夫の喜寿の記念写真が出来て来ました。私もついでに遺影の為に撮りましたので、各々その出来映えに驚いています。さすがに専門の技術者だけあって、幾つものポーズや表情をさせて、その中から最も良いものを選んで仕上げて下さって、夫は夫らしく、私は私らしく?撮れていました。「私はこんなに優しそうな顔をすることがあるかしら」と言いましたら、夫は即座に「ない、ない」と言いました。少し手を入れてくださったのでしょうか。記念写真を撮ることを、勧めてくれた妹に感謝しています。
最近は、良く頑張った自分へのご褒美に、という人がおられます。私は、自分が怠け者なので、余り褒められるような努力をして来ませんでしたから、自分へのご褒美等と言うことは、考えたことがありせん。でもこの写真がご褒美かな、と少し思ったりしていす。
そんな私ですが、過去をふり返ってみますと、自分でも良く頑張ったと思うことが少しは想い出せます。最も印象に残るのは、義母を送った時です。
一ヶ月余りの入院でしたが、とても愛妻家だった義父の頼みもあって、24時間誰か傍に付いている看病をすることになりました。それからのことは以前書きました。親戚ということにして家政婦さんを頼み、午前8時から夕方4時までお願いし、残りの時間は、私が受け持ちました。「風邪を引くといけない」と義父は心配しましたが、意識が朦朧とした人がよくする手いたずらのように、お蒲団を無意識にめくりますので、その都度掛けてあげるのです。でも又直ぐにめくってしまい、めくる、かけるの飽くなき戦いのようになりました。義母はどういう訳か入院間もなく、昼夜が逆転してしまい、夜ひっきりなしにお蒲団をめくるので、殆ど私は寝ている暇がありませんでした。看護師さんが「手を軽く拘束しましょうか」と何度も云われたのてだすが、私はとても気の毒でそうすることが出来ず、その都度お断りしました。
熱いお湯で早朝に全身をふいてあげて、すっかり着替えさせます。ホテル仕様の大きなバスタオルをシーツの上に敷いておいて、体位交換や着替えが軽々出来るようにしていましたので、看護師長さんは私が元看護師かと思われたようでした。衣類やタオル一式を持ち帰り、洗濯し、食事をし、少し眠って入浴、夫と義父二人の食事の準備など、私の一日の生活時間は、今考えると想像を絶するようでした。それは嫁である私の仕事であり、自分の子供達を育てて貰った恩返しでもあったわけですから、そして、その為に早く退職したのですから、そう考えて私は誠心誠意の努力をしたのです。私はそれが当たり前のことだと考えていました。
やがて全てが終わった時、私は自分が本当に真心を込めて、出来る限りのことをしたと、自分のした事に満足し、少し誇りに感じたのでした。でも誰一人「良くやったね」と言いませんでしたし、夜中の事など誰も知らないわけですから、無理もありません。けれどももし一言「御苦労だったね」と言ってくれたら、苦労はたちまち消えたことでしょう。
それは兎も角として、私がホッとしたのも束の間で、やがて「もっとああしてあげれば良かったとか、こうもして上げれば」と後悔が始まったのです。点滴だけで過ごしていたのですが、アイスクリーム好きの義母でしたので、アイスクリームやゼリーのようなものを、毎日少しずつ口に入れてあげました、義母は嬉しそうに食べていましたが、もっといろいろ美味しい物を探してあげればよかったとか、殆ど口がきけなくなっていましたから、私もむやみに話し掛けることは控えていましたが、それは間違っていて、もっと話し掛けてあげればよかったという思い等が湧いて、それが私を苦しめたのです。分かっていても分からなくても、優しい話し掛けをしてあげるべきでした。義母は全く話さなくなっていましたのに、ある日私にはっきりと「有り難う」と言ってくれて、私はとても感激したのですが、それだけ言えるということは、普段は話せなくとも分かっていたということになります。
そう思うと次々と後悔が生まれてきて、それは今でも時折私を苦しめます。
私の母は、父を家庭で殆ど一人で看病して見送ったのですが、矢張り亡くなる三日ほど前に「おまえと結婚して良かった、有り難う」と言ってくれたと、母は涙を流して泣きながら「長い間の苦労もすっかり忘れた。お父さんと結婚してよかった」と言いました。 亡くなる三日ほど前に「有り難う」と伝える例は他にも沢山あるらしく、そんなお話を友達からも聞きました。その後私の母も亡くなる丁度三日前に、にこにこして比較的元気な声で「有り難う」と私に言いましたが、それが母の最後の言葉だとは知らずに、その日の病院の付き添い看病が終わって、私もにこにことさようならを言って弟に交替したのです。
私の母と最後まで一緒に暮らした弟は、「もっと大切にしてやれば良かった」と電話で泣きながら何度も云いましたが、死に行く人の看病や介護は、本当にどんなに尽くしても、これで良いということは無いのだと分かっていましたので、大いに弟を慰めたものです。
でも、私たちの死は、何時やって来るかわかりません。ですから、日頃から出来るだけ優しくしてあげるように心掛けるとか、有り難うを口で伝えるとか、形にするとか、そんな心掛けが大切だと思うのです。私は、日頃から厳しい方だと思いますので、もっと優しい顔で優しくしなければ、「遺影を見て別人のお葬儀に来たと思われるよ」と夫にからかわたのが、現実になるのではないかと、心配になります。何時もあの写真のような顔をしていられるように努力しなければならない、と秘かに思ったりしています。
死を前に必ず伝へたき言葉「ありがたう」の五文字が全て (再掲)
最近は、良く頑張った自分へのご褒美に、という人がおられます。私は、自分が怠け者なので、余り褒められるような努力をして来ませんでしたから、自分へのご褒美等と言うことは、考えたことがありせん。でもこの写真がご褒美かな、と少し思ったりしていす。
そんな私ですが、過去をふり返ってみますと、自分でも良く頑張ったと思うことが少しは想い出せます。最も印象に残るのは、義母を送った時です。
一ヶ月余りの入院でしたが、とても愛妻家だった義父の頼みもあって、24時間誰か傍に付いている看病をすることになりました。それからのことは以前書きました。親戚ということにして家政婦さんを頼み、午前8時から夕方4時までお願いし、残りの時間は、私が受け持ちました。「風邪を引くといけない」と義父は心配しましたが、意識が朦朧とした人がよくする手いたずらのように、お蒲団を無意識にめくりますので、その都度掛けてあげるのです。でも又直ぐにめくってしまい、めくる、かけるの飽くなき戦いのようになりました。義母はどういう訳か入院間もなく、昼夜が逆転してしまい、夜ひっきりなしにお蒲団をめくるので、殆ど私は寝ている暇がありませんでした。看護師さんが「手を軽く拘束しましょうか」と何度も云われたのてだすが、私はとても気の毒でそうすることが出来ず、その都度お断りしました。
熱いお湯で早朝に全身をふいてあげて、すっかり着替えさせます。ホテル仕様の大きなバスタオルをシーツの上に敷いておいて、体位交換や着替えが軽々出来るようにしていましたので、看護師長さんは私が元看護師かと思われたようでした。衣類やタオル一式を持ち帰り、洗濯し、食事をし、少し眠って入浴、夫と義父二人の食事の準備など、私の一日の生活時間は、今考えると想像を絶するようでした。それは嫁である私の仕事であり、自分の子供達を育てて貰った恩返しでもあったわけですから、そして、その為に早く退職したのですから、そう考えて私は誠心誠意の努力をしたのです。私はそれが当たり前のことだと考えていました。
やがて全てが終わった時、私は自分が本当に真心を込めて、出来る限りのことをしたと、自分のした事に満足し、少し誇りに感じたのでした。でも誰一人「良くやったね」と言いませんでしたし、夜中の事など誰も知らないわけですから、無理もありません。けれどももし一言「御苦労だったね」と言ってくれたら、苦労はたちまち消えたことでしょう。
それは兎も角として、私がホッとしたのも束の間で、やがて「もっとああしてあげれば良かったとか、こうもして上げれば」と後悔が始まったのです。点滴だけで過ごしていたのですが、アイスクリーム好きの義母でしたので、アイスクリームやゼリーのようなものを、毎日少しずつ口に入れてあげました、義母は嬉しそうに食べていましたが、もっといろいろ美味しい物を探してあげればよかったとか、殆ど口がきけなくなっていましたから、私もむやみに話し掛けることは控えていましたが、それは間違っていて、もっと話し掛けてあげればよかったという思い等が湧いて、それが私を苦しめたのです。分かっていても分からなくても、優しい話し掛けをしてあげるべきでした。義母は全く話さなくなっていましたのに、ある日私にはっきりと「有り難う」と言ってくれて、私はとても感激したのですが、それだけ言えるということは、普段は話せなくとも分かっていたということになります。
そう思うと次々と後悔が生まれてきて、それは今でも時折私を苦しめます。
私の母は、父を家庭で殆ど一人で看病して見送ったのですが、矢張り亡くなる三日ほど前に「おまえと結婚して良かった、有り難う」と言ってくれたと、母は涙を流して泣きながら「長い間の苦労もすっかり忘れた。お父さんと結婚してよかった」と言いました。 亡くなる三日ほど前に「有り難う」と伝える例は他にも沢山あるらしく、そんなお話を友達からも聞きました。その後私の母も亡くなる丁度三日前に、にこにこして比較的元気な声で「有り難う」と私に言いましたが、それが母の最後の言葉だとは知らずに、その日の病院の付き添い看病が終わって、私もにこにことさようならを言って弟に交替したのです。
私の母と最後まで一緒に暮らした弟は、「もっと大切にしてやれば良かった」と電話で泣きながら何度も云いましたが、死に行く人の看病や介護は、本当にどんなに尽くしても、これで良いということは無いのだと分かっていましたので、大いに弟を慰めたものです。
でも、私たちの死は、何時やって来るかわかりません。ですから、日頃から出来るだけ優しくしてあげるように心掛けるとか、有り難うを口で伝えるとか、形にするとか、そんな心掛けが大切だと思うのです。私は、日頃から厳しい方だと思いますので、もっと優しい顔で優しくしなければ、「遺影を見て別人のお葬儀に来たと思われるよ」と夫にからかわたのが、現実になるのではないかと、心配になります。何時もあの写真のような顔をしていられるように努力しなければならない、と秘かに思ったりしています。
死を前に必ず伝へたき言葉「ありがたう」の五文字が全て (再掲)