ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

毎朝出会う「国の宝」

2018年03月28日 | 随筆
 つい先日三十年位前の地方紙の記事(1987年7月)が見つかりました。そこに「嘆きの世代」と題して女性の生き方についての、次のような内容の記事がありました。
 三世帯同居の家族で、老夫婦と若い共働きの夫婦、それに子供2人程度の家族構成です。真ん中の若い母親は、老夫婦に子供の面倒を見てもらうための嫁づとめで、舅姑に仕えながら自らも勤めています。やがて子育てが終わると、今度は成人した息子夫婦の子育てを手伝って、嫁に気を使っての家事労働になり、これでは自分の人生をゆっくり生きていけない、と嘆いています。
 大家族で暮らすと、たしかにお互いに心くばりが必要になりますが、子供が家に帰った時に「誰も居ない家」で孤独に過ごすことがなく、子供にとっては安心して暮らすことが出来たのです。
 やがて女性の社会進出によって、夫婦と子供単位の世帯が増え、三世帯同居は少なくなりました。舅姑に仕える生活は減りましたが、子どもが成長すると独立し、老夫婦が残されるようになり、単独世帯も増えました。世帯の規模縮小が進んで、平成27年度には、総務省統計局の調査によりますと、単独世帯が34.6%になり、一世帯の平均人数は2.33人です。また3世帯の家庭は5.7%しかありません。15年前の平成12年度より約10%減っています。
 単独世帯の増加に加えて共働きが増えました。平成4年頃から「夫が働き専業主婦の世帯」と「共働き世帯」が逆転して、共働きの世帯が増えました。平成26年には、共働き世帯が専業主婦世帯の1.62倍になっています。
 夫婦単位の家庭が増えたことから、育児に祖父母の手を借りる事が難しくなって来ました。かつ、祖父母は遠く離れて住んでいる場合もあり、幼いこどもの保育に欠かせないものとして、保育園の充実が要求されるようになりました。
 働き方も変わり、長時間労働の人も増えたり、夜や早朝のパートもあったりして「24時間保育をしてくれる保育園」の充実が必要になりました。
 子供たちの保育については、国も様々な点について配慮して、沢山の法律が整備されて、対応しています。総務省や厚生労働省のホームページを見ると、その現状が示されています。
 今回このブログを書くに当たって、厚生労働省の保育関係の様々な法律や、○歳児の保育、等と詳しく理想の保育をするための手立ても(保育士の養成等についても)示されている事を知りました。このような考えで政策が整えられていることを知って、私は自分の無学さを恥じたり、今はありがたい時代になったと気がつきました。
 私の知人に、幼い子供を持つ娘さんが高齢の父親と暮らしている家族があります。娘さんの母親は若くして亡くなられて、ご主人は、遠くに単身赴任です。娘さんも仕事を持っていますから、幼児は保育園に預けています。
 その高齢の知人は、孫の送り迎えや、お迎えに行って帰宅してから、また近くの子供を預かってくれる施設に頼んで、そこへの送り迎えもしています。高齢者の仕事としては中々きついと言っていますが、それでも園から帰宅してからの時間を預かってくれる処があって助かったと言っていました。
 男手で、専業主婦のような仕事をしっかりとこなして居られます。家族が不在の時間に私達が歩きに出かけますから、洗濯物を干したりしている知人に良く出会います。庭に花鉢をならべたり、甲斐甲斐しく働く知人には、頭が下がります。
 日本の未来を考えると「一に子育て二に仕事」だと私は思います。子供を加えた家族で暮らす日々を持つなら、子育てよりも大切なものは無い、と思うのです。忙しくても時間を取って子供達の悩みを聞いたり、一緒に楽しく過ごす生活を大切にして欲しいと願っています。
 私自身が今振り返って考えると、勤めて居るとどうしても眼前の勤務に関わる仕事の方に心が向きがちでした。気を配ってなるべく下の子供が小学校卒くらい迄の間は、親子の時間を確保する努力をしましたが、子供の方で親の生活をよく見て居て、土日になれば甘えて来るけれども、平日はセーブしていることが良く解りました。もっと話しを聞いてやれば良かったとか、寂しい思いをさせたのではないか、と今になって思ったりしています。
 当時は夫も単身赴任中でしたから、同居の義父母にいろいろと孫の面倒を見て貰って、今でも感謝しています。
 一人親が多い時代です。私が単身で育児も家事も勤めもこなさなければならないとしたら、と思うととても大変です。一人親の支援も厚くして欲しいです。とりわけ父子家庭が心配です。
 しかし、統計を眺めて、ベビーホテルという項目を目にしたり、実際に「開所24時間」という表示を見ると、どういう事情かを察しながら、ホテル暮らしの幼児や、世間が寝ている時間に預けられる幼児やその親が気の毒に思えます。働き方改革が叫ばれている折りですが、親の働き方の多様性も大切ですが、その子供達にも厚い保育の手をさしのべなければならないと思っています。
 共働きで子育てを考えた場合、親の子育てへのしっかりした責任と覚悟を持って、どうか頑張って下さい。子供は国の宝でもあります。未来を背負う子供達を育てるために、社会はもっと投資しなければならないと思います。
 朝からウォーキングの路上で出会う保育園児の顔を見る度に、この国の未来を頼みます、と心の中でつぶやくのです。 
 

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祈りの日

2018年03月15日 | 随筆
 3月11日は、7年前の東北大震災の日でした。各地で犠牲者を悼む祈りが捧げられています。私は何時ものように、掃除の後、花屋さんで仏様に供えるお花を買いました。仏前の花に加えて心からの祈りを捧げました。
 知り合いのご主人は関東に住んでいるのですが、岩手県沿岸に住む兄弟など9人をこの津波で亡くされ、その奥様も姉妹3人を失われ、未だ一人のご遺体が見つからないのです。
 ご主人は、心痛のあまり大津波の3年後に亡くなられした。一度に沢山のご兄弟や親戚を失われては、たまりません。身につまされる辛い経験を偲ぶこの日は、わが家でも追悼の日になっています。
 あの災害で亡くなられた15.895人の内の12人が知り合いなのです。また行方不明者2.539人の内の一人が奥様の妹さんです。この三月に入ってから、おひとかたのご遺体が見つかったとテレビで見ましたが、再会できたと聞きませんでしたので、未だ行方不明のままなのでしょう。
 ご家族や親戚・友人その他諸々の方達が、今だに悲しんでおられますが、その気持ちも良く理解出来ます。あれから7年の月日が経ち、その長さを思うと誰もが祈りたくなることでしょう。
 死者こそ出なくとも、家を流されたり、壊された人達は相当数居られ、未だに手つかずの様子をテレビで見ると、安心して身体を横にする事の出来るわが家を、いまだ持てない辛さを推測して、その人々の思いが伝わってきます。
 私達は当然知り合いにはお見舞いをし、その他日赤などを通して寄付を何度かにわたってしました。
 夫の学友も放射能を含む土を除去したり、一部損壊の家の修理をされました。メールや電話で折々便りがありましたが、その後亡くなられました。私の学友(現在闘病中)は外出中に災難に出会い、辛くも命は助かりましたが、家は住めなくなりました。不意に襲った衝撃に心が追いつかず、先の見えない心労がたたって体調を崩した人は、統計に表れていませんが、きっと多かった事と思われます。
 かつて私達夫婦は、平成11年と15年に「みちのくの旅1・2」と名前を付けて6泊7日と5泊6日で東北地方へ車の旅をしています。まだ震災の前でした。
 岩手県の宮古の近くの沿岸に、田老地区という処があり、そこは過去の三陸地震で559戸中500戸が流失したという事があったそうです。その田老地区の海辺の高い崖に、太く線が引かれていて、「津波の高さ」を示していました。20㍍近くでしたか、「良くまあこんな高さまで」と車を降りて眺めて、当時の村人が味わった恐怖を偲びました。
 海辺に10㍍の高い防潮堤が延々とのびていて、海へ出る門扉が造られていて、津波の時は閉めることになっているとありました。「今度は大丈夫、この高さは超えられまい」と、津波から住民を守る工事の素晴らしさに感嘆したのです。しかし、平成23年の3.11の津波はそれさえ易々と越えたのでした。閘門を閉めるために消防団の48人が津波の犠牲になったと後で知りました。今はJアラートによって開け閉め出来るようです。
 東大の地震研の資料に、三陸の奥深くに及ぶリアス式海岸の入り江の、津波到達の高さを調べたら、37.9㍍あった、とあります。一般に津波は2㍍を越えると木造家屋は全壊すると言われますから、津波の破壊力は想像を絶するものがあります。町の十字路で津波がせり上がる様子、壊れた木材や瓦礫による破壊力の凄さは、誰もがテレビ画面で見た事実です。
 一方、人と人はどなたの導きで出会うのか解りませんが、旅先の出会いにも、中々忘れがたい人がいます。どうしてこのような忘れられない出会いがあるのか、本当に不思議です。
 現地でちょっとした調べ事を思いついて、折角ですから市立図書館へ寄ったのです。それは平成15年の旅でした。司書さんは、お名前も知らぬまま、今も折々思い出しては、ご無事かと心配しています。
 司書さんはとても親切に温かく迎えて下さって、お願いした資料を整えて下さいました。調べ終えた時、私が「東北のお土産に何が良いですか」とお聞きしましたら、「かもめの玉子でしょう。それにお魚の漬け物や干物も・・・」とのことでした。「かもめの玉子」とは初耳でしたから、近くで手に入れる処を教えて頂いて求めて来たのです。それがこのお菓子との出会いでした。本社は大船渡市にあるのですが、以来毎年注文して買い続け、親しい人にも送ったりしています。
 それが不思議なことに、近くのスーパーでも○○祭りと称して、近年期間を限って「かもめの玉子」を売り出すようになりました。偶然が何故このように繋がるのか、何とも言えないご縁を感じています。毎年購入して、仏前に供えて祈っています。そしてその度にあの司書さんが「私は元気に生きていますよ」とのメッセージを私達に発して居るに違いないと思えて、嬉しく思うのです。実は今日もその幸運の日だったのです。
 旅行当時の事を懐かしく思い、又その後の地震や津波により被災された人達を偲んで、三月は祈りの月になっています。
 
 

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私とは一体何者なのでしょう

2018年03月04日 | 随筆
 私とは一体何者なのかと思うことがありませんか。私が今在るのは、誰の導きで、何故人間として生まれて此処にこうしているのか等と、答えの出ない疑問を感じることはありませんか。
 これまでに生物学者が見つけて名前をつけた生物は、世界の科学者や自然保護団体などが集まる「国際自然保護連合(IUCN)」の調べでは、動物だけで137万種を超すそうです。その内、日本では生物学者などが集まる「日本分類学会連合」という組織が2003年に調べてた結果、02年末の時点で国内の動物は約6万種になるそうです。IUCNの資料によりますと、ほ乳類は世界で5513種が見つかっていて、日本では127種だそうです。
 このように多い生物の中で、脊椎動物の仲間を選び、更に哺乳類として進化して人間になった仲間に加わることが出来たのは、全く奇蹟としか言えません。人間に生まれたことが如何に奇蹟であるかはこれらの数字が、証明しています。それは一体誰がどのようにして決めたのか、それは人類の永遠の課題でしょう。
 かく言う私も、その有難い奇蹟に恵まれて、両親の子として生まれ現在此処に生きて、このようなブログに向かっています。実に不思議です。
 父は数学が好きで、専門的に学問をする為にアメリカへの留学を志ました。その準備として東京で英語を学んでいて、関東大震災に遭いました。その時に学んだ英語を生かして、後に高校の英語教師になりました。
一方三人姉妹の長女だった母が女学校を卒業、後に縁あって父と結婚し、私達きょだいが生まれたのでした。
 男の兄弟は長兄以下みな理系でしたし、私も自分としては数学が得意の積もりでした。しかし「あの入試得意でありし数学を解けざりて在る今の幸せ」という短歌をNHKに投稿して載ったように、私は入試にその数学で失敗したのですから、皮肉なものです。それは私にとって、とても良い勉強になりました。このことがきっかけで、幸せとは何かを深く考えるようになったからです。
 一方自分で自分が何に向いているのかは、この年齢になっても未だに解らずに、今もなお五里夢中の中をさまよっている気分があります。不器用で、姉や妹のように和洋裁・編み物・刺繍・お箏などは余り好きとは言えないし、上手くもないのです。
 僅かに言えることは、日記や家計簿など、細かいことを記録して整理することが好きで・料理も好きです。自分で集めたレシピを肉・魚・野菜・ご飯物や麺や粉食・スープや鍋もの・お菓子など6冊のレシピ集が出来ていて、インデックスで分類し、献立をたてて、毎日このレシピによって作ります。
 家族は喜びますが、つい食事の種類が多くなりすぎたり、レシピを出し入れする日々の管理をしっかりしないと困ります。好奇心旺盛ですからパソコンで新しい料理を工夫することも大好きです。新品開発は生きがいです。古い友人に、料理研究家になれば良かったと言われたこともありました。
 義父母に介護が必要になることは目にみえていて、夫に頼まれて早めに退職しました。退職後に暇にまかせて、NHKの各種講座を学ぶことに生きがいを感じて、とても沢山の講座を受けて、学習するのが、何よりも楽しかったのです。古典や古文書・仏典・漢詩・短歌・文章教室・・・などを学び、興が乗れば再学習を繰り返しました。そして今は、短歌を投稿したり、ブログを書くこと、美味しい料理を造ることが、私の日常生活の楽しみになっているのです。
 短歌は27年前(1991年)から学習を始め、約20年前から地方紙にポツポツと投稿し始めたのですが、先月で入選が丁度100首になりました。やがて地方紙以外にNHKの短歌誌や全国の短歌大会並びに日経新聞などに投稿したりして、活字になったものが、350首余りになりました。
 ずっと以前にNHKに「くらしと数学」という講座があった頃には、歳を取っていましたから自信は全くなかったのですが、関数から統計学まで、懐かしく楽しく学ばせて貰いました。
 加えて9年前からブログを書き始めたのですが、お陰様で現在は430編余りになりました。身の回りに起きる様々なことに、過去の体験から学んだこと、幸せになるための心がけとは何だろう、等々、思いつくままに書き連ねてきました.駄文にもかかわらず読んで下さる方が居られることは、これもまた奇蹟です。世の中にこんなブログを読んで下さる方が居られるとは予想外でした。何よりの喜びになり、書き続けるエネルギーになる事を知りました。 家族の中では一番本を読みませんし、書く文章も私が一番下手ですが、書くことが楽しいですから、矢張り私は文系の人間だったのかと思うようになりました。
 夫は私の妹の方が、文章力もあると言います。優しい妹で、私は何時もメールが届く度に救われる思いをしていますし、確かに私もそう思っています。「何か書いたら」とずっと勧め続けていますが、未だかつて書かないのが残念に思えます。
 もしかしたら世の中の人々は、「自分が選んだ道」だと考えておられるかも知れませんが、生まれた時からひたすらに一本の道を導かれて生きて来たのであって、其処にご本人の精一杯の努力と、回りに理解してくれる人が居て、その励ましによって美しく開花するのではないでしょうか。
 オリンピックの後ですが、世界の頂点を極めた人達を尊敬の念で眺めつつ、あのカーリングの明るく温かい選手の活躍やスピードスケート選手等の活躍に、ひたすらに自分の前の一筋の道を他人が真似出来ない程の努力を積み重ねて来られた、その結果に得た栄光だったのではないかと思いつつ、一緒に喜びを感じてきました。
 あらためて思うことは、こういう人達は、自分はどの道に適しているかを無意識のうちにしっかり掴んでいる点が、共通しているのでしょう。その道が見つからないままに終わって行く才能も、沢山あるのでしょう。そう思えば埋もれたままの才能は、勿体ないことです。
 宮沢賢治も次のように書いています。

そしてわたしはまもなく死ぬだろう
けれども私というものは、いったい何だ
何べんかんがえなおし、読みあさり
そうとも聞き、こうとも教えられても
結局まだはっきりしていない
わたくしというのは・・・ 宮沢賢治全集 筑摩書房(1968)

自己とは誰にも、自分にさえも、知られずに終わると思う。然り、少なくとも人間には部分的にしか知られずに終わると思う。
             神谷恵美子「人間を見詰めて」
私を作り上げてくれたのは母だった。母は私を理解し、向いている道へ進ませてくれた。もし母が私を認めず、信じてくれなかったら、とても発明家にはなれなかっただろう。
            トーマス・エジソン(1847~1931)
 激しかった今年の冬の嵐が去りました。これからは本格的な春がやってきます。楽しみに春を迎え、少しずつでも前に向かって励みたいと思っています。一人でも多くの人が、本当にやりたい事が見つかって、それに夢中になれたら良いですね。

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