ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

心甦る記念樹

2010年10月27日 | 随筆・短歌
 この度庭の隅に沙羅の樹(夏椿)を一本、庭師さんに頼んで植えて頂きました。夏に剪定に来て下さった時に依頼してあったのですが、そろそろ植える時期になったらしく、持ってきて下さったのです。今までに様々な木を何度植えても枯れるという場所でしたから、今度こそしっかり生え付くように、土を少し入れ替えていただき、付近の低木を少し動かしてもらいましたら、なかなか感じよく位置が決まって喜んでいます。
 今は葉が美しく紅葉していますが、来年の夏には白い花を付けてくれるものと期待して、楽しみにしています。
 結婚してから来年春で50年になる私たちは、この樹を金婚記念樹にすることにしました。あとどれ位二人に時間が残っているのかは解りませんが、それでも少しずつ大きくなっていくのを楽しみにしたいと考えています。
 記念樹というものは、自宅の庭のでも、卒業した学校に植えたのでも、又ある時じっくり見上げて何かを感じて忘れられなくなった樹でも、自分の人生の節目に関わったそんな記念樹は、生涯にわたって特別な愛情を持ち続けさせてくれます。。
 我が家から、右に五分ほどの所に、娘が卒業した小学校があります。余りにマンモスになって、途中から左に五分程の所に新しく小学校が出来ました。その為息子は途中から新しい学校に移りました。そのどちらにも記念樹が何本かあります。○○年度卒業記念樹 とあり、樹の名前も書いてありますので、ウォーキング途中の私達は、花の時期には美しく咲いている姿に、立ち止まって見とれたりします。紅白のハナミズキであったり、純白の山ぼうしであったり、花の咲かない樹のこともあり、緑豊かに学校の周りを彩ってくれています。
 卒業して何年も経ってから来て見た人は、きっと心熱く懐かしい想い出に浸ることでしょう。我が家にも忘れられない想い出の樹はあります。それを記念樹と呼べば、義父の記念樹は、白木蓮と、生け垣の貝塚息吹と、庭の黒松です。義母の記念樹は、玄関脇の侘び助です。一重の白が好きだと云って、毎年咲きかけた花を、壁の一輪挿しによく活けていました。
 義父が生け垣にと、やっと60㎝くらいになった貝塚息吹を植えたのは、家が建って間もなくでしたから、もう45年近くなります。立派に育って、毎年庭師さんが、綺麗に刈り込んでくださっています。白木蓮は「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」と近所のご老人(現在は90歳を越えておられます)が言いつつ、義父を想い出すと云われたことを以前書きましたが、本当に私達も花が咲くたびに義父を偲ぶ良い記念樹になっています。
 もう一本の黒松は、これも義父が越して来てしばらくして、自転車で考えられない程遥か遠くまで行って、20㎝位の黒松の苗を黒松林から頂いてきて植えたのです。ただ真っ直ぐに伸びた松なので、庭を造る時に庭師さんに、この松は処分ですか?と伺いましたら、「いやいやこれも大切な樹です、庭の中央の形作った松を引き立てるのに大切なのです」と仰って、何も知らない私達に教えて下さったのですが、あれからもう25年も経っていっそう立派な松になりました。高さは庭師さんが丁度の所で止めてくださいました。義父の松苗採りの苦労を想うとき、働き者だった義父が懐かしく偲ばれるのです。
 では私達の記念樹とは、と云いますと、何と言っても今回の金婚記念樹です。夫が植えた紫陽花(鎌倉で娘夫婦と見た紫陽花の記念樹)とか、私が、今は無くなった実家の庭から折ってきて、挿し木にした、椿やツツジなど、まだとても小さいですが、何本か想い出の木はあります。実家の父が、息子が未だ幼稚園児だった頃に、自分の育てていた杉の木の小さな苗を一本お土産に持たせて、「どっちが早く大きくなるかな」等と言っていた木は、車庫の隣に植えたのですが、大きく成りすぎて切ってしまって今はありません。
 話は少し変わりますが、日本は適度な雨に恵まれて、至る所に緑があります。海岸沿いの道を車で行くと、まるで箱庭のように美しい松と岩があったり、高山にも這い松があり、低木も秋には紅葉して全山燃えるような色に塗り替えてくれます。こんなに自然の美しい国に生まれた私達日本人は、何と幸せなことでしょう。
 このたび奈良の元興寺で、法隆寺より古い柱がみつかったと、話題になっていましたが、今日林立しているコンクリートマンションが何時までもつか、と考えてみると、木材の寿命のたくましさに驚かされます。
 資源を国の外にばかりに求めず、内にある素晴らしい資源を活用し、これを加工する技術が一段と進歩したならば、住居の快適性からも景気対策からも、又荒廃した山林の再生の立場からも、木材はきっともっと役立つのではないでしょうか。そんなことを考えつつ、目の前の庭の金婚記念樹を眺めています。

古稀過ぎぬ辛苦の亡骸拾いつつ吾に残されし時間をはかる (あずさ)

沙羅の樹を金婚記念として植えぬ心豊かに余生いきなむ(あずさ)

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園児の不審者教育と現代の世相

2010年10月21日 | 随筆・短歌
 一週間ばかり前に、ある市立保育園の前を通りかかりましたら、11月の行事予定表に、「不審者訓練 」という項目がありました。防災訓練や防火訓練は聴いたことがありますが、不審者訓練とは、一体どんなことをするのでしょうか。
 「助けてー!」と大声で叫ぶ訓練をしているテレビを見たことがありますが、何だかいやな感じがしました。見知らぬ人に声を掛けられて誘われるような時に、「助けてー!」という訓練なのです。確かにこの場合大声で叫ぶのは、可成りの勇気と努力が必要だと思いますから、日頃から訓練しようというのは解ります。しかし、見知らぬ人は皆自分に危害を加えるかもしれない危険な人、という思想を植え付けてしまうのは避けられないようで、これは教育上如何なものかと感じました。私は真に助け合う心豊かな社会は、信じ合う関係から築かれると思っていますので、この画面をとても悲しい思いで見つめていました。
 でも現実には大人でさえある日突然見知らぬ人に拉致される時代ですから、保育園児にも不審者訓練は必要だという考えを、否定出来るかと云えばその自信もありません。それよりも人を信じられない人間ばかりになったら、それはどういう社会になるのか、それが怖い気がします。
 以前近くの知人の青年が、道路を歩いていたら、集団で歩いてきた小学生低学年と出会い、その時に同道していた母親が急に両手を広げて、その青年から子供達を庇うようにしたそうで、その人は大変気を悪くしたそうです。「どうも俺を不審者だと思ったらしい」と家族に言ったそうです。その青年は誠実な人間で、私達もよく知っています。子供達に近寄った訳ではなく、ただ歩いていて、擦れ違っただけだったそうです。そのご家族も不快そうに話しておられました。母親のとっさの行動に現代の不安な世相がある事を思って、複雑な気持になりました。
 我が家は右にも左にも五分歩けば小学校があります。私たち夫婦は、毎朝左の小学校の登校時間帯にその学校の前を通ってウォーキングをすることが多く、よく「オハヨウございます」と挨拶されます。校門の前にも大勢の子供達が集まって、挨拶運動をしている事もあって、気分の良い思いもし、感心な子供達だと思って、二人でいつも挨拶を返していました。
 ところがある日こんな話を聴きました。「不審者に先立って挨拶すれば、不審者も手を出しにくくなるから、挨拶は防犯になる」というのです。信じられないような話でした。本当にそのように教えて訓練しているのでしょうか。確かに先に挨拶されれば、相手はきっと手を出しにくくなるでしょう。でもそんな動機で挨拶が行われているとしたら、極めて可能性の低い事件を怖れるあまり、人間を信じる豊かな心の育成を阻むことにはならないでしょうか。
 喧嘩をしている子供達に「やめなさい」と言いにくくなったり、平然とタバコを吸っている高校生に注意出来なかったり、私達もいつのまにか、見て見ぬふりになっています。 私達が子供の頃は、どの親にも悪いことは注意されたし、良いことは誉められました。何時も温かい目がそこにはありました。今は自分さえ良ければという思想がはびこっているようで、その保育園も子供の送迎に、公道の違反駐車がとても多く、登園時などは、違反駐車の長い車列が中々直ぐに帰ってくれません。お聞きするところによると、母親同士のお喋りが原因なのだそうです。我が子を保育園に送ったら、速やかに帰宅して、長々と公道を占拠するようなことは謹んで欲しいと思います。聞くところによると苦情がその保育園にも届いているのだそうですが、注意しても一向に改善されず、園でも困っておられると聞きました。見かけた時にその場で注意すればいいのかも知れませんが、その勇気はありませんので、つい見て見ぬふりになり、仕方なく何時も何とかすり抜けて通る始末です。母親達の情報交換の場が足りないのでしょうか。それならそれなりに、対策が必要なのではないかと思います。
 他人に親切にしたり、誉めたり叱ったり、もっと人間関係を正常な方向に導く必要がありそうです。困っている人に手を差し伸べたいと思っても、不審者かと思われるかも知れないと思うと、ついつい控えてしまいます。人間の心の奥底に誰もが持っている善意を、もう少し信じ合えたら、少なくとも今よりは少しは住みやすい社会になるのではないでしょうか。自戒を込めつつそう考えています。

 あの人もこの人もまた善き人と静かに思う芙蓉咲く日に (あずさ)



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お世話になった人々への思い

2010年10月15日 | 随筆・短歌
 私もそうですが、兎角人間は、お世話した事は良く覚えているのに、お世話になった事は忘れがちなようです。ここまで生きてきた間に、それはそれは沢山の方々にお世話になりながら、ろくにお礼も言わずにきてしまって、今になって後悔の思いに苛まれることがしばしばあります。
 秋が深まって人恋しい季節になったせいか、或いはこの世を去る日が近づいて来たせいか、折に触れてお世話になった人々がちらちらと目に浮かび、こんな深いご恩を頂いたのに、と思い返して感謝したり、お礼がおろそかだったと後悔したりすることがあります。
 今の私が在るのは、あの先生のお陰という恩師にも、私はまだ心ゆくまでのお礼が不足しているように思っています。
 夫も若かった頃、間接的に上司であった方が、私たちが娘を亡くした時に、労を惜しまず、励まし、慰めてくださいました。
 その方も幼かった子供さんを亡くしておられ、夫の気持ちを察して下さったのでしょう。慰めの手紙と共に数冊の本を送って下さって、その後も折に触れて、心温まるお手紙など下さいました。奥様に先立たれて、離れて家庭を持たれていた、たった一人の娘さん(女医さん)のところへ身を寄せられ、晩年を過ごしておられました。
 交わしていた年賀状が絶え、耳にしたことは、在る施設に入居されて、少しずつ記憶を無くしておられるということでした。何かお口に合うものを、と思ってお送りしたこともありしましたが、やがて返事も不可能になってしまわれました。この夏お亡くなりになったとお聞きして、一層お元気だった頃の人情に厚かったその方を偲んで、まだまだ充分なお礼が足りなかったと今更に思ってます。
 私の記憶から漏れている人の中に「ねえや」がいます。兄と姉が二歳違いで生まれた後、一年半後に私が生まれました。その時祖父は夫に先立たれた娘(母の妹)とその子の三人で住んでいましたが、私の父母が子育てに大変だと思ったのか、「ねえや」を雇って、遠くに住んでいた私たちの元に派遣してくれたのです。ですから、私は多くはねえやの背中で育ちました。けれどもやがて世の中がせわしくなり、私が二歳近くに成った頃には、ねえやも実家に戻りました。私が9歳のころに、(既に叔母達は居らず私たち家族は実家に戻っていて、祖父もまだ元気でした)ねえやが私をとても懐かしがって、是非会いたいと言っていると伝え聞いて、母がこっそりとねえやの家の近くに私を連れて行き、会わせてくれました。ねえやは大きくなった私に大層感激し、懐かしがってくれましたが、三歳の頃からの記憶しかない私は、ねえやの様子に戸惑うばかりでその気持に添うことが出来ず、想い出す度にすまないことをしたと思っています。
 私たち夫婦の実際の仲人をして下さった方も、未亡人であったために、その頃のしきたりで、義父母は結婚式には代わりのご夫婦にお仲人を頼みました。しかし、当事者である私たちが、直接お礼を申し上げたのは、結婚式後の挨拶の時だけで、私たちは充分なお礼が済んでいないことが、今でも心残りで申し訳なく思っています。とうに黄泉の人になっておられ、遠くてお墓参りも実現していません。多くの人のお世話があって、私たちの今がありますのに、ついついそれを忘れて、自分の力で生きてきたかのように思い上がっている自分に気付いて恥ずかしく思います。
 何かしらお世話になった時は、しっかりお礼の気持が伝わるように、心がけていないと、結局は礼を欠くことになってしまい、良くして下さった方を失望させたり、後々自分も苦しむことになります。
 日頃から感謝の気持ちで生きていきたいと考えていますが、まだまだいたらない未熟な私です。

 この師ありて今の吾ありさう思ふ木犀香り秋深みゆく (あずさ)
 この友が吾を支へて長き間の幸せがある友知らずとも (あずさ)



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高岡万葉まつりに寄せて

2010年10月09日 | 随筆・短歌
 この度富山県高岡市の高岡万葉まつりに行って来ました。一つには、私が高岡万葉短歌大会に短歌2首を応募していて、落選だと解ってはいたのですが(入選の場合は一ヶ月位前に通知が来ます)佐々木幸綱氏の講演をお聞きしたかったことと、もう一つは、夫が大学で同じ研究室だったお二人の女性が、たまたま高岡市とその近くに住んで居られて、卒業後53年ぶりにお会いすることになったからです。
 日頃から夫とそのクラスメイトとは、メールでのやり取りのある方々でしたし、私のブログを読んで下さっているので、初めてお会いしたはずの私も旧知の間柄のように親しくお話をさせて頂き、とても楽しいひと時をご一緒させて頂きました。
 皆さんも53年の時をあっという間に取り戻し、あれこれと話が弾みました。お互いに重い月日を歩んで来たはずなのに、この明るさと幸せ感はどこから来るのでしょう。10月の日差しにふさわしく、楽しい歓談の時間でした。
 高岡で万葉集の朗唱会があることは、約10年近く前から短歌を応募してきた私には、解っていたのですが、実際に高岡の古城公園で行われた、朗唱会を拝見して、その見事さに圧倒されました。
 参加される皆さんはそれぞれ万葉時代の衣装を纏い、お堀の池の中程に屋根付きの立派な水上特設舞台が浮かんでいて、そこで思い思いに朗唱するのですが、その節回しは自由で、謡いであったり、昔からの短歌に付いていた節回しで歌ったり、様々な詠み方がありました。更にそれに数人の舞踊が付いていたりして、とてもみごとなものでした。これ程格調高く、しかも自由に表現するということは、まさに万葉集の心だと感動して、うっとり眺めて楽しんで来ました。夕方には、道端にも木立にも灯籠の火が灯り、池にも灯籠が浮かべられて、暮れゆく程に一層幻想的でした。
 これ程素晴らしい催し物のニュースが、あまり他県には知れわたっていないのではないかと云うことが惜しいと思いました。おわら風の盆とか、立山と黒四ダム、富山湾の蜃気楼、五箇山など、富山といえばそんなことが想い出されるのですが、この万葉集の朗唱会はもう21回にもなり、3日2晩通しで詠まれる万葉集は、私たちが鑑賞できたどの場面も素晴らしいものでした。
 私ももっと若くて元気があったら、額田大(ぬかたのおおきみ)のような衣装を纏い、「野守は見ずや君が袖振る」とか、出来たら好きな防人(さきもり)の歌など、詠みたいものだとふと思った位です。お聞きすると、全国各地からおいでになる方も居られるようでした。
 朗唱会に先立って、私達二人は、小高い万葉の丘にある美しい高岡万葉歴史館へ行って、短歌大会の授賞式の様子を見たり、佐々木幸綱氏の講演をお聞きしました。歌集「眠ってよいか」の著者、竹山広氏の歌についての講演で、大変興味深くお聞きしました。(「眠ってよいか」は以前ネットで購入したことを書きました)
 大伴家持(おおとものやかもち)は越中(えっちゅう)の国守(こくしゅ)として、5年程この地におられたそうです。その万葉の丘を下って、金屋町の千本格子の家並みと石畳の路地、山町筋の土蔵造りの商家、高岡大仏、赤レンガの古い銀行、など見学しました。数年前に途中下車して拝観した瑞龍時なども見事で、城下町らしい数々の見所を大切に守っている市民の皆さんに感心しました。また、万葉歴史館の係員の方、道案内してくださった古城公園の祭りの役員の方、幾度か乗ったタクシーの運転手さんも、皆さんとても親切で温かく、人情の細やかさが手に取るように伝わってきて、旅を一層豊かなものにしてくれました。
 夫の友達は、なんとも言えない聡明さと、品性を兼ね備えておられ、遠く及ばない私は、少し恥ずかしい気持ではありましたが、和やかな雰囲気に引き込まれて、いつの間にか心が満たされてゆく豊かな時間を持たせていただきました。あの世で娘への土産話が出来たと喜んでいます。この年ですから、何時どうなるかは、神のみぞ知る身ではありますが、少なくとも共有することが出来た貴重な時間と、皆様のご好意に感謝して、未だにその余韻に浸っています。

君待つと吾が恋ひ居れば吾が屋戸(やど)の簾(すだれ)うごかし秋の風吹く
                          万葉集 額田王(ぬかたのおおきみ)
白銀(しろがね)も黄金(くがね)も玉もなにせむにまされる宝子にしかめやも
                          万葉集 山上憶良(やまのうえのおくら)
もののふの八十(やそ)をとめらが汲み乱(まが)ふ寺井の上の堅香子(かたかご)の花
                          万葉集 大友の家持


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人が人を裁くということ

2010年10月03日 | 随筆・短歌
 最近様々な裁判について、ニュースで話題になっています。私は一介の老女でしかありませんし、難しいことは良く解りません。しかし、冤罪が故意に人の手によって造られるとしたら、それは恐怖です。私は平凡な人間であると云っても、矢張り多くの人と関わって生きている限り、誤解も生じるでしょうし、ある日突然身に覚えのない疑いがかかったら、どうしてその疑いを晴らしたらよいのか、途方もなく不安に思うこともあります。 こんな時の為に弁護士という職業の人がいるのでしょうが、民事と刑事とでは、専門も違うようですし、どなたに頼んだらよいのか、皆目解りもしません。CMで「もう心配ありません」などと云っているのを聞いたりしますが、相談0円の筈が、たいそうな費用がかかったとも聞きます。不確かですが、30分幾らの相談料だそうですから、とても年金者では払えないでしょう。
 それはさておき、人が人を裁くということはとても難しいことですが、世の中に悪行を行う人が居る限り、矢張り公正な裁判をして、それなりに罪を償って貰わないと、社会が乱れてしまいます。「刑を以て刑を辻(とど)む」(筆者註:一人の犯罪を厳罰に処することによって、法刑の恐ろしいことを示し、他者の犯罪を未然に防ごうとすること)ことも必要でしょう。
 ずっと以前、裁判員制度の実施に当たり、私は反対だと書いた覚えがあります。それは、法律をしっかり学んだ人達の仕事であり、法律にうとい一般の人が、判決に関わらなければならないのは、あまりにも情けないと思ったからです。しかし、実際に実施されてみると、裁判員のかたが参加された裁判の方が、私達には納得できる判決になることに驚きを感じました。
 それだけ専門家の裁判が昔の裁判の判例に縛られ、過去の記録を調べた結果の判決だったせいかと思ったりしました。明治時代に始まった裁判の記録を元に、現代社会で起きている事案の判決の判例に使ったら、それは実社会と乖離(かいり)していても不思議ではありません。
 裁判員という現代を生きている人間の常識で裁く方が、より民意を反映していると云うことなのでしょう。それにしても裁判員の方は、急に呼び出されて、守秘義務を負わされ、自分で出した判決に生涯責任を感じなければならないというのは、あまりにも科せられる義務と責任が重過ぎはしないでしょうか。私は専門家としての教育を受け、専門家としての実績を積んできた裁判官が、何故自信をもって判決を下すことができなくなったのか、それが不可解でなりません。
 それ程までに、現在は裁く側の人達の常識が、世の中の常識からずれてしまっているとしたら、国民の納得が得られる判決が下せるように更なる研鑽を積むのが本来の道ではないのでしょうか。
 世の中の多くの人は善良で、貧しくとも犯罪は犯しません。むしろお金持ちの人や、学歴の高い人のほうが、悪事をたくらんだり、老人から詐欺まがいにお金を巻き上げたりしています。
 大阪地検の検事による証拠隠滅の疑惑が問題となっていますが、これを機に一部のジャーナリストは、裁判の可視化を唱えています。しかしそうなれば、犯罪の立証が手ぬるくなり、次第に困難になって、有罪なのに釈放するケースが多くなるのではないでしょうか。それがひいては犯罪を増すことになるのではないかと心配しています。
 私はレンタルビデオを借りてきて、よく実際にあった裁判に基づいた映画を見たりしますが、弁護士は、真実を明らかにすることよりも、無罪を勝ち取ればそれで満足したり、出世の足がかりだと考える人もいるようで、それはあくまで映画の中だけであって欲しいと、時々考えます。勿論必死に真実を明らかにして、無罪を勝ち取ったりする場合もありますし、大企業の悪を暴いて有罪を立証し、その結果、自らはしがない職業に就くしかない場合もあります。実際の日本の裁判でも、常識で考えられないような主張を元に、「被告人は、貴方の奥さん(被害者)の赤ちゃんになりたかったのでしょう」などという弁護がなされていて、私は唖然としてしまいます。
 人が人を裁くこと程難しいことはなさそうです。しかし、私達が安心して暮らせる社会である為に、裁判は無くてはならない重要な役目だと思っています。正確な証拠を求めて地道に努力を重ねている人もいますし、法律は常に正しく施行されなければ意味がありません。

 年をとりましたら、こんなことを書くことでも疲れを感じます。私の大好きな「山頭火」の句でもゆったり味わいたい気分です。同じことをその日の気分で様々に感じています。それが人間というものなのでしょう。

 やっぱり一人がよろしい雑草 

 いつも一人で赤とんぼ
 
 やっぱり一人はさみしい枯れ草

しんじつ一人として雨を観るひとり(いずれも山頭火)



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