ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

学生時代の寮生活と下宿生活

2019年06月27日 | 随筆
 この度は地震のお見舞いを頂き、古い友達からも沢山の電話やお見舞いのメールを頂きました。学生時代へのノスタルジアは、年老いた現在でも色濃く残っていて、と云うよりも一層積もるものがあって、声を聞くだけで一瞬にして当時に還るから不思議です。
 それは夫の友人も私の友人も同じです。私の方は、鹿児島県出身の友人二人はもう故人ですし、病がちなご主人の看病で忙しい友人や、これから先を見通されて、お二人揃ってホーに入所された人など、女性は長生きと言われていても、老いるにつれて身の回りが寂しくなっていくのは、致し方ないことです。
 私の学生時代は、兄と姉と私と三人とも大学院や大学の学生でした。私は当時世田谷区にあった学生寮で過ごしていました。寮ですから、それ以後のお付き合いの方もいます。悲しい思い出ですが、3.11の東北の津波で家が水びたしになられた方もいましたし、都内に立派な戸建ての家を持たれた方もおいでです。運命は計り知れない悲喜こもごもを置いて、過ぎ去って行きます。
 地震の日、私が不在中に夫が代わって受け取ったお見舞い電話もありました。メールも何通か頂きました。早速お礼のメールを書いたりしましたが、そのために私の滞りがちな仕事が益々遅くなって、追いつくのに四苦八苦になりました。今だにこのように課題として残っています。

 我が家は、娘が産まれて約2ヶ月後に完成した木造家屋です。それまで別々に暮らしていた私達と、義父母の二つの世帯が引っ越して、共に暮らし始めたのでした。今回の地震に際しても、何時ものように一階の平屋部分に逃げ込んで、頭を抱えて、小さくなっていました。幸い短時間に済んで、何事もなく無事に納まってホッとしました。   
とても嬉しかったのは、早速のお見舞いでした。久し振りに声を聞く人、つい昨日メールを頂いたばかりの人などさまざまでしたが、中でも心に残ったのは、夫の友人の奥様からのものでした。
 ご主人は既に他界しておられて、お一人住まいの方ですが、三人の娘さんと、今は亡きご主人が学生時代を過ごした、金沢の街を歩いて、足跡を偲ぼうという旅に出かけたと聞きました。親子でこのような旅行を企画するなんて、何と素晴らしいことかと感動しました。
 私達二組の夫婦は、とても仲が良かったので、ご主人が亡くなられても、未だに事ある毎にお電話が来たりして話が弾みます。
 観光地として有名な東茶屋にお昼の予約を入れていて、歩き疲れた後は、ゆっくりと金沢の会席料理を囲まれたようでした。「ご主人の下宿へ寄って来られましたか?」という夫の問いには「町名が変わっていて、その上昔の町名が解らなくては、タクシーの運転手さんも見当がつかなくて探せませんでした。とても残念でした。」ということでした。
 当時の学生は、今のようにアパートもなくて、民家に下宿したのでした。その人は、大学一年の時に4回も下宿を変わったと、今回お聞きしました。4回変わった事に関しては、私の夫も同じです。(ただしこちらは4年間に)当時は乳母車やリヤカーなどを借りて、お布団と机と本と衣類の入った行李一つが全財産だったといいます。
 まず一年生の時の下宿では、隣の部屋を借りていた同級生が、「どうも下宿の女主人はお妾さんらしい」と言い出しました。夫はそれまで考えたこともなかったのですが、「それは不潔だ」ということになって、「清潔な環境で勉強する必要がある」と言う事になり、それぞれに次の下宿へ移って行ったそうです。18歳のことですから、当時の不潔感を推し量ると、何故か可笑しくもあり、同情もしてしまいます。ただ今になって思い起こすと、「お妾さん」は思い過ごしだったと思っているようです。
 二番目の下宿は元県立高校の校長を勤め、当時は県の教育委員長の要職にある人でした。しかし、大きな家で下宿人が9名もいたそうです。夫の部屋は一階のトイレの隣の4畳半で、かつては女中部屋だったであろうと思われる、湿気の多い部屋だったそうです。みるみる黴だらけになって、いたたまれずに出たそうです。
 しかし、この下宿に住んでいた人に忘れられない悲しい想い出が在ると云います。有名な高校を主席で卒業して来た女子医学生がいました。ある時の試験で、正面から取り組んだら絶対に受からないことで有名な教科で、全員がカンニングしたのだそうです。でも正義感の強い彼女はそれが出来なくて、生まれて初めて「落第」という屈辱を味わわされたのでした。いたたまれなくて、故郷の近くの鉄橋の線路に飛び込んで、自死されてしまったのだそうです。秀才だからこその悲劇と云うべきでしょう。返す返す残念な事です。今はカンニングなど論外でしょうが、当時は「あまり大っぴらにやるなよな」等と試験官が云う位の時もあったらしいということでした。
三番目に引っ越した家は、同級生が既に部屋を借りている家でした。その家の職業は駅裏のひなびた居酒屋で、夫婦で営んでいました。或る秋の日に、二人があるじに呼ばれて、「この家を売ることになったので、今月中に出るように」と云われました。後二週間の間に引っ越さなければならなくなって、二人でこの家を買った人を訪ねて「現在のまま下宿させて下さい。」とお願いしました。しかし、「学生付きで買ったわけではない。今月中に出るように。」と云われて、夜ごと暗くなってから、二階に電灯が点っていない家を訪問しては「部屋が空いていたら下宿させて下さい」とお願いする日々が続きまました。
 10軒くらいまわって、やっとタバコ屋さんで訪ねた処、或る家を紹介してくれました。其処が4番目の下宿になりました。
 その家の玄関を入った処に、大きな犬がゴロリと寝そべっていたそうです。元来犬嫌いな夫でしたから、恐る恐る犬を避けて通ったら、犬は軽蔑したように薄目を開けてチラリと見ただけで、又眠ってしまったと云います。後に下宿の奥様に「初めての人には必ず吠えるのに、あなたに鳴かなかったのは、何か因縁があったのでしょう。」と云われた言葉が、何故か忘れられないと云います。結局卒業まで家族のように過ごさせてもらい、卒業して故郷へ帰る時は、ネクタイをプレゼントして貰った上に、駅頭までご一家で送って頂き、ご好意は生涯忘れないと、折りに付けて話しています。
 人々は「あの頃」という懐かしい日々を思い出すことも多々あるでしょうが、「学生時代」という自由で青春を謳歌しつつ、勉学にもいそしんだし、友達との交流を未だに続けている人も、きっと多いことでしよう。 
 今は亡くなった友人の奥様の一通の電話から、彼も4回も下宿を変わったのかと、初めて知って、夫は学生時代の想い出に浸った一時を楽しんだようです。
 私も学生時代は、友人と良く新宿御苑へ行き、当時は芝生に寝転がる事も出来て、今は亡き友と空を見上げて、未来を語り合った時代がありました。学生時代仲良くしてい7人の仲間達と、六義園や上野公園・皇居のお堀・九段・千鳥ヶ淵・井の頭公園、三々五々集まっては、良く訪れました。考えると本当に夢のようです。




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崩れ行く砂簾(されん)

2019年06月08日 | 随筆
 海洋に囲まれた日本なのに、海岸沿いに砂漠のような広い砂丘が出来るなんて、とても信じられない思いを抱いて居た頃のことです。夫の車で鳥取砂丘へ鎮魂の旅をすることになりました。
 夫が大学卒業後に、初めて勤めた勤務先の上司が、鳥取砂丘で自死されたのです。10歳ほど年下の独身女性との心中でした。
 全く右も左も解らない新入りだった夫は、上司と同じ下宿に部屋を借りていて(当時はアパートはなく、単身者には、食事付きの下宿という処もあったのです)何かとお世話になった人でもありました。単身赴任で、夫よりも20歳位年上の男性でしたが、とても親切で温かい方でした。よく気を遣って懇切丁寧に指導して貰ったり、折々は映画にも誘ってくれたということです。
 下宿生活が二年ほど続いた後、夫は転勤になりました。悲劇が起きたのは、その一ヶ月後のことでした。突然の訃報に夫はとても信じがたく、また残念でたまらず「何故、何故」と理解に苦しんだようです。いつかきっと鳥取砂丘へ行って、その方の死を悼み、少しでもその方の思いを理解したいと思い続けて来たそうです。鎮魂の旅はそうした夫の意思によるものでした。
 私達は誰しも、一見平穏な暮らしをしているように思えていたとしても、過去から現在に至るまでの軌跡を振り返る時、必ずしも平坦な道のりばかりではなく、様々な苦難に出会いつつ、喜びや悲しみを乗り越えて生きて来た、長い道のりであったと気づきます。
 その先輩の事件は、優しく温かい人柄であったからこそと思われる、言わば不幸を抱えた知人の女性への、同情からの心中だったのだろうと夫に聞きました。人にはそれぞれ計り知れない苦しみや悲しみがあります。他人の悲しみをわが事のように感じて、死を共にするということは、生やさしい事では出来ない事だと思います。私はその方の話を聴くにつれて、本当に優しい人とはこういう人なのか、と感動せざるを得ないのです。
 鳥取砂丘というのは、中国山地の花崗岩などの岩石が風化して砂になり、それが川から日本海へ流れ出て海底に堆積し、更に波によって岸に打ち上げられ、北からの強風によって、長い年月をかけて内陸に運ばれて砂丘となるのだそうです。東西16キロ南北2キロといいますから、可成りの広さです。砂丘が今の形になるまでの果てしない時間の存在を思うと、手の届かない大自然の偉業を感じさせられます。
 当時私達は、9泊の旅行の4日目でした。私達が尋ねたその日は、5月中旬の青い空に包まれた日で、少し汗ばむ程の気温の日でした。目の前のすり鉢の様な下の平地から、見上げる程の高い砂丘に驚きました。 まずは手を合わせてしばらく祈り、私は会った事のない人の悲しみに心を寄せました。はるばる来たこともあり、初めて見る珍しい眺めに出会って、亡くなられたお二人の悲しみに一層悲哀感を募らせられました。
 歩きづらいので、長靴が用意されていて、それを履いて砂丘を登りました。砂丘は一歩踏み出して登っても、ズルズルと半歩くらいずり落ちるようで、なかなか登るのには苦労でした。考えていたよりも、遥かに歩きにくく、長靴でないと到底登れないと思われました。
 当時は駱駝が一頭いて、どうやらそれに乗って揺られて登る人も居るようでした。
 私達も一歩一歩汗をかきつつ砂丘を登って行きました。砂丘の頂上は、本当に駱駝の背中のようでした。内側は広々としたすり鉢の底のようで、てっぺんは高い一筋の砂丘の頂き、裏側は日本海へと可成り急な斜面が迫っていて、海面から吹き上げる強い風がありました。海側の斜面には、まばらに草が生えていました。
 その風を避けて、少し砂丘の内側に腰を下ろして、砂丘の下方を眺めました。登ってきた足跡は既に風で消えかかり、本当に砂ばかり、砂また砂の高い頂上でした。
 広い砂丘の眺めはさすがに気持ちよく、苦労して登ったという達成感がありました。頂上には幾人かの人たちが海を背にして腰を下ろしていました。
やがて登ってきた人たちが下った後、かなり離れた砂丘の稜線の内側に、独りだけずっと座り続けている女性に気づきました。下から登って来る時にも、その人は既に其処に腰しを下ろしていた、と気づくととても気になりました。夫の知人の鎮魂の旅でもありましたから、つい二人で心配して眺めていました。
 自死した方達もきっとこの景色は見たであろうと思い、無機質な砂の悲しさをひしひしと感じながら、美しい風紋に、わけもなく哀しい感じを抱かされました。
 風紋は風速5~6mの風が、乾いた砂丘を吹き抜ける時に出来るそうで、その縞模様は一吹きごとに変化して、とても美しく見えました。
 また砂簾(されん)という現象があり、堆積した半湿の砂が重みを増して耐えきれなくなって、砂丘の急斜面を滑り落ちる時に出来るそうで、その縦縞模様の様子が、まるで簾(すだれ)のように見えるところから名づけられたようです。
 支えきれなくなった時に起きる自然現象とはいえ、人間も支えたり支えられたりしながら、限度を超えた時に一気に崩れてしまう、その哀しいまでの痕跡だと思うと、胸を突かれる思いもありました。
 鎮魂の思いは尽きること無く、けれども何時まで居ても際限も無いので、やがて砂丘を下りました。振り返って、人のほとんど居なくなった砂丘を眺めましたが、たった独りの彼女は、矢張り腰を下ろしたままでした。記念の写真の一枚には、遠くに小さく彼女が写っているものがあります。眺める度に彼女のその後を偲び、幸せであって欲しいと願っています。
 砂丘ですから、生物が住んでいる等とは思いもしなかったのですが、水たまりの池もあり、雨が降ると何処からとも無く蛙が現れると聞きました。この暑い砂漠では生きて行けるのか、と思われて憐れを覚えました。
 支えきれなくなって一気に崩れ落ちる、と言う砂簾の自然現象が、哀しくもありました。あの心優しい上司ですから、何とか女性を支えようと、命がけの努力をされたのでしょう。ですがついに支えきれなくなった時、まるでこの砂丘の砂簾のように一挙に崩れて行ったのでしょう。 二人が手を取り合って砂丘の頂上に登り切った時、振り返れば、二人の足跡は何事もなかったかのようにかき消される現象は、二人にとって望ましい現象に思えたのでしょうか。
 近松門左衛門の「曾根崎心中」にあるように、「一足ずつに消えて行く夢の夢こそ哀れなれ」のように、二人がこの世を旅立つ場所に、この鳥取砂丘を選んだ理由が少し分かったようにも思いました。
 人間の一生もこのようにして、風が吹くたびに形を変えつつ、けれども辛抱強く生きて、結果として美しい姿を見せているようにも思われて、人生の重さや哀しさも覚えました。


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