この秋、娘のお墓参りの帰途、鎌倉の東慶寺と円覚寺へ立ち寄ったこと、その折り東慶寺の鈴木大拙博士のお墓の直ぐ傍の木にしがみついていた蝉の抜け殻を、そっと外して頂いて来たこと、コーヒー店の女性のご厚意で無事に我が家の床の間に到着し、緑のシダの葉に止まった形でビンに納まったまま飾られていることを書きました。
その折りに円覚寺では無学祖元の開山法要が行われていて、管長さんの横田南嶺さんの法要のお姿をも拝見して来ました。私は円覚寺のブログ「居士林だより」を愛読させて頂いていますから、一層親しく感じられました。
11月18日付けの居士林だよりに、横田南嶺管長様が、居士林で提唱されたことの纏めの中に「ランドセル俳人の五七五」を取り上げられて「抜け殻や声なきセミの贈り物」という俳句をひいておられました。
私はこの小学生の俳句と、それをひかれた横田南嶺管長様のお話に強くひかれるものを感じました。
思えば声なきセミの声として、様々な方々が偲ばれるのですが、中には既に鬼籍に入られた人、今もお元気でご活躍の方、そして生後1年を過ぎたばかりの幼児に、み仏の心を見る思いがして、胸が熱くなるのを感じます。
一人目は、我が家の娘が幼い頃に原因不明の微熱が続き、お世話になった小児科医師です。何十年も元旦以外は休んだ事がなかったと言われる有名な医師で、心優しく怒った顔を見た人が居ない、と言われる温厚な方でした。娘が亡くなった時に、長野県の「無言館」の画集を何冊か、以前同じ病院に勤めていた夫に送って下さって、丁寧な慰めのお手紙を何通も頂戴しました。お手紙に依って初めて特攻の生き残りであるということを知りました。 重い過去を背負って生きて来られた先生の、無償の奉仕の精神の強さに触れた思いがしました。
まだ医大の学生の頃に、朝登校の途中に、道端で野菜を売る老婆のお手伝いを毎日しておられたという話も聞きました。まだとても幼かった娘さんをあっという間に亡くされて、小児科の医師として我が子を助られなかった無力感に号泣され、ご自分を責められたこと。以来「実る程頭の垂れる稲穂かな」を地でいく医師になられました。院長になって欲しいと言われて「だったら病院を止める」と言って回りが困り果てた程で、さんざん口説かれてやっと最後は仕方無く院長を引き受けて下さった、名院長さんでした。子供たちには本当にみ仏の化身のように慈悲深く、有り難い人でありました。
二番目は、これも夫と一緒に勤めておられた内科の医師で、後に院長に成られた人です。どんなにひどい熱が出ていても、診察日は決して休まず、よろよろと病院の柱に伝わりつつやっと歩いて、診察に出られる様子を夫が目撃したこともあるそうです。
この方は、先の大戦の時に、南方に向かう軍用船に軍医として乗っていて、攻撃によって船が沈没して海に投げ出され、たまたま部下の手を引いて、暗い海を陸地に向かって泳いだそうです。しかし、疲労ますます激しく、このままでは二人とも沈む以外無いと判断して、致し方なく手を放してしまいました。二人ともその後も泳いでいましたが、いつの間にかその兵士の姿は暗闇の波間に消えてしまっていました。
「あの時死ぬ迄手を放すべきではなかった。とうとう手を離してしまったことを思うと慚愧に堪えない。この償いをどうしたら良いか。せめて命を削ってでも患者さんの為に尽くすことが私の使命だ」と仰って、職務に励む姿は神々しいばかりであったということです。「なぜあの時もっと頑張れなかったのか、少なくとも自分は医師ではないか」という悔恨の思いが生涯を貫いて、自分の命よりも患者さんを大事にするようになったのだそうです。こんな院長に職員の総てが、尊敬の念を持って居たといいます。これも矢張りみ仏の心を持った人といえます。私は夫に何度もなんどもこの話を聞き、そのたびに涙が溢れました。
もう一つは、つい先日のことです。私と夫が例のようにウォーキングをして、帰りにスーパーへ寄りました。スーパーの出口を出た広場に、おばあちゃんに連れられて1歳後半と思われる男の子がいました。よちよちと歩いて来たと思うと、満面の笑みを浮かべて、私の指を一本ギュッと握ったのです。可愛くて可愛くて、「良い子ねぇ」と思わず声が出ました。すると今度は夫の方に手を出しました。夫が大喜びで手を差し出すと、その男の子は今度はしっかり握手したのです。夫の喜びは云う迄もないですが、全く見ず知らずの老人夫婦と、ニコニコと握手をする姿は無心で、本当にみ仏そのものに思えました。孫を持たない私達には、こんな嬉しい出来事はありませんでした。
男の子は笑顔で無心に歩きまわり、おばあさんがいることに安心しきっているようでした。するとそのおばあさんが「この子の将来がどうなるのか、とても心配しています」と仰ったのです。私はハッとしました。私は男の子が生まれた時「男のお子さんです」と知らせを受けて、最初は嬉しいばかりでしたが、やがて「この子が15歳になる頃に、徴兵制度が復活していないように」と祈る気持ちで過ごしてきたのです。ずっと長くその心配は続きましたが、ようやく徴兵の年齢を過ぎて、ホットしている処に、再びその心配が頭を出し始めた事に気づいてそのおばあさんの心配に心を痛め、私もまた暗澹たる気持ちになりました。
昭和時代を生きて来た私には、言論統制・憲法改正・徴兵制度と、つい次々に連想されてしまい、加えて何万年までも消えない放射能汚染、それが又ベールに包まれる恐れ、南海トラフの地震の怖さなど、うち続く不安に、心がつまりそうになりました。
無心な子供の笑顔はそのまま美しいみ仏のようですが、「どうかこのまま美しい心が持ちつづけられますように」と願わずにはいられませんでした。
円覚寺無学祖元の開山忌儀式に出会ひし秋の好日(実名で某紙に掲載)
その折りに円覚寺では無学祖元の開山法要が行われていて、管長さんの横田南嶺さんの法要のお姿をも拝見して来ました。私は円覚寺のブログ「居士林だより」を愛読させて頂いていますから、一層親しく感じられました。
11月18日付けの居士林だよりに、横田南嶺管長様が、居士林で提唱されたことの纏めの中に「ランドセル俳人の五七五」を取り上げられて「抜け殻や声なきセミの贈り物」という俳句をひいておられました。
私はこの小学生の俳句と、それをひかれた横田南嶺管長様のお話に強くひかれるものを感じました。
思えば声なきセミの声として、様々な方々が偲ばれるのですが、中には既に鬼籍に入られた人、今もお元気でご活躍の方、そして生後1年を過ぎたばかりの幼児に、み仏の心を見る思いがして、胸が熱くなるのを感じます。
一人目は、我が家の娘が幼い頃に原因不明の微熱が続き、お世話になった小児科医師です。何十年も元旦以外は休んだ事がなかったと言われる有名な医師で、心優しく怒った顔を見た人が居ない、と言われる温厚な方でした。娘が亡くなった時に、長野県の「無言館」の画集を何冊か、以前同じ病院に勤めていた夫に送って下さって、丁寧な慰めのお手紙を何通も頂戴しました。お手紙に依って初めて特攻の生き残りであるということを知りました。 重い過去を背負って生きて来られた先生の、無償の奉仕の精神の強さに触れた思いがしました。
まだ医大の学生の頃に、朝登校の途中に、道端で野菜を売る老婆のお手伝いを毎日しておられたという話も聞きました。まだとても幼かった娘さんをあっという間に亡くされて、小児科の医師として我が子を助られなかった無力感に号泣され、ご自分を責められたこと。以来「実る程頭の垂れる稲穂かな」を地でいく医師になられました。院長になって欲しいと言われて「だったら病院を止める」と言って回りが困り果てた程で、さんざん口説かれてやっと最後は仕方無く院長を引き受けて下さった、名院長さんでした。子供たちには本当にみ仏の化身のように慈悲深く、有り難い人でありました。
二番目は、これも夫と一緒に勤めておられた内科の医師で、後に院長に成られた人です。どんなにひどい熱が出ていても、診察日は決して休まず、よろよろと病院の柱に伝わりつつやっと歩いて、診察に出られる様子を夫が目撃したこともあるそうです。
この方は、先の大戦の時に、南方に向かう軍用船に軍医として乗っていて、攻撃によって船が沈没して海に投げ出され、たまたま部下の手を引いて、暗い海を陸地に向かって泳いだそうです。しかし、疲労ますます激しく、このままでは二人とも沈む以外無いと判断して、致し方なく手を放してしまいました。二人ともその後も泳いでいましたが、いつの間にかその兵士の姿は暗闇の波間に消えてしまっていました。
「あの時死ぬ迄手を放すべきではなかった。とうとう手を離してしまったことを思うと慚愧に堪えない。この償いをどうしたら良いか。せめて命を削ってでも患者さんの為に尽くすことが私の使命だ」と仰って、職務に励む姿は神々しいばかりであったということです。「なぜあの時もっと頑張れなかったのか、少なくとも自分は医師ではないか」という悔恨の思いが生涯を貫いて、自分の命よりも患者さんを大事にするようになったのだそうです。こんな院長に職員の総てが、尊敬の念を持って居たといいます。これも矢張りみ仏の心を持った人といえます。私は夫に何度もなんどもこの話を聞き、そのたびに涙が溢れました。
もう一つは、つい先日のことです。私と夫が例のようにウォーキングをして、帰りにスーパーへ寄りました。スーパーの出口を出た広場に、おばあちゃんに連れられて1歳後半と思われる男の子がいました。よちよちと歩いて来たと思うと、満面の笑みを浮かべて、私の指を一本ギュッと握ったのです。可愛くて可愛くて、「良い子ねぇ」と思わず声が出ました。すると今度は夫の方に手を出しました。夫が大喜びで手を差し出すと、その男の子は今度はしっかり握手したのです。夫の喜びは云う迄もないですが、全く見ず知らずの老人夫婦と、ニコニコと握手をする姿は無心で、本当にみ仏そのものに思えました。孫を持たない私達には、こんな嬉しい出来事はありませんでした。
男の子は笑顔で無心に歩きまわり、おばあさんがいることに安心しきっているようでした。するとそのおばあさんが「この子の将来がどうなるのか、とても心配しています」と仰ったのです。私はハッとしました。私は男の子が生まれた時「男のお子さんです」と知らせを受けて、最初は嬉しいばかりでしたが、やがて「この子が15歳になる頃に、徴兵制度が復活していないように」と祈る気持ちで過ごしてきたのです。ずっと長くその心配は続きましたが、ようやく徴兵の年齢を過ぎて、ホットしている処に、再びその心配が頭を出し始めた事に気づいてそのおばあさんの心配に心を痛め、私もまた暗澹たる気持ちになりました。
昭和時代を生きて来た私には、言論統制・憲法改正・徴兵制度と、つい次々に連想されてしまい、加えて何万年までも消えない放射能汚染、それが又ベールに包まれる恐れ、南海トラフの地震の怖さなど、うち続く不安に、心がつまりそうになりました。
無心な子供の笑顔はそのまま美しいみ仏のようですが、「どうかこのまま美しい心が持ちつづけられますように」と願わずにはいられませんでした。
円覚寺無学祖元の開山忌儀式に出会ひし秋の好日(実名で某紙に掲載)