ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

手から伝わるもの

2019年12月28日 | 随筆
 年の背が押し詰まりました。いつものように午前中歩きに出ていて、何がきっかけだったか忘れましたが、子供達が幼かった頃の事が思い出されて、二人で笑ってしまいました。もう遥か昔の事です。今日のように年末でしたか、お財布の中身が心細くなったので「お金が無くなった」と私が夫に話しかけたのです。若かった私達親の何気ない会話でしたが、幼い娘が聞きとがめて「デパートで買って来れば。」と云ったのです。思わず吹き出してしまいましたが、私と手をつないでいる真剣な子供の表情に気付いて「そうね!」と力を込めて答えたのでした。
 3歳の子供には、お金の仕組みが解るはずもなく、何でも売っているのがデパートですから、当然お札も売っていると考えるのは、3歳になったばかりの子の発想としては、突飛な事では無かったのかも知れません。
 続いて、「今日もおうどんを食べて来るの?」と満員のバスの中で、大声で聞いてきて、見栄っ張りの親は慌てたのでした。「そうそう。」と云いながら、うどんが大好きな幼いわが子の質問が、見栄も外聞もなく、いかに純粋なものであるか、思い知らされたのでした。
 外出時は何時も私の手を固く握って歩いていました。今でも幼い手の感触を、私の手は覚えているようです。下の息子は6月21日(夏至)に生まれました。夫の友人が我が家に来て、「太陽の子だね」と云って下さったのが嬉しくて、今も誕生日の度に「太陽の子」の話とその友人の話が出ます。 
 私の滅多に開けない大切な文書等が入っている黒漆の文箱には、息子の出生時の日付けと○○小児と書いた、小さな腕輪が二つ揃っています。生まれたばかりで、病院での新生児の取り違えを防ぐための腕輪で、記念に取って置いたものです。時折用があって箱を明けた時に目に入り、こんな小さな腕をしていたのか、と懐かしく想い出されます。
 手といえば、仏像の手で忘れられない手があります。その一つは奈良の東大寺の「釈迦誕生仏立像」の天井へ向かって真っ直ぐに伸ばした手の、素直で天心爛漫で、無垢な心の宿った柔らかい手を思い出します。確か金属製だと思いますが、とても柔かな幼児の手でした。手だけ見てもその心が偲ばれます。何時も心温かく思い起こされるのです。
 また中宮寺の菩薩半跏思惟像の手のやさしさ、薬師寺薬師如来座像の人差し指を少し曲げた優しい手、新薬師寺の薬師如来座像の、中指を少し出した五本の指の力強い美しさ、など。柔和でありながら、力強く迫って来ますから不思議です。
 千手観音の伸ばした多数の手は、全て形が異なりますが、良く見るとどの手にも違った表情があります。一つ一つ眺めていても、その趣が見とれて心を奪われていくようです。どう感じるかは、人それぞれですが、仏像は現物も写真も、何時見ても飽きない深さがあります。
 四天王の足に踏まれて這いつくばっている邪鬼の手さえも、なかなか面白いです。法隆寺金堂の木造の多聞天の邪鬼は、耳の両側で縦に何かを掴むように握っています。邪鬼の表情と握っている指は統制が取れています。法隆寺の五重の塔の仏弟子の塑像も心を引かれますが、釈迦入滅を悲しんで、口を大きく開けて号泣する姿の指は、両膝の上で固く固く握りしめられていて、顔の表情とあばら骨が見える程、瘠せた像の指の間には、微塵も矛盾がありません。全て心憎いまでに神経が行き届いています。これ等はみな、我が家の写真集によりますが、このようにして仏像の写真に見とれていると、時間が経つのを忘れてしまいます。
 ここまで書いてきてふと気が付いたのですが、これらの仏像は木製であり、石であり、金属であり、乾漆であり土で出来た塑像であり・・・、材質は変わりますが、素材が何であれ作った人の心が籠もった表現になっていて、どれからも優しさや悲しみや怒りの表情が直接伝わって来るという事に、改めて感動しています。

 間もなく新年で、初詣に出かける人も多いかと思います。神社仏閣には当然様々な彫刻があります。それ等をも、折角ですからつぶさに見学して来たいです。今年の新年もそう思ってよくよく見て来ましたが、思いがけない発見がありました。以前一山公園になっている神社へいきましたが、矢張り神社の欄間や天井に、それまで気づかなかった彫刻が刻まれているのには驚きました。新年も折角出かける神社仏閣ですから、前に見たなどといわずに、もう少し良く見て、新しい年の記念にしたいと思っています。混雑していて、あまりゆっくり見て居られないと思いますが、新年に新しい発見があれば嬉しいです。
 仏像の手が、何かを語りかけていると思えば、人間の手もその人のいつわらざる心情を伝えているに違いない、と思うようになりました。そう思って振り返りますと、最近交わした握手に、その人が伝えたかった真心が明らかに思い出されてくるのを感じます。
 
 皆様今年一年も、つかみ所の無いブログにお付き合い下さいまして、ありがとうございました。新年を迎えるにあたり、皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。 
 

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夢のあとさき

2019年12月15日 | 随筆
 「夢のあとさき」というのは、実は夫の自分史の表題です。原稿用紙に書かれた私達家族の細かな記録です。原稿用紙にペン書きのままで、12冊になっています。この度読み返して見る良い機会に恵まれました。
 振り返る年月の想い出は、何でもないような日々の連続のようにも思えましたが、あらためて振り返って見ると、様々な困難もあって、「良く頑張って来たなあ」と思います。恐らく誰でも自分史を書いて振り返ったら、きっと同じように「頑張ったなあ」と思われるのではないでしょうか。
 人生は平坦であるようで変化に満ち、困難は乗り越えられないようでいて、実は何とか無事乗り越えられているもののようです。私も少し自分を中心にして、過去を振り返ってみたくなりました。
 私達は結婚してアパートに住み、義父に家を建てて貰って子供を産み、義父母と同居して、子育てに協力して貰いながら働き続け、やがて年老いた義両親を無事に見送って・・・。きっと誰もが同じような年月を重ねて子供を育て上げて現在に至っているのではないか、そんな感慨を持って読み返しました。
 一番大変な時期は、子供が三歳になるまでの幼い日々で、それは親の手が一番必要であり、夜中も起きて授乳をしたり、よちよち歩きで目が離せなかった頃です。共働きでしたから、昼間ぐっすりお昼寝をして、夜目覚めがちな子供に「一晩で良い朝までぐっすり眠りたい」が当時の私の悲願でした。
 次いで印象に残るのは、子供達がそれぞれ大学に入る頃でした。志望校について、私達はあそこへ行きなさい等と指示する事はありませんでしたが、「ああ此処に行きたいのか」と何だか自分の子供でありながら、進路はそれぞれが決めていて、相談相手としてあまり役だっていなかったようで、親らしい配慮が不足していたように思うのです。実際は「案ずるよりも生むが易し」でそれぞれ希望の所へ何とか進む事が出来ました。東京へ一人で受験に行った娘が「両親が付いて来ている人もいるのよ」とホテルに一人泊まった夜に驚いて電話してきました。でも、朝の身動きもままならない満員電車に荷物を持って乗り、たった一人で受験して帰って来た娘に、済まないことをしたと思ったのでした。
 下の息子の時も発表は一人で見に行きました。私はこっそりお赤飯を炊いたり、鯛を焼いたりして待って居たのです。合格と電話が来たときは、姑が何時用意したの?と驚いたり喜んだりでした。
 退職後、暇な私は、大先輩のお手伝いをするようにとの事で、慣れない仕事や大勢の人たちとのお付き合いをすることになり、それなりのストレスを感じて、精神的に辛い思いをすることもありました。捨てる神があれば、拾う神もおられて、いろいろ勉強させて頂いた事も、後に良い経験になりました。
 「何も怖くなかったあの頃」と云う歌詞が南こうせつの歌にありますが、本当に何が起きても怖くなかったような、そんな頃もあったのでした。
 孫育てを一生懸命に手伝ってくれた義父母と別れの時がやって来ました。義母は約一ヶ月の入院がありましたから、それは私の任務と心得て、心を込めて看病しました。義父は倒れて救急車で入院して、その翌日にあっけなく亡くなりました。
 家で過ごした両親の日常は、それぞれに歩ける・話せる・食べられる人でありましたから、お部屋の掃除をしてあげたり、身の回りの清潔に気を付けて、好きな食べたいものを作ってあげることが出来た、ということが、今もって少しは恩返しのまねごとが出来たかと、嬉しい想い出です。ご本人達も伸び伸びと自由に過ごして、亡くなる時も、さして苦しむことも無かったようなので、この年にになってみると、ほのぼのと良い思い出として残っています。
 私達もそろそろ黄泉への入り口が見えそうな年になりましたから、どのようにして逝くのか、気にならない訳ではありませんが、スポーツジムへ通ったり、たまには勇気を出してカラオケルームに出かけたり、本屋や衣料品店で買い物を楽しんだり、又折々フォレスタのコンサートや歌舞伎のチケットなども手に入れて出かけています。
 私は二年前に左股関節の置換手術をしましたから、歩行の助けに杖を持つ事もあるのですが、二人とも姿勢が良いと言われる事があり、年の割には元気な方かと思っています。
 私よりも一歳年上の夫の方が、体力も記憶力も優れています。でも最後の面倒は私が観る、と堅く約束しています。
 私達は旅好き人間で、多くの旅をしました。想い出は荷物になりませんから、今は振り返って折々思い出話をすることが、共通の娯楽です。
毎年春や秋に一週間ほどの旅行に出掛けたりしていたのですが、宿泊を伴う旅はもう億劫になって、出かけける意欲が湧かなくなりました。
 家族全員お酒をあまり飲まないので、食べる事が楽しみです。先頃家族の忘年会も終わりましたし、後はにわかクリスチャンとなって、クリスマス・イヴを祝い、きっとフォレスタのDVDを聞きながら過ごすことでしょう。家族に手伝って貰いながら、年末のおせち作りが楽しみな私です。
 今は、毎週レンタルDVD屋で何にかしら借りてきて、夕食後は趣味の映画鑑賞てす。現在は「西郷(せご)どん」をみていますが、西郷南州の足跡を訪ねた鹿児島の旅は忘れられません。「西郷どん」にしても、「翔ぶが如く」にしても、何回見ても楽しいです。
 鹿児島では、西郷南州の顕彰館へも行きました。「敬天愛人」と記した西郷の太くて力強い文字も見せてもらいました。歴史上の偉人のお墓が大好きな私達は、南州墓地へもお参りに行きました。黒っぽい薩摩独特の石で出来たお墓の横には、桐野利秋のお墓も傍にあり、今も西郷に寄り添っているのが心に残りました。何とも言えない西郷の人間的な魅力を感じました。「一日つき合えば、離れられなくなる」と云われる西郷の人間性を偲んでいます。
 西郷の墓地から錦江湾と桜島が見渡せます。西郷を初めとして、鹿児島県人の「桜島に対する独特な熱い思い」が伝わって来るようでした。なだらかな斜面にある、西郷と一緒に戦って死んで行った人たち等の沢山のお墓が、みんなみんな桜島を向いているのです。
なだらかな稜線をもち、それでいて燃える思いを天空に吹き上げている桜島は、鹿児島県人の心のよりどころである事を思い知らされました。
 話しは少しそれますが、私の学生時代の鹿児島県人の2人の友人は、どちらも優秀で、しっかりしていて温かく、亡くなられる迄の良い友人であり、尊敬すべき人達でした。今にして思えば、南州語録の「敬天愛人」を心の奥に秘めた二人でした。
 「夢のあとさき」について書いたのでしたが、いつの間にか私の心は、あの西郷南州の魅力に絡め取られてしまいました。思いは天を駈けて夢は何処までも続いて行きます。もう少し見る夢が残っているでしょうか。限られた時間を大切にしたいです。 


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