ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

Yucca(ユッカ)の歌声

2012年03月30日 | 随筆・短歌
 Yuccaと言う歌手をご存じでしょうか。以前このブログに書いたことがありますが、最近とみに成長して、大歌手の片鱗をみせて来ました。やがてブレイクする時がきっと来るだろうと密かに期待しています。
 先頃この人の新アルバム「Queen Of The Night Live 2011」が出ました。待っていましたので、インターネットで早速買いました。CDとDVDが合わさっていて、東京の昭島市でのコンサートの録音と録画でした。早速DVDを見ましたら、それは実に素晴らしく、さすが東京音楽大学の声楽科を出て、東京混声合唱団で鍛えた歌手らしい迫力に圧倒されました。
 この人の歌が素晴らしいと思ったのは、だいぶ前のことであります。それは初めて出した「千の風になって」と言うCDを家族が買って来た時です。たまたま行ったお祭りの、ほこ天の小さなステージライブで、感動したので買って来たのでした。
 それを聞いた私もすっかりファンになり、次々にCDを手に入れ、ウォークマンに取り込みました。その後年齢を重ねるにつれて益々上手くなったようです。声に厚みがあり、高音から低音まで音域が実に広くて美しく、特に高い音が素晴らしいと思います。
 歌っている歌はクラシック畑の人らしい歌ですが、感情を込めた歌い方が聞く者の胸を揺さぶり、いつしか彼女の世界に引き込まれていくのです。日頃オペラを歌ったりする人は、ややもすると「聞かせてあげる」と云った歌い方に聞こえたりして、なんだかしっとりと聞くことが出来ないように思います。
 佐藤しのぶが金子みすずの歌を歌ったCDも期待して買ったのですが、やはり今一つ心に響かなかったのです。みすずファンとしては、とても惜しいと思いました。声で歌うのではなく、もっと心に訴えるように歌って欲しいと思いました。声が美しいだけでは、綺麗に歌っていると云うだけで心に響くものが足りず、満たされない気持ちが残ります。
 クラシック系では、鮫島由美子の歌うCDもファンとして沢山持っていて、日本の歌曲やロシア民謡など、ウォークマンに取り込んであります。
 Yuccaの今回のステージは、テレビで見ましたので音響も良く、うっとりと聞き惚れました。スラリと背が高く、大人が歌っているという感じがして、「Ave Maria」や「もう寝てはならぬ」とか、Yucca自身の作曲の「ALIVE 心の休息」もとてもしっとりと心に響きます。
 最近は、実力のある人が敬遠されがちで、素人に毛の生えた程度の人がもてはやされると聞きます。自分たちとそう距離が大きく離れていない人が好かれるようなのです。歌手にしても、専門家裸足の人は敬遠されがちになるのでしょうか。
 これは歌の世界ばかりでなく、テレビドラマに出て来る若い俳優さんにも、文学にも云えそうです。芥川賞に選ばれる作品が、やはり一般の人にも手のとどきそうな軽薄とも言える作品と云う気がします。漫画家がもてはやされて、本気で文学を鑑賞したい人には物足りない、と云ったら失礼でしょうか。
 日本は、様々な分野で優れた人を受け入れる度量が小さくなって、海外で活躍して初めて受け入れられたり、優れた能力を海外で認められた後で初めて日本人が気づかされると云った事が良くあります。最近では由紀さおりもその中の一人です。彼女によって日本語の美しさが外国人に認められ、大評判になってから初めて気づくのですから何と悲しいことでしょう。
 テレビの番組もだんだん対象年齢が幼くなって来たような気がします。番組を作っている人たちが、視聴率を気にする余り、手っ取り早く人気を取ろうとするからではないでしょうか。こういう姿勢が益々テレビ離れに拍車をかけていることに気づいて欲しいものです。質の良い番組、レベルの高い番組を作らないと国民の芸術や文化に対するレベルもダウンしてしまいます。
 良い芸術を理解するには、よいものを見たり聞いたりするのが一番です。啓蒙という面からも考えて、スポンサーも多少視聴率が低くても、社会に役立つ番組にお金を出して欲しいという気がします。そうすることは、得た利益を社会に還元する立派なボランティアだと思うのですが、如何でしょうか。日本の文化水準の向上に是非とも力を注いで欲しいのです。
 ましてや公共放送は、そうです。最近理解しがたいのは、公共放送でありながら視聴率にこだわりすぎて民放顔負けの番組の宣伝をしています。また若くて人気はあるけれど演技の出来ない人を主役にして、大河ドラマなどを作るものですから、年年視聴率が落ちて行っているということが解らないのでしょうか。
 黙っていないで声を上げて行くのが良いのかも知れませんが、そのためにある番組審議会も御用審議会になっているらしく、一向に改善されません。結局私たちのようにニュースとお天気予報と、好きなメジャーリーグ以外は余程でないと見ない、等という人が増えてきているのでしょう。
 Yuccaという歌手に期待していると云うことを書いているうちにどんどん脱線してしまいました。こうしてライブを見ると、「私たちが見出した歌手」などと勝手に思ったり、愛しく思えてこれからもずっと応援して、彼女が大歌手として羽ばたく日を心待ちにしています。


天然美と芸術の美しさに満ちたヴィーナスライン

2012年03月23日 | 随筆・短歌
 信州が好きな私たちは、一度はヴィーナスラインへ行ってみたいと思っていました。夫の知人が勧めてくれていて、およそのコースを決めてくれてありました。ところが出かける直前になって、思わぬ出来事に出会い、旅はそのまま行けずじまいでした。
 その後二年くらい経って、改めて今度は自分たちで距離を調べ、コースを決めて愛車で出かけることにしました。時間をたっぷりかけて、ゆっくり行くことにしました。
 その頃は未だ奈良や京都の寺院や仏像、庭園の魅力よりも、美術館巡りが多かった時代です。安曇野の碌山美術館、ジャンセン美術館、ちひろ美術館、アイマックスシアターなどを見て安曇野に泊まりました。
 翌日蓼科で、マリーローランサン美術館に寄って、バステルカラーの美しい女性の絵画を鑑賞しました。また芸術の森・彫刻公園を散策して、ダイナミックな彫刻と、美しい芝や林の公園を楽しみました。芝の中の雑草を丁寧に抜いている女性たちがいて、美しい芝の公園の管理の大変さを知った思いもしました。
 やがてピラタス横岳ロープウェイに乗って横岳の頂上の坪庭へ登りました。風が強くて岩や這いまつ枯れ木の坪庭には長くは居れず、再びロープウェイで降りて、蓼科高原美術館へ行き、矢崎虎夫の阿修羅のブロンズや三蔵法師などシルクロード群像、瞑想・托鉢・五体投地の僧の群像など、大きなブロンズを見ました。そして白樺湖畔で一泊したのです。
 ところがホテルに着いて間もなく、我が家から電話があり私が現役の頃に親しくしていた、そう年の違わない先輩女性の友人が亡くなられたとの知らせが入ったことを聞きました。大変なショックでした。しかし何しろ遠くに来ている訳ですから、友人に電話をしたりして、申し訳ない気持ちを抱えたまま旅を続けるしかありませんでした。今でもテレビや写真で白樺湖を見る度に、亡き友を想い出し、ご冥福をお祈りしています。
 翌日はビーナスラインの車山高原、霧ヶ峰、八島高層湿原へ寄って美ヶ原の高原美術館へと行きました。大きく蛇行する道路と美しく広い高原は、花々が咲き乱れ、360度見渡せる高原と山々など、地球は丸いのだとこんな所でも感じました。
 地球は丸いと云う感じの草原は、北海道のパッチワークの丘でも感じたのですが、海で感じる丸さと又変わって、なかなか趣がありました。八島湿原では、暫く池の回りの木道を散策したり、ビジターセンター「あざみ館」に寄りましたが、美しい花々や景色の写真が飾ってあり「アザミの歌」が途切れることなく流れていました。
 八州秀章作曲の
 「山には山の憂いあり  海には海の悲しみや  まして心り花園に  咲きしあざみの花ならば」というあの有名な歌です。
 確かにビーナスラインと云うだけあって、なだらかな美しい高原道路でした。お天気にも恵まれました。
 絵画も彫刻も大自然もそれぞれに美しく、美しいものを目いっぱい見てきた、と云う思いがあった一方、親しい人の突然の訃報にも遭遇した、忘れられない想い出の旅になりました。
 あれから何年も経ちますが、写真を撮りアルバムに整理してあって、支出もメモしてありますので、どんなコースをたどり、何処でコーヒーを飲んだか、ということまで思い出せるのです。もし、どちらか先立った場合にこのアルバムは、この上ない想い出のよすがとなることでしょう。

みんなの力で瓦礫処理を

2012年03月16日 | 随筆・短歌
 3.11の追悼式典が行われました。天皇皇后両陛下もご臨席になられ、しめやかに挙行されました。あの大災害の多大な犠牲者とその家族の皆さんに、心からの哀悼の意を捧げて、私たち家族も時報と同時に一分間の黙禱を捧げました。
 かつてない大災害であり、現実のものとは思えないほどですが、被害の爪痕はいまだに生々しく、中継の映像は何もなくなった土地と、果てしもない瓦礫の山と、未だ手つかずの損壊家屋などを映していました。
 この瓦礫の山を先ず片付けなければ、復興は出来ません。しばらく無力感を感じて眺めていましたが、やがてこれは国民みんなで、力を合わせて行えば、必ず出来ると思い始めました。
 高い放射線を出している瓦礫を全国にばらまくことはできませんが、無害の瓦礫は各自治体で分担して処理出来る筈です。
 全国民に呼び掛けて、3.11の瓦礫処理の為の特別寄付(募金)をしてもらい、全国各自治体で、トラックを出し、都道府県・市町村に運び込み処理すれば、そう時間を掛けずに終わるのではないでしょうか。
 国民の皆さんも呼び掛けさえすれば、その位の協力は惜しまないように思います。無理矢理徴収される税金よりも、みんなの善意の寄付の方が出しやすく受けやすいような気がします。現在でも全国から一日平均7千万円もの寄付があると聞いています。
 しかし一方では、被災地の人のテレビインタビュー等によると、被災地では一部にモラルハザードが起きていて、配布された災害見舞金を毎日パチンコに使ったり、働かない方が生活資金を援助してもらえると云って仕事を探さないとか、心ない人たちの報道もあります。そういう人たちは自ら身を滅ぼしているのですから、慎ましく正直に生きている大部分の被災者の為に、ここは国民こぞっての運動により、何とか瓦礫処理が出来るのでは、と考えるのは甘いのでしょうか。
 私がこのブログを書くようになって、2年余りになりました。やや疲れていましたし、あの災害の追悼式典を涙を流して見ている内に、わき上がる無力感を感じて、そろそろ書くことを止めようかと思ったりしました。でも暫くしてやはりこうしてはいられないと思うようになりました。
 最近各自治体も瓦礫受け入れの体制を整え、反対住民に良く説明して理解を求め、率先して受け入れる所が増えて来ているようで頼もしく感じています。この輪が一気に大きく広がっていくことを願っています。私もまずは無駄遣いを無くして、何回目かの寄付をしようかと考えています。
 ところで最近気になることがあります。それは放射能の危険の無い地域から、自主避難をした人が、生活費や諸経費を補償をしてもらいたいと言い始めたことです。又、東電株主が損失を補填せよと要求して告訴したというニュースを見ました。自主避難とは、避難しなくても良い所に住んでいて、個人の都合や判断でする訳ですから、それに補償を要求するのは、いささか筋違いな気がします。指定区域に住んでいながら、避難したくても出来ない人に支援の手を差し伸べるのが当たり前です。また株を買う時は、場合によってはそれが紙くずになっても仕方のないものであることを承知で買った筈なのに、「損をしたからその分を補償せよ」とはもはや呆れてものが云えません。
 東電の原発事故により、莫大な損害を被った人たちの補償のニュースが毎日報じられている中にあって、こういった勘違いの行為は厳に慎んで貰いたいものです。
 いたわり合い助け合うことは良いことですが、それを要求されると、痛みを分かち合おうとする気持ちも失せてしまいます。
 放射能がどれほど残存していると危険なのか、ということは先例がないので未だハッキリとは言えず、充分大事を取りつつ概ねこの程度なら、という科学者の意見などにより、線引きしているのでしょうが、現在はそれを信じるしかありません。考えてみれば私たちは、飛行機に乗ったり、健康診断でレントゲンを撮ったり、CTで可成り大量の被曝をしながら、安全なものとして余り問題にしないのに、何故原発だけを云うのでしょう。
 原発の被害が無かったら、もっと復興はスムーズに行くのでしょうが、起きてしまったことは致し方ありません。どうして乗り越えたらよいのか、智慧を出し合って、乗り越えるしかありません。
 3.11の追悼式典を機会にこの一年を振り返ると、世界中の人々が羨むような素晴らしい国民性が随所に見られました。その一方で、如何かと思われるような事もかいま見られましたが、それは例外的なものであって、総じてこの国に生まれたことを本当に幸せに思っていますし、みんなの力を合わせて、この国を守って行きたいものだと考えています。


時を翔る手紙

2012年03月09日 | 随筆・短歌
 先日まだ独身だった頃の勤務先の同僚(下宿先でもルームメイトだった人)に会って、お昼の食事、小さな美術館見学、お茶をご一緒して、一年ぶりの再会を楽しみました。ゆったりとしたホテルの喫茶室での話題は際限もありませんでしたが、気がつけばお別れする時間になっていました。立ち上がった時、彼女はそっとバッグから一枚のハガキを出して私の手に載せました。
 そのハガキは何と私から彼女に宛てた、47年前のものでした。「私が苦しかった時に、折りに触れて励まして頂いたりして・・・貴女の手紙は何通か今も大切に保管しているのです」と彼女は云いました。
 彼女が渡したそのハガキは、私が長女を出産して入院中に病院から出したものでした。既に何回か書いたように、娘はその後亡くなり今年で14年が経ちました。彼女もそれは承知の上で持って来て下さったのでした。
 一枚のハガキが一瞬にして、私を47年昔に引き戻しました。「枕元の小さなベッドの中に居る無心の生命をみるとき、無事に大きく育てられるかどうかという不安と同時に計り知れない喜びが湧いて来ます。一日一日と母親になった実感が身について、今までと違った新しい世界が広がったように思います。」などと私の稚拙な文字で綴られていました。
 結婚して四年目にやっと授かった娘でした。信頼していた産婦人科医師のいらっしゃる或院院で出産することにしました。予定日を十日も過ぎてやっと陣痛が始まり、早速入院しました。その日の夜中になって分娩室に移動したのですが、翌朝になっても生まれず、とうとう胎児の心音が弱くなり始めましたので、日曜日にもかかわらず医師や看護師などチームの皆さんが集まって下さり、午後から帝王切開になったのでした。
 初めて見た我が子がどれほどかわいかったか、それはどの親御さんも同じですが、待つ時間が長かっただけに、ひとしおの感があり、開腹手術の痛みはさほど感じませんでした。
 こんなふうにして突如当時のことが詳しく甦り、天国から娘がその時の喜びを思い出させてくれたようにも思われました。手紙を大切に保存していてくださっただけでも感激なのに、わざわざ持って来て下さった友人に、深く深く感謝したのです。それにしても厚い友情と優しさが無かったら出来る筈もないことです。 私は「頂いても良いですか」とお聞きして、頂いてきて早速夫に見せ、ひとしきり当時の想い出話に花を咲かせてから、娘の遺品の書簡集の袋に大切に保存したのです。
 その袋には、娘からの古い手紙などがノートにはってあり、娘が独身だった頃にヨーロッパを旅した時の、ロンドン、マドリード、ローマ、ウィーンなど各地の大使館の住所と電話番号を知らせて来た手紙などもありました。手紙の最後に、「便りのないのが良い便り。オロオロ、クヨクヨしないように。」とあって、私の心配性をたしなめていて、懐かしい娘の口調まで思いだしました。
 かにかくに古い手紙は、年月を一気に引き戻します。光より早い物質があったのか、なかったのか、と話題になっていますが、瞬時に想い出を連れてくる人間の心に優るものは無いと、見つめていました。
 47年ぶりに戻ってきたハガキが、初めて親になった時の感動を生々しく甦らせてくれ、また友情の有り難さを深く感じた一日でした。

胸痛く鳩時計鳴る子の逝きて消えたる夢のぜんまい巻けば
               (実名で某誌に掲載)

祭日や行事とこの国のこと

2012年03月02日 | 随筆・短歌
 やっと厳しかった冬が終わり、三月は三日はひな祭り、五日は啓蟄、二十日はお彼岸です。そして忘れられない3.11の一周年があります。
 二月十一日は建国記念の日でありました。ですが私の見た日経新聞と地方紙には、どちらもこの建国記念日にまつわる行事の記録がなく、これでは単なる国民の休日でしかなかったようです。建国記念の日というのは日本国民が、「建国をしのび国を愛する心を養う」日として祝うことになっている筈です。「日本書紀」に書かれている紀元1年をしのび国の歴史に思いを馳せ、建国を祝うと共に国を愛し、国の将来をしっかり考える日であって欲しいと思うのは、もう古い考えでしょうか。
 卒業式が近づくと、決まって日の丸君が代の問題が表沙汰になります。何処の国でも国旗を大切にしない国はありません。オリンピックやサッカーなどスポーツの世界的大会には、勝てば国旗が掲げられて、君が代が流れます。国民は胸を熱くして国旗を見あげ君が代に涙しています。
 不幸な戦争があったとしても、それは国旗や国歌のせいではなく、不幸な歴史の教訓として今後に生かすことが大切なのであって、自国の国旗を卑下したり、君が代を否定するのは間違っていると思います。天皇は国家の象徴であり、その御世が末永く続くようにという願いは、同時に国民の末代までの繁栄を願うことでもあります。現在の両陛下もお体の不調を顧みず国民の為に諸行事にお出ましになり、外交にお力を注ぎ、被災者をお見舞いになり、宮中に伝わる伝統的な祭祀を行っておられます。
 今年は紀元2672年に当たると、我が家の菩提寺から頂いた暦にありました。兎に角これほど長い年月、日本の皇室は続いて来ており、その歴史は世界一であります。そう考えると、国旗や国歌や皇室は、心の支えではあっても、おろそかにするようなものではないと思っています。
 祖国への愛や誇りを否定し、国旗や国歌に敬意を払わない一握りの教育者は、生徒に良い影響を与えているとは思えません。戦後民主主義となって平等の意識が定着してきましたが、その反動もありました。その結果目上の人を敬いいたわり、家族を大切にし友だちと仲良くしたり、人間同士お互いに譲り合い思いやる心がやや置き去りになりかかっていたことを、あの3.11でどれほどか思い知らされました。しかし今や世界中からの支援に感謝し、日本中が被災者の為に力を合わせています。自分は我慢しても被災者の為に、という日本人の価値観が甦って来たように感じています。そんな国に誇りを持ちたいものだと思います。
 建国の日から少し話がそれました。
 ひな祭りは少子化時代ですが、古いおひな様を飾る各地のひな祭りの行事もあり、ひな人形を飾ったり祝う家庭もあると思います。別名「桃の節句」とも言い、春らしい心の温まる行事です。
 五月五日の端午の節句は、子供の日として国の祭日にもなっています。かつては男の子がいる家では鯉のぼりを立てて祝いました。今も昔も子供を思う親の心に変わりはないし、保育園・幼稚園・学校などを通して、子供は国の宝であることを自覚し、健やかな成長を願って来ました。その一方で、セントバレンタインデーとか、いつのまにかハロウィンまで始まって、クリスマスに恋人が居ない女性が、にわか恋人とデートしたりすると聞いたりします。行事を通して人間関係を深めて行くことは、大いに良いことだと思うのですが、それが単なるアメリカの習慣の真似ごとであったり、商才に巧みにのせられているだけだとしたら、いかがなものかと思います。
 日本には二十四節気という素晴らしい季節の折節があります。清らかな水と空気と緑に囲まれた日本にふさわしいものです。もとは中国から伝わったものですから、季節が少しずれたりしますが、今や日本の風土になじんで、無くてはならないもののように思うのですが、どうでしょうか。立春を基準にして、15日ずつ区切ってあります。八十八夜も二百十日も、みなこの立春が基準になっています。
 間もなく啓蟄です。「蟄虫(すごもりむし)戸を啓く(ひらく)」と云われ、冬眠中の虫が出て来るころという日です。今年は寒かったので、まだ少し早いようですが、春の到来を知らせる心弾む日でもあります。
 私は殊に2月19日の雨水、4月4日の清明、4月20日の穀雨、6月5日の芒種、9月7日の白露などが好きです。(日にちは今年の暦に依ります)勿論良く知られている春分・立夏・夏至・立秋・冬至なども生活に密着しています。「もうこんな季節になったのだなあ」と、季節の移ろいを趣深く感じます。
 大好きな日本に誇りを持ち、四季の移ろいに心を寄せ、こんなに美しい日本に生まれた奇跡に感謝して過ごしたいと思っています。川端康成がノーベル文学賞を受賞した時に「美しい日本の私」と題して記念講演されたのですが(講談社現代新書2002年)、その説くところが心にしみ込んで来ます。
 やっと春が実感されるようになりました。未来に希望を持ち、人々を信じて明るく過ごすことにいたしましょう。