ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

見えぬものでもあるんだよ

2017年02月20日 | 随筆
 私と一歳年上の夫とは、価値観が似通っています。旅好き、音楽好きです。美しい景色よりも寺院や歴史を好みます。学問や宗教や歴史上有名な人のお墓参りが好きです。
 フォレスタの歌う歌が好きで、コンサートにも出掛けますが、DVDも現在発売されている1~8章まで全て揃えて、折々聞いています。「日本の歌」を歌うグループとしては、最高だと思っています。その美しいハーモニーに何時も心が和みます。
 フォレスタのテレビ放映の時のコマーシャルに、金子みすずの「星とたんぽぽ」という詩の一節が、流れて来ます。
 それは次のような詩です。

         星とたんぽぽ
              金子みすず

       青いお空のそこふかく、
       海の小石のそのように
       夜がくるまでしずんでる、
       昼のお星はめにみえぬ。
       見えぬけれどもあるんだよ、
       見えぬものでもあるんだよ。

       ちってすがれたたんぽぽの、
       かわらのすきにだァまって、
       春のくるまでかくれてる、
       つよいその根はめにみえぬ。
       見えぬけれどもあるんだよ、
       見えぬものでもあるんだよ。

 この詩の「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。」というところに心を捉えられます。
 この詩の途中の映像が又何とも愛らしいです。男女三人の多分中央アジアの子供が、恥ずかしそうに笑いながら、肩を寄せ合っています。とても良い場面です。穏やかでゆったりとした時間が、過ぎているようです。
 みすずは「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」と言っていますが、此処は単純に「夜になれば星がちゃんと輝くし」「冬土の下の根は春には芽を出すよ」といっているばかりではないように思えます。
 幼い子供たちには、文面通りの理解で良いのでしょうが、みすずは大人にはもっと深く理解して欲しい箇所なのだろうと思えます。
 かつては見えなかったものが、電子顕微鏡の発明で見えるようになりました。しかしこれにも限界があり、元素のレベルまでは見えません。一方宇宙に目を向ければ、今期待されているのは、口径30mの光学赤外線・次世代超大型天体望遠鏡です。これで「宇宙」をくまなく見られるように、国立天文台が2027年度の稼働開始を目指して建設計画を進めているそうです。今は見えないけれども、そこに何が見えてくるのか、好奇心旺盛の私には、興味津々です。
 そうは言っても、無限の彼方まで見えるわけは無いでしょう。そして何よりも、人間の心の中が見える機器は永遠に出来ないでしょう。
 しかし、みすずが言いたいのは、「目に見えないもの」とは、即ち心にしか見えないものを表現しているのではないでしょうか。それは顕微鏡や望遠鏡と言った物質的世界を超越した精神世界の存在を訴えているのではないでしょうか。
 目に見えなくとも距離に関係無く、心に直接感じるものが有る、と言うことは、ともすると多くの人が感じることの様でもあり、実際に経験して居られる人も居られるかも知れません。一昨日TVでも、モーガン・フリーマンが第六感について話していました。 その「見えないもの」をどう捉えるか、は個々の人間の考え一つです。その時感じたものを信じてそれに感謝出来れば、幸せなことだと思います。
 そこまで読むのは読み過ぎだと仰る方も多いと思います。しかし金子みすずの不幸な人生と悲しい結末と、温かく愛しい作品を総合的に思う時、夜にのみ瞬く星も、春を待って咲くタンポポにも、大いなるものの愛の存在があるのだよ、と語りかけているように思えてならないのです。
 身の巡りには、見えないものがあり、私達はそういったものに守られ、導かれるようにして生きているのだ、との思いを強くします。
 現実的には、少なくとも災害にあった人達への思いやりや、病などに苦しんでいる人の心を理解し、慰めようとする心を持ち続けたいものです。それらは、数が多くなれなるほど、見えない力になって世界の人々の哀しみや苦しみを救ってくれる力に繋がるのではないでしょうか。モーガン・フリーマンの説くところもそのあたりにあるようです。
  

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お店の顔

2017年02月10日 | 随筆
 毎日の生活に欠かせないお店が、スーパーとかコンビニでしょう。私はコンビニは殆ど利用しませんが、スーパーへはウォーキングのコースの途中で、殆ど何処かのお店に寄っています。
 スーパー以外では、ホームセンター、ドラッグストア、花鉢の並ぶ園芸店などに立ち寄ります。
 これらのお店で感じることは、お店の顔は「レジ係」だということです。同じお店であっても、レジ係の感じの良い人の所は矢張り混みます。私達も少し並んでも、誠実で丁寧な仕事をして下さる係のところに並びます。客達は概ね同じ印象を持っているのでしょう。
 短期間でレジの係がやめて入れ替わって行くお店は、どうも何か問題がありそうです。働き易いお店は、時間給の人が多くても、人間の入れ替えは余り無いと言って良いようです。
 多くの人は、きっと僅かな時間に接する人の感じの良し悪しも、お店選びの大切な要素にしていると言えましょう。
 わが家の後ろ8軒ほどのところに,交差する広い道路があり、その左は元高校、右の先は商店街につながっています。その商店街は年々年老いて、あるじが変わるとお店がなくなったりして、何処も同じですが、シャッター街に変わりつつあります。この商店街には二つの銀行と郵便局がありますが、珍しく古くからの銭湯が生き残っていて、コーヒー店が二軒、美容院が二軒それにお茶屋さん、電気屋さん衣料品店、歯科医院などがあります。しかしこの10年程の間に、八百屋さん、パン屋さん、肉屋さん、酒屋さん、加えて食堂さえ、閉店しました。内科医院も医師の都合で無くなりました。
 文房具店、畳やさん、宝石店、贈答品を置く店、数えてみると、幾つものお店がどこかへ去ってしまっています。家具屋さんも電気屋さんもあって、小さいながら便利ではありましたが、郊外の量販店にお得意さんを奪われたようです。代わりにいくつかのビルで学習塾が流行っています。栄枯盛衰とは言いますが、「枯れ行く」方向へ向かっての一方的な推移は、街の活気を失ってしまいます。
 車社会になりましたから、勢い品揃えの多い量販店へ立ち寄って帰る人も多いのでしょうが、これからの高齢化社会には、歩きの高齢者はどこで買い物をすることになるのでしょうか。特に不便を感じない地理的に幸せな私達にくらべて、道路一つ越えた所はすでに買い物困難区域です。
 空港に続く広い道路が出来て、それに交差する昔からの商店街にあって、私達と同じ世代の古い時計屋さんは、実に誠実そのもので、左右のお店が無くなっても、また入れ変わっても、健在です。こぎれいなお店と、主の真面目さと、奥さんが上品なカップに珈琲を入れての接待に、(多分、何か買う予定が無く、話しをしに来る老人にも)笑顔で他のお客様の邪魔にならないように気遣いつつ対応しておられます。そのために、何時もどなたかお店に来ておられ、今もって現役で元気ある商店です。年老いての閉店は仕方ないとして、働き盛りであっても閉店せざるを得なかった人々の苦渋の選択を思うと、商業も人生も戦いだと思い知らされます。
 ところで今や家に居て商品が買え、配達して貰えるネットショップは若者を中心に私達くらいの年齢層まで、信用さえあれば、商いが出来ますし、双方に便利な時代になって来ました。それどころか既にスマホで決済のキャッシュレスの時代になろうとしています。でもそれは良いことなのでしょうか。対人関係のある、一言二言笑顔を交わす温かい売り方も捨ててしまって、合理性ばかり追求の販売システムは寂しくないでしょうか。
 人間の居ないスーパーに行って、自分で精算の作業をして、「有り難う御座いました」の機械音に送られて店を出る、想像しただけでこんなお店は避けたいです。
 こういうスーパーの問題点は、客はお金を払う機械と見なし、人間だと思って居ないと言う点です。
 今日裁判のあった「殺して見たかった」という国立大学生の殺人者にそれほど罪悪感が感じられず、親も子も人間と人間の密度の高いつき合いを十分経験して来ていないのでは、と考えさせられています。
 やがて全ての家事も介護もロボットがしてくれるようになり、人間は余暇をどう過ごすか腐心する時代になるのでしょうか。適度の仕事があり、社会奉仕がありして、気持ちの良い環境でお互い助け合い、感謝して暮らせる社会、こういう社会生活を望むのは、もう古いのでしょうか。それにしても気持ちの良い人間相手に暮らしたいと思う人は多いかと思います。
 レジ係りの店員さん達はスーパーの顔だと思っている,古いタイプの人間が今なお存在しているということを、合理化の前に経営者の方達に知って欲しいと思っています。


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