ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

外見で差別しないで

2014年07月31日 | 随筆・短歌
 言葉は私達の心を伝える大切な道具です。正しい言葉遣いは相手に自分の思いを正しく伝える上で重要です。日本語は一つの事柄が様々な言葉で表現されますから、特に言葉の使い方が難しいと言われます。
 私がよく感じることなのですが、外国語の会話を日本語に翻訳する人が、話している外国人の外見から、その人を差別して、翻訳していると思われることがしばしば見られます。通りすがりの人や、事件の後に居合わせた人にマイクを向けて意見を聞く時、又は大リーグの感想などを観客に聞く時などに、よく感じることです。
 意見を聞かれている人の服装や外見で、どうも翻訳に差別があるように感じます。返答した相手が、キチンとした服装、或いは地位の高そうな紳士には、丁寧な言葉の日本語が使われますが、少しくだけた服装や、皮膚の色などで、可成り乱暴な言葉遣いになることが往々にしてあります。
 例えば「恐ろしいことだと思いますね」「おっかねぇことだっておもっちまうなぁ」と言ったふうに、字幕にその言葉が出ます。雰囲気を伝える積もりかも知れませんが、私は礼を欠いた行為に思えて不快になってしまいます。一つの言葉を人間の外見から区別して翻訳するのでなく、たとえ回りの雰囲気を伝えたいとしても、その訳には、相手の心が大切に表現されるようでないといけないと感じます。それは翻訳する人の心の謙虚さによるような気がします。おのづと超えてはならない限界をしっかりと保持しているかどうか、だと思うのです。必要以上に侮蔑的な言葉があったりすると、ついその翻訳者が薄っぺらな心の貧しい人のように感じてしまいます。
 私達も服装で、人を区別しやすいところが無いとは言えず、反省させられます。先日夫が経験した話しですが、あるゴミ捨て場の近くで、老婦人がゴミを持って歩いておられました。すると、その人の後ろから追いついた若者が、「私が持って行ってあげましょう」と手を出したそうです。老婦人は「いいえ直ぐそこですから」といいましたが、その若者は、「どうせついでですから」と婦人からゴミを受け取りました。老婦人は「有がとうございます」と頭を下げて戻っていかれたそうです。
 その若者の姿形は、金髪に近い茶髪で、裾がだぶだぶのズボンをはいていて、ともすると敬遠されがちな人だったようです。やがて夫はその老婦人に追いついたので、「さっきの若者はお知り合いですか」と聞きました。「いいえ全く知らない人です。」と仰いました。夫は「立派な若者ですね。今朝は良いものを見せて頂きありがとうございました」と言うと「最近はたまにそういう人が居られるのです」とのこと、夫は感激して帰って来て話してくれました。
 人をその服装で区別してはいけない、と言うことは「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言った福沢諭吉を引き合いに出す迄もなく、誰しも知っている当たり前のことです。ところが現実は必ずしもそうはなっていないことは、誰しも認めるところでしょう。
 特にインタビュァーには、その心で、相手に向かって欲しいですし、翻訳をする人は、勝手に人を差別することなく、謙虚に言葉を選んで欲しいと思います。
 最近ある地方紙に相馬御風の言葉として、 
 「味ひは物にあるのではない。それを味ふ人にある。それを味ふ心にある。」とありました。料理が好きな私は、この言葉に感動しました。
 私は、この「味わい」という言葉を「人間の価値」という言葉に置き換えて、人の立派さを判断するとき、
 「人間の価値は外見にあるのではない。その人を判断する人間にある。その人を判断する心にある」となって、矢張り相馬御風の心の深さを感じました。


子育てに最も大切なもの

2014年07月19日 | 随筆・短歌
 このほど夫婦の間の子として育って来た子供が、父親のDNAが異なった場合、親として育てて来た男性を親とするか、DNAが一致した男性を親とするかについて最高裁の判決がありました。
 「生活を共にして来た育ての親が、親である」という判決でした。私はホッとしました。
 人間は、遺伝子に依りそのDNAに左右されて、生まれて来ます。背が高いとか、目鼻立ち皮膚の色など、加えて性格・素質なども遺伝子の作用で、親や祖父母に似て生まれてきます。
 しかし、生まれた後は、育てられる環境により、様々な性格や才能が引き出されて、その特有の自我や個性を持った一箇の人間として成長していきます。
 世の偉人と言われる人が「私はこの人に出会ってこの道に進んだ」と聞くことがあります。このように人との出会いや、書物との出会いが動機となって、優れた能力を発揮する人が多く居ます。
 しかし、人間は生まれた直後から「三つ子の魂百まで」と言われる様に、特に幼い内の環境がとても大切になってきます。
 皆さんは「野生児」の話を聞かれたことがあると思います。人間の子として生まれながら、オオカミやサルのような動物と共に育てられた人の話です。偶然発見されて人間性を取り戻すための教育が成されました。しかし、殆どは、同年齢の人間と同等な行動はとれませんでした。保護された時、人間の言葉を理解出来なかった彼らは、自分がどのように育ったのか、言えませんでしたから、本当に動物に依って育てられたのか、病的な育ち方や、隔離されて育てられたのか、結論を導き出すのは難しかったようです。
 しかし、一歳未満の幼児が日々覚えていく様々は、驚くばかりです。このことから考えても、少なくとも生まれて間もなく隔離されたりして、正常な愛情を受けて育てられなかった子供は、後々まで人間らしい思考や行動が出来なくなるということは、想像出来ます。更にどんなに優れた素質を持って生まれてきたとしても、育てる環境によって、人間は変わるということを示唆しています。幼児教育の重要性をこれ程知らされることはないでしょう。
 今回の場合、父親のDNAと子供のDNAが一致しなかったわけですが、ずっと夫婦として過ごし、子供に親としての愛情を注いで来た訳ですから、その人を親として認定するのが当然だと思います。
 女性の地位が向上し、自己を高める意志が強くなったが故に、離婚する夫婦がが増えて来たのかも知れません。離婚によって、生まれた子供を父親が育てるか母親が育てるか、裁判になることも多くなりました。
 私はこの現象をとても心配して眺めています。何故このように離婚が増えたのでしょう。お互い我慢するとか、協調するとか、力を合わせて家庭を作り上げて行こうとすることが出来なくなったのでしょうか。
 子供の立場から見たら、両親が揃って愛情深く育てられるのが何より幸せなことです。親の勝手で簡単に離婚したら、子供は不幸になることが目に見えています。子供にとっては一生涯一人親になるのですから、堪らなく淋しく不安でしょう。目の前で繰り返される夫婦ケンカも耐えられないことでしょう。想像しただけで胸が痛みます。
 片親で育つ子供は、離婚ばかりではなく、事故や病気でやむなく親に永遠の別れをしなければならない人も多いのです。片親が子供を育てる苦労は、並大抵なものでは無いと思います。どんなに努力しても、子供にとって満足のいく愛情を与えることは不可能でしょう。ですから何とか協力して、離婚が避けられるものなら、それが次の世代を担う子供にとって最も望ましいことです。
 アメリカ映画の名作「クレーマー・クレーマー」を思い出します。家庭の中でばかり過ごしていた母親が、自分も自立したいと願い、突然家を出て行くのです。急に5~6歳の子供を抱えた父親は、自分の会社の地位を捨てて、安い給料しか貰えない職場に変わっても、息子の通学の面倒から家事、育児に全力で取り組みます。その子供への父親の努力と愛情が素晴らしく、子供も次第に父親を慕うようになっていきます。父親と子供の間に通う愛情にはほろりとさせられます。
 やがて母親が親権を主張して裁判を起こすのですが、子供の年齢からも、父親より母親に親権が委ねられることになってしまいます。いよいよ別れの日が近づいた時、父は子供に事情を説明し、母の処へ行きなさい、と言って聞かせるのですが、子供は泣きながら拒否します。このシーンは何回見ても泣かずに見ることは出来ません。別れの日が来て、母が迎えに来るのですが、子供の様子から全てを察した母は、自ら身を引いて、子供を夫に委ねて帰って行きます。何度も見ましたが、何時も泣ける映画です。
 主演のメリル・ストリープもダステイ・ホフマンも大好きな名優ですし、子役は映画界きっての名子役として有名になりました。
 諸外国では、親の無い子や、親が育てられない子供と、養子縁組みという形で、子育てをする人が多いようです。最近のニュースに子供の遺棄や虐待の話を聞くと、このような親に育てられるくらいなら、養子縁組みの方が恐らく良いと思えて来ます。
 大切なことは、生まれた子供たちが、安心して暮らし、必要な教育を受けて、一人前の大人になる事です。これは紛れなく、どの国にとっても第一の基本的な重要政策です。今まさに女性の地位向上が言われていますが、その為に子供が犠牲にならないように、充分な対策をお願い致します。
 私の友人は、離れた処に娘さんがいて、二人の子供を育てていますが、小さい頃から、おはようのハグを欠かさないと聞きました。高校生になっても、未だ続いていると聞きました。日本人は、「愛している」と口に出すことをはばかったり、ハグになれていないようですが、最近の親御さんは、ハグに抵抗がなさそうです。体の一部をくっつけて、皮膚を通して心を繫ぐということは、子育てにおいてもとても大切なことだと感心して聞きました。
 一方、夫の知人に、外国の貧しい国の男子学生に、卒業までの学費の援助をしている人がいます。大変立派なことだと思って尊敬しています。このように我が子を愛し、我が子のいない人は、世界の子供の学費の援助をしたり、日本の足長育英制度の支援者として協力することが、どんどん増えて行ったら、素晴らしいことだと思っています。
 
どうせならユニセフのものを買ふと息子(こ)はカタログ見つつ飢餓を話せり(あずさ)

名も知らぬ誰かが誰かと助け合ふ温さに満ちし国でありたし(あずさ)

庭石たちと語らう

2014年07月07日 | 随筆・短歌
 石や土や空はものを言わないものだと、仕事に追われていた頃には、そう決め込んでいました。ところが歳を取ってみると、石も土も木も空も大変なお喋りだということに気が付きました。
 それは幻聴ではありません。私が耳を澄ませて聞こうと心を空にして、無心に対象物に相対すると、声を持たない筈のそれらが急に雄弁になるのです。
 ここまでいうと読者の皆さんは、きっとああそれなら私も解りますよ、と仰って下さると思います。
 不思議なことに、それらは私の心を知っている訳ですから、私に都合良く返事をして呉れると思えそうですが、必ずしもそうではありません。多くは、「でもねえ」と反論の囁きを始めます。互いに意見が一致しなくて、私が独りで居る時は時間を忘れる程になってしまいます。
 私の家の南側の空き地は、以前は義父母が耕し、畑になっていました。義父母が老いて、畑仕事が出来なくなると、畑作の経験が殆どなく、自分一人では何も作れない私は、お花など植えていましたが、退職を機に思い切って夫と相談して、ささやかな庭を造って貰いました。
 知り合いになかなか腕の立つ庭師さんが居られて、「全て私に任せて下されば」とおっしゃいました。もちろんどのような庭にするか、考えていなかったので、喜んで一切の口出しをせずに、お願いしたのです。造園業もしておられる人ですが、我が家を造るときは、何時も弟子を一人だけ連れて、全て木も石もご自分で選び、配置も全てご自分で決めて造って下さいました。
 「池に水を入れると家がしけるからね」と枯山水にされたのも、庭師さんの決めたことです。竹の樋から落ちる水を自然石の手水鉢で受け、溢れた水が小さな池から、ややひょうたんに似た大きい方の池に入り、やがてくびれた池の真ん中を過ぎた所から、暗渠にして水は排水溝へと導かれるようにして下さいました。コンクリートを敷いた上の玉石ですから、雨水も真ん中の排水栓に自然に集まり、毎年汚れた玉石を洗ったりするのも楽しみです。
 大小様々な石を運び込み、「この石はここに置くのが正しいのです」とか、「これはあちらと対になっています」とか、石の種類とか、大きさ形など、灯籠や松や植え込みのさつきにしても、色まで相対する植え方になっていたり、そこには庭を造る上での決まり事が沢山あったようです。
 庭師さんは完成後はとても満足して下さって、毎年剪定や冬囲いに来て下さいました。年老いて病気をされ、やがて大松などの雪吊りは、私達が見よう見まねで受け継ぎましたが、その私達も今は、ちらりと雪が降ると、枝を揺すって、雪を落とすだけになりました。さつきなどの小さな木は、毎年私達の手で雪囲いをしますが、大松などは余程の大雪でもない限り、雪吊りの必要は無いようです。
 庭師さんは、「苔はその内にそれぞれ相応しい苔が自然に付きます」と仰いましたが、本当に今はすっかり見事な苔庭になりました。庭に不要なゼニゴケだけは、手で取る以外絶やす方法が無いらしく、それはせっせと取っています。
 庭を造り始めた頃、ある人が、「庭を造ると後の管理が大変で、費用もかかるし、自分が歳を取ることを考えておかなければ」と教えて下さいました。全く考えも及ばなかった事でしたが、確かに仰るとおり、毎日綺麗にしておくには手もかかり、消毒や施肥をしたり、剪定は本職を頼まなければならず、確かに管理の費用はかかります。
 しかし、庭を造って約30年になりますが、この庭に家族一同、どれ程心を癒やされたか解りません。愛するものに手入れするのは楽しみであり、余りある恩恵を受けて来たと思います。
 四季折々に色も姿も変える石や木々と会話していますと、話題は自由に時空を駆けますから、本当に楽しいものです。
 時折娘を亡くした時の悲しい昔を引き出したり、子育てにお世話になった義両親に、十分なことをしてあげられなかったのでは、という後悔に、辛い思いをすることもありますが、「やがてあちらで会えますよ。その時は思い切りお喋りしなさい」と囁かれ、そうだったと気持ちを取り直します。
 最後にまた坂村真民の詩集で、心を洗いたいと思います。
 「万物に仏心は宿る」と仰った、弘法大師空海の教えを、坂村真民は、綺麗な旋律で詠っています。

    石を見よ
 太古から坐り続けている
 石を見よ
 天地創造の
 不思議を知り
 人間進歩の
 歴史を知り
 善も悪も
 じっと見つめてきた
 石の声を聞け
 すべては変転し
 流転(るてん)するなかにあって
 一処不動
 達磨(だるま)のように
 坐り続けている
 廓然大悟(かくねんたいご)の
 石を見よ

 人間ゆえに

 木の悲しみ 木の怒り
 石の悲しみ 石の憤り
 鳥の悲しみ 鳥の叫び
 魚の悲しみ 魚の恨(うら)み
 なにもかも 人間ゆえに