ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

良寛の墓地を訪ねて

2009年05月30日 | 随筆・短歌
 私は良寛を大変尊敬しています。良寛に惹かれる所を挙げれば際限がありません。ある時私が受講している講座から「尊敬する先人のお墓を尋ねてリポートせよ」という課題を与えられた事がありました。良寛の墓など何処にあるのか、どう行けばいいのか、全く知りませんでしたので、早速図書館へ行って調べました。とても行きにくい所のようでしたが、とにかく一度は行ってみたいと思っていましたので、はるばる出かける事にしました。
 夫は私以上に良寛ファンでしたから、同道してくれる事になりました。良寛の墓地は新潟駅から越後線に乗って、とても小さな駅で降り、浄土真宗の隆泉寺というお寺にありました。迷いにに迷って、やっとたどり着きました。それは良寛が最後まで面倒を看て貰った木村家の墓地にありました。隆泉寺の左手を回り込むと、寺の裏に墓地があって、右に木村家代々の墓、左に弟の由之の墓があり、良寛の墓は真ん中にありました。木村家よりずっと大きな石積みの上に墓石が立っていて、とても立派な墓でした。私は良寛の生き方を思う時、果たしてこの様な大きな墓を作って貰う事を好んだであろうかと、ふと違和感を覚えました。
 墓は良寛を慕う多くの人の善意で建てられたので、人々の良寛を慕う気持ちは嬉しかったに違い有りませんが、良寛の哲学と民衆の価値観の乖離は、余りにも大き過ぎるように感じました。この感情は私の独りよがりかもしれませんが、墓碑の前に立った私にはどうしてもそう思えて来るのでした。墓碑には弟の由之の選で、良寛の長い漢詩が彫られていました。
 誰一人居ない墓地は、降るような蝉時雨の中に、夕日があたかも西方浄土からの光のように輝いて見えました。
 帰りに近くにある木村家に寄って、良寛が最後に伏していた部屋を見せていただけるかと尋ねますと、「今は公開していません」と、とても気品のある老婦人が出て来られておっしゃいました。木村家に伝わる品格が今も立派に生きているのをこの婦人に感じて、深い尊敬の念を感じて帰って来ました。
 新潟県の三条付近を中心とした大地震があった時、良寛は被災した友人に宛てて「災難に逢う時節(とき)には逢うが良く候。死ぬ時節には死ぬが良く候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候」と書き送ったそうです。さすが良寛ならこその言葉だと感心します。執着をとことん捨て去った究極の姿は、空に生き、無に徹した人間の姿を見せていると思います。多くの人が良寛に強く惹かれる理由は此処にあるのではないかと私は思っています。私達も大自然に抱かれて、あらがう事なく、生きる事が出来たら、それはどんなに幸せなことでしょうか。
 良寛の「草堂集」にある次の詩が特に好きです。
   独りで生まれ
   独りで死に
   独りで座り
   独りで思う
   そもそもの始めそれは知られぬ
   いよいよの終わりそれも知られぬ
   この今とはそれも知られぬもの
   展転するものすべて空
   空の流れにしばらく我がいる
   まして是もなければ非もないはず
   そんなふうにわしは悟っている
   こころゆったりまかせている

 果てしなく続く宇宙の中で、あらゆる生物は生かされていて、その大自然と、またその中の小さな私の存在を思うと、力を抜いて自然に任せて生きていても良いのだと思えて来ます。良寛のような立派な人も、こうしてこころをゆったりと持って生きていたのですから。そう思うと私も気持ちが楽になって、穏やかな気分に浸されていくのを感じます。
 京都の知恩院に千姫の墓を訪ねたり、大徳寺の高桐院に細川ガラシャのお墓を訪ねたり、何故かお墓を訪ねて、その人を偲ぶのが好きな私ですが、みなそれぞれにそれらしいお墓に思えましたが、良寛の墓地のように何となく違和感があったのは、記憶にある墓地の中でたった一つの気がします。
 私は良寛のお墓が粗末で良いといっている訳ではないのですが、人の世の執着を断ち切って生きた良寛がこの大きなお墓を、黄泉の国で戸惑って見つめているように思えてならなかったのです。
 降るような蝉時雨の音と夕日の輝きが、十数年経った今も、忘れられない想い出になっています。
 



花泥棒に見舞われて

2009年05月27日 | 随筆・短歌
 我が家は市道に面していて、私道との角地に当たります。市道に面した塀にハの字形の広めの階段を二段上がって門が有りますが、門扉はありません。階段の左側を門の近くまでの長さに区切って、アプローチと同じ高さに小さな花壇をしつらえて貰って、以来四季折々に何種類かの花を好みに植えて楽しんで来ました。
 又、玄関までのアプローチがやや長く広いので、右側にプランターを一列に幾つか並べて、いずれも四季折々の花を植えて、楽しんでいます。松や白蓮、モッコクなどの木々とさつきと庭石等といった前庭植栽の色取りとして、プランターは毎日水をやったり花殻を摘んだりする楽しみがあって、私の生き甲斐の一つになっています。
 ところがこの玄関前の植え込みの花とプランターの花がしばしば盗まれるのです。どうしてこのような事をするの人がいるのでしょうか。一寸高価な花苗の場合、盗まれる事が多く、何時でしたかクロトンを植え込みの色取りに植えましたら、三日目には消えていました。
 冬は植え込みもプランターも花甘藍一色にして、様々な形と色を楽しもうと、花卉センターへ出かけて買って来るのですが、ある年などは一夜の内に全部根毎抜き取られて消えていました。可成り量が多いので、個人の家庭で植えて楽しむには多すぎる量ですし、もしそうしているとしたら、他所の庭から盗んで来た花を美しいと観賞出来るものなのでしょうか。正常な罪悪感を持っていたら、そんな感情等持てる筈はありません。
 そう思うと、どうも商売をしている人が、丈夫でよく育っている苗を持って行っているとしか思えないのです。ご近所の方達も同じ被害にあっていて、同一犯と思われますが、門の前なら未だしも、いくら門扉が無いと言ってもずっと玄関奥迄入ってきて持って行かれると、薄気味悪い思いもします。何とも情けない時代になったものと暗澹たる気持ちになってきます。
 所でそろそろ歳を取って、門の前の植え込みに手が掛かりすぎますし、万一病人でも出て手入れが出来ないような状態になっても困らないようにする為に、門の前の植え込みを払い石を一つ置いてはどうか、と言うことになりました。植え込みは丁度大きめな石を一つ置けばそれで形が取れそうに思えました。
 以来思いついたように庭園専門の石屋さんに行っては、主に青い石を見て回っていたのですが、丁度手頃な伊予青石を見つけて、これを持ってきて置いて貰いました。
 白い砂利を敷いた上に石はピッタリとはまってけっこう気に入る形になって喜んでいます。砂利では草が生えて来ないか心配しましたが、今は下敷きに良い材料があって、排水も良く草も生えないと聞いて安心しました。
 庶民のささやかな楽しみを、僅かな空間が叶えてくれています。流石の花泥棒もこれではどうにもならないでしょう。
 右隣も左隣もお花好きのご家庭で、玄関先は花で一杯です。花の咲く家、花の香る路地花に彩られた街、花は常に人間の心を和ませてくれています。



高野山奥の院詣で

2009年05月24日 | 随筆・短歌
 四国遍路の三回目を終えてから、もうこれで四国遍路も終わりにしようと思い、翌年その締めくくりとして、またお大師様へのお礼参りにと、高野山へお参りに出かけました。 大阪難波からの南海電鉄とケーブル、バスと乗り継いで、ようやく高野山へたどり着きましたが、とても疲れました。
 宿坊に一泊して、早朝の震える寒さの中のお勤めにも参加して、心身共に引き締まる思いでした。金剛峰寺の壇上伽藍では、大日如来を中心にした立体曼荼羅に、空海の描く世界を見た思いがしました。都からこんなに離れた土地に、このような聖地を求め、壇上伽藍を立てようしと計画した、空海の発願と智慧の壮大さに感嘆しました。
 ちょうど六時の鐘の近くで小休憩していましたら、この年入山した剃髪者の、ほんの今剃髪を終えたばかりの青々とした頭も清らかな人々の列に会いました。一列に並んだ十数名の若い僧の無言の行列でした。若い女性も混じっている事に驚きを感じ、み仏に仕えようとする人々の決意に引き締まった顔に、我が身の生き方の甘さを思い知らされて、恥ずかしい気持ちと、ある種の憧れにも似たような思いで見つめていました。
 各伽藍や霊宝館を巡ってから、一の橋口から奥の院への参道へ入り、ゆっくりと奥の院を目ざしました。鬱蒼と茂る杉の巨木の中の道は、静かな冷気に包まれて、荘厳な感じを漂わせています。道の両側には大名や高僧や宮家の墓が並び、墓碑は20万基とも聞きました。まさに一大霊山です。案内地図を見ながら、約2㎞の道を其処此処にある墓碑にお参りしながら緩い登り道を上って行きました。玉川にかかる御廟橋には一枚ずつ裏に梵字が刻まれていて、ここは弘法大師が参詣する人を迎え、見送る場所と言われています。私達も服装を正し心を清らかにして手を合わせました。途中右手に明智光秀の墓地があり、光秀が好きな夫は墓碑の傍に寄って記念写真を撮りました。
 上杉謙信や景勝の霊屋をみたり、前田家や徳川家、豊臣家、等それまで心に有ったイメージと墓碑のイメーシと比べてみたりしました。高野山で一番大きな墓碑は二代将軍の正室「おごうの方」の碑で見上げるばかりの大きさでした。
 それぞれのお墓は建てた人の思いが込められていて、墓に眠っているいる人と墓を建てた人達の人柄や思いを偲びつつ、様々な時代に思いを馳せていました。
 御廟に上がる石段の上に、灯籠堂があり、沢山の灯籠が明々と灯火を掲げていました。「消えずの灯明」や貧女の一灯に心を動かされながら、行き止まりの弘法大師御廟に近づき、「南無大師遍照金剛」と心に唱えながら感謝の心を込めて長い時間お参りをしました。
 四国遍路を思い立ってから、出かける間の何年か、そして三回にわたった遍路の道のり、更に今回のお礼のお参りまでが、走馬燈のように思い出されるのでした。鬱に悩まされながらも、御大師様のお守りと家族の協力に依って、何とか足も丈夫な内に念願を果たせた喜びと感謝が、静かに体中に満ちて来るのが解りました。二度と来られない所だと思いつつ、来て良かったとしみじみと思いました。

四国路を遍路となりて歩く夢逝きし娘の名を呼びつつ目覚む
鳥啼けば鳥の心に百合咲けば百合の心に吾は寄りゆく
日日の記憶引き潮の如く遠ざかり不連続なる今日を生き居る (全て某誌・紙に掲載)

四国巡礼の旅 3

2009年05月21日 | 随筆・短歌
 「四国巡礼の旅2」に、室戸岬方面へ行った事を書きましたが、あの時に巡礼しつつ高知へ出て竹林寺や雪渓寺などに寄り、岩本寺から足摺岬の金剛福寺まで足を伸ばしたのでした。四国の有名な二つの岬へ 行きたい思いがあったからです。
 四国では、お国柄様々な親切をして頂きましたが、中でも足摺岬へのバスの運転手さんのことは、何時までもほのぼのと思い出されて忘れられません。
 土佐中村から乗ったバスは約一時間三十分かかって、足摺岬へたどり着きます。バスに乗った途端に、運転手さんが「お遍路さん此処へ来なさい」と運転席の後ろを指しましたので、私達は言われるままに其処に座りました。すると早速バスの経路に従って、案内を始めたのです。バスから見える名所旧跡や景色ばかりでなく、話は歴史まで及び、更に町の現在の政治について説明したり、それは愉快な方でした。加えて、往復するならバス券を買うと得だと教えて頂き、お陰で大分安くなり、また楽しい車中でした。足摺岬を想う時必ずこの運転手さんのご親切を思い出します。
 足摺岬は若い頃に読んだ田宮虎彦の小説で、いたく感激した場所であります。土砂降りの雨の中を死ねずに戻ってきた主人公の切ない心と、断崖絶壁の様子が心に刻まれていて、私も一度其処に立って見たいと思っていましたし、岬にある金剛福寺は、是非お参りしたいお寺でした。足摺岬のバス営業所に荷物を預け、歩いて第38番札所の金剛福寺の前にたどり着いた時は感激で一杯でした。どっしりとした仁王門には「補陀楽東門」という嵯峨天皇筆の模写の額が掛かっていました。裏山は南国らしい樹海になっており、多宝塔が美しい姿を見せていました。門内の托鉢は禁止になっていましたが、門前に托鉢の僧がいて、とうとう此処までたどり着いたという感激と感謝で、心ばかりの喜捨をさせて頂きました。
 金剛福寺のお寺の階段で一休みしていましたら、ご夫婦と思われる二人連れの方達も腰を下ろされました。奥様は具合が悪そうに見受けられました。どちらからともなく話しかけて、そのご夫妻もお子さんを亡くされた事を知って、同じような運命の二組が出会った事に仏様のお計らいを感じ、納め札を交わし合ってお互いに慰め合い励まし合って別れたことも忘れられない出来事でした。
 ゆっくりお参りを済ませてから、椿のトンネルをくぐって、足摺岬の展望台から天狗の鼻まで行きました。昭和天皇も平成天皇も現皇太子ご夫妻もお出でに成られたと記されていました。断崖の直ぐ近くの道は、目がくらんで思わず足の指先に力を込めて歩いて行きました。真っ青な海は丸く見え、絶壁を砕く波しぶきは遥か下の海面から間近に届くように感じられて、自然が何かに烈しく怒っているように思われて、二三歩後ずさりしていました。小説の主人公が死なずに帰った気持ちが初めて分かったような気がしました。
 遠くに白亜の灯台が見えて、絵はがきに見る通りの景色に、私達も記念の写真を撮りました。足摺岬の写真を見る度に、金剛福寺で出会ったご夫婦のその後に思いを馳せます。私達と同様にきっと立ち直ったに違いない、仏様のご慈悲は差別なく行き届いている筈だからと思っています。
 痛い足を引きずって、明石寺へお参りした時には、願いを込めて鐘を撞きました。鐘の音は余韻嫋々(よいんじょうじょう)と南国の空へと消えて行きました。
 遍路の途中では、何度か鐘を撞きましたが、鐘を撞く度に、私の思いが亡くなった娘や先だった義父母や肉親に届くように思えて、矢張り遍路の旅に来て良かったとの思いに、心が満たされていくのでした。

躓(つまづ)いて転ばぬようにと息子(こ)のことば嬉しく聞きて旅にいで来ぬ
逝きし亡娘(こ)と共有したる想い出をなぞりつつ今日も暮れなんとする
夕闇が背なより迫り痛む膝宥(なだ)めて遍路の八日目終る
南無大師おへんろ道に鈴が鳴る野火焚く見ゆる菜の花の道(実名で某誌に掲載)



悲しみを越えた先にあるもの

2009年05月18日 | 随筆・短歌
 夫がが長い間勤めて第一回目の退職をした時は、「もうこれ以上勤めたくない」と言いましたし、私も真っ青な青空の下で自由を満喫した、あの退職後の晴れ晴れとした気分を良く知っていましたので、「もう勤めなくてもいいのでは」と云ったのですが、自由だったのはたった2ヶ月で、夫は断り切れずに2ヶ月の猶予の後、再就職したのでした。
 夫はその後5年間を勤めて、やっと本格的に退職しました。私は夫の一回目の退職より、7年前に既に退職して、夫の両親を看取る事によって、長い間私達の子育てに協力してくれた義父母への恩返しの責任を果たしていました。そこで私達夫婦の第一回の旅は、京都の我が家の宗派の本山へ、義父母の納骨をすることから始めました。菩提寺の住職さんに段取りをお願いして、小さな骨壺を二つ抱えて、京都の智積院に出かけました。無事に納骨を済ませて、「哲学の道」を歩きました。丁度桜が散り始めた頃でしたが、西田幾多郎博士の思索の道をそぞろ歩いて、両親に無事にご恩返しが出来て、肩の荷を降ろした気持ちと、今がある事を心から感謝し、満ち足りた気持ちで一杯でした。
 翌日は嵯峨野を歩いて回り、化野の念仏寺まで、それはそれは良い想い出になりました。
倉敷、広島、山口、萩と訪れ、退職後の本格的な旅がこうして始まりました。以来16年間、春に大きな旅、秋に中くらいの旅、その間に1~2泊をちりばめて続けて来ました。 旅には計画を立てる楽しみ、行っての楽しみ、帰ってアルバムを作る楽しみと三回の楽しみがあります。アルバムは時折眺めて懐かしみ、後に残った人の大切な宝物として保存しています。
 退職後の生活は概ね平穏なものかと思いますが、私達はそれから、沢山の悲しみを乗り越えなければなりませんでした。義父母の死、私の実母の死、兄と弟の死、33歳の娘の早世がありました。
 結婚した娘が吉祥寺に新築マンションを手に入れた時、「部屋が小さいので、将来同居は出来ないけれど、近くに住む場所を見つけて、生涯面倒を看るから心配しないでね」と言って、先ずは孫の顔を見る楽しみと、その子育てを心配していた私を驚かせたのですが、神は無慈悲にも逆縁の悲しみを私達に与えられたのです。それからは失意と悲嘆の日々でした。
 義母の24時間休み無しの看病にに全精力を出し切って、亡くなった後で喪失鬱になった私でしたが、やっと乗り越えたと思ったら、義父が亡くなり、更に娘が亡くなってしまったのです。娘の死で鬱は再発し、それは以前よりもずっと重症でしたが、何とか頑張って家事をやり抜きました。夫が毎日私を強引にウォーキングに引っ張り出して呉れました。 家からの第一歩を踏み出す迄が大変辛いのですが、出てしまうと良い気分転換になって、毎日欠かさなかったウォーキングで、さしもの鬱もやがて治っていきました。好きな旅も具合の悪い中を欠かさずに出かけました。三回の四国遍路もそんな中で行ったものです。
 不幸が家族を襲うと家族は一層団結して、困難に立ち向かうようになり、お陰で何時も危機を乗り越えてこられました。不幸に見舞われる度に家族の絆が強まったといえます。
 娘が亡くなって10年経った去年、娘の夫も再婚し、私達もやっと肩の荷を降ろした気分になっています。
 そうして漸く私達にも平穏な老後が訪れました。悲しみを背負う程人間は優しくなる事も、介護の経験が他人へ思いやりを育む事も学びました。そして何より家族の大切さ、有り難さを感じています。振り返れば長い苦難の道のりでしたが、人は概ね苦難の中を苦しみながら生きて行くものなのでしょう。この先どのような不幸が待っているのか解りませんが、今はただ感謝の念で一日一日を生きています。

山道に落ちし松かさ拾ひ行く夢の欠片(かけら)を集めるやうに
玻璃(はり)を打つ時雨の音に目覚むれば生きねばならぬ一日がある
愛別離苦苦しき旅路に涙していくたび墓地への石段登る
十年(ととせ)経ぬ墓碑を越え来る風和みあなたは静かに眠りいるらし
身の丈の幸せはあり喩(たと)ふれば道ばたに咲くタンポポの花
                  (全て某誌・紙に掲載)