ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

専門家の皆さん頑張って下さい

2024年05月23日 | 随筆
 新型コロナの流行もようやく峠を越えたようです。以前は「予防ワクチンを打つように」という行政からの勧めに従って、私も家族もそれぞれかかりつけの医院や市が用意した会場で接種を受けました。私は毎月一回かかりつけの医院で診療を受けている身ですから、当然のことだと思って接種して貰いました。

 ところが最近このワクチンを接種した人が、癌に罹ると言う記事を文藝春秋6月号(京都大学名誉教授 福島雅典氏)の記事で読みました。今頃言われても後の祭りですが。
 以前或る県知事が、この先関東大震災級の大地震に襲われる危険性を発表して、結果的に何事も起きず可成りの批判を受けた事を少し思い出しました。一般家庭の備えと地方自治体の備えとは当然違いますが、各家庭では一応備えはそれなりに出来ますし、どの位の準備をするかも各家庭で異なりますから、その対応を<大げさ過ぎる>と否定したりする事は、個人に任せて良いかと思います。備えがあるかないかで違って来る事もありますし、「備えにまさる用心なし」ともいわれます。備えて損をしたと思うかもしれないし、しないで損をしたという場合もありましょう。その判断は年月を重ねて科学的に証明してくれるでしょう。

 古い話ですが、私の父は関東大地震に、当時の東京の中心地の近くで遭遇しました。大揺れの会社を逃げ出して、そのまま徒歩で故郷まで歩いて帰宅した時の事を子供の私に話して、当時万一その様な地震に遭ったらどうするか、何処へ逃げるか、何が必要か、今は遠い故郷の家で、地図を拡げて海からの距離を調べたりして父の話相手になりながら真剣に耳を傾けました。
 備えが出来るものと出来ないもの、避難場所、再会のための決め事など、故郷の家と、この今の我が家の様に、周りのビルに屋上が或るところとは違いますが、当時2万5千分の一の地図を拡げて父の話しを真剣に聴いた事を思い出しました。
 現段階では地震予知はとても難しい事だと思います。当然ですが、予知は学者によって異なりますし、それでも「備えにまさる用心無し」ですよね。各家庭で考えて対応したいものです。私達も飲み水のボトルとか毛布とか、万一の必需品を納めた冷蔵庫など、義父が建てて呉れた二階建ての物置に常備しています。
 一方、この予知が当たらなかったからと言って、専門家が非難される場合があります。だからといって国民に何も知らせないのでは困ります。現代地震学の理論を元に現状を知らせ、確率を併記するなりして、備えの程度は各家庭にある程度任せても良いのではないでしょうか。長い年月の積み重ねと科学の発達は、やがて国民を救うことに繋がると私は思います。

 予報が当たらなかったからと言って、科学者や政府を攻めすぎるのもどうかと思います。先の短い高齢者ですが、知らせない事より知らせて貰って結果の精度を共有していくことを望みます。 これはコロナワクチンの場合と似ています。私の知人もコロナの始まりの頃に、医師に「コロナかも知れません」と言われて自主的にご自分が家族と離れて対応されて、結果的に何事も無かった方がいました。自費での対応ですから費用が掛かったことと思いますし、受け入れの方も慣れない事で、大変だったと思いますが、賢い選択だったと私は今でもそう思っています。

 少し古い話ですが、当時鳥取県知事だったと思いますが、地震の発生予想を政府の専門家会議よりも地元の研究者の見通しを取り上げて、対策を取ったということがあったと記憶しています。これが当って当時地震があった時、県民の被害が少なくて済みました。
 地震学はなかなか難しいので、思い切って発表して助かった例ですが、これからもあることですから、私はこのように地方とか身近で研究を積み重ねておられる人達の意見も重視して対処してほしいです。
 東南海トラフの地震の予知についても様々発表されています。政府見解は様々な関係者(学者・業界・企業・行政)などによって構成されていますが、その内容は「30年以内に60~70%の確立で起きる」というものです。しかし、ここで問題になるのは、「専門家」の見解で、20%の確立で起きると発表されています。しかもこれは「参考値」と書かれています。地震学は科学ですし、この乖離を国民はどう受け止めたら良いのでしょう。私は専門家と言われる人達がいるのなら、その意見を優先すべきではないかと個人的に考えましたので、20%の確率の方を選び、それでも尚万一の時は何処へ逃げるか、水の確保とか、家族が離れ離れになった時の安否確認の掲示板はどの小学校か、とか一応何があっても家族が再会出来る方法を確認しました。みなさんはどうされていますか。
 当たったとか当たらなかったと言われる事が怖いのか、二つの結果を併記して国民に選択させるという事は、学者さん達の自信のなさか政府の責任のがれでしょうか。私には解りませんが、東南海トラフの地震が来れば20万人の犠牲者が出ると言われています。
 私の住む地方は この対象地域から遠いですが、過去の地震の被害を思い出して、飲み水のボトルの確保とキャップに書いてある賞味期限もしっかり調べて、冷え込む夜のための毛布などの清潔にも気を配ったりしています。どうか専門家の皆さんこれからも研究を深めて国民を安全に導いて下さい。

尊厳死について

2024年04月19日 | 随筆
 私は古くからの日本尊厳死協会の会員の一人です。もう加入して何年になるのか忘れてしまいました。今年度は尊厳死協会の会費を納めましたら、「私は日本尊厳死協会の会員です 延命措置は希望しません」というラベルに「会員番号 名前」が記入できるような用紙が、会費領収の通知書に入って来ました。早速番号と名前を記入して私の健康手帳の裏表紙などに貼りました。小型のラベルが沢山同封してありましたから、万一の時に直ぐに提示できるように持ち物のあれこれに挟めました。

 いつのことでしたか、脚本家の倉本聰氏の「そしてコージは死んだ」という一文を読みました。末期の癌に冒された友人が、亡くなる前になって苦しみ抜いているのに、少しでも長生きするように延命措置を繰り返す医師の様子を怒りをもって書いていました。「このようなことは間違っている。どの様な死を希望するかは本人が決めるべきだ」と言う趣旨の投稿だったと記憶しています。
 私のような高齢者だから言えるのかも知れせんが、私も末期に過度な蘇生術はして欲しくありません。苦しみだけで助からない高齢者は、楽に死なせて欲しいです。そういうのを尊厳死というのだと思っています。先頃国会でも話題になって思い出しました。
 長い年月を経てようやく国会で日の目を受けるまでになったことを私は大変嬉しく思っています。

 私は夫の両親と同居していましたから、義両親二人と実の両親を病院で最後を看取りました。先立った義母のベッドサイトで看病をしていた私は、夜中に次第に呼吸が荒くなった事に気づいて、看護師さんに「家族を呼んだ方がいいようですね」と聴きました。看護師さんが頷いたので、直ぐに我が家へ電話して夫に病状を説明し家族や間に合う親戚に集まって貰いました。この時は当時東京の大学にいた娘は間に合いませんでしたが、その他は義父母の子供達もまだ息のあるうちに全員ベッドサイトに集まり、義父母に可愛がられて育った孫達も、手を握ったり身体を撫でたりして見送る事が出来ました。
 遥か昔、私の祖父も両親達もそうでしたし、親しい間柄の人達や友達まで、何とか駆けつけてくれて見送る事が出来て幸せでした。最後にスウーッと呼吸が引いて行く様子を見て「お疲れ様でした。有り難うございました。」と心の底から感謝して見送る事が出来たのでした。

 人の最後は「神秘的」と言えるような崇高な気持ちになるものだと知りました。死が近づくとエンドルフィンという物質(内因性モルヒネ様物質)がほ乳類の脳や下垂体から出るのだそうです。ですから普通に亡くなる場合は苦しんだりせずに亡くなるものらしいです。産まれる時がそうであったように、死ぬ時も神のご配慮によるものだと思っています。有り難いことです。

 キュブラー・ロス博士の臨死の瞬間の快感は神のご配慮としか考えられない崇高なものだと思います。過度な延命治療はこの神の厚意に逆らう行為であって、決して褒められたものではないと思います。
生と死の決断を強いられる医療関係の皆様、どうか命は誰のものなのか常に忘れないで戴きたいと思います。
 今日は花曇りの一日で、黄色いレンギョウや赤い椿が緑の苔庭に散りかかっています。風もなく静かに時が刻まれています。午後は歯科医に行って、この先歯科医のお世話にならないで良いように治療を完結して貰おうと思っています。



耐えて耐えて・・・生きて

2024年03月02日 | 随筆
 昨日何気なくテレビのスイッチを入れましたら、小林幸子さんの歌声が流れてきました。何時もの小林幸子さんとは違うようで思わず聴き入りました。作詞作曲は私の大ファンの「さだまさし」さんでした。

 耐えて 耐えて 耐えて
 生きて 生きて 生きて
 それでも笑えたらいいね

 季節の変わり目の雨が降る
 坂道(さか)の上は霧で見えない
 母の夢を見た
 ただ笑ってた

 坂道もいつか終わるよ
 名も無い花などないように
 喩え誰にも気づかれなくても
 必ず花は咲く
 それでいいじゃない
 いつか花は咲く
 それでいい

 耐えて 耐えて 耐えて
    (以下略)
 さだまさしさんは私がもう何十年も前からのファンでしたから、早速CDをネットで購入して貰いました。聴く程に心に染み込みました。その歌は私の母を思い出させもしたのです。

 私の母は明治末期の生まれで、8人もの子供を産み育てました。男4人女4人です。地方の小地主の跡取り娘として、長い間男の子の無い女系家族でしたから、女学校を卒業した母は私の父と結婚してから後に産み育てたのでした。既に長兄と三男が鬼籍に入っていますし、父も母も他界しました。
 父母が8人の子供育てをしていた頃が戦後で、長兄は大学院で原子力発電の研究をして、ヨーロッパやアメリカに留学したり、そこの原発に勤務していたのですが、放射線を可成り浴びたらしく後年は白血病に罹って病院に入院治療を余儀なくさせられました。亡くなった今でも残念です。
 父母の様に大勢の子育てをすることは、なかなかの労力が必要だったことと思います。しかし母は大変だとは一言も云いませんでした。当時は戦後で日本中が耐えて生きていた頃です。大変な苦労もあった事と思いますが、今頃になってその苦労を偲んでいます。
 長兄が病院に入院していた頃は、私も夫と見舞いに行きました。大家族の長男だった兄は、自分の亡き後を気にして、「後はこの様に頼む」とびっしり書き込んだメモらしき半紙を見舞いに行った私の手に渡しました。でも私には一言も読めない乱れた英文字の書き付けだったのです。今も兄の願望としてこの時の様子が心に刻み込まれています。
 悲しみがどっと湧き上がって来ました。きっと後々の我が子や妻や、私の実家の兄弟とか後の土地家屋をどうするか等考えた上で、長男としての義務だと考えての結論だったのだと思います。もう遠い記憶ですが、その思いを振り返ると哀しいです。
 故郷の古くて大きい家に残った母は、後に私の弟と共に故郷に住んでいた時期もありましたし後には私の住む県都で弟と同居していました。「耐えて 耐えて 生きて 生きて」を実際に自分の背中で今も生きて居る私達に示したのではないか?とも思ったりしているところです。高齢の私のこのブログを亡母はどんな気持ちで読んでいることか・・・とも思います。

 たらちねの母の背中の大きさは 耐えて生きたる証しなりけん   あづさ
 
 

黒揚げ羽舞う大拙博士の墓地

2024年02月14日 | 随筆
 私は国外へは出掛けた経験は無いのですが、旅行が趣味だった夫は、私や家族を伴なって、季節の良い5月~6月頃に日本各地を旅行しました。 或る年の6月の事です。北鎌倉の東慶寺墓地に「鈴木大拙博士(世界的にも有名な仏教哲学者)のお墓」がある事を知り、家族でその墓地へお参りに行った事がありました。とても大きな霊園でしたが、園内の一つ一つのお墓を丁寧にお掃除をしている管理人がいました。「鈴木大拙博士のお墓は何処でしょうか」と尋ねました。
 管理人は即座に少し先の真ん中の道に出られて「この道をずっと登って途中から左へ折れたところです。」と教えて頂きました。墓園の真ん中あたりだったでしょうか。
 教えて頂いた通りにに登って行きました。一番上の横長の平らな土地の正面の石垣には「第一高等学校」と大書した石碑があり、「鈴木大拙博士のお墓」はその墓地の真ん中辺りだったでしょうか。
 土手に草が茂っていて静かな大拙博士のお墓から下に向かってなだらかな下り坂になっていて、両側に数百もあるのか?びっしりと厳かな雰囲気の霊園になっていました。
 厳かな雰囲気の墓園には、本の出版に寄与されたという岩波文庫の社長のお墓もありました。「偉人と云われる人達はこのような静かな雰囲気の墓園にまつられているのか」と思いつつ、私達も左右の墓碑や説明に目を通しながら、時には立ち寄ってお参りをしたりして巡って行きました。

 一期一会という良く用いられる言葉がありますが、何故この年齢で?とか、何故この機会に?この境遇で?と思わされる出合いがあります。幾つかの感動を持って思い出される場面が今でも胸をよぎります。
 何かと運命的な出合いを感じる私ですから、特にそのよな感慨にふけるのかも知れませんが。それは本当に偶然に、或る夏の日の出来事だったのです。
 東慶寺は縁切り寺で有名ですが、紫陽花の時期に東慶寺に立ち寄り、様々な珍しい紫陽花を見せてもらいました。勿論初めて見る紫陽花も数多く、見事な紫陽花の咲く東慶寺の墓地巡りは、特に心が落ち着いていくような気がして、今だに時として心に湧き上がり忘れられない場所です。
 
 帰り道のことです。ひらりと黒揚げ羽蝶が私の胸の前を横切りました。「黒揚げ羽か・・・」と珍しかった私は少し感動して後を追ってながめていました。ヒラヒラと舞いつつ揚羽蝶は「こちらへおいで」と言うように先導して呉れたように思えました。
 揚羽蝶がそれからどう導いてくれたのか、私には途切れた記憶ですが、忘れられない記憶です。

 当時は「剣投(つるぎとう)ぜし古戦場」という古歌を私が思い出したりしました。「この辺りが元の鎌倉の古戦場だったらしい」とコーヒー店の店員さんが云われました。記憶は定かではないのですが、その近辺は頼朝が戦をしたらしい海辺だったようです。夫と店員さんとの間で海に向かって(どちらが正しい古戦場か)と云ったような事や(どちらが勝ったとか負けたとか)冗談半分のような楽しい話が交わされました。

 その時です。室外のテーブルと椅子に居た私の目の前を「大きな真っ黒な揚羽蝶」がヒラリと舞ったのです。ああ黒揚羽蝶か・・・と思いつつ行く手を眺めていましたら、やがて私の視界から消えました。美味しいコーヒーのほどよい温もりに癒やされてそのお店を出ました。丁度それがその時の旅の最後でしたから、私達は故郷への帰途についたのでした。

 ところが・・・です。私達が旅行から帰って我が家の居間にくつろいだ頃に、何と黒揚羽が私の眼前を横切ったではありませんか。この様な事を珍しがって奇蹟だなんて呼ぶのは可笑しいと思うのですが、丁度見て帰ったばかりに私の家で、さらに私の眼前に、今回旅先の鎌倉で出会った黒揚羽が付いて来たと言えなくもない感じで舞っていたのです。感動で胸が躍りまました。その黒い揚羽蝶は、暫く石の池の上を舞っていましたが、やがてお隣の家の方に飛び去りました。
 以前は親しかったお隣のスポーツマンのご主人は、今は病を得られて亡くなられ、隣人として今も心に痛みを覚えます。遠い記憶ですが、時として忘れられない貴重な想い出になる事もあります。

生も死も仏の意志と思う日は一羽の揚羽舞い来て去りぬ(あずさ)



眼から眼へ

2024年01月13日 | 随筆
 動物と人間の間に共通な言語はありませんが、心が通じていると思う場合が時々あります。いつでしたか、あの有名な野球の大谷選手が、愛犬と心を通わせている場面をテレビで見ました。きっと多くの皆さんも見ておられた事と思います。
 愛犬の目が真っ直ぐに大谷選手の目を見つめて、サッと前足を伸ばして来ました。大谷選手は犬の頭を軽く撫でて犬の前足を支えました。大谷選手の愛犬の、満足そうな顔が忘れられません。愛犬の心が充分に伝わっていたと思いました。
 瞬時に、そして言葉を発しなくても、心が通じていることを目が告げています。お互いに心地の良い時間ですね。

 私の夫は大の犬嫌いです。近寄る事も怖いらしいです。でも私と二人でウォーキングの折に出会う犬たちは、その飼い主に紐で繋がれていますが、時折シッポを振って親しげに駆け寄ってくる犬もあります。夫は吼えられたりしないようにさりげなく犬と距離を置いて通り過ぎます。
 ご近所の女性の愛犬は、私達がウォーキングしている時に出会うと、何故か夫の傍の方に駆け寄って、ベルトの高さに駆け上がり、シッポを振ります。この犬も夫の目を繁々と眺めます。これで犬が嫌いなのかなと思います。私は犬がそれほど怖い訳ではありませんが、夫ほど好かれたりはしません。屹度犬は正直なのでしょうね。
 夫の学生時代には、下宿していたお宅にも巨体の犬が居たそうです。そのお宅に初めて「下宿させて下さい」と伺った時に、その巨体の犬は寝そべっていた身体を起こしてジロリと夫を眺めたあとで、再び巨体を土間に延ばして眠りについたそうです。夫は怖がっていたのてすが、犬の方は心を許していたとしか思えません。「テリー(犬の名前)は知らない人には吼えるのですが、貴方には吼えなかったですね」と下宿のおばさんが言ったそううです。やがてその犬は夫の傍で、すやすやと寝息を立てて眠る程になったと云います。

 或る時踊りの上手い人が「佐渡おけさ」を踊っているところに出会いました。その時気がついたのですが、踊り手が指先をしっかり眺めて踊るのです。常に目は踊り手の指先に集中していました。そのせいか、身体全体が流れるように見えて、この人達は佐渡おけさを踊る踊り手達でしたが、「上手いなあ」としみじみと感動しました。そしてその秘訣は目の動きにあると感じました。

 梅沢富雄さんと云う踊りの上手い人がいます。矢張り常に「目線は指先に向いて居る」と思います。
 他人から自分がじっと見つめられていると感じる時は、信頼されている時であり、何か真剣に問いかけられている時だと感じます。先頃もお客様がありました。私と夫と三人で暫く話し込んだのですが、真剣な話しの折りは、矢張りお互いに目をしっかりと向け合って話していた事に気付きました。
 目から伝わる言葉にならない思いが、矢張り話している人の心を掴むことに気づきました。良い経験であり、有り難い思いが心に残りました。またの交流を約束しましたが、有意義な交流でした。
 先ほどからヒラヒラと舞う雪が心を静めてくれています。少し積もるかも知れませんが、こんな日も悪くないと思っています。