に、私の父、母、兄弟の写真を並べさせて貰い、お仏壇はとても賑やかになりました。
 我が家は真言宗なので、常に般若心経を上げますが、娘の嫁ぎ先は曹洞宗で、これは般若心経で良いそうですが、私の実家は浄土真宗で、般若心経は上げない宗派なのですが、み仏はその広い心で許して下さるものと信じて読経しています。 
 私と夫が上げるお経にもそれぞれの個性があって、お金(きん)を叩く場所や回数が違います。私は最後の一節が済むと、必ずおきんを五つ叩いて、何故か「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱えるのです。そして、「仏様有り難う、皆さん有り難う、今日もこの様に良い一日を頂きました。有り難うございます。」と言って終わります。
 夫も毎朝読経しますが、最後は矢張り「南無阿弥陀仏」と唱えるそうです。その理由は親鸞が大好きだからだと言っています。
 私の言う「皆さん」とは、私を守って下さっている祖先の魂や先だった人達、そして私の身の回りに在るあらゆる動物も植物も、空や海、石ころや大地、そして宇宙までの森羅万象を指しています。 
 空海はこの世の万物に仏が宿っていると言いました。私も宇宙の中で万物は生きている、生きているからには皆魂を持っていると納得が出来ます。「今」という時間を生きているということは、この仏心を宿した万物に守っていただかなければ生きていられる筈もなく、高齢にもかかわらずこのように健康な状態で、家族にも恵まれ、今朝を平穏に迎えられたことは、将に奇蹟とも言える幸運であって、心から感謝せずには居られません。
 南無阿弥陀仏というのは、法然や親鸞の教えによるもので、この言葉を唱えることで、お浄土へ行けるという、明瞭なお導きに安らかな気持になれるのです。真言宗でしたら、南無阿弥陀仏というところは南無大師遍照金剛と唱えるところでしょうが、すっかりごちゃ混ぜにしてのお参りで、申し訳ないとは思いますが、素人のこと故苦笑しながらも許して下さるでしょう。それでもこのお経を上げて、感謝の気持ちで一日か始まるのは、とても清々しい気持なのです。これはきっと朝一番に、仏様のご慈悲を頂いている証拠なのでしょう。
 この秋に我が家のご先祖の法要をしました。義母が亡くなって、丁度23回忌に当たり、義父19回忌、夫の弟が72回忌、そして娘は一年早い13回忌です。
 夫の姉がまだ元気ですので、義父母には実子の家族一同がが集って、仁左衛門の法要を行える最後の機会ではないかと考えてのことです。33回忌ともなると、あと10年かかりますし、その頃は、どちらかが病気になっているかも知れませんし、或いは冥界に先立っているかも知れません。親孝行の最後の仕上げが出来たようで、本当に肩の荷を下ろした思いです。
 思えば夫が退職して、本山へ義父母の納骨の旅に出て、やっと責任を果たしたようで、ホッとした日がつい先日でもあったような、もうずっと昔でもあったような、そんな気にもなりました。納骨のあとに、桜が満開の京都の哲学の道や嵯峨野を歩いたり、萩まで足を延ばしたりして、それが私達の本格的な夫婦の旅の始まりでした。そしてその何年か後に娘が亡くなって、四国遍路の旅にも三回行きました。
 沢山の旅を重ねて、そろそろ私の足も思うように動かなくなりましたし、夫の血圧が突然高くなったりして、今年は春も秋も二つの旅の全てが直前のキヤンセルになりました。更に悲しいことに、親戚の大切な人が次々に亡くなって、そのお葬式に出席したり、知人のお悔やみもあって、例年になく多くの親戚縁者とお別れしました。喪中の悲しみに耐えて、新しい年を迎えられる方達は、さぞお寂しいことだろうと思いを馳せながら、静かに新年を迎えたいと思っています。

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年賀状に寄せて

2009年12月18日 | 随筆・短歌
 今年も年賀状の季節になり、私も先日書き上げてあった賀状を今日投函しました。私の賀状は、毎年同じく、「迎春」と大きく書き、その下に極小さく「本年もよろしくお願い申し上げます」というゴム印を押して、自分の住所氏名もゴム印です。けれども空いたところに手書きで一人一人心を込めてこまごまと書くことにしています。
 パソコンで書いた賀状をプリンターで印刷して、プリンターを一台壊してから、ずっとこのスタイルです。毎年工夫をこらした賀状を頂くと申し訳なく恥ずかしい気持ちになります。
 ところで毎年届く賀状の中で特に忘れられないものがあります。古い順に二枚上げると、その一枚目は、横浜市の或るホームから届くものです。私は卒後直ぐに実家へ帰らずに、そのまま東京の目黒区鷹番町というところに下宿して、勤め始めたのですが、そこの下宿の奥さまからのものです。奥さまはご両親と一緒に自分の5歳になる男の子供を育てておられました。立派な洋間の応接間もある大きな家で、お父上は偉いお役人だった人でした。広いお屋敷でしたので、他にも大勢下宿していましたが、一部屋離れた所にいた私は他の人とは交流もありませんでしたが、そこの家の息子さんが可愛くて、とても仲良くしていました。一緒に動物園に二人で行ったりもしましたし、その子は私の睫毛が長いと言って、物差しを持ってきて、今日は少し伸びたかな、などと測ったりして、とても楽しく過ごしました。奥さまとの賀状交換は、五十年以上も続いています。電話で話すことはあっても、その後一度もお会いしたことはありません。目も良く見えなくなってきて、手紙などはホームの方に読んでもらっていると言われますが、ご自分の賀状は今も達筆です。90歳近くなられます。何時でしたか近影の写真を送って、と言って来られましたので、鎌倉の明月院で写したものをお送りしました。その方は、井の頭公園で写したものを送って下さいました。二人とも昔の面影があって、懐かしかったです。
 二枚目は、私の亡くなった娘が外語大の学生だった時に、下宿した家のおばさんからのものです。大学に合格してから、その日の内にアパートを探すのは容易なことではなく、結局女子学生会館 というマンシヨン風で、食事は食堂でも取れるし自室で作ることも出来るという所へ取りあえず入れました。ところが娘は、こういう贅沢はしたくないと言って、やがて自分で探して引っ越しました。そのお宅は奥様の一人暮らしで、お世話になる時と、その家を去る時と、お世話になっていた頃に娘が短期留学する前後に訪ねて、奥様にお会いしたのですが、とても温かくて上品で良い方でした。娘が亡くなってからも、毎年欠かさずに賀状を下さいます。内容には必ず娘との思い出のひとこまを書いて下さるのです。今も娘が生きているかと思わせられるほど、温かいもので、しみじみと有り難く頂いています。
 想い出話にお付き合いさせてしまったようですが、年に一度しかやり取りのない賀状であっても、差出人の個性があり、人格が偲ばれ、何年経っても懐かしく、お付き合いしていた日々が想い出されて、過去を想い出すよすがとして有り難いのが年賀状だと思います。
 私の母が私の息子に宛てた最後の賀状は、大小入り交じった震える文字で書かれた、「心を大きく持って頑張って」という意味の短歌一首でした。孫に送る精一杯の気持ちだったのでしょう。また義父のところへは、亡くなる前年まで元教え子という人の賀状が一枚届いていました。
 賀状は多ければ良いというものではありません。たった一枚でも心の籠もった温かい一枚が、相手の心を支えるものだと信じています。やがて私も歳をとって、次第に賀状も減っていくことでしょう。既に義理だけの交換は止めていますし、少しずつ減って、何時か書けなくなった時が最後だと思っています。私の賀状が少しでも励ましになり、また往時を偲ぶよすがに役立てば嬉しいと思っています。

  今日も来ぬ待ち人からのよき便り日が経つ毎に不安のきざし
                       (実名で某誌に掲載)

 

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真に愛し合っているなら・・・或る愛と死から

2009年12月13日 | 随筆・短歌
 つい先日知人の奥様が亡くなられました。ご夫婦とも私達夫婦とは比較的親しくお付き合いしていました。年を重ねるにつれて、訃報は一層悲しく、心に重く残ります。
 このご夫婦は、言わば再婚同志でありました。ご主人は、もう15年以上前に奥様が病死されて、子供さんもいないし、親戚と言えば、亡くなられた奥様の方の親戚だけで、他に身寄りのない方でした。
 そのせいか、亡くなられた奥様の親戚の方達とは親しく付き合っておられました。奥様が亡くなられてから、10年近くたって、その親戚の一人の女性と親しくなられました。時々お食事を共にし、お酒を楽しむ程度のお付き合いでした。ところがある日電話に出なくなって、どうしたのかと心配して訪ねてみると、玄関を入った階段の傍に倒れたまま、もう三日も何も食べずに動けなくていたのだそうです。早速救急車を呼んで入院し、治療したところ、幸い殆ど後遺症もなく退院出来ましたので、生涯介護してあげるからと、説得されて自宅につれて来られました。
 その後私達とも親しくなりましたので、ポツポツとお聞きする所によると、事情があって姓を変えずに、言わば同棲婚という形で同居されたのです。とても良いご夫婦で(私達はご夫婦と呼んでいました)奥様も花を育てたりして、本当に仲の良い、気持ちの温かいご夫婦でした。
 ご主人は私の夫に、「先の妻も、もう十年も経ちましたから許してくれると思います」と仰ったそうで、夫も「亡くなられた奥様は、残った貴方の幸せを何よりも願っておいでだと思います。きっと温かく見守っておいででしょう」と言って祝福しましたら、とても喜んでおられたそうです。
 時折お二人は車で旅行にも行かれて、予期しなかった幸せな老後を満喫しているようでした。だがどういう神の思し召しなのか、ある朝奥様は突然脳血栓の発作を起こして、アッという間に亡くなられたのです。約五年間の同居生活でした。奥様はご主人より少し年上で、私と同い年でしたので、私はとても悲しい思いをしています。もし私が残されたのだったら、と思うとぞっとします。まだまだお二人で長生きできるものと考えていたに違いないと思うと、奥様の無念さも、ご主人の悲しみも如何ばかりかと切なくなってきます。
 最近は結婚も様々で、若い人達には、事実婚もかなり増えていると聞きますが、別れるのに都合が良いから等というのではなく、熟年の方達がこの先の老いを考えた時に、お互い過去に縛られず、共に暮らして、またはお茶のみ友達として、同居したり、別に暮らしながらも、深いお付き合いをするのも、良い老後を送る為の一つの選択肢だと思っています。
 現代は独身の男女が沢山いて、その人達の今後を考えると、なかなか正式な結婚に踏み切れない事情もあるようですし、それも解る気がしますので、ある程度の年を重ねたら、この人達のように、心はちゃんとした夫婦であっても、形にこだわらない生き方も良いのではないかと思うのです。
 不倫と違って、男女が支え合い愛し合って暮らすことは、人生を豊かにしてくれる筈です。万葉の時代のように妻問婚であっても、それは差し支えないことです。老人と言えども真に愛し合っていれば、形にこだわらず、世間体にこだわらず、助け合って生きて行けたなら、それは良い人生に違いないと、つくづく思わせられた最近の出来事でした。

  時雨きて胸の仲まで沁み通る泣きたいやうな夜の一人居
  他ならぬ君のことゆえ許さむか約束違えて先逝きしこと
                   (実名で某誌に掲載)

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虎の威を借る狐のように

2009年12月08日 | 随筆・短歌
私達は夫婦ともごく平凡なサラリーマンでした。今は退職しましたから、全く肩書きの無い人として、大いにのんびりさせて頂いています。最近は特にこのような立場が心地よく、肩が凝らず有り難いことだと思え、こんなによい暮らしもないと感じています。
 様々な人が集まっている団地ではありますが、この分譲地を買った時の年齢がほぼ同年令であったため、今日に至っても話しの関心や価値観が似ていて、会えば皆さん気持ち良く、楽しそうに談笑しています。けれども現職時代の職業や階級に触れることは全く無いので、平等で気持ちの良いお付き合いをしています。
 ところが私の知人で、一流企業に勤めていた人が、会社の斡旋する団地の一角を買って家を建てた所、退職後も会社の地位関係がまかり通っているといって、奥様が嘆いておられました。「今日は蒲団を干しておられなかったから何処かへ行っていらしたのか」とか、「○○へ行くから付いておいでなさい」と荷物を持たされたり、旅行するとお土産も買ってこなければならないし、大変だというのです。この分だと死ぬまで夫の現役時代の地位が張り付いて離れない、と仰るのです。こんな事ってあるのかしら、と思っていましたが、結構退職してからも上司風を吹かせる人が多いらしいことを私も夫に聞いて、何と愚かなことだと思うのです。
 
 もしも人間の価値が、その仕事で決まるものならば、馬はどんな人間よりも価値があるはずだ。・・・馬はよく働くし、第一文句を言わない。  ゴーリキー

熟年になっても、人間の価値は何によって測るべきかが解らない人達なのですね。
 ところで私も退職してから、ある女性の団体の仕事を手伝うように言われて、一時手伝ったことがあるのですが、そこでは、夫が大学の教授だったりすると、奥様がとてもそれを鼻にかけて威張るのです。夫が会社社長だったり、大学教授の人は他にもいましたし、全部とは言いませんが、そういう傾向は全く無かったとは言い切れません。
 妻の地位が夫の社会的地位に左右されているようで、違和感を持ちました。その団体は、女性の地位の向上を目的とする人達の集まりでしたので、その主旨と実態との乖離が一層気になりました。人間は一個の人として、尊敬されるべきものであって、夫の偉さに依って偉くなるといった類のものではないはずです。これは平凡なサラリーマンで現役を終わった夫の妻である私のひがみでしょうか。
 賀状の季節になって、年一回の音沙汰という人も多くなってきましたが、私も以前の職業を通じての友達とは、ごく僅かの人としか、交流しないようになっています。食事を共にする会も良くあるのですが、敬遠したい集まりは、誘われても適当に言い訳をして遠慮します。理由を言うと恥ずかしいのですが、今一緒に話していた人が早めに帰ったりすると、直ぐに居なくなった人の悪口を始める人がいるのです。それはとても嫌な気分を誘います。もし私が帰れば多分直ぐに私の悪口か、と思うと、そんな会には次からは出たくはありません。
 学生時代の女性の友達にはこのようなことはないので、とても安心して付き合えます。夫が如何ほど偉かろうと、少しも口にせず、みな平等に付き合います。私の夫も年を取って、昔の研究室の男女の友達などと楽しそうに付き合っています。私達のすぐ近くに住んでおられる人も同じようなことを言って、以前の職場とは全く関係ない人ばかりが集まって、ゴルフをしておられます。
 私が行っているジムでも以前は何をしていた人か、現在どんな環境にあるか、などを敢えて言わず、また聞かず、お互いに姓しか知らない同志で、会えば一緒に楽しんでいます。利害関係が無くて、お互い深入りせずに、さらりと付き合うのもとてもいいものです。
 信じ合える数少ない友達と、さらりとした付き合いの近隣や、趣味の会など、様々なお付き合いに支えられて、私は幸せな日々を感謝しながら生きています。

  いつの間にはぐれしものか自ずから距離置きしものか友達の輪
  生業(なりわい)の地位に付きくる苦しみが夫には融けず如月の雪
  後の世に縁なきこととしがらみを一つまた一つ棄てて生き継ぐ
                     (実名で某誌・紙に掲載)
 

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