ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

安楽死と尊厳死

2020年09月20日 | 随筆
 虫が鳴いている いま鳴いておかなければ もう駄目だというふうに鳴いている しぜんと涙がさそわれる。

 この八木重吉の詩が心にしみるほど秋が深まって来ました。様々な虫が残り少ない命を燃やして鳴いています。何とも健気なような寂しいようなこの頃です。 
 今年の8月下旬のことです。新聞記事に「嘱託殺人 医師逮捕」と云う報道があり、目を惹きつけられました。ALSと云う病気については、ご存じと思いますが、「筋萎縮性側索硬化症」といって、体を動かすための筋肉が痩せていく病気です。筋肉そのものではなく、運動神経系が障害を受ける進行性の神経疾患だそうです。
 脳から運動神経への指令が伝わりにくくなることによって、体が動かなくなってゆき、筋肉が痩せていく病気で、感覚や内臓機能等は正常なのですが、思うように手足が動かせなくなり、やがて寝たきりになって死を迎えます。意識がしっかりしていても身体不自由な期間が長びけば、それだけに辛い病気です。
 国内の患者数は約1万人と報告されていて、国指定の難病の一つです。死亡までの期間は、約2~5年とされてきましたが、医療の発達もあり、10数年の長期間にわたってゆっくりした経過をたどるケースもあると聞きます。
 比較的高齢者に多いようですが、不幸にしてこの病に罹った人が、人生の先行きについて絶望感を抱いくにしても、辛いのは本人ばかりではありません。看病する人も病人が終末を迎えるまで、身体的にも精神的にも少しでも楽に過ごせるように、寄り添ってあげる事しか出来ません。それもまた辛いことですが、だからといって、安楽死させるなどは、医師として、またそれ以前に人間として許されない行為です。まして金銭を受け取るなんて。
 このたびの事件では、二人の医師が被告になっています。AとB二人の医師が、ALSの患者である女性の嘱託を受けて、胃ろうに薬物を投与して、死亡させたとしています。記事によりますと、この医師は人気マンガの「ブラック・ジャック」に登場するキャラクターで、安楽死を請け負う「ドクター・キリコ」になって言及するなど、SNSで安楽死を正当化しているようです。公判でも「同様の主張をして争う可能性がある」とありました。
 両被告は大学時代からの知り合いで、2018年12月ごろから、この女性とAがツイッターでやりとりを開始したらしいです。A被告はB被告の名をかたり、女性はB被告の口座に130万円を振り込んでいたことから、A被告が身元を隠して事件を主導したとみられるとありました。
 命を預かる医師が安楽死に安易に手を貸して金銭まで受け取っていたと云う事は、医道の精神をこの上なく踏みにじった出来事でした。安楽死は、現在の日本では法的に認められていません。スイスやアメリカの一部の州やカナダ等が認めているそうです。日本人の中でもこのような患者で富裕層の人が、身の回りを整理して、フランスあたりへ行って、この方法を取る人がいると聞いていましたが、真実の程は分かりません。
 一方似たような言葉で、尊厳死という言葉があります。尊厳死とは、人間が人間としての尊厳を保って死に臨むことです。末期がん患者など、終末期に積極的な延命治療をせず、苦しませないようにして、自然死を迎える医療をいいます。インフォームド・コンセントの一つです。あくまで個々の人間が、生きているうちに医師に申し出て、終末の医療を苦しまないようにして貰うものです。日本にも「尊厳死協会」という組織があり、私も11年程前に入会していて、医師への表示のカード「日本尊厳死協会会員証」を持っています。
 「95%の人は癌であれ認知症であれ、神経難病であれ、必ず終末期を経て死に至る。残りの5%の人は事故死や突然死なので、終末期は無い。」「尊厳死が容認されつつある日本において安楽死は不要である(日本医事新報№5030)」とあり、尊厳死の考えが行き渡りつつあることを、これから終末期を迎える私としては有り難く読みました。
 以前私が股関節置換手術を受けた時も、医師や看護師さんにこの会員証を提示しました。手術は全身麻酔で行われましたし、一時私の特異体質のせいか急激に血圧が低下して切迫した事態になったようでしたが、無事に乗り越えて現在があるわけです。
 事故死や自死以外普通は誰にも終末期はあり、どう過ごすかは予め考えておく事は大切なことですが、「その時」は神仏のご意志に依るところも多いことでしょう。
 尊厳死については、最近は医師にもその考え方が浸透していて、「どのような状態になった時に、積極的な治療を終了するか」は考えられているようです。
 みなさんもご存じの遠藤周作と云う作家は、管だらけで終末期を過ごしていたようでしたが、ご夫人が看病して居られて、その状態を苦しそうに思い、終末近くに「全ての管を外してもらった」そうです。すると遠藤氏はとても穏やかな顔になって安らかに逝った、と後にご夫人が書いていました。私にはホッとする話しです。
 我が家では、義母が逝き、その3年後に義父が逝きました。義母は、自分の洗濯を終えた後フラフラと倒れて、救急車で入院しました。看護の手を厚くして、派出の看護師さんをお願いしたり、義母の親しい友人も日々見舞いに顔を出してくれて、24時間誰かが目をさまして付き添っている状態で送ることが出来ました。
 義父の時は、丁度掛かりつけの病院へ私が同道して出かける朝でした。突然倒れたので、頼んであったタクシーを断って、救急車で入院になりました。
 すっかり身支度を済ませて背広姿でしたから、看護師さんが「このように立派な身なりで倒れるなんて、日頃から余程キチンとしていた人なのですね」と云いました。本当にいつも身の回りを綺麗にして、日中はゆったりと庭を眺めて暮らす日々の人でした。毎日必ず歩いて脚を鍛えていましたし、とても几帳面な人でした。お葬儀が済んで私達が遺品の片付けをした時は、身の回りはとても綺麗で、読みさしの本など本棚に少し残して、塵一つ無い部屋でした。高齢の男性にしては、日々の暮らしに必要な衣類を驚くほどキチンと箪笥に整頓してありました。
 後に「私も出来たらこのように逝きたい」と義姉がしみじみと云いましたが、亡くなる日までしっかりした意識で悠々と過ごしていて、確かに身近な人達に羨ましがられるような最後ではありました。
 安楽死事件がきっかけとなって、日々の過ごし方や、これまでの医療がともすると延命のみを重要視していた事を反省させられました。人間の尊厳を維持して、安らかに送ってあげる医療こそ、本来の医療だと信じる医師に私は看取って貰いたいと願っています。


生き残った幸せ

2020年09月04日 | 随筆
 過日「戦艦大和の最後」を記録した映像を見ました。大和が沈む時、海に投げ出されましたが、何とか生き延びて戦後の日本を今日迄生きた人達が居られました。
 乗船していた船と共に沈んだ艦長達もいましたが、その他二百数十名の乗組員が大海に投げ出されたのです。この人達は、不沈と言われた大和が沈みゆく様子を目の当たりにしながら、自分は大海に投げ出されたのです。やがて駆逐艦が助けに来たのですが、全員乗り切れるわけでもなく、収容人員が来たところで、救助を止めて戻っていきました。
 残された人達は、何時助けて貰えるのか不明な中を、救助船に助け上げられる迄海中でどう過ごしたのでしょうか。聞くところによりますと、全員で歌を歌って耐えたのだそうです。初めは「守るも攻めるも・・・」で有名な軍艦マーチや「同期の桜」などの軍歌だったそうですが、やがて歌は懐かしい童謡になったそうです。子供の頃に歌った馴染み深い童謡になったと云うことは、今死を前にして、子供に還って行ったのだと云えます。
 あちらこちらから「お母さん!」と呼ぶ声が聞こえて、次第に波間に消えて行ったそうです。兵士達は子供に還って死んで行く、仏さまに近づいて死んで行くのだと教えられ、涙が止めどなく流れました。
 戦争では多くの艦船が沈没したでしょうし、辛うじて救助の駆逐艦等に助けられて、何とか今日迄生き延びた人のインタビューを通して、私は初めて救助の実情を知ったのでした。
 私は今から20年位前でしょうか、その戦艦大和の美しい姿を見たいと言う夫と二人で、広島~宮島方面への旅の途中で、呉の港に立ち寄ったのでした。
 呉の展示館には、戦艦大和の1/10の大きさの精巧なモデルがありました。とても美しい戦艦で感動したことが印象に残っています。大和をバックにして、私の様(さま)にならない様な敬礼姿の記念写真が残っています。今も懐かしく忘れられない想い出の一つです。
 銃創のある実物の遺品も数多く飾られていて、特攻機の実物や人間魚雷「回天」の展示もありました。みな本物なのですから、大きなインパクトがありました。
 今回の放送の時に、生存者のインタビューがあり、「私は何とか生きて海面に浮かび、同じく浮いている兵士と手を握り、助けを待った。しかし、やがて疲労こんぱいしてとうとう握っていた手を離してしまった。今でもその時の事が悔やまれてならない。」とか「浮かんで来る時に同じく海中から必死に脱出しようともがいている兵に脚を捕まれ、重みで海中に引き戻されそうになって、思わず脚で蹴ってしまった。」等、生々しい当時の記憶を聞きました。
 そのような非常時に、冷静に判断することは難しかったと思いますが、戦後75年も経った現在においてさえも、年老いた方達が「未だに悔いている」としみじみ述懐するのを聞き、長い間耐えてこられた心痛も忍ばれて、私にも辛いものがありました。
 夫がずっと以前に勤めていた病院の院長だった方が、潜水艦の魚雷により、乗っていた船が沈没したそうです。その時海に投げ出された数多くの人達が居たわけですが、矢張り手を繋いでいた兵士の手を疲労困憊の末離してしまいました。その罪悪感を忘れることが出来ず「自分は一生かけて罪を償うのだ」と言って、一年の内元日を休むだけで働き続けたと聞きました。
 その時の辛い思いを引きずるか引きずらないかは、その時の情勢などに寄って変わるようですが、75年経っても忘れる事が出来ない自責の念にも心が痛みます。
 救おうにも救えなかった命の重さと、その時の辛さを長い間引きずって苦しむのも、或るいは神の御心かも知れませんが、そのような経験は、きっと「その時」にしか経験出来ない尊いもののように思えます。

 私の実家の隣の主は、大戦時に陸軍として参戦し、敗戦後は中国の可成り南からずっと徒歩で隊を組んで北上して、(隊から外れると虎に喰われたそうです)港までたどり着いてやっと帰還の船に乗ったと聞いています。話し好きの主で、毎晩のように我が家へ来て、父と話してお茶を飲むのが日課みたいでありました。遠い昔の事実の記憶として、こうした苦労話も想い出も、いずれも忘れずに、今の時代を生きる私達の大切な記憶として残して置きたいものです。
 75年という長い年月を過ごした後までも、後悔として心に残ってしまった記憶に、私はその出来事の重大さを感じて印象深く聞きました。日本国民はそれぞれに生きて来た生活年齢に従って、また戦時の記憶のある人は、実際の戦時の年齢とその経験に鑑みて、体験はさまざまだと思いますが、国民の一人として大切に記憶に留めて、今後の政治のあり方などにも心を配り、平和を尊ばなければならないと思っています。
 
 私は両親の年齢や職業からか、親戚も含めて戦地の経験者は一人しかなく、戦争で亡くなった人もいません。ただ東京から一家して親戚の実家に疎開して来ていた家族が、その後兄弟である私の父親達の手助けで、世田谷区に戦後に家を建てて住みました。私は学生時代を終えて、そのまま東京で暫く勤めましたから、その家に少しの間お世話になった事がありました。やがて一人暮らしになりましたから、お世話になったりお世話して、助け合って暮らすという経験を経て、視野も心も広がりが出たような気がしています。
 何が幸せで何が不幸か、それはその人によって異なる事かと思います。せめて「小さな幸せ」でも、それを幸せと受け止めて、感謝の念を忘れずに生きて行きたいと願っています。
 終戦を記念して「戦艦大和の最後」がTV放映されました。見終わって一番辛く感じたのは、生き残った人達のその後の人生です。遺族の方達に「何故あなたは生き残ったの?」と詰問する前に「貴方は助かって良かったですね」と祝福して欲しい。「亡くなった我が家の家族の分まで、長生きして下さい」と心から願ってあげて欲しいと思っています。