年の背が押し詰まりました。いつものように午前中歩きに出ていて、何がきっかけだったか忘れましたが、子供達が幼かった頃の事が思い出されて、二人で笑ってしまいました。もう遥か昔の事です。今日のように年末でしたか、お財布の中身が心細くなったので「お金が無くなった」と私が夫に話しかけたのです。若かった私達親の何気ない会話でしたが、幼い娘が聞きとがめて「デパートで買って来れば。」と云ったのです。思わず吹き出してしまいましたが、私と手をつないでいる真剣な子供の表情に気付いて「そうね!」と力を込めて答えたのでした。
3歳の子供には、お金の仕組みが解るはずもなく、何でも売っているのがデパートですから、当然お札も売っていると考えるのは、3歳になったばかりの子の発想としては、突飛な事では無かったのかも知れません。
続いて、「今日もおうどんを食べて来るの?」と満員のバスの中で、大声で聞いてきて、見栄っ張りの親は慌てたのでした。「そうそう。」と云いながら、うどんが大好きな幼いわが子の質問が、見栄も外聞もなく、いかに純粋なものであるか、思い知らされたのでした。
外出時は何時も私の手を固く握って歩いていました。今でも幼い手の感触を、私の手は覚えているようです。下の息子は6月21日(夏至)に生まれました。夫の友人が我が家に来て、「太陽の子だね」と云って下さったのが嬉しくて、今も誕生日の度に「太陽の子」の話とその友人の話が出ます。
私の滅多に開けない大切な文書等が入っている黒漆の文箱には、息子の出生時の日付けと○○小児と書いた、小さな腕輪が二つ揃っています。生まれたばかりで、病院での新生児の取り違えを防ぐための腕輪で、記念に取って置いたものです。時折用があって箱を明けた時に目に入り、こんな小さな腕をしていたのか、と懐かしく想い出されます。
手といえば、仏像の手で忘れられない手があります。その一つは奈良の東大寺の「釈迦誕生仏立像」の天井へ向かって真っ直ぐに伸ばした手の、素直で天心爛漫で、無垢な心の宿った柔らかい手を思い出します。確か金属製だと思いますが、とても柔かな幼児の手でした。手だけ見てもその心が偲ばれます。何時も心温かく思い起こされるのです。
また中宮寺の菩薩半跏思惟像の手のやさしさ、薬師寺薬師如来座像の人差し指を少し曲げた優しい手、新薬師寺の薬師如来座像の、中指を少し出した五本の指の力強い美しさ、など。柔和でありながら、力強く迫って来ますから不思議です。
千手観音の伸ばした多数の手は、全て形が異なりますが、良く見るとどの手にも違った表情があります。一つ一つ眺めていても、その趣が見とれて心を奪われていくようです。どう感じるかは、人それぞれですが、仏像は現物も写真も、何時見ても飽きない深さがあります。
四天王の足に踏まれて這いつくばっている邪鬼の手さえも、なかなか面白いです。法隆寺金堂の木造の多聞天の邪鬼は、耳の両側で縦に何かを掴むように握っています。邪鬼の表情と握っている指は統制が取れています。法隆寺の五重の塔の仏弟子の塑像も心を引かれますが、釈迦入滅を悲しんで、口を大きく開けて号泣する姿の指は、両膝の上で固く固く握りしめられていて、顔の表情とあばら骨が見える程、瘠せた像の指の間には、微塵も矛盾がありません。全て心憎いまでに神経が行き届いています。これ等はみな、我が家の写真集によりますが、このようにして仏像の写真に見とれていると、時間が経つのを忘れてしまいます。
ここまで書いてきてふと気が付いたのですが、これらの仏像は木製であり、石であり、金属であり、乾漆であり土で出来た塑像であり・・・、材質は変わりますが、素材が何であれ作った人の心が籠もった表現になっていて、どれからも優しさや悲しみや怒りの表情が直接伝わって来るという事に、改めて感動しています。
間もなく新年で、初詣に出かける人も多いかと思います。神社仏閣には当然様々な彫刻があります。それ等をも、折角ですからつぶさに見学して来たいです。今年の新年もそう思ってよくよく見て来ましたが、思いがけない発見がありました。以前一山公園になっている神社へいきましたが、矢張り神社の欄間や天井に、それまで気づかなかった彫刻が刻まれているのには驚きました。新年も折角出かける神社仏閣ですから、前に見たなどといわずに、もう少し良く見て、新しい年の記念にしたいと思っています。混雑していて、あまりゆっくり見て居られないと思いますが、新年に新しい発見があれば嬉しいです。
仏像の手が、何かを語りかけていると思えば、人間の手もその人のいつわらざる心情を伝えているに違いない、と思うようになりました。そう思って振り返りますと、最近交わした握手に、その人が伝えたかった真心が明らかに思い出されてくるのを感じます。
皆様今年一年も、つかみ所の無いブログにお付き合い下さいまして、ありがとうございました。新年を迎えるにあたり、皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
3歳の子供には、お金の仕組みが解るはずもなく、何でも売っているのがデパートですから、当然お札も売っていると考えるのは、3歳になったばかりの子の発想としては、突飛な事では無かったのかも知れません。
続いて、「今日もおうどんを食べて来るの?」と満員のバスの中で、大声で聞いてきて、見栄っ張りの親は慌てたのでした。「そうそう。」と云いながら、うどんが大好きな幼いわが子の質問が、見栄も外聞もなく、いかに純粋なものであるか、思い知らされたのでした。
外出時は何時も私の手を固く握って歩いていました。今でも幼い手の感触を、私の手は覚えているようです。下の息子は6月21日(夏至)に生まれました。夫の友人が我が家に来て、「太陽の子だね」と云って下さったのが嬉しくて、今も誕生日の度に「太陽の子」の話とその友人の話が出ます。
私の滅多に開けない大切な文書等が入っている黒漆の文箱には、息子の出生時の日付けと○○小児と書いた、小さな腕輪が二つ揃っています。生まれたばかりで、病院での新生児の取り違えを防ぐための腕輪で、記念に取って置いたものです。時折用があって箱を明けた時に目に入り、こんな小さな腕をしていたのか、と懐かしく想い出されます。
手といえば、仏像の手で忘れられない手があります。その一つは奈良の東大寺の「釈迦誕生仏立像」の天井へ向かって真っ直ぐに伸ばした手の、素直で天心爛漫で、無垢な心の宿った柔らかい手を思い出します。確か金属製だと思いますが、とても柔かな幼児の手でした。手だけ見てもその心が偲ばれます。何時も心温かく思い起こされるのです。
また中宮寺の菩薩半跏思惟像の手のやさしさ、薬師寺薬師如来座像の人差し指を少し曲げた優しい手、新薬師寺の薬師如来座像の、中指を少し出した五本の指の力強い美しさ、など。柔和でありながら、力強く迫って来ますから不思議です。
千手観音の伸ばした多数の手は、全て形が異なりますが、良く見るとどの手にも違った表情があります。一つ一つ眺めていても、その趣が見とれて心を奪われていくようです。どう感じるかは、人それぞれですが、仏像は現物も写真も、何時見ても飽きない深さがあります。
四天王の足に踏まれて這いつくばっている邪鬼の手さえも、なかなか面白いです。法隆寺金堂の木造の多聞天の邪鬼は、耳の両側で縦に何かを掴むように握っています。邪鬼の表情と握っている指は統制が取れています。法隆寺の五重の塔の仏弟子の塑像も心を引かれますが、釈迦入滅を悲しんで、口を大きく開けて号泣する姿の指は、両膝の上で固く固く握りしめられていて、顔の表情とあばら骨が見える程、瘠せた像の指の間には、微塵も矛盾がありません。全て心憎いまでに神経が行き届いています。これ等はみな、我が家の写真集によりますが、このようにして仏像の写真に見とれていると、時間が経つのを忘れてしまいます。
ここまで書いてきてふと気が付いたのですが、これらの仏像は木製であり、石であり、金属であり、乾漆であり土で出来た塑像であり・・・、材質は変わりますが、素材が何であれ作った人の心が籠もった表現になっていて、どれからも優しさや悲しみや怒りの表情が直接伝わって来るという事に、改めて感動しています。
間もなく新年で、初詣に出かける人も多いかと思います。神社仏閣には当然様々な彫刻があります。それ等をも、折角ですからつぶさに見学して来たいです。今年の新年もそう思ってよくよく見て来ましたが、思いがけない発見がありました。以前一山公園になっている神社へいきましたが、矢張り神社の欄間や天井に、それまで気づかなかった彫刻が刻まれているのには驚きました。新年も折角出かける神社仏閣ですから、前に見たなどといわずに、もう少し良く見て、新しい年の記念にしたいと思っています。混雑していて、あまりゆっくり見て居られないと思いますが、新年に新しい発見があれば嬉しいです。
仏像の手が、何かを語りかけていると思えば、人間の手もその人のいつわらざる心情を伝えているに違いない、と思うようになりました。そう思って振り返りますと、最近交わした握手に、その人が伝えたかった真心が明らかに思い出されてくるのを感じます。
皆様今年一年も、つかみ所の無いブログにお付き合い下さいまして、ありがとうございました。新年を迎えるにあたり、皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。