ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

「有り難う」の言葉と優しさを

2011年11月29日 | 随筆・短歌
 夫の喜寿の記念写真が出来て来ました。私もついでに遺影の為に撮りましたので、各々その出来映えに驚いています。さすがに専門の技術者だけあって、幾つものポーズや表情をさせて、その中から最も良いものを選んで仕上げて下さって、夫は夫らしく、私は私らしく?撮れていました。「私はこんなに優しそうな顔をすることがあるかしら」と言いましたら、夫は即座に「ない、ない」と言いました。少し手を入れてくださったのでしょうか。記念写真を撮ることを、勧めてくれた妹に感謝しています。
 最近は、良く頑張った自分へのご褒美に、という人がおられます。私は、自分が怠け者なので、余り褒められるような努力をして来ませんでしたから、自分へのご褒美等と言うことは、考えたことがありせん。でもこの写真がご褒美かな、と少し思ったりしていす。
 そんな私ですが、過去をふり返ってみますと、自分でも良く頑張ったと思うことが少しは想い出せます。最も印象に残るのは、義母を送った時です。
 一ヶ月余りの入院でしたが、とても愛妻家だった義父の頼みもあって、24時間誰か傍に付いている看病をすることになりました。それからのことは以前書きました。親戚ということにして家政婦さんを頼み、午前8時から夕方4時までお願いし、残りの時間は、私が受け持ちました。「風邪を引くといけない」と義父は心配しましたが、意識が朦朧とした人がよくする手いたずらのように、お蒲団を無意識にめくりますので、その都度掛けてあげるのです。でも又直ぐにめくってしまい、めくる、かけるの飽くなき戦いのようになりました。義母はどういう訳か入院間もなく、昼夜が逆転してしまい、夜ひっきりなしにお蒲団をめくるので、殆ど私は寝ている暇がありませんでした。看護師さんが「手を軽く拘束しましょうか」と何度も云われたのてだすが、私はとても気の毒でそうすることが出来ず、その都度お断りしました。
 熱いお湯で早朝に全身をふいてあげて、すっかり着替えさせます。ホテル仕様の大きなバスタオルをシーツの上に敷いておいて、体位交換や着替えが軽々出来るようにしていましたので、看護師長さんは私が元看護師かと思われたようでした。衣類やタオル一式を持ち帰り、洗濯し、食事をし、少し眠って入浴、夫と義父二人の食事の準備など、私の一日の生活時間は、今考えると想像を絶するようでした。それは嫁である私の仕事であり、自分の子供達を育てて貰った恩返しでもあったわけですから、そして、その為に早く退職したのですから、そう考えて私は誠心誠意の努力をしたのです。私はそれが当たり前のことだと考えていました。
 やがて全てが終わった時、私は自分が本当に真心を込めて、出来る限りのことをしたと、自分のした事に満足し、少し誇りに感じたのでした。でも誰一人「良くやったね」と言いませんでしたし、夜中の事など誰も知らないわけですから、無理もありません。けれどももし一言「御苦労だったね」と言ってくれたら、苦労はたちまち消えたことでしょう。
 それは兎も角として、私がホッとしたのも束の間で、やがて「もっとああしてあげれば良かったとか、こうもして上げれば」と後悔が始まったのです。点滴だけで過ごしていたのですが、アイスクリーム好きの義母でしたので、アイスクリームやゼリーのようなものを、毎日少しずつ口に入れてあげました、義母は嬉しそうに食べていましたが、もっといろいろ美味しい物を探してあげればよかったとか、殆ど口がきけなくなっていましたから、私もむやみに話し掛けることは控えていましたが、それは間違っていて、もっと話し掛けてあげればよかったという思い等が湧いて、それが私を苦しめたのです。分かっていても分からなくても、優しい話し掛けをしてあげるべきでした。義母は全く話さなくなっていましたのに、ある日私にはっきりと「有り難う」と言ってくれて、私はとても感激したのですが、それだけ言えるということは、普段は話せなくとも分かっていたということになります。
 そう思うと次々と後悔が生まれてきて、それは今でも時折私を苦しめます。
 私の母は、父を家庭で殆ど一人で看病して見送ったのですが、矢張り亡くなる三日ほど前に「おまえと結婚して良かった、有り難う」と言ってくれたと、母は涙を流して泣きながら「長い間の苦労もすっかり忘れた。お父さんと結婚してよかった」と言いました。 亡くなる三日ほど前に「有り難う」と伝える例は他にも沢山あるらしく、そんなお話を友達からも聞きました。その後私の母も亡くなる丁度三日前に、にこにこして比較的元気な声で「有り難う」と私に言いましたが、それが母の最後の言葉だとは知らずに、その日の病院の付き添い看病が終わって、私もにこにことさようならを言って弟に交替したのです。
 私の母と最後まで一緒に暮らした弟は、「もっと大切にしてやれば良かった」と電話で泣きながら何度も云いましたが、死に行く人の看病や介護は、本当にどんなに尽くしても、これで良いということは無いのだと分かっていましたので、大いに弟を慰めたものです。
 でも、私たちの死は、何時やって来るかわかりません。ですから、日頃から出来るだけ優しくしてあげるように心掛けるとか、有り難うを口で伝えるとか、形にするとか、そんな心掛けが大切だと思うのです。私は、日頃から厳しい方だと思いますので、もっと優しい顔で優しくしなければ、「遺影を見て別人のお葬儀に来たと思われるよ」と夫にからかわたのが、現実になるのではないかと、心配になります。何時もあの写真のような顔をしていられるように努力しなければならない、と秘かに思ったりしています。

 死を前に必ず伝へたき言葉「ありがたう」の五文字が全て  (再掲)

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思いを形に

2011年11月22日 | 随筆・短歌
 今年も残るところ一ヶ月余りになりました。寒さが厳しくなり、かと思うと突然温かくなったりして、体調を崩しやすい日々が続いています。皆さんはつつがなくお過ごしでしょうか。一日のスケジュールに追われていますと、つい忘れてしまいがちなのが、3.11の大災害を初めとする今年の災害の多さです。大きな災害がある度に、皆さんもきっと義援金などを拠出されて、困っておられる人達に温かい手を差しのべて居られることかと思います。 今回、ローンを組んで家を建てたばかりに被災して、又家を建てる為に新しくローンを組まなければならない羽目になったとか、或いは被災企業が抱えたローンの返済が終わらないうちに、会社再建の為にローンを再び組まざるを得なくなった、いわゆる二重ローンに苦しむ人達を救おうと、法的措置をとるというニュースがありました。それが「東日本大震災事業者再生支援機構法」として参議院を通ったということです。
 財政難の国としては、なかなか苦しいところでしょうが、ローンの整理をして貰い、企業が再生すれば、地元で働く沢山の人達が助かることですから、ここは矢張り法律を作って守ってあげて欲しいと思っています。
 あれから8ヶ月が経ちました。年末を控えて仮設住宅で辛抱していらっしゃる人達も多いと思います。私のように、何とかその日その日の暮らしには困らない者は、年末に向かって、もう一度義援金を拠出する等の、支援行動を起こしたいところです。
 考えてばかりでは、物事は進みません。実行に移してこそ力になります。私ももう一度「つもり貯金」をかき集め、生活費を切りつめて心ばかりを足し、今度は、東北各県にそれぞれ義援金を拠出する準備をしています。
 寄付というのと、義援金というのは、違っていて、寄付は主として、その県の復興の土木工事等に回されるそうですし、義援金は、直接被災者に配分されるそうです。私は、温かい食事や生活資金が、直接個人に届く方を選びたいと考えて、義援金にすることにしています。
 先日は、茨城県に震度5弱の地震があり、今回は広島県に矢張り震度5弱の地震が起きました。災難は何時我が身に降りかかって来ないとも限りません。だれが何時被害者になるか、誰にも解りませんが、お互いに困った時は、許す範囲内で助け合うのが、人として当たり前のことかと思います。日本人は、声なき声の人に善人が多いと聞きますが、声に出したり行動を起こさないと心は届きません。タイガーマスクや、ウルトラマンに名を借りた、或いは、名前の無い善意の寄付などもありました。それ程多くの義援金は出せなくとも、送料は無料なのですから、受け付けの機関に足を運びさえすれば 、温かい心が伝わるのです。多くの人が、寒さと戦い、孤独と向き合い、哀しみに耐えていることを思うと、その位は実行する勇気も湧いて来るというものです。
 年の瀬に向かって、もう一度温かい血の通った思いを形にする努力をしませんか。「情けは人の為ならず」と言うことわざもあります。廻り廻って己が為になるということです。雀の涙程度でも、それが誰かに勇気を与えるかも知れませんし、また私自身にも勇気が湧いてくる気がします。
 被災者の中には、折角助かった命なのに、孤独の淋しさと前途への失望から、自ら命を絶つ人もいらっしゃると聞きました。たまらなく悲しい話です。命は、神仏から授かったものです。その神仏が「もう還っておいで」と言われる迄は、何とか命を大切にして頂きたいと思いますし、又その手助けが少しでも出来たらと思います。
 昨夜夢を見ました。「たかが夢なのに、そんな事を考えるなんて」と家族に笑われていますが、亡くなった弟に導かれて何処かへ行こうとして、駅に行ったのです。すると何ということでしょう。とても大勢の人が列車待ちでごったがえしていて、中々汽車に乗れそうにありません。4本ほど待てば・・・、と思ったのですが、弟は、いやここで良いと言って、二本目の列車の長い列に並びました。とても乗れそうにない超満員の列車の列でした。そこで目が覚めたのです。亡くなった弟ですから、私は、彼が迎えに来たのかな、と思い、だとすると私はそう長く生きている時間が無いのかも知れない、と考えたのです。後の事を急がねば、とそう考えつつ朝を迎えました。
 「まだまだ後20年はあるよ」と夫に笑われましたが、どうでしょう。あっても無くてもすべき事はしておかなければ、と秘かに考えているところです。
 縁起でもない話になりましたが、先日は妹の薦めもあって、夫が喜寿になった記念に、遺影にしても良い写真をと思い、久し振りに夫婦して写真館で写真を撮って来ました。妹に「その人らしい写真がとれる内に」と言われて、それもそうだと気がついた訳です。
 妹は2年前に97歳のお義母さんを自宅介護で送り、その時に、80歳の第2の成人式の時の写真を遺影にしたそうです。その人らしさが顔に出ているものが良いと言いました。実の子供さん達には、遺影を小さくしたものと、亡くなられる直近のスナップ写真と、それぞれを小さな額に納め、又遺髪を切って、白紙に包み、法名を書いてお渡ししたと聞きました。自分達夫婦も、古稀の年に遺影にしても良いものを写真館で撮ったといいます。
 私たちはそこまで気が付かず、義父母の遺影は、矢張り夫の姉には、小さな額に納めてお渡ししましたが、残される子供にも良い記念になるようにと言われれば、それもそうだと思います。旅行時や、四季折々のスナップ写真にも、遺影にしても良さそうなものはあるのですが、実際に写真館に撮りに出かけてみて、今は矢張り良いことをしたと思っています。

 死に支度致せ致せと桜哉   一茶

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魂の洗濯を

2011年11月15日 | 随筆・短歌
 時折薄汚れた魂の洗濯をしたいと思う時があります。正しい国政を心掛ける人の陰に、腐った政治をはびこらせようとする人を見たり、大きな会社は多くの善良な社員で成り立っているのに、一部の人間の不心得によって、身動きも出来ないような損失を抱えたりしています。本当に世の中の汚い部分を見ていると、薄汚れた気風がヒタヒタと押し寄せて、知らず知らずのうちに自分も汚染されて来ているように思えて、せつなくなります。そういう自分もまた、現実にひどく醜い垢を溜めているようです。
 そんな時は、大好きな能を観に出かけることにしています。能という動きの少ない舞と謡いの中に、実に簡素化された美しさがあります。車で20分足らずの所に能楽堂がありますから、四季折々の能の公演は、毎回チケットを買います。途中に能学講座もあり、可能な限り参加して、何回も能衣装の着付けや、面と表情やその付け方、謡いについてお聞きしています。
 能衣装は、殊に好きで、金沢の能楽美術館や京都の野村美術館、相国寺・熊本など、貴重な文化財の衣装を拝見したことがあります。毎回身に付ける度に肝心な所は、針と糸で縫い止めているということは、最近まで知りませんでした。高価な衣装が傷まないように、細心の注意でその作業は行われているということでした。
 夜の外出は控えていますので、殆どは昼の部ですが、狂言の面白さと共に、うっとりと二時間余り、堪能します。夫は能は退屈だといって、私一人の外出を許可してくれて車で送ってくれます。その代わりに私は、夕食の支度は予め調えて置き、終わればタクシーで真っ直ぐに帰ります。このような魂の洗濯は、時折身も心も洗われて、手近なリフレッシュになります。全身に満ち足りた潤いを感じ、緑の風が吹き抜けるような爽やかな感じにもなったり、また日本の芸術の素晴らしさに感動して、誇らしくも思います。
 夫は、たまにコンサートには出かけますが、私に無理矢理引っ張り出されて、モダンダンスを観たり、太鼓を聴いたり、物語の朗読を聴いたりもします。海外で高い評価を受けているモダンダンスの時は、「良かったけれどもうこれで二度と見なくて良い」と云いました。好きな人のコンサートには、以前は、追っかけみたいに、泊まりがけで二人で出かけたりしたのですが、今はその情熱はありません。クラシックは専ら私一人です。
 旅行も魂の洗濯には最適ですし、たまたま二人の価値観が一致して、仏像やお寺を観に、奈良・京都・鎌倉にはどれ程通ったか、知れません。でも最近はもう行き尽くしたと夫は云います。景色だけ見るのは、「ああきれいだったで終わりだからつまらない」といいます。なんでも見たい私とは違った面があって、旅行の調整は難しいところもあります。
 戦艦大和の正確な縮尺模型を観たい夫と、潜水艦の実物に乗ってみたい私と、たまたま展示場が一致して、呉から岡山方面へ行く計画があったのですが、私が転んで膝に怪我をした為に、直前キャンセルになって、とうとう立ち消えました。夫の急な血圧上昇で、旅行がキャンセルになったのは、すでに三回です。
 そろそろ行きたくても行けなくなりますから、短くして無理なく行ける旅をと考えています。最近は夫は、「家の自室に籠もっているのが一番良い」と言い出しましたので、来年はぐっと小回りの計画を作って、夫の気に入りそうな旅行計画を立て始めたところです。
 価値観が合うようで合わず、合わないようで合う、夫婦というのは空気みたいでもあり、又難しくもあり、面白いものでもありますね。

 ためらひがちに十六夜の月昇りくる夫(つま)の本音はいずこにありや

 唐突にダリアが咲いたね沈黙の気詰まりを解く夫のひとこと(全て実名で某誌に掲載)
 

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原発依存からの脱却を目指して

2011年11月09日 | 随筆・短歌
 ある日、突然原発の恐怖がやって来ることは、想像に難くはないことではありましたが、まさか現実となり、想像していたよりも広範囲に被害が起きていることに、改めて愕然としています。
 原子力工学を学んだ私の兄は、急性骨髄性白血病で60歳で亡くなりました。ですから、最も近くの原発で事故が起きた場合には、私たちも被害を被ることがあるかも知れない、とうすうす感じてはいました。しかし、これ程の広い範囲で被害が生じ、これから先何十年にわたって、不安に脅かされ続けて行かなければならない、ということは予想を遥かに超えていました。
 これだけ電力を消費しながらも、電気の来ない日が無いということは、確かに原子力発電に負うところが大きいのは事実です。安価に発電出来ると云っても、施設のある自治体へ保証金を支払い続けて行かなければならないとか、老朽化した施設をどう維持管理していくのか、発電を停止した施設が、事実上無害になるまでには、一体どれ程の年月がかかるのか。私は知識不足で知りませんが、それでコストを考えても、なお安価な電力と言えるのか、問題は山積しています。だかといって今すぐに原発を全て停止したら、日本の産業や生活はどうなるのでしょうか、それも心配です。
 手を出せば自動的に蛇口から水が出る、といった便利な生活が日常になり、エアコンや冷蔵庫の無い生活は、もう考えられなくなっています。停電を我慢せよ、と云っても、人工呼吸器で生きている人は生命を維持できなくなり、高層マンションに住む人は、エレベーターが停止すれば、たちまち生活できなくなってしまいます。
 科学者の代替えエネルギーの開発に期待して、一時も早く、安全で安心な、発電方法の確立をしなければなりません。そして出来てしまったこの原発をしっかり維持管理して、なるべく早期に無害化処理が出来るように、研究して欲しいと願っています。代替えエネルギーの開発と共に、この無害処理の開発の実現は、まだまだほど遠いのでしょうか。
 私は、以前にも申しましたが、福島県産のホーレン草など、原発の被災地の食品が目に止まると、なるべく買うようにしています。もうこの年ですから、寿命が縮まっても何も怖れません。原発被害に苦しむ人の為に、少しでもお役に立てれば、と考えています。
 安全だと保証されているのに、未だ買い渋る人は、何故なのでしょうか。但し未来を生きていく子供達には、矢張り気を付けて、遺伝子に傷を付けたりしないようにと願っています。風評被害に左右されず、賢い選択をしたいものです。
 自国の崩壊を目の前の危機と感じながら、なおかつ自己犠牲を嫌うギリシャ国民に対して、怠け者だと云う前に、私たちももう少し他人の痛みに気を配り、日本という国のしっかりした基礎造りに寄与しなければならないと思います。この莫大な借金大国を建て直すためには、お役に立てることが何なのか、国民一人一人がただ見守っているだけでなく、身の回りをしっかり見直して、どんな些細なことでも出来ることから実行していかなければなないと思っています。こんな事をしたら、役立つといった情報を、広く提供して協力を仰ぐことも必要なのです。例えば、「もったいない」をみんなで実行して、節約出来たお金を集めれば、それだけでも何かの役に立つ資金となります。
 様々な税を上げることも一つでしょうが、大勢の力で対処すれば、もっと能率的に少しでも国力強化に役立つことを、具体的に示して欲しいと思っています。そこからやがて強い連帯感も生まれ、愛国心も育つと思っています。揺るぎない国家というものは、人々の深い信頼感や絆から生まれるものではないでしょうか。
 3.11以来、最初は「国や東京電力がどう保証してくれるのか」、といった要求が目立ちましたが、やがて「我々はどうしたら良いのか」とみんなで考えて行こうとする機運が出て来たようで、嬉しく思います。国の片隅で生きている私にも、明るい希望が見えかけています。みんなで力を合わせて、頑張っていきましょう。

原発の恐怖ひと時忘れをり草蜻蛉(くさかげろふ)の羽ばたきを見て(実名で某誌に掲載) 



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奇蹟に出会う楽しみ

2011年11月02日 | 随筆・短歌
 これって奇蹟かもしれない。考えてみればそんな出会いは、沢山あります。そもそも私がこの世に生まれたことは、全くの奇蹟に違いありません。科学的に言えば、一個の卵子と一個の精子が結合して、生まれたとなりますが、それには、そもそも私の両親が結婚していなければならず、一個の卵子に何万という精子の中の一個がたどり着かないと、この奇蹟は生まれなかった訳です。考えただけで、気が遠くなるような偶然が重なっているのであって、それを人間は、奇蹟と呼んでいる訳です。
 いつぞや「39億光年離れた銀河の中心部にある、ブラックホールに飲み込まれている星の写真」がテレビで報道されていましたが、何だかこれを見ていること自体も、一瞬の奇蹟だと感じていました。
 そう考えると私たちは沢山の奇蹟に囲まれて暮らしています。今健康であることも、無事に買い物を済ませて夕食が平凡に作られるということも、あの3.11を経験した後では、普通でなくなったとように感じます。
 先日はアメリカの大リーグのワールドシリーズ(優勝決定戦)があり、私も胸をドキドキさせて、テレビに見入っていました。第7戦まで戦って、逆転劇が沢山あって、ハラハラドキドキしていましたが、結果はご存じの通り、カージナルスが勝ちました。もしあの時!という場面も数多くあり、矢張り奇蹟的ではありました。カージナルスのラルーサ監督の、数字偏重主義でない、人間を重視した采配にも感動しましたし、「トロフィーはないが、我々も王者に相応しい」と言ったレンジャーズのワシントン監督の思いや、ベンチで選手と気持を一つにして、走っている姿にも感動しました。
 監督の緻密な作戦や、選手の粘りに、多くを学びました。積み重ねられた努力の賜と言えばその通りなのですが、ラッキーとかアンラッキーとかいう運不運もあって、矢張り奇蹟としか言えない場面も幾つかありました。
 私たちは良く日頃通り慣れた道路で、見知った人に出会ったりします。もし、ほんの一分か二分時間がずれていたら、多分出会わなかったでしょう。そんな時の立ち話から、偶然病気が見つかることになったり、良い医師に出会うことに繋がったり、そんな経験を数え上げると、きりがありません。そんな小さな奇蹟に感謝する気持ちになるのも、歳のせいでしょうか。
 明日はどんな奇蹟に出会えるか、とワクワクする気持になるのも、人生を楽しくさせてくれます。少し前に、私たちは、娘のお墓参りにはるばるでかけました。ところが、大きな墓園に着いたとたんに、ミーンミーンと一匹のミンミン蝉が大声で鳴き始めたのです。この時期に、山奥に行かないと聴けないミンミン蝉の大声に出会い、私は咄嗟に娘が「よく来たね」と言ったのだとそう直感しました。それきりその蝉の声は途絶えて、私たちがゆっくりお墓参りをして、その後高い石段を登って、お寺の本堂にお参りしたりしても、とうとう聴かれませんでした。
 いつもはテレビで見ている二人の人に、地下鉄駅のエスカレーターで擦れ違ったりもしました。 つい先日も車で外出していて、道路を一本間違ってウロウロし、自分が何処にいるのか、ふと方向を見失っていたのですが、偶然息子が卒業した高校の前を通っていることに気付いて、自分の居る位置が解りました。何ということでしょう。もう通ることは無いと思っていましたのに。
 身の回りの小さい名も知らぬ花に心を癒されることも、一羽の小鳥に心が明るくなることも、良く経験することです。目に止めるか止めないか、奇蹟はそこに潜んでいると言ったら、大げさでしょうか。
 さあ明日もそんな小さくて楽しい奇蹟に出会えることを期待して、ウォーキングやお買い物に出かけることに致しましょう。きっと多くの奇蹟達が、何処かで待っていてくれることでしょうから。

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