ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

激浪の宗谷海峡を越えた人逝く

2022年04月25日 | 随筆
4月初旬、夫の姉がみまかりました。「激動の昭和」と云われますが、義姉もまた激動の昭和を頑張って生き抜いて来た一人でありました。
 以前書きましたように義父は勤めていた高校から文部省に転勤し、全校生徒が駅頭に並んでブラスバンドで見送られたそうです。義父と義母と義姉と夫の四人家族は、東京渋谷の道玄坂を登ったあたりに住んでいました。義姉(以後姉と書く)は、小学校5年生の時に(当時夫は小学一年生)父の勤務の都合で家族して樺太(現サハリン)に住むことになりました。この辺りの事情については以前書いた通りです。
 日本が戦争に敗れた日(昭和20年8月15日)樺太の真岡女学校2年生であった姉は講堂に集められ在学証明書を手渡され、学校長の最後の訓話「誇りを持って生きよ」を胸に刻んで家に帰ったということです。終戦の日は、私の故郷も良いお天気でしたが、樺太も抜けるような青空だったと聞きました。
 終戦秘話として『樺太・真岡郵便局電話交換手の自決』といった本が先頃も出版されていましたし、我が家の本棚にも樺太関係の本が数冊あります。先輩に当たる真岡郵便局の電話交換手達が、既に戦争は終わっていたのに、命の綱である電話交換の仕事を成し遂げて、最後に青酸カリで集団自決したのです。映画にもなりましたし私も観ました。当時真岡女学校の生徒であった姉は僅かな年齢の差で、この悲劇には遭遇しませんでした。
 
 終戦後は義父は抑留されましたので、義父一人を残して義母と姉と夫の三人が、爆弾が落ちる宗谷海峡を夜の貨物船に乗って、命からがら北海道の稚内(わっかない)に着いたのでした。「潜水艦がいるから、音を出さないように」と云われて、息を殺すようにして船内の時間を過ごしたそうです。後に「先に出航していた船がロシアの爆弾で沈められた」と聞いたそうですが、爆弾の落ちる音を聞きながら、奇跡的に撃沈されずに無事だったのだという事でした。
 そこから又延々と列車に乗り、津軽海峡を船で越えて、更に又長い時間を列車に乗って故郷の家へたどり着いたのですから、その逃避行は大変なものだったようです。夫は満員列車の洗面所方面の通路に押し込められるように過ごしていて、帰還の兵士に「これからは君たちの時代だよ。頑張ってくれ。」と云われた事を未だに覚えていると云っています。
 たどり着いた故郷には、義父が県庁職員であった頃に建てた大きな家に、留守番の親戚が住んで守ってくれていました。戦を逃れて故郷の地に帰る事は、今も昔も変わりません。故郷は温かく迎えてくれたのでした。

 姉の遺影はとても穏やかな笑顔で、遺影の前には日頃からお気に入りのベージュの帽子と白いハンドバッグが飾られていました。頭脳明晰で朗らかでしたし、元気だった頃を思い出すと、異界を越えて語りかけて来るものは、きっと宗谷海峡の脱出の時の思い出だったに違いありません。何歳になっても賢かった姉でしたから、惜しい気持ちで胸が一杯になります。
 残された二人の娘さん達もそれぞれ幸せな結婚をしていましたし、姉は穏やかな晩年を過ごしていたのです。姉の夫が亡くなってたった4ヶ月後のことですが、今振り返ってみると、それは困難を乗り越えて生き生きと過ごした幸せな一生であったと私には思えます。
 夫婦や義きょうだいはどのようなご縁で結ばれるのか解りませんが、共に過ごして来た年月がこれほど有り難いものだとは、若かった頃には思いも至りませんでした。私には「今は神仏から頂いた尊い宝の日々」だと感謝の思いで、この先を生きて行きたいものだと思っています。「終わりよければ全て良し」と姉の遺影は微笑みながら語っていました。
 
 随分古い話ですが、ある時我が家に「私の父が自宅の庭で沢山育てています」と云って、10センチ位の長さに切った「様々な椿の花」を沢山持ってきてくれた人がいました。珍しい花ばかりでしたので、花は大きな水盤に水を入れて浮かべて飾り、他は幹を斜めに切って庭に挿し木にして植えました。やがてそれらは全て根付いてくれました。
 それらの花は奈良の白毫寺を訪れた時に見せて頂いた「五色の椿」の様な珍しい椿も有りました。一本の木に白や紅白の絞りとかピンクがかった花などが咲きます。現在は1.5~2メートルくらいに育って、玄関アプローチから庭に曲がる道の両側に並んでいます。やがて珍しい多種類の椿のトンネルのようになると楽しみにしています。太宰府天満宮には菅原道真を慕って飛んで来たと云われる「飛び梅」があるそうですが、我が家には奈良の白毫寺の「五色の椿」が飛んで来たみたいです。
 姉が逝って、時を同じくして椿が飛んで来てくれたように今を盛りとして咲いています。この椿と共に「頭脳明晰で温かかった姉の思い出」を大切にしていきたいと心に誓っています。
 春ですし、少し遠くの海から潮の香が届くかと思われる日です。海は樺太へも繋がっています。最近しきりに私自身は知らない、「樺太の頃」の我が家の義父母と夫と姉の生活が偲ばれます。樺太は現在ロシア領になっていますが、夫の家族が住んでいた処ですから、今回のロシアとウクライナの戦争を機に、ニュースで取り上げられる事も多く、急に身近にに感じられるように思えるのです。平和な日本を有り難く思いつつ、姉の御霊に安かれと祈っています。

 人の世の勤め果たして姉逝きぬおちこちに夢のかけら捨てながら (あずさ)


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