ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

アクシデント

2015年03月25日 | 随筆
 突然のアクシデントに見舞われると、誰もが咄嗟には呆然自失の状態になります。先日私もそのアクシデントに襲われました。一緒に買い物に出掛けていた夫が、少し下り坂になっているスーパーの駐車場への近道で倒れたのです。前のめりでしたので、額が割れて出血し起き上がれないので、どうしたらよいか気が動転したまま、私は目の前の医院のブザーを押していました。
 丁度その日は日曜日でしたのに、医師が直ぐに出て来られ、たまたま近くを通りかかった若い女性が、自らの判断で救急車を呼んでくださいました。
 医師はてきぱきと救急隊員に状態を観察しながら説明「意識はある、傷は縫合の要あり、脳外科が専門の○○病院で検査するのが良いだろう。血液サラサラの薬を飲んでいるそうだが、頭だから止血が上手く出来ないと後が怖い」と仰って居られ、救急隊員がメモして聴いて、本部へ連絡しているようでした。
 その結果、多くの人々にお世話になって、○○病院の脳外科に入院し、頭蓋骨の右側の登頂部近くに、ドリルで穴を開けて、溜まった血液を一日以上かけてゆっくり抜き出すことになりました。穿頭ドレナージという手術です。「順調にいけば約一週間先の23日(月曜日)には退院出来るでしょう」とのことで、家族一同ホッとしました。正式な病名は、慢性右硬膜下血腫と説明がありました。頭の右側に血液が溜まり、脳を圧迫したので、左側の体に異変が起きたのです。左側の足を引きずったり、左によろめいたり、転んだりするようになっていました。
 一般に転倒して頭を打って、2ヶ月ほどして血腫のための症状に気付き、初めて診察して貰うことになる人が多いようでした。原因が突き止められないままに死に到る人もあるのだそうです。夫も初めは筋力が歳と共に落ちてきたのかと、フイットネスジムへ入会したりしていました。入院先の医師の聞き取りと、丁寧な説明をお聞きして解ったのですが、夫が凍結した道路で転倒して頭を強打し、今回の転倒・手術に繋がったのでした。それは一月下旬の出来事だったと自宅へ戻って日記を調べて納得しました。
 夫は出会った多くの皆さんのご好意により、運良くテキパキと手術をして頂き、優秀な医師と看護師のチームワークで、予定通り退院できました。元もとは血腫の為にフラフラしていたりしただけですから、血液を抜いてからは、やや体力は落ちましたが、口は達者で、看護師さんたち周囲の人々を笑わせてご機嫌でした。
 今回の経験から、健康のありがたさを改めて感じました。義父母が入院していた頃とは、医療も看護も大きく変わり、電子カルテで管理されるようになっていて、看護師さんたちは、全員パソコンを台に乗せて、回ってこられました。3日程、感染症予防の点滴等があったりしましたが、その後は自分で用足しも出来、看護が行き届いていて、私達家族は特別何もすることもなく、長い病院の一日の退屈を凌ぐ話相手でした。
しかし、病院から帰宅して、食事も済ませ、夜が深まって来ると、容態が変わっていないか、と不安の虜になってしまうのです。翌朝早くに病室に駆けつけて、元気な顔を見て、ホッとして一気に力が抜けていくという、毎日そのような日々の繰り返しでした。
「この時期にこんな経験が出来たことは、今後の人生に健康面からの警告となり、少なくとも一層転倒に気を配り、一日一日を大切に生きなければならない」と改めて思うようになりました。同時に周囲の人々の優しさに接して、「人には優しくしなければならない」と一層強く思うようになり、有り難い経験をさせて頂いたと思っています。
 今迄夫が助けて呉れていた家事なども、息子が率先してするようになったり、家族の団結が一層強まりました。いたわり合いが行き届き、今ある幸せに感謝の念すら湧いて来たのです。
 退院後になった所もありましたが、それぞれお世話になった方達の所へ出向いて、感謝の気持ちをお伝えすることが出来ましたし、今迄全く見知らぬ人であった人達に、「良かったですね」と喜んで頂いたり、人との出会いや繋がりに、これ程感謝出来たことを家族で喜び合いました。
 「有り難う」という言葉が多用され、喜びや感謝が共有できる幸せをこのように強く意識したのも、嬉しい事でした。「禍(わざわい)転じて福となす」という諺を身を持って体験出来たのです。今は目に見えて回復し歩き方も正常になった夫と共に、以前よりも一層濃い家族の団らんが展開されています。
 全く私的なエピソードの報告になりましたが、病院へ毎日通ったり、変則的な生活にすっかり疲れましたが、次第に自己本位になっていく今の社会に、絶望的な気持ちを抱きがちな私でしたが、日本人の心の本質は、まだまだ他人への温かい配慮が息づいていることを教えて貰い、安心することが出来ました。
 この事は、大きな収穫でした。これからはご恩返しの積もりで、出来る限り心配りをしながら生きて行きたいと思っています。


心に太陽を唇に歌を

2015年03月15日 | 随筆
 東北大震災から4年が経って、最近は、その後の被災者がどのように暮らして、復興がどの程度進み又滞り、私達は何をしなければならないのか、幾度か考えさせられる場面がありました。
 聴くところによると、この規模の地震は、千年に一回程度の発生率だそうです。およそ千年前と言うと、平安時代に貞観(じょうかん)地震(869年)というのがあったそうです。やはり今回と同じような規模の地震と津波が東北を中心にして起こりました。地震の規模は、今回はM9.0で、869年にはM8.4でした。
 しかし、残念な事に、当時のしっかりした記録がなく、その災害から5年後に富士山が爆発したとか、やがて南海・東南海地震が起きたと言われていますが、人々がどのようにして復興を果たしたか、良く解っていません。
 ネットで様々検索して読んで行くと、祇園祭りは、貞観地震で1000万人の人口の内、1000人が亡くなり、都は不衛生や飢餓から来る疫病が蔓延し、その供養に祇園祭りが始まったのではないか、とありました。
 又貞観地震の5年後には、富士山が爆発していますが、地震や津波は農地を荒廃させ、たちまち飢饉に結びつきます。富士山の大爆発でも、降灰により、日照不足、農地への降砂で作物が取れず、深刻な飢饉となったようです。富士山の麓の青木ヶ原の樹海を見ると、およその想像は出来ます。浅間山の鬼押し出しも、鹿児島県の桜島の回りも、共に不毛の土地で、とても耕せるものではありません。
 貞観地震の9年後には、関東、相模、武蔵のM7.4の地震が起きています。1923年の(大正の)関東大震災は、M7.9だったそうですから、もし類似した地殻の変動が起きているとしたら、間もなく富士山が爆発し、関東地方に大正の関東大震災に近い地震がくるかも知れないということになります。
 その時私達はどのように行動し、又日頃の備えをどうしておくか、やはり真剣に考えなくてはなりません。
 今回の困難を上手く乗り越えることが出来た市町村や地域は、何をどのようにしたか、身近な困難に対処して来られた人達に、学ぶところは大でありましょう。
 現在は、万一に対して、食料や水は取りあえず3日分くらいあれば、自衛隊が空輸してれるので大丈夫、等と言われたりします。しかし、余りに虫の良い考えではないか、とも思います。
 今回の災害で、まだ本当に必要な手が伸びていないのは、私は衣・食・住よりも、人の傷付いた心を如何に救うか、だと思っています。傷付いた心が完全に癒えない限り、被災者は災害から立ち直ることが出来たとは言えません。そしてそれができるのは、優しく温かい人間の心以外にはないのです。
 人間が窮極に追い詰められた時、衣食住に困らないようにすることは基本ではありますが、傍にいて共に涙を流し、苦しみに耳を傾けて、手を握り肩を撫でて上げることは、何も特別なことではありません。本気でそうしようと思えば、誰にも出来ることではないでしょうか。
 かつて私は、泣くことも笑うことも出来ない一時期がありました。泣けば涙と共に少しずつ苦しみが流れていくことを知りました。泣く事さえ出来ない人もいるのです。
 何年も経って、フト小声で歌を歌っている自分に気付いた時、私は、「何と私は歌を歌った」と思わず感動ました。「日にち薬」という言葉がありますが、月日が解決してくれる処もあります。それからは、努めて歌う事をし、心に辛い思いがのさばって来たと思ったら、「旅先の何処の夕日が美しかったか」等と良い想い出ばかりを思い出す。取り憑かれて苦しい心を切り替える為には、「あいうえお・かきくけこ」また「南無阿弥陀仏」等と取り憑かれた心と無関係な言葉を心の中でくりかえします。すると不思議な事に、引っかかっていた事を忘れてしまい、穏やかな気分に変わるのです。日々沢山の事故で亡くなる家族を持つ人も多い世の中です。この方法も覚えて置けば役に立ちます。
 被害者になることも辛いですが、交通事故に見られるように、予期せず加害者になることもあります。生きている限り思い掛けない事故に出会うことが多いのです。それを思うと、私達のこのささやかな生活も、如何に幸福か、しみじみと有り難く思えます。
 幸せを心の外に探したら何処まで行っても見つからないでしょう。幸せは自分の心の中に育てるものだと思います。小さな美しい幸せの花が、今や四回目の春の陽に温められて咲こうとしています。心の太陽と唇の歌とに育まれた花々が、日本中のあちこちに咲き乱れたら、被害者の心を救う何よりの慰めになることでしょう。


認知症と共に生きよう

2015年03月04日 | 随筆・短歌
 高齢者の多くの人が、認知症になりたくないと、考えていると思います。私もその一人でした。少しばかり大事な事を忘れていたのに気が付いたり、昨夜観た映画の題名が思い出せなかったりすると「ひょっとして認知症の始まりではないか」と思って心配になってしまう、こういうことは高齢者であれば、誰もが経験することでしょう。
 人間ですから、いつまでも記憶がしっかりしているわけではなく、歳と共に忘れる能力が高まって、死が全ての人に訪れるように、忘却もその勢力を広げていく筈です。
 私の家で購読している地方紙に「認知症を幸せに生きる」という記事が載っていました。週一回(火)の連載ですが、その第一回2月12日を読んで、私はとても感動し、共感を覚えました。
 『認知症と言われる中でも半数以上を占めるアルツハイマー病は、物忘れ、家事が出来ない、道に迷う、が三大症状ですが、治らない病気である。抗認知症薬は、数ヶ月~1年半くらい「悪化させない」効用がせいぜい。治らないものを治そうとするのは、本人にも家族にもつらいこと。物忘れなど治そうとせず、元気で生き生きとした生活を取り戻すことが大切』と執筆者の精神科医の上田諭医師が書いておられます。
「忘れてもいい。出来なくていい。認知症になっても構わない。治さなくていいし、治らなくていいのです。」とあって、私はホッとしました。
 「本人が自信を持って、元気で楽しみと充実感を得て生活することが、本人を幸せにし、介護する人人々をも幸せにする」とありました。
 高齢化社会では、誰もが認知症を患う可能性を否定出来ません。
私の身の回りにも、現在認知症を患って居られる人も、認知症の家族の介護をされた人もいます。そんな人達から学んだ、より望ましい生き方が、先の文の通りなのです。
 私の学生時代の友人は、ご夫婦で散歩中にご主人が転倒され、開頭手術をされ、長いリハビリ生活を送られて、やがて認知機能が衰えていかれたのですが、ずっとご自宅で介護をされて、最後を看取られました。
 記憶の薄れゆくご主人が、「有り難う」といつも感謝の言葉を口にすることは忘れなかったようで、後に声が出せなくなった頃にも、眼で伝えたと聞きました。この言葉を聴いただけで、ご夫婦の日常の様子が察しられます。「価値観が同じだったから、幸せだった」と振り返って彼女は言いましたが、私はお二人の生き方をとても尊敬しています。
 又、現役時代は可成り高い地位に就いておられた人が、近くに住んでいるのですが、夫と出会えば、何時もざっくばらんな冗談を飛ばし気さくな人でした。やがてアルツハイマー病に罹って、外出先から家に帰れなくなりました。家族が気付いて医師に診て頂いた頃は、病状は中等度といわれたそうです。
 しかし、我が家の夫に会えば遠くからでも手を振り、すれ違う時は相変わらず冗談を言って笑わせる明るい方です。病気だと知らなければ解らない程です。夫は最近、その方が「まるでほとけ様のように柔和な笑顔をたたえて、人間本来の姿に戻っていっているようだ」と言います。とても屈託なく明るいのは、やはり二人暮らしの奥様の対応が良いことも、原因の一つなのでしょう。
 もう一人、これも夫の趣味の会の友人ですが、認知症の人を介護している施設に入居されました。施設に確認しご家族にも許可を得た上で、指定された日に面会に行きました。私も良く一緒にお付き合いした人でしたので、同道しました。「良い病院だ、と言われて来たら、こんな所で・・・」とその女性は顔を暗くして仰いました。やがて談話室で少しお話する内にお元気になられ「娘家族も忙しいから仕方が無いのです」と仰って微笑まれました。
 談話室に集まっている人が数人いましたが、みな一人一人、別の方向を眺めながら、自分の思いに耽っているようでした。しかし、その表情は決して暗くはなく、とても穏やかでした。私達は少しホッとして帰途に就きました。
 三回目の記事は「叱られると不安大きく」と題がついていて、認知症の人の徘徊や行方不明の対策として、 地域での声かけ、見守り、携帯電話の位置確認機能を活用する等が、講じられてきていますが、一番大切なものが欠落しているとありました。
 それは心情や生活を考えることだと言います。認知症の人は、自分の変化に不安と戸惑いを感じている。それを指摘したり叱ったりすれば、ますます不安は大きくなり、反発心も生まれます。
 「自分はこれで良いのだ」という自己肯定感や自尊心が、叱られることによって薄れて行きます。周囲はそれに気付かないことが殆どだそうです。
 徘徊して困る.と言う息子さんに、この医師のアドバイスの言葉は「お母さんの唯一の頼りはあなたです。怒られて居場所が無くなってしまい、徘徊するのではないでしょうか?」でした。
 我が家が建った時に家を建てた人達の多くは、年齢が近いため、あちこちに一人暮らしや二人暮らしが多く、認知症で施設に行かれた人、デイサービスを使いながら、何とか家族の介護で過ごして居られる人もいます。
 テレビなど観ていますと、暴力を振るったり、夜中に奇声を上げたりと、悪い面が強調されているように思います。介護の人も患者さんも戸惑ったり困っているのです。
 3月3日の新聞記事には『認知症を速く見付ける本当の理由は、早期発見・早期治療に繋げることではなく、根治療法が今のところないことを周囲の人が認識し、「治らなくていい、治さなくていいと早期に認識すること」にほかなりません。』とありました。不安を先取りして自ら苦しむことのないように、『認知症の人の不安な思いや、生活がうまくできなくなるつらさに付いて理解し「慰め、助け、共にする」姿勢を持つ事が大切』とこの回は結論付けられていました。
 認知症の人が、こちらの話しかけに、穏やかに楽しそうな表情で応えてくれた時には、私までが幸せな気分になって来ます。嬰児が時折見せる、あの周囲を幸せにする微笑みに近い心を、認知症の人は潜在的に心の奥に育てているのではないでしょうか。
 介護する人ばかりでなく、地域社会の人達が、対等に、且つ理解ある温かい心で接してあげたら、きっとこの人達も充実感を感じつつ生きて行けるのではないでしょうか。

友の記憶薄るるらしも幼児に還りゆくごと吾を和ます(某誌に掲載)