ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

有り難くもあり哀しくもあり

2011年05月27日 | 随筆・短歌
 私の住む地域では、夫の同年代の人が多く住んでいます。その理由の一つには、この土地を開発して売りに出した頃に、家を建てた人が同じ年代だったということがあります。
 最近、その年頃の人達で、デイケアを利用する人が多くなりました。今日もまた新人が一人、介護の車がお迎えに来て、乗って行かれました。
 介護が施設で行われるようになり、以前に比べてとても介護が楽になりました。以前はお年寄りを子供扱いして、中には「<チイチイパッパ>なんてやってられない」といって、ディケアを受けるのをいやがって止めた人も身近にいました。確かにそんな扱いをしたら、お年寄りにも誇りがあり、現役時代にはなかなかの活躍をした人も多いのですから、人間の尊厳を無視したような扱いは、次第に改められたようです。今ではそのような対応はなくなったみたいです。
 私の義兄も、ディケアにもショートスティにも喜んで行ってくれたと姉が言っていました。姉も仕事を持っていましたので、どうしても預かって頂かないと困ることがあったのです。介護の人達は相手に合わせてそれ相応に話しをして下さって、何時も満足して帰って来たと言います。
 我が家の横の東西に通る小路は、行き止まりです。従って車はバックして入るのですが、この僅か12軒の中に、三人のお年寄りがそれぞれの施設にディケアに通っておいでです。それぞれブライバシーに配慮してでしょうか、別の施設に通っておられるようです。私が夕食の支度をしている時間に、毎日どなたかのお帰りの車がキッチンの外を通って行きます。
 こんなに便利になって有り難いと思う反面、何故か「オーライ、オーライ」と誘導して通る車の音が哀れにも聞こえてくるのです。そんな考えはいけないのでしょうが、年老いて施設に預けられるというふうに思うと、何となく割り切れない気がしてきます。
 数年前から夫と二人で有料老人ホームを見て歩いたりして、場合によってはお世話にならなければならないかと考えているのですが、可能な限り夫婦共々長生きして、自宅でピンピンコロリと逝きたいものだと思ってしまいます。
 しかし、生身の人間ですから、何時どの様な病気に罹らないとも限りません。そうなったときの為に、この度日本尊厳死協会に入会して、尊厳死の宣言をしたことは、以前書きました。
 そろそろ足も痛くなって、旅行も思うように出来なくなりましたので、今年は、狭庭のごくごく小さく空いたところに、去年に味をしめて、ミニトマト2本と、シシトウ2本、青ジソ2本、パセリは元々鉢にありましたが、日陰でも育つと聞いて、三つ葉の種を少し蒔きました。夏の陽射し除けにお座敷の外に毎年朝顔を植えて涼を取るのですが、今年はその内の2本をズッキーニにしてみました。実の成るものが欲しと思ったからです。
 外出がありますから、犬や猫は飼えません。せめて花の他に口に入るものが作りたくなったのです。私の知人も退職してから急に花をせっせと育てるようになったと云っていました。山野草に目のない人もいます。矢張り生きているものと話をしていると、心が和むといえるのでしょう。 
 少し前に読んだのですが、石垣りんの詩に次のようなものがあり、共感を覚えています。

      幻の花        石垣りん
庭に
今年の菊が咲いた。

子供のとき、
季節は目の前に
一つしか展開しなかった。

今は見える
去年の菊。
おととしの菊。
十年前の菊。

遠くから
幻の花たちがあらわれ
今年の花を
連れ去ろうとしているのが見える。
ああこの菊も!

そうして別れる
私もまた何かの手にひかれて。      詩集  「表札など」から   
 
 そう、今目の前にあるもの全ては、幻のごときもので、やがて消えて本当に何もなくなってしまう。そして自然は少しも変わらずに、静かに風をそよがせ小鳥が歌い、花が咲いている。この世に誰が居たか居なかったかなど問題ではない、全ては宇宙に還っていく、唯それだけ。
 生まれてから今までは、宇宙時間にしたら一瞬の出来事でも、私には親がいて、愛する家族がいて、友達がいて、沢山の人々にささえられて、そして充分に充実した時だったと思いますが・・・。心からの「有り難う」を残して、私もまた何かの手に引かれて何処かへ還っていくだけですね。


旅先での大切な忘れ物

2011年05月20日 | 随筆・短歌
 今年の春も例年通り夫婦の旅行をして、つい先日帰宅しました。夫が足の指の付け根の裏を痛くして歩きにくくなり、私もこの一年でぐっと老いて疲れてしまい、予定を少し繰り上げてやっと帰宅しました。
 今年が旅行の最後になっても良いように、旅行の目的は、我が家の本山(京都の真言宗智山派総本山智積院)に義父母の納骨がしてありますので、今日まで守って頂いたお礼を述べることが第一でした。加えて私の両親と先祖の納骨をしてある東本願寺と、親鸞のお墓のある大谷祖廟に弟の納骨がしてありますので、そこにも寄ることでした。
 もう何回訪れたか忘れてしまいましたが、先ず大好きな奈良に行き、屋根の葺き替えが終わった唐招提寺を見たくて、それに薬師寺で見残していた玄奘三蔵院と平山郁夫の壁画を見る為に西の京へ行きました。
 去年は遷都1300年の記念の奈良でしたが、混雑を敬遠して行きませんでしたから、今年は平城宮跡にも行きました。復元された実物大の遣唐使船や、平城宮史跡資料館で、遣唐使シアターや、平城京再現のバーチャルリアリティシアターを、興味深く観覧しました。朱雀門や大極殿並びに平城宮跡資料館も見学して、ボランティアの方の説明を受けて来ました。平城宮の復元工事は電車で通る度に、遠くからは良く眺めていたのですが、近くで見ると規模の大きさに驚いてしまいます。1300年以前の都ですから、何とも言えない感動でした。
 「せんとくん」という鹿の角をつけたイベントキャラクターがありましたが、アシスタントレディーに「せんとくん、て何ですか」と夫が聞き、「エーッ、せんとくんを知らないのですか」と仰天されたりしましたが、案内の後には私達を並べて写真を撮って下さいました。
 京都は奈良よりももっと多い回数を訪れていますので、もう市内も嵯峨野も栂尾や、鞍馬方面、宇治なども行っていて、観るべき寺院も少なくなり、今回は曼殊院門跡や詩仙堂、金福寺など、見残してあった左京区を巡りました。
 さて、本来の目的だった智積院では、尋ねる度にお寺の修復整備が進み、静かな中でお参りが出来ました。「もうこれが最後になるかも知れません。お守り下さいまして、有り難うございました。やがてそちらでお逢いしましょう」としっかりお礼を述べました。長谷川等伯・久蔵の国宝の障壁画も、美しい庭園もゆっくり目に納めて、満ち足りた気分になりました。
 大谷祖廟でも、親鸞のお墓にもお参りして、美しくなった門扉に驚いたり、何時ものように私の実家のお墓の石に似た親鸞の墓石を脇から懐かしく眺めて、お礼を述べて来ました。 実家の本山の東本願寺は、今年は親鸞の750回の遠忌式があり、御影堂に入りきらずに、ズラリと何百席もの椅子が並べられていました。5時30分からの開門にも驚きましたが、早朝7時過ぎに行った私達も、読経に参加させていただき、心に残る素晴らしい法話をお聞きして来ました。
 それが京都の最後でありましたので、駅へ行ったのですが、そこでハタと大切なことを忘れて来たことに気付いたのです。即ち一番肝心なお礼を言い忘れてしまったのです。あわてて後ろ向きになり、東本願寺の方向に向いて、手を合わせましたら、目の前の夫が「何をしているのだ」と云いました。理由を告げましたら、自分が拝まれていると勘違いていた夫に「私を拝んでどうする気だ」と笑われてしまったのです。
 その為の旅行だったのに、と思うと忘れてしまったことがとても心残りで、帰ってからも残念がりましたら、「また行く機会を残してくれたということだ」と息子に慰められました。
 最後だ最後だといって、昨年秋から計画してきましたので、何とか体の動く内に夫婦揃ってお参りが出来て良かったのですが・・・。
 幾たびかの四国遍路の旅、鳥取砂丘や中国地方の旅、九州と平戸島の隠れキリシタン殉教の旅、北海道の12日間の旅、今思えば数々の旅を共に歩いて来ましたが、どれも楽しく忘れ得ない旅でした。お礼を言い忘れた旅が、再度実現する日は来るのでしょうか。

  風紋を描きし砂丘風ごとに形をかへて我にせまり来

  死を前に必ず伝へたき言葉「ありがたう」の五文字が全て(何れも某誌に掲載)

鯛の季節になって

2011年05月13日 | 随筆・短歌
 四月に「30年目の鯛」という文章を書きましたが、やがて5月になり、いよいよ本物の鯛が旬の時期になりました。鯛と言えば「鯛飯」という家族が好きな献立があります。五月になったら作ろうと思っていましたので、ゴールデンウィークのある日の夕食を鯛飯にしました。
 実を言いますと二回目の四国遍路の時に、宇和島で泊まり、夕食はホテルを出て鯛飯が名物だというお店に行ったのです。普通鯛飯というと煮た鯛が載って出てくるのですが、そこは漁師の鯛飯といってお刺身の鯛が載り、味が付いた卵液を掛けて食べるのです。その美味しかったこと。帰宅して早速見よう見まねで鯛飯を作りました。ところが味が今いちなのです。ある日夫が、「JAFの会員誌に宇和島の鯛飯が出ているぞ」と言うではありませんか。早速レシピをメモして、以後我が家の春向きの料理の一つになっています。
 簡単なのです。要するに新鮮な鯛のさく取りを一人分80~90g位薄くそぎ切りにして、少しの醤油をまぶし冷蔵庫に30分位「づけ」にしておきます。別のボールに生卵一人L一個(または沢山食べる若者の居る場合は1.5位)煮きった酒(計量しなおして)30cc薄口醤油10ccみりん3ccと少々の砂糖を合わせ、よく混ぜて味を見て調節、冷蔵庫に冷やしておきます。
 別に白ごま大さじ1を炒って摺る、細ネギ一本小口切り、もみ海苔1/3枚位、さあこれでお終い。(材料は全て大目の一人分です)炊きたてのご飯を丼に盛って、ボールの卵液に海苔を除いた全てを混ぜて、ご飯の上からそれぞれの丼に掛けます。もみ海苔を散らして出来上がり。簡単で美味しいので、興味のある方は作ってみて下さい。普段よりご飯は大目に炊かないと足りません。
 前置きが長くなりました。何時もは夫婦一緒にウォーキングをし、ついでに買い物をするのに、その日は昼過ぎに一人で買い物に出て、鯛と細ネギとトーフを買って帰ってきました。夕方さあ鯛のづけを作ろうと思いましたら、2パック買った筈なのに、1パックしかありません。冷蔵庫のチルドへ入れておいたと思うのですが、幾ら探しても見あたらないのです。確か丁度良い分量になると計算して買った筈なのに、大きい方の1パックがないのです。考えられることは、スーパーの籠に残したまま帰ってきたということです。仕方なく徒歩三分のスーパーへ急いで行って買い足して来ました。まだご飯が炊きあがっていなかったし、支障なく鯛飯が出来、ホッとしました。夫は「自分が付いていないと危ないなあ」と言うし、息子には「次に何か美味しいものを作ろうと思うと、もうそっちに意識が飛んでしまうのだろう」とからかわれて笑いの種になりながら、それでも美味しいと喜ばれて楽しい夕食でした。
 「今度からは籠の中をきちんと確かめて忘れ物をしないようにするわ」と私は云い、「事故に遭った訳ではないし、他人に迷惑を掛けた訳でもないから」と自己弁護しながらも、二度とやるまいと秘かに誓ったのでした。
 その翌日のことです。また夫が外出して、私が一人で買い物に出かけました。その日はいろいろと買い物があり、ミックスフライ用のエビも買って、スーパーを出たのですが、ドアを出たとたんに、「お客さん」とレジの人が追いかけてきて、私にエビの包みを手渡したのです。またまた籠に一つ置き忘れて来てしまったのです。さすがにこれには参りました。こんなに呆けて来たのかと思うといささか落ち込みましたが、老いて忘れることは人間の生理現象だし、忘れるからこそ人は生きて居られるのだ等と、変な理屈で自分を慰めながら帰ってきました。鯛を忘れ、エビを忘れ、次は何を忘れるのでしょう。まさか自分自身なんてことは・・・。

 たらいからたらいに移るちんぷんかん (小林一茶)

 生まれたときには産湯のたらいに浸かって、亡くなると湯かんのたらいにつかります。その間はちんぷんかんだと一茶は言っています。確かに人生って何だ?と正面きって聞かれてもそれは難しいことです。今日は理屈っぽいことは考えたくない気分です。ただひとこと言わせて頂くならば、何時もと同じように鯛飯も、翌日のタルタルソースを添えたミックスフライも美味しかったし、アクシデントは有ったにしろ幸せな人生のひと時だったということです。

心を写し出す芸術

2011年05月06日 | 随筆・短歌
 私が写真という芸術に興味を持ったのは、もう晩年に入ってからでした。それまでは写真とは真実を有りのまま写したもので、それ以上でもそれ以下でもなく、これを芸術と言ってよいのか、等と全くもって無知蒙昧な人間だったのです。今はその不見識な自分をとても恥ずかしく思っています。
 無常な時間の流れの中で、自然も人間も一時も止まっていません。その一瞬を切り取ること、そして、被写体を写す角度や光の当て方、何処までをファインダーに入れるか等実に様々な工夫がなされています。二度と同じ時間が来ないように、同じ場所でも二度と再び同じ写真は写せません。
 最近私は人間の顔に興味を持ち始めました。書棚にあった濱谷浩写真集の「学芸諸家」(1983年岩波書店)という本を見ている内に、有名人を被写体にした写真が語る、「その人」の魅力に引かれて来ました。日本画家の上村松園さんと物理学者の湯川秀樹氏どちらも伏し目がちな面差しですが、先入観があるせいか、何となく上村さんには、優しく奥行きの深いまなざしを感じますし、湯川氏には、神経質そうで透徹した科学者の眼と心を感じます。上村松園さんの「序の舞」は記念切手にもなったので有名ですが、あでやかに舞う女性の、前方一点を見つめる瞳が凜としていて、本当に素晴らしい作品です。描いた松園さんのひたむきで澄んだ心が感じられるようです。写真の上村さんも何処か芯のしっかりした感じがあります。
 人は誰でも鏡を見る時は、前方から眺めるしかなく、たとえ三面鏡でも伏し目がちな自分や後ろ斜めからの姿はなかなか正確には捉えられません。自分が自分の姿を一番良く知っているというわけではないのです。しかし、後ろ姿がその人を如実に語ったりすることも多いですから、矢張り写真家は、最もその人を表す方角から撮るのでしょう。丸い眼鏡で伏し目の湯川秀樹氏も、あの愛に満ちた詩を書いた佐藤春夫氏も、走っている棟方志功氏、天真爛漫に椅子にいる金田一京助氏も矢張り真正面の写真ではありません。私は写真家の人物を捕らえるその心に入り込んで、つい見とれてしまいます。
 最近北海道から沖縄まで、くまなく回って主に70才前後から100才までの年を召された方ばかり写しておられる人の写真集を見ました。「日本列島 老いの風景」という写真集(2006.山本宗補 アートン)です。「またあした」というカバーの写真は、孫ひ孫合わせて29人の100才の女性です。手押し車にジャガイモを載せて、しっかり押しています。一日働いて夕方これ程力強く帰路につくのですから、それはそれはお元気といえます。これは大往生の島と言われる沖家室島(オキカムロシマ 瀬戸内海に浮かぶ当時人口190人位)の温暖な小島です。老いて花札を楽しむ老女達、集まって大きな数珠をくる様子、何れも老女達が生き生きと写されています。男性もまた明るい笑顔です。この誰もが戦争を経験し、様々な人生の苦難を乗り越えて来られた人達でしょうけれど、そこには暗さが見えません。
 モンテーニュは「老いは、我々の顔よりも心に皺をつける」と言いました。この人達の老いたその顔に見える皺は、人生の苦楽を刻み込んでいますが、柔軟な心は表情を穏やかにさせ一層味わい深いものにさせていると思いました。その皺に刻んだ想い出は、どれ程時間を掛けて話しても途切れることはなさそうです。けれどもその心はまろやかで、温もりに満ちているように感じられます。
 鯛を釣り上げる瞬間の老人の生き生きとした写真の左に、「まして人間は生き、老い、病みやがては死ぬ。人間同士いたわり合い、分かち合い、支え合って生きてゆく。この道理を島民たちは今もふだんの生活の中に溶け込ませながら暮らすのだった」とありました。 釣船の上に正座して手を合わせ頭を垂れて祈る老漁夫。左に「漁が終わり、自然の恵みに手を合わせる。《南無阿弥陀仏》」とあります。「老い・呆け・死・みな正常です。死なない人間はいない」とも。畦道を押し車で歩いてきた農婦を止めて、農道で聴診器をあてる医師「これが本当の職場検診やで」とあります。医師もまた島民の世界に溶け込んだ、良い笑顔の老人です。
 「お迎えが来るまでの人生の最終章を生き抜くことができるのは、一つの贅沢だと言える程、世界は与えられた生をまっとうすることが叶わぬ人々で溢れている。」とも書かれていました。
 今回の震災でも多くの尊い命が失われました。かと思うと一方では、毎年その人数を上まわる自殺者を日本は出しているのです。今生きていられることが、それだけでどれ程幸せなことかと思わざるを得ませんでした。
 そして自分も気付かない自分の姿に思いを巡らせたり、これらの写真に映し出された人々の心や、写した人の心に少しでも近づいて考えてみたいと思ったりするのです。人間の顔には誰しもドラマが刻み込まれているからこそ魅力があります。それも撮った人の鋭い目と人間の心を理解する深い洞察力とが相まって、初めて出来る芸術なのでしょう。連休の所在ない一時をこのようにして過ごしています。