ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

非常時の備えあれこれ

2016年03月31日 | 随筆
 昨日のテレビで、政府は今後起こる可能性の高い大地震に備えて、各家庭では三日分の食料や日常不可欠な必需品を備蓄するように、と発表していました。
 我が家も非常時に備えて、段ボールの箱などに、様々の品物を保管しています。非常時の必需品チェック表などを元にして見ますと、ヘルメットは個々に色を決めて、懐中電灯は首から提げられるように紐を付けて、携帯ラジオは小型のものに電池の換えをくくり付けて、と言う様に、乾電池の換えも機種に応じて、購入年を表示して、年一度は、点検取り替えもしています。
 意外なものに、ホイッスルというのがありました。自己の存在を知らせて援助を請う合図に役立つのですね。キャンプ用品は、そのまま直ぐに非常用になりました。重なる食器などは場所を取らず便利です。簡易トイレや簡易囲いの作り方やその覆い材料なども、一度準備すれば大丈夫です。
 問題はそれらを何処に置くかですが、我が家は物置が二階建てになっていますので、一階の書庫の本は浸水時は諦めるとしても、海抜60㎝の土地ですから、緊急に必要になるもの以外は、水濡れも考慮して物置の一・二階に分けて揃えました。
 家から逃げ出す時に必要なヘルメットや懐中電灯は、玄関脇の洋間の戸棚に入れてあります。他に小型のペンライトは、毎日の薬・絆創膏やホータイ等と共に枕元の箱に入れて置きます。
 サッシ戸はいびつになったり、凍結して開かなくなることもありますから、洋間と座敷はサッシをやめて、どんなに凍った日でも必ず開く、戸車の付いた戸にしています。
 問題は腐敗したり古くなると困る食料です。三日分ですから、量的にはあまり負担になりませんが、(インターネットで売っています)避難訓練の時に、よく作って配布される「水さえ入れれば食べられるようになる五目飯やご飯」が、インターネットでないと手に入らないのではなく、コンビニでも買えるようにして欲しいです。
 以前に購入してあった乾パンを、賞味期限が来たので買い換えないとと思い、缶を開けて食べてみました。そのマズイこと!思わず吐き出してしまいした。
 5年以上という年月を保障するには、バターなどは混入出来ないのは解りますが、それにしてもこんなに不味いものは、いくら代用食としても食べるのは無理そうです。毎日餌を求めて庭に来るヒヨドリに食べて貰おうと、何時もの餌置きの所においたのですが、何とヒヨドリも食べようとしないのです。
 非常食のメーカーさん、この平常時の内に、食べて美味しい非常食を作って備蓄して下さい。ついでにお願いがあります。賞味期限でなく、消費期限をしっかりと示して欲しいです。私達高齢者はあの大戦の時、食べられるものは何でも食べて生きぬいて来ました。今更にヒヨドリよりも惨めな生活をしてきたのかと思い知りました。
 不足だったのは、非常用のケータイ充電器、飲料水の補充(一日2~3㍑)と言えば、これは可成りの空間が必要です。工具としてロープ、バール、スコップ、のこぎり、車のジャッキとありしたが、これらも我が家では、物置と車庫に揃っていますが、マンションの人達はどうするのかと心配になります。マルチツール(ナイフ・栓抜き・缶切り・ドライバー・穴開け工具・毛抜き・ハサミなど一つにまとまっている)のように、もう少し兼用出来る簡易工具が欲しいところだと思いました。加えてマンション等は閉じ込められないように、地震が来たら直ぐにドアを開ける、という智慧も火の用心と同じように大切です。そんな心得も徹底されると良いと思います。
 「万一」は私には関係無いとは思っていなくとも、メモに記した全てを備えるということは、なかなか大変です。その万一がもし、明日の私であったなら、矢張り途端に狼狽しますから、「飲み水が少しあれば、食べるものがくても暫くは何とかなる」としても、簡易トイレだけは必需品です。その処理法も考えて置かなければなりません。最も必要なものから整えていくのがベストでしょう。
 良寛禅師が、大地震に逢った友人に宛てて書いた手紙が有名です。「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬる時節には、死ぬがよく候。是はこれ災難を逃るる妙法にて候」
 ここまで心にゆとりを持って生きていけたら、自ずから幸せがついてくることでしょう。 
 

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統計から見える日本と世界

2016年03月22日 | 随筆
 卒業・入学・進学の春です。私の気ままな好奇心は、何時何処で何に出合って捉えられるのか、本人にも解らない浮浪者です。先頃世界や日本の人口比や男女の割合が気になって、総務省統計局のホームページを開いて見ました。ついでに様々な統計を見て、いささか考えさせられました。
 平成28年2月の日本の総人口は概算で1億2517万6千人であることが解りました。日本の総人口は1950年には、世界で5位ですが、その63年後の2013年には10位になっています。そして2050年には20位になると推計されています。
 国別に見ると1950年も2013年も第1位は中国で、2013年の人口は13億8千6百万人です。日本の約11倍です。
 2030年には1位はインドにかわり14億7千6百万人、中国は2位で14億5千3百万人、3位はアメリカ合衆国で3億6千3百万人(2位との差が大きいですね)、日本は13位1億1千7百万人になります。
 2050年になりますと、一位インド16億2千万人、2位中国13億8千5百万人、3位ナイジェリア4億4千3百万人です。日本は20位になって、9千7百万人です。
 此処で注目したいのが、中国とインドの桁外れの人口の多さばかりでなく、20位迄の人口総数の和が世界の人口のおよそ70%前後であることです。
世界の国数196(2015.5.15外務省)を思うと、少数人口の国が、如何に世界に多いか驚かされます。
 ちなみに、2050年の4位以下は、アメリカ合衆国・インドネシア・パキスタン・ブラジル・バングラデシュ・エチオピア・フィリピン・メキシコ・コンゴ民主共和国・タンザニア・エジプト・ロシア・ウガンダ・ベトナム・イラン・ケニアそして20位の日本です。国土の広さや人口密度・社会的背景などは全て度外視して、単に人口という切り口からのみ比較した数字に過ぎません。
 2013年の世界の人口総数は、20位までの和で、約71億6千2百万人です。その比率70.5%の内、男女別の内訳が男70.9%女70.0%で、男が多いです。しかし2050年の推計だと、20位までの和で、95億5千百万人となり(約24億人増えます)男・女の人口は1~3位迄のインド・中国・ナイジェリアは男の割合が多いですが、4位のアメリカ合衆国から20位の日本迄の17カ国で、男の多い国は、パキスタン・イランの2カ国のみになってしまいます。(以上総務省統計局より抜粋)一般には、普通の状態で男性105に対して女性100程度の出生率だとも、いわれているようです。男の出生率が多いことについては、「それは、もともと男性の方が新生児期などの死亡率が高いため、種の存続の観点から男女の比率が同じになるように、長期にわたり自然界の作用が働いた結果とされます。ただし、医学が進んだ現代では、新生児期の死亡率は男女同等になっています。
 また、一人っ子政策や高額な持参金など、各国の事情に基づいた積極的な産み分けが行われた結果、各国間の出生男女比の差として現れている可能性もあります。日本の女性出生1人に対する男性出生数は、1.056人で、世界ランキングの順位は60位です。
 ランキングの1位は中国の1.160人、2位はアゼルバイジャンの1.150人、3位はアルメニアの1.138人です。ランキングの最下位はルワンダの1.017人です。」(「」は国際統計格付けセンターの世界の女性1人に対する男性出生数ランキングによる)
 こうして色々な角度から見ると、数字の裏に潜む事情も透けてくるように思えて、興味深いものがあります。
 さて、次は教育にどれ程のお金をかけているか、ということに目を向けて見ました。国が栄えて行くためには、次代を担う子供たちの教育に如何程の関心を持ち、投資をしているか、がとても気になります。日本の識字率は世界一だと言われていましたが、現在はリヒテンシュタインが第一位、ついで北朝鮮・ノルウェーで共に100%日本は99%となり28位、最下位は南スーダンの27.0%だとありました。(国際格付けセンターによる)
 これには驚くばかりで、素直に信じられない気がしましたが、もしかしたら、外国人の移住者が増えて来たからたでしょうか。
 経済協力開発機構(OECD)は加盟国の教育状況の調査結果「図表で見る教育2013年版」を発表しています。それによると2010年の日本の国内総生産(GDP)に占める教育機関への公的支出の割合は、前年と同じ3.6%で、加盟国で比較可能な30カ国中最下位だったとありす。最下位は4年連続だったそうです。
 発表によると、教育機関に対する公的支出のGDP比は、OECD加盟国の平均が5.4%、最も高かったのはデンマークの7.6%。以下ノルウェー7.5%。アイスランド7.0%、ベルギー・フインランドが共に6.4%と続きます。イギリス5.9%、アメリカ5.1%です。
 これは最新資料に依ると、また変わっていると思います。日本は教育に公的資金を投入することには、積極的でないと言え、家庭の負担が大きいことを示しています。別に日本の4歳児の就学前教育(幼児教育)の在学率は97%とトップクラスです。「生徒の学習到達度調査(PISA)」の分析でも、1年間以上の就学前の教育を受けた生徒は、受けない生徒よりも、平均点で50点以上も高く、この差は最終学歴まで影響します。国内の調査でも幼児教育を受けた子供の方が、学習到達度が高くなることが解っています。
 在学率では世界に誇れる日本の教育ですが、政治の教育に対する意識の低さは、恥ずべき実態だと言わざるを得ません。作今の「保育園落ちた」の波紋の広がりにも、大いに理解し、応援すべき行動だと思います。
 私がこの総務省の統計を見ようと思った時は、このような統計があることを事前に考えていた訳ではありせん。識字率はNO1と出るかと思って引いてみましたのに、思い掛けない結果から、OECDの統計に迄広がりました。様々な統計を見る内に、これは一層大変だと思いました。これでは「日本の大学は最低で、馬鹿ばかり作っている」と言う一部の識者の警告も、格差脱出研究所の「日本の大学は、堕落した機関でありながら、“学歴”という買い物をするためだけに、行かざるを得ない最低の教育機関なのです」とあるのも、間違いだとは言えない気がしてきます。
 私はかねてから「入学はたやすく、卒業は難しく、学生時代はしっかり勉学に励まないと卒業出来ない」という大学にならないと、今のままでは存在する意味は無いようだと思っていました。 
 もう退任されましたが、高名な大学教授が、私の家族に当てた私信で「学生の論文のコピペが増えて、困ったものだ」と言われたのは、例のスタップ細胞の騒ぎの少し前です。驚いていましたら、その事実が明らかになって、そういう時代になっていたのか、と改めて呆れ果ててしまいました。
 現在の日本の大学生は、入学まではせっせと勉強するけれど、入学してしまえばトコロテン式に卒業できるので、折角の大学時代を遊びや楽しむ為のアルバイトに費やしている実態を知って、一体何のために大学に入るのか、理解出来ない気持ちです。「大卒」の箔などとうの昔にナンセンスになって来ているのですから、この際三分の一位は廃止しても良いのではないか、と思ってしまいます。文科省も縮小に動いているようです。本来は卒業を難しくすれば良いのでしょうが、それでは各大学が自校の将来を考えて、補習してでも卒業させてしまうでしょう。勿論全ての学生が駄目だと言っている訳ではありません。教育は何の為にするのか、今のままで良いのか、関係各位に基本からしっかり考えて頂きたいと思います。そして家庭は勿論の事、社会ももっと子供たちに関心を持って国の宝を大切にしたいものです。
 最近の国会議員の勉強不足、協議中の居眠り行為、スマホいじりなどを見て、つくづく情けなく思う人は多いと思います。教育を受けるということは、学力を身に付けるばかりではなく、人間として豊な心を身に付け、それを実行出来る能力を修得することだと思うのです。
 先日保育園の2歳児の子供達が、保母さん達と散歩に出て来たのに会いました。子供たちの目は透き通っていて水晶のように美しく輝いていました。思わず「綺麗な目ね」と感嘆の声を上げました。この美しい目と心が濁りませんように、と願ったことでした。


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殉教の平戸島への旅

2016年03月10日 | 随筆・短歌
 2008年と言えば、もう8年も前になります。その年の5月8日から16日迄、九州の平戸島を始めとして、帰り道に奈良・京都・片山津と巡った旅に行きました。
 隠れ切支丹の歴史を訪ねたいと言う夫の言葉によって、先ず私が原案を立てました。予備知識が何もないので、九州の観光案内とパソコンを駆使しての計画でした。家を出たのは、午前7時30分頃、大阪空港で乗り換えて福岡空港へ行き、博多から佐世保までJRを利用し、松浦鉄道でたびら平戸口で下車しました。
 そこからは平戸大橋を渡るのですが、タクシーで17時過ぎにやっと平戸の市街中央のホテルに到着しました。もう日暮れが近く、下調べしてあった「豊鮨」というお店で平戸海山の幸の、「名物じげもん御膳」を食べる予定だったのですが、運悪く休業でした。仕方無く立ち寄ったスーパーの鮮魚売り場で、贅沢に盛り合わせた「生にぎり寿司」を見つけました。異口同音に「これ」、となって苺などフルーツも買って、ホテルに戻って頂きました。さすがに海の幸のてんこ盛りといった美味しいお寿司でした。
 翌日は、平戸桟橋8時28分の西肥バス志々木宮浦(ししぎみやのうら)行きで36分乗って「紐差(ひもさし)」で下車徒歩2分の紐差カトリック教会に行きました。
 今回の私達の目的地は、激しい切支丹弾圧のあった根獅子浜と、平戸切支丹資料館だったのです。直通バスはなく、島の中程の紐差で下車する必要がありました。平戸島は可成り大きい島で天文18年(1550年)ポルトガル船が入港して以来、日本初の国際港として繁栄したのです。同時にキリスト教布教の地として信者を増やし、特に生月・根獅子では住民が全員信者になったと言われます。 紐差教会は島のちょうど中程で、キリスト教信者の為に1929年に落成したそうです。当時は東洋一と言われたとあります。
 白亜のロマネスク様式の高い教会で、未だ朝の凛とした空気の中にあって、近づくと気押される程でとても立派な教会でした。門が開いていましたから、静かに中に入ってキリスト教徒のように、膝をついて手を組んで祈りました。中央に掲げられている像はマリア様でした。十字架のキリスト像は中程の右の柱にありました。あの頃の日本人には、ゼウス様よりもマリア様が親しかったのでしょう。
 そこからタクシーで先ず根獅子浜へ行きました。事前の調査で、ここでは沢山の切支丹が殺されて、海には昇天石という小岩があります。青い海が鮮血で真っ赤に染まったと言われる根獅子浜は、今は波の静かな美しいコバルトブルーの海水浴場でした。
 タクシーに待っていて貰い、海に向かって手を合わせたり、昇天石の近くへ行って海水をすくい上げると、信じる者の純粋で強烈な信仰心と、その為に流された血に、直接触れているという感動に胸を打たれました。そこから平戸市切支丹資料館へ車を回して貰いました。
 ここではゆっくりと心ゆく迄観覧しました。隠れキリシタンの、マリア観音が幾つかありましたが、前から見ると右手に子供を抱えた観音様に見えるのですが、後ろに回って見ると、後頭部に十字架が刻まれているのです。則ち観音様に手を合わせると、そのままマリア様に手を合わせている事になるのです。
 厳しい監視の目をうまくごまかせるように、信者達が智慧を絞ったのでしょう。納戸神と言われるのは、暗い部屋で押し入れ(納戸)に見えるのですが、戸を開けると隠れキリシタンのご神体が祀られています。キリシタンと覚られずに生きて行けるよう工夫を重ねて、長い間独自のキリスト教信者として生きて来たのです。
 牧師さんも不在で、誰がリーダーということもなく、結果として口伝となり、地区毎に異なった組織形態でオラショ(祈祷文)を受け継いでいるそうです。納戸は外来者も入って来ない窓の無い部屋で、家族も普段は滅多に入らない所と言われています。
 天正15年(1587年)約四百数十年前の切支丹禁止令から、現在に到る迄、隠れキリシタンとして信仰を守り、聖なるご神体を家の奥深く、納戸神として今も守り続けているとお聞きすると、その信仰心の深さに驚くばかりです。人間が心の底から神仏を信じた時の信仰心の強さとは、独特のものであって、激しい迫害に合って、何故其処までと考えても、理解出来ない程の強い心なのでしょう。
 直ぐ近くの森の入り口の右に「霊地うしわきの森」左に「霊地おろくにん様」と刻まれた石の門柱が、礎石の上に有りました。根獅子は特に弾圧がひどく、当時昇天石で斬首された6人のご遺体をここに埋めたのだそうです。その後も沢山の殉教者があり、現在も信者の人々は、此処へは靴を脱いで裸足になって入られるそうです。心なしか土が柔らかく、素足の感触が靴裏を通して伝わるようでした。この痛ましい歴史を持った、うしわきの森について「(前文略)・・・うしわきの森よ雨よ降れ夜は暗かれ」と昭和27年に刻まれた当時の平戸市長の大きな石碑がありました。一帯が霊地として大切に守られ、祈りの場になっていました。手探りでしたが手を尽くして調べて、ここ迄来て良かったと思いました。
 帰りは又紐差からバスで平戸へ戻り、もう一泊して、平戸の港町を徒歩で回りました。オランダ商館跡は何もなくなっていましたが、湾の向こうに平戸城が見えました。常灯の鼻まで足を伸ばし、当時のままのオランダ塀も見て、平戸観光資料館へ行きました。ここには又別の意味で、キリシタンに係わる、とても感動した多くの展示物に溢れていました。
 ベテランの女性案内人がいらして、詳しく説明して下さいました。オランダ貿易当時に生まれた混血児が、徳川幕府のキリシタン禁制により、ジャワに追放されたそうですが、この混血児達が故郷恋しさに送った手紙があります。それをジャガタラ文と言い、350年以上前のものを見ることが出来ました。中でも心をひかれたのは、コショロ(ジャガタラ文)と呼ばれる文章でした。
 日本こいしや、こいしや、かりそめにたちいでて、
又とかえらぬふるさとおもへば、心もこころならず、
なみだにむせび、めもくれ、
ゆめうつつともさらにわきまへず候へども、
あまりのことにちゃづつみ一つしんじ上候、
あらにほんこいしや、こいしや、にほんこいしや、                           こしょろ
 うばさままいる 
  本田家所蔵 平戸観光資料展示
 この茶包みを包んでいたと思われる、縦横それぞれ4枚の計16枚の小布をつぎはぎした20㎝×20㎝位の布のあちこちに書き綴られていました。
 更に吉田松陰の自筆入門願書や、浅野長短同大学の誓約書、山鹿素行の肖像画・遺愛刀、山鹿家譜(素行の自伝録)コルネリヤ彫像{オランダ商管長ナイエンローデと平戸の豪商・判田五右衛門の娘との間に生まれたコルネリヤが、ジャガタラ(現ジャカルタ)に流された後に、自分と子供の姿を木に彫らせて判田家へ送ったの衝立様の物}素行の有名な著書等々貴重な資料が沢山ありました。
 そこから崎方公園へ行き、ザビエル記念碑、三浦按針の石の墓を見て、御部屋の坂庭園から松浦資料博物館へ行きました。北海道と大陸が繋がった地球儀や、当時は珍しかったであろう天球儀もありました。天体の星は、航海には欠かせない物だったでしょう。
 又丹波から平戸へ来られた姫君の豪華な輿、鬢台(びんだい)大友宗麟から送られた鎧兜一式、船首像(小川家理右衛門宅跡より発見)などが千載閣に展示してありました。当時の賑わいや、遠方との交流の大変さを偲びました。
 六角井戸(大勢が同時に水を汲める)を通り、見た事もない大ソテツを見て、聖フランシスコザビエル教会に行きました。緑と白の配色が上品でした。とても大きく、三角の尖塔の上の十字架が、夫を入れた写真に入り切れない程高くて素晴らしかったです。丁度入館出来る時間で、中でお参りしました。祭壇の右に「命をかけて「いのち」を生きる」左側に「ときを超え今ひびく福者の祈り」という垂れ幕が下げられていました。 夫は記念に「怖れることはないわたしはあなたと共にいる」の栞を買い求めました。何時も私達は時を旅していますから、今はもうこの垂れ幕も無く、教会の庭園に置かれた白いマリア像がとて美しく、去りがたい程でしたが、再びお会いする機会は無いでしょう。
 いま写真を眺めていても当時のことがふつふつと湧いて来ます。とても想い出深く、忘れ得ぬ旅になりました。帰り道で教会と寺院が同時に見える有名な場所で、振り返って記念の写真を撮りました。
 日々の雑事の中に、当時の記憶は埋もれているのですが、こうして旅先で頂いた資料の切り貼りと、お互いに撮り合った写真アルバムを眺めていると、尽きせぬ思い出が、次々と目の当たりに湧き出でて来ます。足が未だ丈夫で体力気力のあった頃の、平戸への旅でした。
 この後長崎市内を巡り、更に足を伸ばして、もう一つの殉教の地、外海(そとめ)にも行き、遠藤周作文学館も見て来ました。
 殉教という悲劇を乗り越えて、今もなお変わらぬ厚い信仰の心を抱き続けている島の皆様に、敬意を抱きつつ平戸を後にしました。
 
殉教の血潮に染まりし根獅子浜ことさら哀し海碧ければ(某誌に掲載) 




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