ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

より良い未来であるために――2015年を見送るに当たって

2015年12月30日 | 随筆
世の中に物が溢れて、お金さえ出せば様々な物が手に入る様になりました。でも幸せは買えるとは言えません。私は何とかささやかながら健康で、穏やかに暮らせることを喜んでいます。人様に迷惑を掛けないように暮らしたい、と思い努力しています。又少しでも、世の中のお役に立ちたい、と考えています。その気持ちの一端として、ごくささやかではありますが、寄せ集めれば大きな力になるに違いないと考えて、折りがある度に、郵便局などから寄付して来ました。
 今年も日本に限って拾っても、口永良部島の火山爆発や桜島・箱根の大涌谷等の火山活動活発化、それに関東・東北のあの豪雨、九州にも沢山降りました。加えて東京の8月の猛暑8日間、北海道も帯広で37.1℃、名古屋の連続猛暑と全国広範囲にわたって気温が上昇しました。その為の災害・熱中症・作物の不作、など数え上げれば自然災害が沢山ありました。被害に遭われた方のお苦しみは如何ばかりかと、お察ししています。
 又原発について言えば、チェルノブイリよりも被害が大きくなってしまった福島。未だに被害が増すばかりのようで、原発の解体処理は一向に進みません。そんな、解決の方法も見当たらない福島を放って、川内原発を再稼働させた、この無定見さには、驚くばかりです。安全な日本を考えると、廃炉にするにはお金が掛かっても、仕方無いと思っています。もともと原発を作らないドイツに見習い、また福島の教訓を生かして、もっと言うならば原爆を浴びた世界唯一の体験国として、世界のリーダーとして、原発廃止を実践すべき立場ではないでしょうか。
 目を転ずれば、五輪エンブレムの盗作問題は、恥ずかしい限りでした。出す方にも問題がありますが、選ぶほうにも問題があります。今や日本の技術は多方面にわたって、世界に誇るものになりました。けれども「在るんです」とコピペのリポートをかざして主張した科学者の良心の欠如は、情けなくて正視に耐えないものでした。
 政治の動きが速くなりすぎて、もっと時間をかけて審議すべき安保関連法案も通りました。気が付いたら徴兵制になっていたと言うことの無いように理性を保って、戦争の方向にだけは動いて欲しくないと思います。
 気付いたときには一気呵成に戦争に突っ込んでいった昭和10年代の悪夢がよみがえります。
 良いニュースとしては、ノーベル賞を二人の日本人科学者が受賞されました。大村智氏と梶田隆章氏がその二人です。聞く処に依ると、まだまだ日本人には、後に続く受賞候補が大勢居られるということです。確定には少し日があるようですが、日本人が新元素を発見したというニュースもあります。
 スポーツでもラグビーW杯日本三勝・体操・フェンシング・テニス・スケート・サッカー等々輝かしい記録がありました。
 世界的には、ISの問題とフランスの同時テロ、EUへ押し寄せる難民、そして南シナ海の領有権を巡る対立、中国の大気汚染や世界的温暖化も見過ごせません。
 一つ一つに丁寧に真摯に向き合って、一歩でも良い解決に向かって前進できるようにしたいものです。
 一人一人は小さなことしかできないようですが、地球上に住む人間が、みな「今、自分の手にある幸せを感謝しましょう。そして自分よりも人の気持ちを大切に考えるように努力しましょう。」とそう考えて実行に移して行けば、お金がなくとも温かい気持ちが伝わり、助け合いが広がって行くのではないでしょうか。未来に期待が持てそうな気がします。現在生きて居る私達は未来を生きる人々に、少しでも住み安い地球環境を作る義務があります。
 人間は心の生きものです。気持ちの問題なんか、と言わずに考え方を変えれば、それだけで幸せを引き寄せることが出来ると信じています。
 今年も残り少なくなりました。皆様には、私の思いつくままに書き連ねたブログを読んで下さり、心からお礼を申し上げます。有り難うございました。皆様の2016年が、健康で平穏な年でありますよう祈っています。


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古い音楽に蘇る記憶

2015年12月20日 | 随筆
 ハープ奏者の内田奈織の曲を聴きながら書いています。音楽を聴きながらメールやブログや何かの原稿を書いているということは、私の何時ものことです。ウォークマンのこともあれば、パソコンで聞きながら書くこともあります。沢山のCDの中から、その日目に止まった1~2枚を出して来て、聞きながら書くのです。
 心が癒やされて、仕事がはかどります。でも書くことに熱中すれば、もう何も聞こえてはこないのです。ふと手を休めると、急に聞こえてアッあの曲だ、と意識します。
 今さだまさしの「北の国から」が始まりました。ドラマ「北の国から」をDVDで何度も見ましたから、いつも心に残る美しいメロディーです。
 そういえばさっき「大きな古時計」が聞こえていましたが、先日祖父が或銀行の椅子(後ろにとても大きな柱時計が掛かっている)に腰を下ろし、真正面から撮った写真を見付けました。
 元気だった祖父は、明治時代からの銀行の頭取(衆議院議員であり、後に貴族院議員になった人)から、留守を頼まれてずっとその人の代わりに頭取代行をしていました。後に現在の地銀に合併になりましたが、ふる里へ帰ると今もその地銀は、元気であった祖父を思い出す懐かしい建物です。
 祖父は私が大学1年の秋の、そろそろ学生寮に戻らなくては、と言う日に突然倒れて、数時間大きいいびきをかいてそのまま亡くなったのです。お葬儀には、その議員の方は都合が付かなかったそうで、弔辞をテープに吹き込んで届けて下さって、参列者一同静かに拝聴しました。その切々とした涙声の長い弔辞には、一同感動して聞き入ったものです。
 人は何処でどのような出会いがあるのか、解りませんが、議員の方と祖父とは、古くからのお付き合いだったようです。
 祖父は夏は明石縮を愛用して着ていましたので、祖父の姿を偲ぶ時は、何時も白地の明石縮姿です。着心地が良いと気に入っていたのです。
 鉢植えを趣味にして、木に鋏を入れたり水をやったりして、見事な鉢を並べて育てていました。大戦前のあの時代なのに、カメラも趣味で、着物姿の父母と幼かった私達の写真も、私の入試の願書に貼った写真も皆祖父の手製でした。暗室も持って居て、現像や引き延ばしもするのです。当時はガラスの原板だったのですが、着物姿でやっとお座りしている、私一人の写真も残っています。
 今はもう見る影も無い「お壺」と呼ばれていたお庭に、家族全員が一列に並んで撮った写真もあり、その頃の若い父母を見ると、私より年下であることに、不思議な感慨を覚えます。
 イエスタデイが聞こえて来ました。娘が勤め始めた頃に私が退職し、やっと東京に居る娘にゆっくり会いに行くことが出来るようになり、二人で良く聞いた曲です。エデンの東、そして枯れ葉、それらはみな私には懐かしい曲です。
 楽器の好みも次々に代わり、ギターでは、クロード・チアリが好きだったり、今は、ジプシイ・キングスのインスピレイションが好きで、繰り返し聞いています。これは映画好きの夫と二人で、DVDを借りて来て見る「鬼平犯科帳」のエンディングの音楽です。何時もしみじみと鬼平の人間性を思い出させてくれる名曲です。ジプシーキングスの奏でるギターの音色がとても好きで、CDを5枚セットで買いました。
 音楽は折に触れて、それを好んで聞いた頃の様子を、はっきりと思い出させてくれる有り難い存在です。勿論一つの曲に何人もの人達や情景があったり、悲しさや苦しさや楽しさを蘇らせてくれる、誠に不思議な力もっています。
 去年亡くなられた夫の友人も音楽が好きで、あれこれ頼まれてコピーして上げたこともありました。どうしても手に入らなかったのが、フルトヴェングラー指揮のベートーベンの第6という注文でした。カラヤンなら私も持っていたのですが、つい手に入りませんでした。インターネットで探せば見つかったかも知れないと、今も心残りになっています。
 来年は夫婦で、何とか頑張って一・二泊の予定で彼のお墓参りに行こうと話しています。それまで元気でいたいと思っているのですが、果たして実現出来るかどうか自信はありません。 
  

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確率はゼロに近くても

2015年12月10日 | 随筆・短歌
 幼い頃にお風呂に入り、体をきれいに洗った後に上がろうとする時、一緒に入っていた父や、姉などと20とか30迄数を数えて、もういいと云う迄出られませんでした。早く上がりすぎて風邪を引いたりしないようにとの、親の配慮だったのです。そんなことからうろ覚えに、数を覚えていったように思います。
 よく、自分がなされたように子育てをするものだと聞きますが、私も矢張り一緒にお風呂に入った子供とは、数を数えて上がることにしていました。今考えるとそれはとても楽しい時間でした。些か長すぎて気分が悪くなるくらいの時間だったこともありましたが、おふろで数を数える癖は、以来今でも形を変えつつ、身に付いてしまっています。
 今迄気が付かないだけで、様々な生活習慣がそのようにして繰り返され、ある種の家庭教育として身に付いていったのでしょう。顔を洗う、手を洗う、遊んだおもちゃをかたづける、自分よりも幼いこどもの面倒を見る、などなど兄弟の多かった時代でしたから、愛情を受けることも与えることも、みな自然にそうして学んでいたように思います。
 それから長い年月が過ぎて、昨日の続きが当然今日で、何事も無い日々を過ごして来たような錯覚を持つことさえありますが、良くよく考えてみると実際は綱渡りのようでもあり、奇蹟の連続みたいで、辛うじて現在の幸せを享受していると言えそうです。産まれた時に、ここまで元気に生きて来られる確率は、どのくらいだったのか、関心を持っていました。幸運にも機雷に船が沈められず、爆撃からも逃れて、こうして生きている偶然について書かれた『「偶然」の統計学(ディヴィッド・J・ハンド 松井信彦訳 早川書房)』という本を見付けて、ワクワクする思いで読んでいます。
 今日金星探査機「あかつき」が金星の回りを回る軌道に乗ったという嬉しいニュースに接して、何だか迷いの世界から解脱したような晴れ晴れとした気持ちを味わっています。何年間も寝ても覚めても軌道に乗せる為の計算をしていた科学者は、どれ程うれしかったことか、心からその労をねぎらいお祝いを申し上げたいと思いました。
 同じ日本に住んで居る人間というだけの係わりでしかない私が、我が子の偉業のように喜ぶということは、少し可笑しいのかも知れませんが、矢張り「良くやった」と感嘆し、これから先も見つめて行きたいと思っています。こうした思いを持つ人は、多いのではないかと思いますが、当事者が拘わった膨大な時間と苦労を思うと、これが成功する確率はどのくらいだったのだろうと、つい思ってしまいます。
 私の読んでいる本に、全くもって信じがたい例として、俳優のアンソニー・ホプキンスが経験した「ペトロフカの少女」という本にまつわる話が載っています。
 この作品の映画で助演を努めたホプキンスは、1972年の夏に、原作を買いにロンドンに出掛けましたが、どの大きな本屋にも一冊もなく、帰途に地下鉄で電車を待っていたとき、隣りの椅子に本が捨て置かれているのに気が付きました。それが「ペトロフカの少女」だったのです。これでも不思議なのに、さらにその後日、原作者フアイファーとホプキンスが対面した時に、この奇妙な成り行きの話しをしたら、フアイファーが1971年の11月に「ペトロフカの少女」を一冊友人に貸したのですが、その本にはアメリカ版の刊行に向けて、イギリス英語をアメリカ英語に直す為の書き込み(labourをlaboaにするなど)が入っていた唯一の本だったといいます。友人がそれをロンドンのベイズウォーターで無くしたと聞いて、ホプキンスが早速自分の手元にある本に書き込みがあるか確かめてみると、何とファイファーの友人がどこかに置き忘れたその本だったというのです。「この確立はどのくらい?たった一冊しかなかった大切な本が、ホプキンス経由で巡り巡ってフアイファーの元へ戻すような、私達のあずかり知らない力なり影響なりが絡んだ説明が、存在するように思えて来る」とありました。
 こうした偶然は、ほぼだれもが経験していることではないだろうか、ここまで極端で無いにしろ・・・ともあります。
 読み進めて行くうちに、とても楽しくなりました。ゼロに等しい確立でも、決してゼロではない。私としては、もうこれ以上は神の存在を考える以外にはない、と思えることでも、「起こりうる確立はある」ということになります。「火のないところにも煙は立つ」到底起こりそうもない出来事にも法則があるのだとすれば、その確率を計算するのに、どのような要素が加わるのか、と空想が広がって行きます。まだ全部読んでいませんから、何とも言えませんが、「偶然にはそれなりの理由がある」ペトロニウス(訳註 古代ローマの文人、皇帝ネロの側近だった)のように、それも又想定内として、確率を計算出来るのだと期待してしまいます。さて、来年は限りなく確率ゼロに近い世界から、どのような嬉しい偶然が生まれて来るか、皆さんもご一緒に期待いたしましょう。                    
 あかつきが金星のデータ送り来る地球が出来て我が在ること(あずさ)
 

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