ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

短歌に載せた私の思い出

2016年06月23日 | 随筆・短歌
 私は今短歌を趣味にしていますが、このような趣味を持つことは予想だにせずに60歳近くまで生きて来ました。その後約20年何故こんな趣味がうまれたのかとても不思議です。私は長く自分を理系人間だと思ってきました。何故なら長兄も弟も理系の大学を出ましたし、私は高校生の頃は、数学については特に何も勉強しないでも済みました。でもその驕りが裏眼に出て

あの入試得意でありし数学の解けざりてある今の幸せ

ということになりました。

苦労したのは英語です。今でも英語が苦手なことを、英語の教師であった父に済まなく思っています。歌を詠み始めて10年位経った頃のものを書き出してみます。

ああすれば良かったこうもしたかった如月二十日娘(こ)は先立ちぬ

玻璃を打つ時雨の音に目覚むれば生きねばならぬ一日がある
近付かんとすれども及ばぬ思いあり遠き信号赤に変わりぬ
砂時計青色の砂こぼし終ゆ反せば悲しき刻また戻る

秋冷えに息子の入れし茶を飲みぬ萩焼茶碗の無言のぬくもり

用は無いでも元気かと母の電話会いに行くべし私も独り

 職を退き自由な身分になりましたのに、娘が先だってしまいした。義母が逝き義父が逝き母も逝って、介護から離れてなんでも出来る時間が生まれましたが、しばらくは何も手に付かずぼんやりとしていたのでした。
 そんな時、夫が「そんなに暇なら短歌でも詠んでみたら」と庭から顔を向けて、居間にいた私に声を掛けたのです。それではとばかりに、ノートを取り出して短歌を作り始めました。短歌の本を買ったり、図書館で短歌の本に良く目を通すようにもなりました。
 ただ詠んでばかり居ても・・・、と日頃読んでいる新聞に投稿を始めました。三ヶ月は出さなければ採って貰えないと聞いていましたので、せっせと出していました。暇な私のつたない短歌てすから、入選する等とは思ってもみなかったのです。ところが丁度三ヶ月目の頃に
 身の丈の幸せはあり喩うれば道端に咲くタンポポの花

を馬場あきこ先生に採って頂いて新聞の歌壇に載ったのです。大変驚いてショックを受けました。それは嬉しくもあり「ひょっとして私に短歌の素質が遺伝しているのかしら」と思いました。驚きはまだ続きました。その翌月には
 
 いかに生きんいかに生きんか書を読みて出口の見えぬ夜は更けゆく

を採って頂きました。私達夫婦は、その頃は未だ短い旅が始まったばかりでしたが、長野県安曇野へ行った時、大王わさび園での
 
わさび田の透明な流れに吹く風は微かに渦巻き溶け入る静かさ

あれこれと心引き裂くことありてアダージョを聞くこんな夕暮れ

の二首を、もう一人の選者であった宮英子先生に採って頂いたのでした。
 夫と二人で何時もウォーキングをしていましたので、道々歌がポロリと生まれることがありました。ある時

 ビードロの風鈴の音と共にある浴衣桐下駄綿飴金魚

という短歌が不思議にすらすらと生まれました。夫は名詞が並ぶ「浴衣桐下駄綿飴金魚」がいけないと歩きながら言いました。浴衣は姉妹が毎年夏には背の丈に合わせて母が縫ってくれましたし、桐下駄もお盆には父が一人一足ずつ新しく買って来てくれました。綿飴は祭りの屋台で買って貰いたかったのに、「不潔だから」と買ってもらえなかった子供時代のあこがれであり、金魚は私達の子供に祭りの夜店で良く買ってやり、何故か短い命で子供たちの作るお墓に納まったものでした。四つの名詞の音の感じも良いと思って「これでいいの。これでも纏まったのだから。」といとも簡単にハガキに書いてNHKの歌壇に投稿したのでした。
 思いも掛けず、ある日NHKから電話があり、あなたの投稿短歌を放送すると知らせて来ました。当日はテレビの前に夫と二人で緊張して待っていました。最後の頃に選者の岡井隆先生がこの歌を何と第二席に選んで下さったのです。あまりの出来事に急に胸がドキドキと早鐘を打ち始め、夫も「ドキドキしてきた。これは寝た方が良さそうだ」と言うので、早々に寝てしまいました。何とも不思議な経験でした。
 このNHKの短歌の入選で私は少し自信を持ち、それがきっかけとなって、本格的に短歌との長い付き合いが始まったと言えます。
 NHKや各種の全国大会・日本経済新聞等の新聞・子規記念館の短歌会他、様々な大会等に気が向くままに投稿するようになりました。先日の日本経済新聞に、三枝昂之先生に採って頂いた「こんなにも哀しき碧か殉教の魂吞みし外海(そとめ)の海は」で、計527首が入選したりして活字になりました。長崎の外海の遠藤記念館は、見たこともない素晴らしいコバルトブルーの空と海を背景にして、静かに建っていました。「沈黙の碑」を感慨深く眺めました。遠くまで出かけて来た甲斐がありました。
 
老いるとは不安を生きることなりと母のことばをしみじみ思ふ
ありがたうしあわせだったと亡母(はは)の歌眼鏡ケースにたたみてありぬ

私は夫の両親と暮らしていましたので、実母とは少し離れて暮らしており、良く逢いに通って話相手になっていました。母は女学校の頃に和歌を学び、友人との手紙の最後に、良くスラスラと一首したためていました。その頃の私にはとても不思議な光景でした。

 短歌ノートの最初の頃は、アダージョ1と2とモーツアルトのアダージョ等のクラシックのCD等を買って来て、嬉しいにつけ悲しいにつけ聞きながら過ごしていました。やがて夫が退職して、あちこち旅行に出かけるようになり、子供たちが成人し、結婚し、やがて娘が亡くなり・・・、と様々な歴史が歌い込まれています。

新聞をめくる音のみ聞こえ来て職退きし夫との静かなる朝

一針づつ愛を編み込みしセーターが茶箱の隅に古びてありぬ

仏舎利を拾うが如く玉石を桂浜に拾う遍路となりて

ヘッドホンにアダージョ聴きつつ読む本の薄きがなかなか終わらぬ雪の夜

今宵また亡き娘(こ)のカーデガン羽織っている心の寒い日は殊更に

躓(つまづ)いて転ばぬやうにと息子(こ)のことば嬉しく聞きて旅に出で来ぬ

私の何処が誰の遺伝子をついで来たのかは不明ですが、今は引き継いで来た様々な遺伝子に感謝しています。

進化してネコのあなたとヒトの吾四十億年受け継ぐ命

魚でありし遺伝子残るか体感に水の流るる音心地良き

日もすがら話しかけをり紫陽花に娘(こ)の在りし日を偲ぶ庭先

中空の月に語らふ老い二人話の終わりは決まって亡き娘

東慶寺の墓地に会ひたる黒き蝶わが石池に再び逢ひぬ   

世の中は参院選挙戦がスタートしたところです。私達が聞きたいのは、他党の誹謗ではなく、政策や国家観です。

次世代に原発といふ負の遺産残して逝くを如何に詫ぶべき

私は原発を作らなかったドイツに学びたかったと、今もそう思っています。
 短歌は全て約20年の短歌歴の中で、呻吟して生まれて来たものであり、二冊の入選歌を書き留めたノートは、その時代の出来事や生き方が手に取るようで、苦しくもあり楽しくもあり、私のそして我が家の悲喜こもごもの歴史であります。(それぞれの短歌は、新かなと旧かなが入り交じっていますが、投稿のままになっています。)


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折り鶴が伝える心

2016年06月11日 | 随筆
 今は折り鶴の作り方をご存知無い人も居られるかも知れませんが、私が折り紙に親しむ年齢になって、一番の憧れが折り鶴を折る事が出来るようになることだった気がします。
 金や銀の紙の入った千代紙セット(折り紙セット)は、おままごとセットなどとともに女の子の憧れでした。慣れない手つきで丁寧に折った作品は、大抵は折り方の本によってか、年上の子から教えて貰ったものでした。
 紙の端端をしっかり合わせて丁寧に折って行き、翼を長く折って細い嘴と尾をピンと立て、お腹から息を吹き込んでテーブルに置くと、清楚な鶴が舞い降りたように出来上がります。
 今回アメリカのオバマ大統領が広島へおいでになった時、4羽の実に美しくご自分で折り上げた鶴を持って来られました。
 折り鶴は平和の象徴であり、千羽ヅルは病気の平癒を祈るものであり、スポーツの大会では、優勝を祈るものでもあります。
 広島の平和記念公園には、2歳で被曝して10年後に白血病で亡くなった佐々木禎子さんが折り鶴を両手で頭上高く掲げている像があります。この像は、「原爆の子の像」と呼ばれ、今でも一年間に世界各国から、1千万羽(重さにして10トン)の折り鶴が届くそうです。
 オバマ大統領もとてもに美しい模様の紙で丁寧に折られた折り鶴を持参されました。2羽は出迎えた小中学生に手渡しされ、残りの2羽は「共に平和を広め、核兵器のない世界を追求する勇気を持ちましょう」という手書きのメッセージに添えて、今は原爆資料館に置かれて公開されているそうです。
 この映像を見ていた私は、そのお心遣いに深く感動致しました。広島の被曝者の皆さんも、きっとこのメッセージと4羽の鶴を、同じような心で受けとめられた事と思います。
 私は以前二回広島の原爆資料館を見に訪れました。二度目の方がより資料が整い、赤く焼けた空の下を、ぼろぼろになった衣服なのか皮膚なのか解らないようなものを身に付けて、裸足で歩く被災者の痛ましい再現像に涙が溢れました。
 こうまでしなければ戦争は終わらなかったのか・・・、と腹立たしい気がしました。感じ方はそれぞれに異なったことと思いますが、最後の一兵迄戦うと言われ、私の母達も竹槍を持って集団訓練をしていました。幼かった私にもそれは異常に映り、悲壮感が漂って見えました。
 今も言われるように、もし原爆が落ちなかったら、戦争は終わらなかったのでしょうか。新聞やラジオは、勝った勝ったと言いましたが、戦争の最前線はジリジリと本土に近づいていて、実は負けているのだと大人達が囁いていたことを想い出します。私の叔母も我が家へ来て、○○から形成が逆転して、日本軍は反撃に出るのだそうだとか、いやいや、やがて日本本土に米英軍が来て、一人残らず死ぬ迄戦わなければならないのだと聞かされました。実際に家の前の畑に、家中の人間が辛うじて入れる小さな防空壕を掘ったりもしました。
 広島に続いて長崎にも原子爆弾が落ちて、8月15日の玉音放送をもって、戦争は終わりました。東京も焼け野原になりましたが、私の叔父家族も田舎へ疎開していましたのに、空襲によって家を失いました。戦後私の父も援助して、東京の杉並区に家を建てて住むようになりました。
 あれから70年が経ちましたが、あの焼け野原と原爆の恐ろしさから立ち上がって、日本が今日のような平安な美しい国になると誰が想像した事でしょう。
 二度と再び戦争だけはしてはいけないと思った筈でしたのに、私達の身の周りでは、軍備の強化が実際に成されていて、日本も原爆を持つべきだと言う声さえも聞こえて来るようになりました。
 オバマ大統領のメッセージのように、「核兵器の無い世界を追求する勇気」を持たなくてはいけないと、深く感じています。
 何十年ぶりに、私も折り鶴を折って見ました。震えそうな手で折ったツルは、余り上手くできませんでした。4羽の折り鶴の上手さに到底及びも付きませんでしたが、もし原爆が落とされるようになったら、それが地球上の人類の滅亡に繋がってしまうと言う思いは、同じです。決して後戻りしてはいけないと、「未来志向」と言われるアメリカの大統領の言葉に、同じ思いを重ねて、私達も一羽の鶴をそれぞれ折って、平和を誓いたいものだと思いました。
 世界のリーダーが自ら鶴を折って被災地に届けるという行為の、何と温かく、優しく、愛情に満ち行為でしょうか。これを見た時、原爆にまつわる全ての確執は洗い流されて、お互い手を携えて世界平和に努力するべきだと思いました。大統領のこの行為は、幾万語にも優る無言のメッセージを伝えて下さったのだと思っています。
 
 

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