ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

黒揚げ羽舞う大拙博士の墓地

2024年02月14日 | 随筆
 私は国外へは出掛けた経験は無いのですが、旅行が趣味だった夫は、私や家族を伴なって、季節の良い5月~6月頃に日本各地を旅行しました。 或る年の6月の事です。北鎌倉の東慶寺墓地に「鈴木大拙博士(世界的にも有名な仏教哲学者)のお墓」がある事を知り、家族でその墓地へお参りに行った事がありました。とても大きな霊園でしたが、園内の一つ一つのお墓を丁寧にお掃除をしている管理人がいました。「鈴木大拙博士のお墓は何処でしょうか」と尋ねました。
 管理人は即座に少し先の真ん中の道に出られて「この道をずっと登って途中から左へ折れたところです。」と教えて頂きました。墓園の真ん中あたりだったでしょうか。
 教えて頂いた通りにに登って行きました。一番上の横長の平らな土地の正面の石垣には「第一高等学校」と大書した石碑があり、「鈴木大拙博士のお墓」はその墓地の真ん中辺りだったでしょうか。
 土手に草が茂っていて静かな大拙博士のお墓から下に向かってなだらかな下り坂になっていて、両側に数百もあるのか?びっしりと厳かな雰囲気の霊園になっていました。
 厳かな雰囲気の墓園には、本の出版に寄与されたという岩波文庫の社長のお墓もありました。「偉人と云われる人達はこのような静かな雰囲気の墓園にまつられているのか」と思いつつ、私達も左右の墓碑や説明に目を通しながら、時には立ち寄ってお参りをしたりして巡って行きました。

 一期一会という良く用いられる言葉がありますが、何故この年齢で?とか、何故この機会に?この境遇で?と思わされる出合いがあります。幾つかの感動を持って思い出される場面が今でも胸をよぎります。
 何かと運命的な出合いを感じる私ですから、特にそのよな感慨にふけるのかも知れませんが。それは本当に偶然に、或る夏の日の出来事だったのです。
 東慶寺は縁切り寺で有名ですが、紫陽花の時期に東慶寺に立ち寄り、様々な珍しい紫陽花を見せてもらいました。勿論初めて見る紫陽花も数多く、見事な紫陽花の咲く東慶寺の墓地巡りは、特に心が落ち着いていくような気がして、今だに時として心に湧き上がり忘れられない場所です。
 
 帰り道のことです。ひらりと黒揚げ羽蝶が私の胸の前を横切りました。「黒揚げ羽か・・・」と珍しかった私は少し感動して後を追ってながめていました。ヒラヒラと舞いつつ揚羽蝶は「こちらへおいで」と言うように先導して呉れたように思えました。
 揚羽蝶がそれからどう導いてくれたのか、私には途切れた記憶ですが、忘れられない記憶です。

 当時は「剣投(つるぎとう)ぜし古戦場」という古歌を私が思い出したりしました。「この辺りが元の鎌倉の古戦場だったらしい」とコーヒー店の店員さんが云われました。記憶は定かではないのですが、その近辺は頼朝が戦をしたらしい海辺だったようです。夫と店員さんとの間で海に向かって(どちらが正しい古戦場か)と云ったような事や(どちらが勝ったとか負けたとか)冗談半分のような楽しい話が交わされました。

 その時です。室外のテーブルと椅子に居た私の目の前を「大きな真っ黒な揚羽蝶」がヒラリと舞ったのです。ああ黒揚羽蝶か・・・と思いつつ行く手を眺めていましたら、やがて私の視界から消えました。美味しいコーヒーのほどよい温もりに癒やされてそのお店を出ました。丁度それがその時の旅の最後でしたから、私達は故郷への帰途についたのでした。

 ところが・・・です。私達が旅行から帰って我が家の居間にくつろいだ頃に、何と黒揚羽が私の眼前を横切ったではありませんか。この様な事を珍しがって奇蹟だなんて呼ぶのは可笑しいと思うのですが、丁度見て帰ったばかりに私の家で、さらに私の眼前に、今回旅先の鎌倉で出会った黒揚羽が付いて来たと言えなくもない感じで舞っていたのです。感動で胸が躍りまました。その黒い揚羽蝶は、暫く石の池の上を舞っていましたが、やがてお隣の家の方に飛び去りました。
 以前は親しかったお隣のスポーツマンのご主人は、今は病を得られて亡くなられ、隣人として今も心に痛みを覚えます。遠い記憶ですが、時として忘れられない貴重な想い出になる事もあります。

生も死も仏の意志と思う日は一羽の揚羽舞い来て去りぬ(あずさ)


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