「四国巡礼の旅2」に、室戸岬方面へ行った事を書きましたが、あの時に巡礼しつつ高知へ出て竹林寺や雪渓寺などに寄り、岩本寺から足摺岬の金剛福寺まで足を伸ばしたのでした。四国の有名な二つの岬へ 行きたい思いがあったからです。
四国では、お国柄様々な親切をして頂きましたが、中でも足摺岬へのバスの運転手さんのことは、何時までもほのぼのと思い出されて忘れられません。
土佐中村から乗ったバスは約一時間三十分かかって、足摺岬へたどり着きます。バスに乗った途端に、運転手さんが「お遍路さん此処へ来なさい」と運転席の後ろを指しましたので、私達は言われるままに其処に座りました。すると早速バスの経路に従って、案内を始めたのです。バスから見える名所旧跡や景色ばかりでなく、話は歴史まで及び、更に町の現在の政治について説明したり、それは愉快な方でした。加えて、往復するならバス券を買うと得だと教えて頂き、お陰で大分安くなり、また楽しい車中でした。足摺岬を想う時必ずこの運転手さんのご親切を思い出します。
足摺岬は若い頃に読んだ田宮虎彦の小説で、いたく感激した場所であります。土砂降りの雨の中を死ねずに戻ってきた主人公の切ない心と、断崖絶壁の様子が心に刻まれていて、私も一度其処に立って見たいと思っていましたし、岬にある金剛福寺は、是非お参りしたいお寺でした。足摺岬のバス営業所に荷物を預け、歩いて第38番札所の金剛福寺の前にたどり着いた時は感激で一杯でした。どっしりとした仁王門には「補陀楽東門」という嵯峨天皇筆の模写の額が掛かっていました。裏山は南国らしい樹海になっており、多宝塔が美しい姿を見せていました。門内の托鉢は禁止になっていましたが、門前に托鉢の僧がいて、とうとう此処までたどり着いたという感激と感謝で、心ばかりの喜捨をさせて頂きました。
金剛福寺のお寺の階段で一休みしていましたら、ご夫婦と思われる二人連れの方達も腰を下ろされました。奥様は具合が悪そうに見受けられました。どちらからともなく話しかけて、そのご夫妻もお子さんを亡くされた事を知って、同じような運命の二組が出会った事に仏様のお計らいを感じ、納め札を交わし合ってお互いに慰め合い励まし合って別れたことも忘れられない出来事でした。
ゆっくりお参りを済ませてから、椿のトンネルをくぐって、足摺岬の展望台から天狗の鼻まで行きました。昭和天皇も平成天皇も現皇太子ご夫妻もお出でに成られたと記されていました。断崖の直ぐ近くの道は、目がくらんで思わず足の指先に力を込めて歩いて行きました。真っ青な海は丸く見え、絶壁を砕く波しぶきは遥か下の海面から間近に届くように感じられて、自然が何かに烈しく怒っているように思われて、二三歩後ずさりしていました。小説の主人公が死なずに帰った気持ちが初めて分かったような気がしました。
遠くに白亜の灯台が見えて、絵はがきに見る通りの景色に、私達も記念の写真を撮りました。足摺岬の写真を見る度に、金剛福寺で出会ったご夫婦のその後に思いを馳せます。私達と同様にきっと立ち直ったに違いない、仏様のご慈悲は差別なく行き届いている筈だからと思っています。
痛い足を引きずって、明石寺へお参りした時には、願いを込めて鐘を撞きました。鐘の音は余韻嫋々(よいんじょうじょう)と南国の空へと消えて行きました。
遍路の途中では、何度か鐘を撞きましたが、鐘を撞く度に、私の思いが亡くなった娘や先だった義父母や肉親に届くように思えて、矢張り遍路の旅に来て良かったとの思いに、心が満たされていくのでした。
躓(つまづ)いて転ばぬようにと息子(こ)のことば嬉しく聞きて旅にいで来ぬ
逝きし亡娘(こ)と共有したる想い出をなぞりつつ今日も暮れなんとする
夕闇が背なより迫り痛む膝宥(なだ)めて遍路の八日目終る
南無大師おへんろ道に鈴が鳴る野火焚く見ゆる菜の花の道(実名で某誌に掲載)
四国では、お国柄様々な親切をして頂きましたが、中でも足摺岬へのバスの運転手さんのことは、何時までもほのぼのと思い出されて忘れられません。
土佐中村から乗ったバスは約一時間三十分かかって、足摺岬へたどり着きます。バスに乗った途端に、運転手さんが「お遍路さん此処へ来なさい」と運転席の後ろを指しましたので、私達は言われるままに其処に座りました。すると早速バスの経路に従って、案内を始めたのです。バスから見える名所旧跡や景色ばかりでなく、話は歴史まで及び、更に町の現在の政治について説明したり、それは愉快な方でした。加えて、往復するならバス券を買うと得だと教えて頂き、お陰で大分安くなり、また楽しい車中でした。足摺岬を想う時必ずこの運転手さんのご親切を思い出します。
足摺岬は若い頃に読んだ田宮虎彦の小説で、いたく感激した場所であります。土砂降りの雨の中を死ねずに戻ってきた主人公の切ない心と、断崖絶壁の様子が心に刻まれていて、私も一度其処に立って見たいと思っていましたし、岬にある金剛福寺は、是非お参りしたいお寺でした。足摺岬のバス営業所に荷物を預け、歩いて第38番札所の金剛福寺の前にたどり着いた時は感激で一杯でした。どっしりとした仁王門には「補陀楽東門」という嵯峨天皇筆の模写の額が掛かっていました。裏山は南国らしい樹海になっており、多宝塔が美しい姿を見せていました。門内の托鉢は禁止になっていましたが、門前に托鉢の僧がいて、とうとう此処までたどり着いたという感激と感謝で、心ばかりの喜捨をさせて頂きました。
金剛福寺のお寺の階段で一休みしていましたら、ご夫婦と思われる二人連れの方達も腰を下ろされました。奥様は具合が悪そうに見受けられました。どちらからともなく話しかけて、そのご夫妻もお子さんを亡くされた事を知って、同じような運命の二組が出会った事に仏様のお計らいを感じ、納め札を交わし合ってお互いに慰め合い励まし合って別れたことも忘れられない出来事でした。
ゆっくりお参りを済ませてから、椿のトンネルをくぐって、足摺岬の展望台から天狗の鼻まで行きました。昭和天皇も平成天皇も現皇太子ご夫妻もお出でに成られたと記されていました。断崖の直ぐ近くの道は、目がくらんで思わず足の指先に力を込めて歩いて行きました。真っ青な海は丸く見え、絶壁を砕く波しぶきは遥か下の海面から間近に届くように感じられて、自然が何かに烈しく怒っているように思われて、二三歩後ずさりしていました。小説の主人公が死なずに帰った気持ちが初めて分かったような気がしました。
遠くに白亜の灯台が見えて、絵はがきに見る通りの景色に、私達も記念の写真を撮りました。足摺岬の写真を見る度に、金剛福寺で出会ったご夫婦のその後に思いを馳せます。私達と同様にきっと立ち直ったに違いない、仏様のご慈悲は差別なく行き届いている筈だからと思っています。
痛い足を引きずって、明石寺へお参りした時には、願いを込めて鐘を撞きました。鐘の音は余韻嫋々(よいんじょうじょう)と南国の空へと消えて行きました。
遍路の途中では、何度か鐘を撞きましたが、鐘を撞く度に、私の思いが亡くなった娘や先だった義父母や肉親に届くように思えて、矢張り遍路の旅に来て良かったとの思いに、心が満たされていくのでした。
躓(つまづ)いて転ばぬようにと息子(こ)のことば嬉しく聞きて旅にいで来ぬ
逝きし亡娘(こ)と共有したる想い出をなぞりつつ今日も暮れなんとする
夕闇が背なより迫り痛む膝宥(なだ)めて遍路の八日目終る
南無大師おへんろ道に鈴が鳴る野火焚く見ゆる菜の花の道(実名で某誌に掲載)