ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

夢を紡いで

2009年06月29日 | 随筆・短歌
 70歳を過ぎている私は、この頃身体のあちこちが故障して、医師のお世話になる事が多くなりました。以前は病気とは全く縁が無かっただけに、病の辛さを教えられています。
 五月に転んで、膝蓋の内側にヒビが入り、ギブスの身になってしまいました。幸い二週間でギブスは外れたのですが、楽しみにしていた夫と二人の旅行がキャンセルになり、半年も掛けて計画し、キップの手配もホテルの予約も済んでいましたので、とてもがっかりしました。
 歳には勝てないなあ、としみじみと感じています。知人の勧めもあって、出来るだけ薬に頼らないように努力しています。旅行先は逃げて行かないから、来年か今年の秋にでもと夫に言われるのですが、代わりに何処へ行こうかと考えた結果、上高地や立山はどうかとか、利尻、礼文はどうか、等と幾つかの候補地を考えてみたのですが、どうも無理が利かないようなので、とうとう今夏の旅行は見送りました。
 振り返ってみますと、夫の両親の介護で外出が思う様に出来なくなった時、日本画やコーラス等という教室通いが出来なくなり、代わって偶然通信講座という楽しみを見つけました。1991年から初めましたので、もう17年程経ちました。こんなふうに生涯学習に取り組むとは考えていなかったのですが、家に居て気ままに学習を進められる事はとても魅力的でしたし、どちらかというと社交性に乏しく、一人で居るのが好きな私には向いていました。
 リポートというノルマがあって、これを書くのに四苦八苦で、時折提出期限に間に合わなかったりしたのですが、猶予期間があるので何とか続けて来られました。半年か一年で一講座が終わるのですが、2~3講座ずつ並行して受講していましたから、延べ約60講座を受講したことになります。中でも楽しかったのは、古典、日本史、漢詩、数学、などでした。 
 仏典を取った時は、私が何故今になって仏典という難しい学習をするのか、自分でも不思議でしようがありませんでした。けれどもやがて娘が突然の病で亡くなった時に、初めて御仏のお導きがあったのだと気づきました。それはとても有り難いことでしたし、難しかったですが、表現し難いほど意義深い学習でした。終了まで二年かかりました。
 歳を取って上手く学習が進まなくなったら、易しいものや気に入った講座を再学習しようと考えていました。既に仏典や古典は再学習済みです。徒然草などは、何回学習してもその度に生きる知恵を授かります。歳を取って独りになった時のことを考えて、囲碁も学びました。けれどたった一つだけ、入門講座だけで、後が続かなかった講座があります。それは古文書です。
 テキストを読み返し、読み返し、リポートを書くのですが、覚えた筈の古文字を直ぐに忘れてしまって、これでは叶わないと思い、入門を終えたところで諦めて打ち切りました。 私の故郷の家には古文書が沢山あって、もし読めたら嬉しいと思ったのですが、とうとうその夢は叶いませんでした。もっと早くから学習するのだったと後悔しています。
 旅行は身体の利く限り短くしても出かけたいと夢見ています。以前は北海道を12日かけて、車で回ったこともありましたが、今はせいぜい列車で一週間くらいになってしまいました。
 計画を立てるのは、八割は私で、残りは夫です。私が立てた計画は、あれもこれもと詰め込むので、夫が切り捨てる役目を請負って、必ず点検チェックします。写真を撮るのは主として夫、アルバム係りは私です。見学先のパンフレットなども貼って、一言付け加えます。それがこうして、ブログの種になっている訳です。考えて見ると不思議なことですが、こうして二人で歩いた道のりが、そのまま私達の人生となり、後に残った人には、アルバムが想い出のよすがとなってくれることでしょう。
 残された人生をなるべく健康て、このような楽しみをずっと続けていきたい、というのが私達夫婦のささやかな夢なのです。
 
 つゆ空が淡い悲しみつれて来ぬ一人が好きの我が身なれども
 死ぬまでにあと何年を使えるか痛み居る膝かばひて立ちぬ
 知らぬ間に積もりし心の重荷あり捨ててゆきたし旅先の空
 弥次喜多の夫婦の旅に満たされていつか最後となるを恐るる

        (全て実名で某誌に掲載)




極端に綺麗好きな人

2009年06月26日 | 随筆・短歌
 ユーモアのセンスに欠ける私ですが、この辺で一寸面白い話題を提供しようかと思います。私はいわゆる「尻の重い人」で、なかなかスッと行動に移せません。ですから、新聞を読み終わっても直ちに片付けません。テーブルの上に置いたままでも余り気にしないのです。テレビ台の脇に掛ける新聞ラックは私が買って来たのですが、読み終わった新聞をサッとラックに直行させるのは何時も夫です。
 夫はとても綺麗好きな遺伝子を持っています。出した物が置いたままあることを好まず、今読もうと私が出してきた新聞も、一寸うろうろしていると、もうラックの中に片付いています。
 夫は料理は余り得意ではありませんが、片付けが好きで、私が夕食の料理をしていてそろそろ終わりという頃になると、毎日ボールやザルを洗って片付ける仕事を手伝いにキッチンにやって来ます。作ることに夢中の私には有り難いことですが、うっかりすると、今使おうと出したボールやザルを私が気付かぬ内に片付けにかかって、使おうと手を出すと夫が洗剤だらけにしている最中、ということもしばしばです。
 夫が傍にいる時は、特にお酒や酢などを量って容器に入れておく時は「これは捨てないでね」と念を押しておかないと直ぐに捨てられてしまって、「水かと思った」となるのです。すし飯の合わせ酢や、にぎり寿司の時の手水用の酢水は、特に要注意です。もう何回も捨てられて作り直しました。夫もこの頃水の入ったボールは「捨ててもいいか」と聞くようになりましたが。
 食後の洗い物は私が主となって行い、夫は拭いて片付けて呉れます。洗い物が終わる頃になると、サッとガスレンジのゴトクや受け皿が出されます。一寸でも汚れていると気になるタチで、お陰でお勝手の回りは何時もピカピカで、これは私も嬉しいことです。可笑しいのは、洗面所のお掃除です。私が毎回洗剤を付けて、ピカピカに磨いておいても必ず夫が自分で磨かないと気が済まないのです。洗面器とその回りだけというのも不思議ですが、どんなに綺麗にしても毎回繰り返されることで、だからといって私も手抜きは嫌なので、必ず磨きます。
 夫のこの綺麗好きは、夫の母方の遺伝で、従兄の綺麗好きときたらこれはもう度を越していて、庭に咲いている花にも塵払いを掛けたといいますから、さすがの夫もこれには叶いません。四角い部屋は何時も四角に、不要な物を出して置かない、掃除の後の塵は拾って歩くといったように、家の中は何時も片付いています。
 買い物レシートを元に家計簿を付けていると、終わるか終わらないかにもうゴミ箱へ持って行ってくれますが、時にはゴミ箱へ追いかけることもあるのです。何時もテーブルの上には何もない状態が好きなのです。そのテーブルで私が資料をオオバラに広げて調べ事をしたりしますので、「そろそろ片づけたら」とか「夕食の支度は大丈夫か」と自室からわざわざ言いに出て来ますので、私も夕食の支度に取りかかる時刻に合わせて、目覚まし時計を掛けてテーブルに置くことにしています。
 そんなこんなで、私の料理のレシピには何時になったら何をして、何時に何をするかといったメモも書きこんであります。お寿司類、鯛飯、赤飯、おはぎ等時間が掛かったり、複雑な工程のものは、その都度工程を調べて時刻を計算しなくて良いようにしてあるのです。 毎日の料理でも毎回レシピのお世話になるというのは、呆けてきている証拠でもあるのですが便利です。そのレシピファイルがとても気になるらしく、「もう片付けていいか」としょっ中聞かれています。大方は「未だ」という返事になります。
 見えるところはきちんとしていないと気が済まないけれど、見えない押し入れの中に余り気を遣わない夫と、見えるところが少し乱れていてもさして気にならないけれど、見えないタンスの引き出しや押し入れの中はきちんとしていないと気になる私と、二人はまさに割れ鍋に綴じ蓋で、それでどうにか日々を過ごしているのです。
  
一日の日程終へて見る暦十年先を推し量りつつ (2004年作)
ごつき手で暖かき茶をなみなみと注ぐは夫の愛というべし
    (全て実名で某誌に掲載)

南州の墓地に佇って

2009年06月23日 | 随筆・短歌
 十数年前のことになりますが、十日程かけて九州を一周する旅に出たことがあります。九州の最後は鹿児島でした。鹿児島駅で下車して、真っ先に西郷南州の墓地に向かいました。良く晴れた日で、南州の墓地には沢山のお墓が整然と錦江湾に向かい、遥かに桜島を望んで建っていました。中央に大きな西郷南州のお墓があり、左右に灯籠があって黒っぽい石の立派なお墓でした。回りには、篠原国幹とか、桐野利秋、村田新八などそうそうたる側近達が取り囲んでいました。お参りを済ませ記念写真を撮ってから、改めて南州の墓の前から、錦江湾を望んでみました。
 西郷南州も故郷に帰って、行動を共にした人々と静かに眠っていることに満足しているように感じました。そして私までが、このように南州の墓地に佇っていることに不思議な思いをを抱くとともに感慨無量でした。はるばる尋ねて来て、維新回天の英雄達に、直接お会いしている錯覚さえ覚えるのでした。
 隣の土地に西郷南州顕彰館が建っていました。そこでは南州の遺訓集を記念に求めました。そこから南州終焉の地 へ行きました。西郷が最後に立てこもった洞窟はさして大きくはなく、柵で囲まれて中に入れないようになっていました。「もうこの辺で良かろう」と云ったという南州の気持ちに思いを馳せてみた時に「こうなることは最初から覚悟していた」という言葉が隠されているように思えてなりません。歴史の中で大きな業績を残した人々は、後世の人間に不滅の教訓を残している、と感じられたことでした。
 現在は病院になっているところの石垣には、西南戦争の弾痕がそれはそれは沢山残っていて、如何に烈しい戦いだったかを物語っていました。
 次に維新ふるさと館へ行き、明治維新に関わった人達の資料を、感慨深く見学しました。実物大の西郷や龍馬などの人形による劇も見ました。南州のコートが置かれていて、誰でも着てみられるようになっていましたので、夫が手を通してみました。それはブカブカで、西郷の身体の大きさを改めて感じ、心の大きさまでも感じ取られた気分でした。
 お昼は街の中心街へ出て、デパートの食堂で済ませました。同じテーブルに鹿児島市に住む老婦人がいましたが、薩摩の武家の末裔を思わせる、とても上品な方でした。どちらからともなく話かけて、和やかな一時を過ごしましたが、その老婦人は「鹿児島は桜島の灰が降るけれども暖かくて、私は何処よりもここが好きで此処を離れる積もりはありません」と仰っていたのが、印象的でした。自分の住んでいる街をこのように言える人は、最近少ないのではないでしょうか。私はこの上級武士の末裔を思わせるご婦人の、上品な品格とこの郷土愛の精神が、見事に調和されていることに感動を覚えました。
 鹿児島の人達の誇りは、何と言っても南州なのかと思っていましたが、乗り合わせたタクシーの運転手さんは、大久保利通も同じように郷土の誇りだと云っておられました。鹿児島市には加治屋町の英傑といって、狭い街に西郷隆盛、大久保利通、西郷従道、大山巌、東郷平八郎、山本権兵衛などの偉人をキラ星の如く輩出した町内があります。そのことも又興味を引きました。
 橋のたもとにコートの裾をヒラリと翻した大久保利通の像が建っていて、新生日本のリーダーらしく、颯爽としていました。駅前広場には、薩摩が排出した大勢の偉人の像があり、小高い山のように形作られた所々に男女を問わずに据えられていましたが何故このようにこれ程多くの偉人が排出したのでしょうか。天と地と人の恵みが豊かであったからかと思えたことでした。
 夕方ホテルに向かう私達が通った林で、少年剣士がお爺さんといった高齢の方に、剣の指導を受けているところに出会いました。剣道着で「えいっ」という鋭いかけ声をだして、束ねられた小枝を竹刀で叩いていました。繰り返し繰り返し、それはまるで武士の時代にタイムスリップしたようでもあり、こんな風に武士道がおじいさんから孫へと脈々と受け継がれているのかと、薩摩武士の心意気を感じて清々しい気持ちになりました。
 司馬遼太郎の「故郷忘じがたく候」で、陶工の沈寿官の話は読んでいましたので、九州に旅立つ前に念の為我が家の花瓶の一つを見ましたら、沈寿官の作にによる白薩摩だったのです。鹿児島のデパートに並んでいる沈寿官の花瓶は、色も絵の感じも我が家と同じで花瓶の底に沈寿官とあり、それ以来我が家にも大変な家宝があるのだと大切にしています。

   

滅びゆく刹那の美

2009年06月20日 | 随筆・短歌
 亡くなった義父が好きだった薔薇の花が、庭の片隅に毎年美しい花を咲かせます。咲き始めの蕾が少し開いた花も美しいですが、精一杯に開いた花がはらりと散る直前の美しさも例えようがないと私は思います。
 ボタンの花もそうですが、一瞬にして全部の花びらがハラリと散っていきます。その見事なまでの達成感とそして滅びの美といいますか、この世に精一杯生きてきて、最後のいさぎよさには本当に感動します。
 花火もそうです。大きく開いた空一杯の花火が、これ以上大きくなれないところ迄開ききって、やがて落ちてゆくのですが、ボタッとした火の玉の消えゆく寸前が殊に美しいと思います。感じ方は人それぞれかと思いますが、滅び行くものの哀切さがあって、短い夏の終わりを感じたりします。
 海に近いところに育った私ですが、夕日が海に落ちる時の美しさもまた、見事なものです。今は海から少し離れた土地に住んでいるので、先日久し振りに海の傍の温泉宿で見た入り日は、特に印象的でした。それは今まで見た事のない上弦の落日でした。まん丸な大きな入り日は宍道湖畔のホテルで見たのが一番記憶に残っていますが、この度の入り日は、雲がたなびいていて、その間を沈んでゆく真っ赤な太陽が、雲によって上弦に型取られたのです。珍しい光景で、しばし我を忘れて見入っていました。海や雲で下弦になるのは何時ものことですが、上弦、それも真半分に上が切れている夕日は、珍しいものでした。
 入り日は今日の終わりを告げる最後の輝きで、静かに、しかし思ったより素早く沈んで行きます。やはりいさぎよさが感じられます。最後まで見届けようと、つい食事の手を休めて見とれてしまいました。
 虫がさなぎから羽化するのも、植物が芽を出すのも、生まれ出ずる美しさがありますが、死にゆく時もまた美しいと云えそうです。
 時折美しく死ぬということはどういうことなのだろう、と考えることがあります。義母は病院に一ヶ月余り入院 していて亡くなりましたが、夜中起きて看病していた私が、義母の様子がおかしいのに気が付いて、看護師さんを呼び、直ぐに夫に電話を入れて、義父と二人で駆けつけて貰いました。娘も息子も家にいませんでしたし、義姉も遠くに住んでいて、間に合いませんでした。夜中なのに主治医がわざわざご自宅から駆けつけて下さって、感激しました。義母はやや荒い呼吸でしたが、やがてその呼吸が少しずつ静かになって、フッと消えました。静かな、しかし荘厳な感じのする美しい死だと思いました。
 この三日ほど前に、義母は付き添っていた私に「ありがとう」とはっきりした声で云い、それが私の聞いた義母の最後の声でした。
 義父の場合は、朝食の時に「夕べは何か調子がおかしくて眠れなかった」と云いましたので、診察予定日ではなかったのですが、私が掛かり付けの病院に連れて行くことにしました。義父は自室で着替えを終えて、私はタクシーを呼んで出かけようとした時に、突然倒れて救急車で入院しました。そのまま二日間人工呼吸器で生きていましたが、私達家族にお別れの心構えの時間を与えて、矢張り主治医に脈を取って貰って静かに呼吸を止めました。下着から綺麗に着替えての死でした。婦長さんが「心掛けの良い人は違いますね。きちんとした服装で亡くなられましたね。」と仰いました。
 さて、私はどうするか、といっても死は神様のお決めになることですから、せめて私も「ありがとう」と家族に云ってから逝かせて下さい、と神様にお願いしています。

 活けられし紫陽花のやうに涼やかにあなたは生きていたのだけれど
 白き薔薇一輪活ければそれだけで救はれてゆく 五月の孤独
       (全て実名で某誌に掲載)

故郷の廃家

2009年06月17日 | 随筆・短歌
 私の家は現住地から、特急で2時間位の所にあります。以前「兄の無念」で書いたように、兄は職を退いた後には、故郷で晴耕雨読の生活を望んでいたのですが、その願いは叶わないまま早世してしまいました。兄弟姉妹も皆遠くの地に住み、故郷の家は廃家となって久しくなりました。時折私達が実家の近くにある父母のお墓にお参りに行くと、実家にも寄って写真を撮ったりしたのですが、今はその姿が辛くて見るに忍びない気持ちになってしまいます。
 祖先に茶道に凝ったり、俳句に凝った人がいて、上部を丸くくり抜いた手洗いの石や、そちこちに小さな石灯籠があったのですが、人の住まない家なので、いつの間にか消えて無くなっていました。持ち出せない巨大な芭蕉の句碑や、大灯籠、昔の池にかけてあったという畳一枚余りの石橋などは残っていますが、それがかえって無残な残骸のように思えて哀しくなるばかりです。
 室生犀星の詩に
  ふるさとは遠きにありて思ふもの    そして哀しくうたうもの
  よしや   うらぶれて異土の乞食(かたみ)になるとても
  帰るところにあるまじや   ひとり都のゆふぐれに
  ふるさとおもひ涙ぐむ    そのこころもて
  遠きみやこにかへらばや   遠きみやこにかへらばや

というのがあります。私も夫も父親が転勤族でしたので、各地を転々としましたが、戦後一個所に落ち着きました。お互いの実家は列車で3駅離れていますが、いずれも懐かしいのは故郷の山河です。旅行の往き帰りに特急で通り過ぎることがありますが、お互い「暫くは見られないのだから良く見ておきなさいよ」といって、疾風の如く走り去る列車の窓に顔を寄せて、見えなくなるまで見つめています。
 夫の家はもうありませんが、そこに家があっても無くても、山を見ることによって、込み上げてくる懐かしさがあります。息子は今住んでいる家で育ちましたが、夏休み毎に私の実家へ幾日か行きましたので、蝉やトンボやカブトムシを捕まえたり、はやを釣ったりした想い出が強烈で、故郷の面影を私の実家に求めているようです。
 しかし、懐かしい反面室生犀星の詩のように、「かえるところにあるまじや」といった面も確かにあると思います。故郷から巣立った者にとっては、おめおめと帰れるところではないと云う思いもあるでしょう。あの啄木も懐かしさに故郷の訛りを停車場の人混みに聞きにいっても、北上川の岸辺の柳を思い浮かべても、帰ろうとはしませんでした。
 尤も啄木は石をもて追わるるごとくに故郷を後にしたのですから、無理はないのかも知れませんが。
 遠く離れた故郷を胸に秘めながら、父母の、兄弟達の、そして友人達のぬくもりに疲れた心を癒しながら、住み着いた異土を次なるふる里として、人は生きていくものなのでしょう。

幼き日あこがれだった駄菓子屋も空き家となりて雪のふるさと
幾つかの果たせぬ夢をまさぐればふる里はいつも優しかりけり
ふるさとの盆の慣はし笹寿司を今年も作る嫁して50年
存(ながら)へて現代(うつしよ)の苦しみ多ければこと更哀し故郷の廃家
(全て実名で某誌、紙に掲載)