ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

言葉が示す週間誌の品性

2015年11月24日 | 随筆
 「言葉は人柄を現す」と言われます。最近すっかり遠ざかっていた週刊誌を一冊買って来ました。11月26日発行の「週刊新潮」です。読んでビックリ、記者と呼ばれる人の言葉づかいと品性の下劣さに驚かされました。
 恐らく「全ての雑誌記者」ではないのでしょうが、この記事を書いた人、そしてその文章を掲載してもよろしいと判断した上司も、きっと同類なのでしょう。
 記事の見出しに「日テレのバカ広報」とあって、私は記事の内容を度外視して、この表現に驚いたのです。バカと言う言葉は、少なくともこのような公の雑誌で使用する言葉ではありません。そんなことさえ知らない品性下劣な人が書いている雑誌なのか、とがっかりしました。
 同じ雑誌にもう一つ、稲田朋美政調会長の夫の稲田龍示弁護士に対して、<世間を知らないバカ弁護士>とありました。提訴されたようですが、当たり前です。このどちらのケースも、何故バカなのか、読者には納得のゆく説明がありません。これではまるで小学生レベルでしょう。
 私の母も私が幼かった頃に、男の兄弟の喧嘩言葉を注意して、「馬鹿馬鹿と他人(ひと)を馬鹿と言う馬鹿は、己の馬鹿を知らぬ馬鹿なり」といましめていた記憶があります。この言葉をそっくり記者に献上したいと思います。
 もう一箇所、稲田朋美政調会長の<「文字を書くのが苦手」。かつて、その品性に欠ける彼女の文字を目にした支持者は唖然呆然としたという。>とありました。「・・・という」これは明らかに推測記事です。推測して書けばどんな記事でも書けますが、「事実に基づかない記事は、決して書かない」と言うのが記者の最低限のモラルであり、それさえも読者に疑われるようでは失格です。
 断っておきますが、私は人の好き嫌いで言っているのではありません。バカという言葉にガッカリし、悪筆が何故品性に欠けるのか不可解です。
 ちなみに、悪筆イコール低俗な人間では決してない例を挙げましょう。夏目漱石、芥川龍之介も編集者泣かせであったと言われています。理系では、エジソン、アインシュタイン、他にはナポレオン、ベートーベンも悪筆だったそうです。ベートーベンがあまりの悪筆で、有名な「エリーゼのために」が読めなかったとか。今は多くの人に愛されている曲ですが、この人達も品性に欠ける人なのでしょうか。
 話を言葉に戻します。私の読んでいる地方紙に、小学校5年生の次のような文章が載っていました。
 「チャレンジ」5年 梶田夏紬子(なつこ)
 私が今がんばっていることは、言葉づかいです。私は言葉づかいが悪い時があって、友達を傷つけてしまったことが何回かあるからです。私もいやな言葉づかいをされるといやな気もちになるので、自分がされていやなことは、人にしないようにしたいです。また優しい言葉づかい、フワフワ言葉は、人を笑顔にしてくれます。だから、言葉を大切にします。

 ひとのきもちを大事にしたい、ということも、自分がされていやなことは、人にもしないという考えを聞くと、ほんとうに清々しい気持ちになります。大人の方が子供たちに、見習わなければならないと感じます。
 ところで私は、この「フワフワ言葉」という言葉を知りませんでした。そこでネットで引きましたら、次のものが目を引きました。
<その1>
「わふわ言葉からはじめませんか - 法務省(Adobe PDF)- htmlで見る
<その2> ネットに載っていた「仁木小学校の生徒指導便り」から
 平成18年12月5日 仁木小学校生徒指導便り
「ふわふわ言葉」と「チクチク言葉」
 人は,だれもがかけがえのない存在です。理由もなく他人から嫌なことをされたり,傷つけられたりすることは,あってはならないことです。
 仁木小学校では,11月の生活目標を「チクチク言葉をなくし,ふわふわ言葉を増やそう」と決め,友達に対する言葉づかいに気をつけようと全校で取り組んできました。
ところで,保護者の皆さんは「チクチク言葉」と聞いて,どんな言葉をイメージされますか?下に示したのは,ほんの一例にすぎません。
<ふわふわ言葉とチクチク言葉の例>
ふわふわ言葉       チクチク言葉
(言われるとうれしい言葉) (言われると傷つく言葉)
・ごめんね        ・死ね,殺すぞ,地獄へ落ちろ!
・こんにちは おはよう    ・あほ バカ たあけ まぬけ とろい
・バイバイさようなら    ・カス
・おやすみ          ・うざい,くさい,くそやろう
・ありがとう         ・きもい,ハゲ,ブス,デブ,ダイコン
・だいじょうぶ どうしたの  ・チビ,タコ,のろま
・一緒にあそぼう 帰ろう   ・最悪,最低,絶交
・お友達だよ お友達になろう ・向こうへ行け!こっちへ来るな! 
・よろしくね           ・そんなことも知らんの?
・なかよくしよう すごいね  ・何様のつもり? (以上子供たちから) 
 最近では,子供もよく見るバラエティー番組でも,芸能人達の会話の中にいくつも配慮の足りない言葉を耳にします。また,子供達が大好きなテレビゲームでは,アクション系・バイオレンス系の「死ね」「消えろ」など,耳を疑うような言葉が飛び交います。言葉遣いは,模倣と繰り返しによって築かれていくものです。私たち大人も襟を正し,正しい日本語を学び伝えていくことが必要です。 また学校だけでなく,地域の皆さんみんなで気をつけ合うことが,思いやりのある人間関係をつくる上で大切なことだと考えます。今一度日常生活に中に「チクチク言葉」はないかご家庭でも見直していただき,反対に「だいじょうぶ?」 「ありがとう」などふわふわ言葉がいっぱいになるようご協力をお願いします。    (以上生指導便りより)
 
 文章を書いて、それを多くの人に読んで貰うことを使命とする週刊誌記者のみなさん、どうかチクチクことばは使わないで下さい。何故ならば、読者の胸の中に強い不快感が残り、以後の記事は読む気になれなかったからです。非難中傷する場合でも、相手には人権のあることをお忘れにならないようにお願いします。


死なないで

2015年11月14日 | 随筆
 このブログを書き始めて、8年目の半ばを過ぎました。長い間のようでもあり、アッと言う間のようでもあります。段々次の文を載せる間隔が長くなって、もう書き始めのような速さでは、とても書けません。
 この度の号数が、正しければ360号になると思います。一文だけ後で消去しましたし、数え方が不正確かも知れません。日々思い付いたことを書いて来ましたから、何回か同じことを書きました。例えば子育ての大切さとか、マスコミの果たす役割の大切さなど、浅智慧にも拘わらず、世の中の出来事を批判したり、臆面もなく書き散らしたものだと、5冊目になった保存用の活字のファイルを眺めて恥じ入っている始末です。
 最近は、世の中が段々おかしくなってきて、人間が人間らしく無くなってきてはいないか、と心配症の私は、不安です。植物も動物も宇宙もみな同じような営みを続けていると思ったりしていますが、その一方で地球の温暖化などを考えると、知らず知らずの内に、みな変化していって、想像も付かない世の中になってしまうのではないか、等と思えて心配です。
 例を取ると、最近は想像出来ないような死に方をする人が多くなりました。「殺してみたかった」と言う動機や、身内や日頃は友人であったり知人の筈の人を簡単に殺すといった、どうにも理解出来ない殺人事件が増えています。一方高齢者や若年の方の自殺が多くなって居るようです。
 「君死に給うことなかれ」と題して、2013年5月12日にブログを書きましたが、最近またまたいじめで、いたいけない小学生にまで自殺者が出る程、いじめが多くなって来ているようです。未だ若い小・中学生まで自殺したり、自殺願望を持つのかと思うと、想像するだけで痛ましいことです。
 私は、声を大にして言いたい。「死なないで」と。いじめのひどい学校へは行かなくていい、必ず別の道が開けます。ゆっくりと自分で取り返すことも出来ます。学校は尊い命を代償にするだけの価値のある処ではありません。 
 なぜそこまで追い詰められるのか、と時折考えます。様々な要因が思い当たりますが、少子化になって、子供がひ弱になっていることもありましょうし、子供の立場に立てば、親からの期待感が重いプレッシャーになって耐え難いこともあるでしょう。しかし、それ以上に、いじめる側に「もしいじめられている子が自分だったら」と立場を変えて考えることが足りないのと言ったら、時代錯誤と笑われるでしょうか。
 ゲ―ムで殺戮を繰り返し、リセットして又生き返らせる遊びも多いようで、人間が死んでもリセット出来るとまでは考え無くとも、いとも簡単に人を殺める遊びを繰り返す内に、命は一片の木の葉のように軽く思う心が育つのではないかと不安です。
 テレビなどのバーチャルな画像が余りにリアルになって来ています。しかし現実と非現実と区別できなくなったら、これは正常ではありません。この種の病める人が増えたのかもしれません。
 政治家と言われる人にも、嘘を平気で言ったり、ごまかしたり、法に触れることをしながら反省しない人もいるようです。これでは子供たちに、正しく生きよとは言えません。
 教師の居る前では、決していじめないけれど、居ないといじめる、人気の無いところへ呼び出していじめる、一対一ではいじめられないが大勢でいじめる、いじめる側の仲間から外れると、その子がいじめに遭う、そういういじめの構造が、見え隠れします。 
 行いの正しい優秀でおとなしい子が標的になったり、ややかけ離れて裕福な家庭の子、またはその反対、兎に角集団から少し離れて居ると思われると、いじめの対象になりがちのようです。いじめはいつの世にもありますが、最近のいじめはとことん追い詰めて死ぬ迄いじめ抜く訳ですから、恐ろしいです。
 我が家の息子は、昔のいじめはガキ大将が居て、この辺までという限度を心得ていて、やめさせたといいます。仲良くなればみんな一緒で、直ぐに泣くような弱い子は、むしろガキ大将が守ったといいます。
 何故このような卑劣ないじめ体質を持つようになったのか、親にも、社会にも、学校にも、政治にも、その原因がありそうです。
 共働きが増えて、愛情不足の子が増えました。愛情が不足すると情緒不安定な子供になったり、自分の気持ちを理解して貰えないとかんしゃくを起こしたり、何時も不満ばかり持つ様になったりしがちだと言います。だから共働きがいけないと言って居るのではありません。女性も社会の中で、働いて生きて行けるように、政治もその方向で動いています。でもじっくりと愛情を持って育てる時間や施設が不十分なのです。そこをしっかりとしないと、国全体に乾いた心の持ち主が増えて、殺戮や自殺が増えるでしょうし、優しさが減って、感謝の心が薄れ、住みにくい社会になるでしょう。
 教師や親も、自分がいじめられる立場になったらどう思うか、そこをしっかり考えて行動できるように導く必要を感じます。親子の対話は充分でしょうか。生きとし生けるものを大切にする指導をしているでしょうか。花や動植物などを育てたり、可愛がったりする経験を大切にしているでしょうか。
 子供たちは親の背中や教師の背中を見て育っています。事件があってから、「命を大切にしましょう」と口で言うだけでは、何とも白々しい違和感を感じます。「もしその人があなただったらどう思いますか。どうしますか。」と問いかけて欲しいです。「相手の立場になってものを考える事の出来る人」「他人に苦痛を与えるようなことをしない人」になって欲しいと思うのです。口で言うほど優しいことではありませんが、大切なことだと思います。又恵まれている自分に気付いて、感謝出来る人になり、何かの形で恩返しの出来る人になって欲しいと思います。良く水害などのボランティアに来られる人の中に、「私達も助けて頂きましたから、その恩返しです」と言われる人がいるそうで、立派なことだと思います。
 こういうことが受け継がれて行けば、きっと過ごし安い温かい社会になると思うのです。

 今日葉ボタンやパンジーの花苗を買ってきて、午後から鉢に植え、冬仕度の半分を済ませました。残りは雪囲いです。葉ボタンは、毎年我が家に来る鵯(ひよどり)が、いよいよついばめる餌が無くなった時に食べられるようにと、毎年植えます。勿論観賞用ですが、餌がなくなって痩せて行く鵯はかわいそうです。必ず近くの木の枝で、一羽が見張っていて一羽がついばみます。食べ終わると交替します。とても仲のよいつがいです。今年も4鉢植えました。
 雪の下になるパンジーは、翌春の花付きが遅いですが、咲けば強く根を張って、沢山花を付けます。春一番に買い増す花と共に春を待つ仕度でもあります。
 ヤマボウシもハナミズキもモミジもみな真っ赤になって、散って行っています。毎朝夫が飛んだ落ち葉を追いかけて、遠くの家の前まで掃き寄せに行き、息子が「庭には少しは落ち葉がはある方が、苔の緑に映えて風情がある」といっても、たった一枚落ちても拾いに行く位です。私は苔の間に顔を出す小さな草や、ゼニゴケ退治に眼を光らせています。
 つれづれ草に、「木の葉の落つるも、まづ落ちて芽ぐむにはあらず。下よりきざしつはるに堪へずして落つるなり。」とあります。下からきざしつはってくる木の芽に、堪えきれず押されて落ちる木の葉に、些か心が動かされます。今からもう芽を出して来る木の若々しさに、心温まる思いをしています。萌えだした柔らかく温かい若芽に押されて、私も静かに散っていきたいものです。 
 

想い出の「かもめの玉子」

2015年11月06日 | 随筆
 寒さに向かうと、何となく甘いお菓子が食べたくなります。お菓子や美味しいものが好きな私は、全国各地から良くおいしいものを取り寄せます。とりわけその食べ物に関する想い出があれば、その想い出を語り合いながら食べる味わいは又格別です。
 時として、何かのお礼やお返しに、お送りすることもあります。贈り物は心を込めて送りたいので、勢い自分も気に入った土地の名物や銘菓となります。
 思えば忘れられない銘菓があります。あの大地震と津波が来るずっと前の、平成11年のことです。夫の運転する車で、東北地方を1週間ほどかけて周遊したことがあります。宮城県は古川で一泊し、翌日岩手県に入り平泉で中尊寺にお参りしました。当時まだ有った啄木の記念館に寄って感慨を新たにし、盛岡市ではわんこそばを夕食に食べに出掛けました。二泊目を盛岡で過ごし、珍しい石割桜を眺めたりしました。
 それから東北地方を横断するように車を走らせ、龍仙洞へ行き、岩泉から宮古に出ました。宮古の海岸を見た後、食事処でとても美味しい海の幸を頂き、宮古のホテルに一泊しました。翌日は、後に大津波でひどい被害のあった大槌町に行き、少し縁のあったお寺と墓地に立ち寄りました。そこからトンネルをくぐって釜石に出たのです。
 ここで地方史を少し知りたくて、市立図書館に立ち寄りました。司書の女性が、あれこれと親切に探して下さってとても助かりました。やがて一件落着となり、親しくなった司書の方に「何処かに美味しい夕食を頂けるところがありませんか」とか「お土産は何がいいでしょう」とお聞きしたのです。「東北のお土産なら、何と言つても一番は「かもめの玉子」でしょう」と言われたのです。何処でそれが手に入るかお聞きして、其処まで行って買つて帰ったのが最初の出会いでした。
 以来16年間一年に一度くらいは、取り寄せたりして味わつています。全国の銘菓コンクール第一位にも輝いたそうで、それはそれは美味しい銘菓です。玉子と言うだけあつて、本当の卵と同じくらいの大きさで、とても味の良い贅沢な黄身餡をカステラ生地とホワイトチョコレートで包んであるお菓子です。最近は、デパートで全国の銘菓が買えるようになりましたから、手に入る機会も増えて、或いはご存知の方も居られるかも知れません。
 つい最近も、妹から特大の美味しい林檎を沢山送って貰いましたので、お返しに「時期から考えるとかもめの玉子が良いのでは」という家族の意見で、届けて貰うように手続きをして、ついでに我が家の分も取り寄せました。
 妹は、以前送ったこともあるので知っていたのですが、お礼のメールに、「ある時スーパーにカモメの玉子が東北の名物として売っていたので、懐かしくて買って来たけれど、以前送って貰ったものに比べて小さく、時代の流れか、と寂しく思いました。けれどもこの度送って貰ったのは、大きくてとてもおいしかった。」と綴られていました。どうやら「かもめの玉子ミニ」と間違えたようです。口に頬張ったときの食感が、私にも矢張り大きいほうが、遙かに美味しいのです。
 その後あの大災害がありました。この銘菓を作っているのは、大船渡のさいとう製菓という会社ですが、私は心配してすぐにパソコンで被災したかと調べてみました。どうやら地域としては被災したようだと思っていましたら、製菓の方から、「今回被災しましたが、必ず立ち直りますからお待ちください」とはがきが届きました。その熱意と誠意に感動して、一層ファンになりました。
 釜石の災害もひどかつたので、あの親切な司書の方はお元気だろうか、とあれから時折気にしています。連絡する方法もなく、ただかもめの玉子を取り寄せるたびに、想い出して感謝しています。
 このようにして、この銘菓を食べるとあの人が思い出される、とか、この食品にはあの旅行の想い出がある、等ということが、年を重ねるごとに多くなりました。折々お礼を送るついでに自家用に注文して、今は昔の想い出を懐かしくなぞっています。
 紅葉が綺麗な頃ですが、もみじ饅頭と言えば、厳島を想い出します。ご近所からお裾分けと言ってぷりぷりの牡蠣を頂くと、広島の牡蠣舟を思い出し、チンヂャオロースーが食卓に出ると、青森のレストランから、リラの花を眺めながら頂いた中華料理を思い出すと言った具合です。
 皆さんもいつか想い出されることがありましたら、カモメの玉子を召し上がって見て下さい。きっと失望はなさらないと思います。

 郵政民営化で、株が売り出されました。「今後は、株主の皆さんのご期待に応えられるように、努力します。」と社長の挨拶がありました。私はがっかりしました。株を買ってくれたのは、確かに株主ですが、みな国民です。何故国民の皆さんのご期待に添うよう努力します、と言えないのでしょうか。民営化されても、サービスの対象は国民の筈です。
 売り上げ金は、東北の復興に使われると聞きました。是非有効に使われて欲しいものだと願っています。未だ仮設住宅でこの冬を迎える人達がおられます。一人でも多くの人達が、温かく希望に満ちた冬が過ごされますように。