ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

桜の美しさ

2012年04月27日 | 随筆・短歌
 珍しくお花見にでかけて来ました。桜の季節には手近な学校の桜並木や水道公園辺りで、満開の桜を眺めて写真を撮ってくるのが精一杯でしたのに、今年は何故か残り少ない人生だと思うと、一度くらいは遠くの桜の名所へ、お花見に出かけても悪くはないのではと思えて来ました。美しいということで有名な公園から川沿いの桜見物に、ウォーキングを兼ねて、わざわざバスに乗って出かけたのです。
 お天気の良い日を見計らっての外出でした。桜は丁度満開で、ごく僅かに散り始めたばかりといったところでした。
 樹齢何百年という桜ではなく、30~40年くらいの元気な桜が、すき間なく花を付けていて、実に見事でした。大阪の造幣局の桜のトンネルは有名ですが、ここの公園の桜は、園一帯が桜で、身の回りがピンク一色となり、見あげても青い空も見えず、ただただピンクに煙る桜に包まれているようで、何とも表現しがたい美しさでした。予想を遙かに超えた美しい桜に出会い、本当に至福の一時でした。
 道続きの川の土手に出ると、歩行者専用の桜並木とチューリップが美しく、所々にあるベンチで一休みしつつ、身近な桜の美しさや、対岸の風景と満々と水を湛えた川の流れも楽しみました。思いがけず幸せな一日を頂きました。
 隅田川の桜も有名で、船からの眺めが素晴らしと聞いていますが、何時か眺めて見たいと思いつつ果たせないままで居ます。日本人が桜を意識的に美の対象として珍重したのは、何時の頃からのことなのだろうか、と帰宅して一休みしてから、美術全集で調べてみたりしました。無学な私にはその答えは見つかりませんでしたが、国宝の尾形光琳の「紅白梅図」に見るように、長い歴史の中では、桜よりも梅が珍重された時代もあったのかと思います。
 しかし、長谷川等伯の長子の久蔵の「桜図」もなかなかの迫力です。これはいずれも実物を見ています。豊臣秀吉が醍醐の桜を見物した話は有名ですが、パッと咲いてパッと散る潔さが、日本人の価値観や感性と一致するのかも知れません。特に散ることを惜しまない武士道の精神が、桜の散り際の美しさに引かれたのかも知れないと思ったりしています。
 浮世絵にもしばしば桜が描かれていて、手元の美術全集には、石川豊信の「花下美人図」なども載っています。陶芸では、やはり江戸時代の仁阿弥道八(にんあみどうはち)の「色絵桜楓文鉢」など、鮮やかな色彩に惹かれます。小袖や帯、襖絵などに描かれた繊細な桜の図を見ていますと、これはこれでなかなか興味深く見応えがありました。
 私たちがあちこちと旅行した中で強く印象に残っている桜は、奈良の室生寺へ行く途中の、大地にまで届く豪華な「大野寺のしだれ桜」です。ここには大きなカメラを担いだ写真家が大勢集まっていました。又、奈良の広大な長谷寺の、一山煙るような桜、そして京都の嵯峨野の桜、とりわけ二尊院辺り、竜安寺の桜園の濃いピンクの桜などです。哲学の道の桜は、地味ながら落ち着いた雰囲気が印象的でした。吉野の桜も見ていませんし、桜の咲く頃の旅行が少ないので、有名な福島県の三春の滝桜も知りませんので、見た限りの貧弱な体験でしかありません。
 どの桜もやや木から離れた位置から眺めた桜であり、今回のように桜にすっぽりと包まれて眺めたのは、初めてでしたので、桜の美しさを再認識したのです。
 帰りにはホテルのフレンチレストランでお昼を頂き、近くのデパートのプレイガイドで歌舞伎やコンサートのチケットを買って帰りました。一休みして疲れが取れたら、急にケーキを作りたくなって、趣味のチーズケーキを作ったりして、久しぶりに贅沢な時間を楽しみました。
 あのピンクの微風に抱かれたような桜を思い出しながら、短い時間に多くの人々に感動を与えて散っていくのが、桜の「存在理由」なのかと今さらのように印象づけられた一日でした。

 散る桜残る桜も散る桜  良寛

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忘れられない萩の旅

2012年04月20日 | 随筆・短歌
 日本各地に様々な歴史を持つ文化があり、輩出した偉人が居て、その遺跡が残っています。これらを尋ねてゆっくり見て歩くのは、とても楽しいことです。
 もう20年も前のことですが、忘れられない旅の一つが萩です。家を出てから5日目の正午過ぎに、萩の駅へ降り立ちました。駅を出たところで、タクシーの運転手さんに「どうですか、観光バスの行かない所へ行きますよ」と誘われました。翌日は観光バスに乗る予定でしたし、城下町の萩は細い道路なので、午後はそんな細道を徒歩で見学の予定でした。「観光バスの行かない所」と云う言葉に誘われて乗り込みました。
 どう回ったのか記憶は朧ですが、見学した所はとても印象的でしたから、今だに忘れられません。伊藤博文邸、木戸孝允邸、高杉晋作の旧宅等見て回りました。伊藤邸は一番ささやかでしたが、ここから初代総理大臣が出たのかと思うと、尊崇の念を禁じ得ませんでした。
 武家屋敷の道路は細く、鍵型に曲がっていたり、黄色い土塀に囲まれており、今は人が住んでいない家も多くあるようで、土塀が崩れかけている所もあり、どの屋敷にも夏みかんが大きな実を付けていました。運転手さんが崩れかけた土塀の間からヒョイと夏みかんをもいで私たちの手に載せて、「廃家なので、気にせずに食べてご覧なさい、酸っぱいですよ」と仰いました。暑かったので可成り酸味はきつかったですが、美味しく頂きました。
 「観光バスは、東光寺へ行きますが、こちらの大照院も静かでいいですよ。私はむしろこちらが好きです」と言われて着いたのが、毛利家偶数代の墓所であり、五輪の塔の墓石がそれぞれ夫婦仲良く並んでいる大きな大照院の墓地でした。当時としては広い参道の両脇に灯籠がずらりと並び、緩い登りの道路を引き立てていました。「これに灯がともる万灯会はとても見応えがあります」と季節的に見られない私たちを気の毒がって下さいました。往時の毛利家の威信を感じつつ、奇数偶数に分けないと、戦になるほどの権勢を誇っていた毛利とその寺院の格式にも驚かされました。
 翌日バスで行った東光寺も立派でした。毛利家奇数代の藩主夫妻が眠る笠の付いた竿石の墓石群は明るく見事でしたが、墓地としては大照院の苔むした静かなたたずまいの方が、厳かな雰囲気を感じさせました。両方見る事は稀なのだろうと思い、人の良い運転手さんに感謝したのです。(ずっと後に山口市の香山墓地にも行く機会がありましたがやはり全体の雰囲気は、萩の方がずっと荘厳で落ち着いた美しさがありました)
 大砲を作った跡地や、日本一小さい火山だという笠山の椿の群生林と火山(標高112m)の火口にも行きました。途中通った塩水湖にも興味を覚えました。やがてその日の午後の予定が終って、ホテルに送って頂いて案内役の運転手さんとお別れしました。
 翌日の圧巻は、やはり萩が輩出した吉田松陰の松下村塾でした。近くに松陰神社もあって、想像していたよりもささやかな木造建築でした。
 たった8畳の部屋が、身分の区別なく学んだという講義室でした。ここからあの明治維新の中核となって、大活躍した偉人が多く育ったのかと思うと、胸が熱くなりました。松陰が目指した理想の人間像が塾生に浸透して、教えを守り実行に移した門弟の多くが、活躍したのです。 松陰は後に獄につながれましたが、同じ部屋に大変な乱暴者の盗賊がいたそうですが、とても文字が上手く、松陰はその男に弟子として教えを請い、「先生」と呼んだそうです。以来その無頼人はすっかりまともな人間になったと云います。松陰の教育の原点を見せた、良い話だと思います。
 松陰は11歳の時に、藩主の前で武教全書の講義をしたといいますから、たぐい稀な英才だったわけです。松陰は日本の行くべき道を教えようとし、学問が現実と遊離して存在しないし、あってはならないと説きました。この教育がやがて花を咲かせ実ったといえましょう。松陰の、門下生各自の可能性を引き出す教育のあり方は、何時の世にも支持されて、現在もなお引き継がれ尊敬されています。
 国指定の萩の城下町として一番美しいのは白壁となまこ壁の続く菊屋横町辺りでしょうか。ここには先出の高杉晋作の旧邸があり、桂小五郎旧宅が並ぶ江戸屋横町一帯も共に、とても静かな城下町らしいたたずまいを見せていました。

観光バスは萩城址指月(しづき)城公園で記念写真を撮り、駅で解散になりました。
 裏日本のこの小さな町から、この国のリーダーとなる人間が沢山輩出されたことは驚きです。人が人をつくり、時代が人をつくり、そして栄え、又反対に滅びもします。
 もう一度時間が許し体力があれば、是非行ってみたいところです。

 萩焼の夫婦茶碗を求め来ぬ永久に持ちたきその温もりを(あずさ・当時のアルバムより)


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俳句の楽しみ

2012年04月13日 | 随筆・短歌
 私は短歌を趣味としているのですが、俳句も新聞などに載っている俳人や一般投稿者のものを熱心に目を通すようになりました。短歌を詠む場合には、後半の七七に大変苦労して、何時も七転八倒致します。
 私の母は、女学校時代に習った短歌が得意だったようで、年を取ってから友だちに手紙を書く時には、最後に暫く首をかしげていて、たちまち一首サラサラと添えていました。そんな能力を母が持っているということに、目を見張って眺めていたものです。
 昔の人は、歌を詠み、鑑賞する能力を教育の基本として受けていたようです。小式部の内侍が「歌は」と藤原定頼に聞かれて「大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立」と、とっさに詠んで、和泉式部の娘として、母に代作して貰っているのでは、という疑いを見事に晴らしたというあの有名な逸話と一緒に、良く思い出すのです。
 私の叔母(母の妹)は、やはり短歌と俳句を詠み、どちらかというと高齢になってからは、俳句が得意でした。私が中学の頃でしたか、学校帰りに叔母の家に寄りましたら、(叔母は早くに夫を亡くして、一人息子を育てた人です。)丁度句作中の叔母に「貴女も俳句を作って見なさい」といわれました。俳句など作ったこともなく、仕方無くその場で詠んだ俳句が、あまりにも不出来だったことは私にも解っていました。叔母はその句を書いた紙を黙って眺めていましたが、以来私に俳句を作らないかとは二度と云わなくなりました。
 県立図書館で、その叔母の短歌と俳句の掲載された地方誌が所蔵されているのを見つけたことについては、以前書いたように思います。ともあれ私は、高齢になってから俳句にも興味を覚えるようになり、新聞などに掲載されるものを良く読むのですが、自分ではあのとき以来作ったことはなかったのです。

 ところが今年に入って、短歌の他に俳句も作って、気まぐれに投稿し始めました。勿論全くの素人ですから、本で勉強しながら投稿し始めたのです。きっかけは、日経新聞の黒田杏子先生選の、2011年の秀作の中の「さくらさくらさくらさくら万の死者」と云う句を読んで大変感動したことからです。これはイタリア語にも訳され、ローマの日本文化会館でも紹介、朗読されたそうです。
 私の大好きな山頭火の句の中に、「まっすぐな道でさみしい」という句がありますが、この句が「This straight road, full of loneliness.」と英訳され、これがアメリカの俳人に一番人気であると聞きました。英語に劣等感を持っている鬼子の私(父が高校の英語の教師でした)ですが、これなら助けて貰わなくとも素直に解ります。
 例のさくらさくらの俳句のイタリア語訳も、きっとその通りに外つ国の人々の胸を打ったのでしょう。どういう風の吹き回しか、やがて私の投稿した句も一句新聞に載りました。そうなると止める訳にはいかなくなり、いまは短歌と俳句の両方の投稿を繰り返しています。
 ただでさえ忙しいのに、これ以上投稿を増やすことに反対の夫は、渋い顔です。でも俳句は5・7・5と言葉を並べるのは、面白いように出来て、結構楽しいことに気づいたのです。勿論俳句は最も語数が少ない歌ですし、その中に心を入れて読まねばならず、短歌の七七と同じように仕上げは、最後の五音をどうするか、などと言葉探しや並べ替えなどに、のったりそったりの苦労をする羽目になってしまいます。
 自分が伝えたいメッセージを、たった三十一文字に纏め上げなければならない短歌が、あれほど苦しいのに、十七文字に制限され、その上季語を入れなければならない俳句は、容易ならざる苦しみだとようやく気付きました。
 最近の高齢化社会にあって、俳句人口が増えていると聞いてはいましたが、私もその仲間に入るとは考えても見ませんでした。全くの素人そのものの下手の横好きですが、鉛筆と紙があればどこでも詠める気安さがあり、直ぐに暗記出来て忘れないところが魅力です。
 退職するまでは、予想もしなかった趣味に生きることになり、それが何故なのかいまだに解りません。実に不思議なことではあります。
 先日NHKのEテレの高校生物で、遺伝子について話をしていましたが、多くはやはりDNAのなせる技なのかも知れません。巡り会いとは、実に不可思議なものであることをしみじみと感じ又考えさせられてています。
 


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町屋の人形さま巡り

2012年04月06日 | 随筆・短歌
 三月下旬に新潟県村上市の「町屋の人形さま巡り」に行って来ました。江戸時代から平成に至る人形約4000体が、76軒の町屋に飾られていて、約一ヶ月間、無料で誰でも立ち寄って見られるという催しです。
 良いお天気に恵まれて、村上駅で案内パンフレットを貰ってから、ブラブラと歩きました。沢山の町屋を軒並みに見る訳にもいかないので、何処へ行くか、あらかじめ地図により主だった所を決め、後はとび込みで回りました。
 訪れた家の方達は、とても丁寧に快く迎えて下さって、200年以上経った古い家も、新しい家も、みなしっとりとした城下町らしい風情が感じられました。
 ある家では昔からの町屋らしく、玄関から奥までずっと長く続く細い土間が昔のままで、黒光りしたデコボコの土の感触が足裏に伝わってきて、とても懐かしく感動しました。柱も戸も黒光りしていて、古い家を大切にして現在も住んで居られることに感心いたしました。
 当主らしい方が、200年以上経っている家であり、当時のままの家だと説明して下さいました。私が特に感心したのは、まだ若い当主なのに、自宅がそれほど古いものであることに、卑下するどころか誇りを持って説明している姿勢でした。おひな様も武者人形も古いもので、大きな加藤清正公は、有名な槍を持っていました。
 城下町のせいかも知れませんが、町屋も雛も武者人形も土偶も古色蒼然としたものが多く、長い時間を耐えた品位を漂わせていました。とりわけ享保(1716年~)雛には目を奪われました。現代よりも面長で少し頭が大きく、かんざしからヒラヒラと飾りが下がっていて、昭和・平成のやや丸顔の小顔でないところに時代の変遷を見る思いがしました。
 村上はお茶の北限の産地なのでお茶を商うお店も多く、又長い間塩引き鮭の干物を作り続けていて、沢山の鮭がお店や、軒下に下げられています。切腹を嫌って、お腹は部分的につながっています。これも城下町らしい伝統の習慣です。
 長い歴史を持つ高名な堆朱の産地であり、名の知られた日本酒の産地でもあります。そんな販売店でも人形が飾られていて、老舗のお茶屋さんや鮭の加工業を営むお店では、累代の見事な雛や人形が飾ってありました。
 茶舗ではお殿様から頂いたという大名行列の人形も見せて頂いて、和菓子とお抹茶で一服させて頂きました。美しい緑の美味しいお抹茶はさすがの味だと思って頂きました。旅先の京都や奈良ではこうしたお抹茶を頂いて、ひとしきり疲れを癒やすことが良くありましたが、こんなに美味しいお抹茶には出会わなかったと思いました。
 街並みを行くと、やがて重要文化財の若林家住宅と村上郷土資料館のある所に辿り着きます。質素な茅葺き屋根の武家屋敷には、こじんまりとした部屋が幾つかあり、宮家からの扁額もあって、お庭には未だ雪が少し残っていましたが、回遊式の庭園を一巡りして、写真を撮って来ました。
 人形類は、シヤッターの光が変色の元になりますので差し控え、此処が小旅行の記念撮影になりました。郷土資料館にも数多くのひな人形があり、この町の祭りに使われるおしゃぎりという丁度京都の山ほこの小型のような山車が、三台だけ飾られていました。
 黒塀の続く通りがあったり、こうして小京都のような山車があったりして、本当に古き時代の伝統を大切に守っている、市民の皆様の郷土愛に頭の下がる思いでした。
 ほのぼのとした温もりが残る心を抱いての帰り道、私たちの住む街の駅に降り立ちました。駅舎の二階の通路から我が街を見おろしますと、そこはまるで大都市のど真ん中の雰囲気に満ちていて、無機質な景観が見渡す限り広がっていました。
 駅周辺の開発は激しく、林立したビルの谷間を車の排気ガスにも無関心に人々が行きかっていました。その風景からは温かさが感じられなくて、今見てきた町屋から受けた印象との落差に、我ながら大切なものを失った後のような寂しさを覚えました。普段は車で気づかぬまま通り過ぎていたのです。
 それでも幸運にも我が家あたりは、古い開発の団地なので、まだ昭和の香が残っている人情豊かな所です。
 住めば都といいますから、えこひいきかも知れませんが、この場所に住んでいて良かったと再認識できたことも、この日のひとつの収穫でした。

 やさしくもすれ違ふ人の道譲る雁木通りは昔ながらに(実名で某誌に掲載)

 人間(じんかん)をすりぬけて行く交差璐に孤独の影の群れが往き交ふ(再掲)


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