ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

今何故「戦略」なのでしょうか

2015年01月31日 | 随筆
 ろくに日本語を正しく使えない癖に、細かい言葉をあげつらうと言われそうですが、日常的な場面に戦争用語がよく使われて、私はその都度暗い気持ちになります。その典型的な例は、「戦略」という言葉です。私達のような戦禍の中を生きて来た人間に取っては、「戦」という言葉には、特別敏感に感じるものがあるのです。 
 「戦略」とは手元の電子辞書の広辞苑に依ると、「戦術より広範な作戦計画。各種の戦闘を総合し、戦争を全局的に運用する方法。転じて政治社会運動などで、主要な敵と味方との配置を定めることをいう。」とあります。
 政治に携わる人達が、多くの政策を立てるに際して、敵と味方に分けて、まるで戦の最中のような言葉を使い慣らすということは、私には耐え難い程の不快感を起こさせます。「戦略」などという戦争用語を使わなくても、「計画」とか、「対策・政策」等の言葉で充分に意志は通じる筈だと思います。
 戦略と言った方が、より一層強烈に印象づけられると思っているのかも知れませんが、敵と味方に分けて、戦いを有利にもっていこうとする意味の文字を使わずとも、対象のさまざまな局面に合わせて、適切な言葉の使い分けが出来るのが、日本語の素晴らしさではないでしょうか。
 戦後70年経って、あの苦しい戦争からやっと逃れ、様々な苦労を耐え抜いて、何とか平和で戦さのない社会を作り上げて来た筈です。たかが言葉、と言われるかも知れませんが、「成長戦略」と言った場合、その敵は誰で、味方は誰なのでしょう。言葉ばかりが力んでいるようです。
 中国との間の「戦略的互恵関係」という言葉も、しっくり来ません。アメリカではstrategy(ストラテジイ<戦略的>)という言葉を沢山使うようです。アメリカは軍備を背景に政策を進める国ですから、理解も出来ますが、日本は自らは戦わない筈の国ですから、せめて<長期的計画的>互恵関係といったらどうなのでしょう。ずっと温和な感じが出て、将来に渡って国交が友好的に発展して行くような希望を持たせてくれます。
 「北朝鮮の拉致被害者は必ず救います」「それを第一に致します」「議員定数削減はお約束します。ですから、消費税を上げましょう」と言って、実際に実行されたのは、消費税を上げたことだけです。「必ず」「第一に」「お約束」などみな虚しく何処かへ消えてしまいました。総理や国会議員が何もしていない、と言っている訳ではありません。努力しても出来そうにない、もしくは、する積もりの無いことを易々と約束されると、国民の一人として、政治に対して不信感が募るばかりです。
 国の経済が成長するということは、大企業も中小企業も、労使お互いが助け合って、働き安い職場を作り、同じ目的に向かって一致協力して事業を成し遂げることによって実現するものだと思っています。
 同じ仕事をしていても、臨時と正規職員とでは、給与に大差がある。非正規雇用を増やして、企業の利益を挙げることばかり考えている企業に、未来を期待出来るでしょうか。これでは多くの人の将来の生活が脅かされて、少子化に拍車をかけることになります。何時首にされるか解らないし、一定の賃金が手に入らなくなれば、子育ても家を建てることも出来ません。つまり人生の設計図が描けないのです。
 兎角お金がものを言うように聞こえることがありますが、経済第一と言って、不安定で、かつ厳しい労働を強いたり、その労働の対価が不十分だったりした国が繁栄したということが、古今東西あったでしょうか。 
 企業を支え、更には国を支えるのは、国民の労働ですから、使う人も使われる人も、もっとお互いに思いやりを持ち、支え合い協力しあう、信頼の基盤があってこそ、経済成長が実現するのであって、勇ましい戦争用語を多用しても、国民の心は醒めていくばかりではないでしょうか。
 昨日の新聞に「認知症国家戦略」とありました。認知症を無くしたいのは全ての人の願いではありますが、何故認知症支援対策とでも言えないのでしょうか。これでは認知症が敵で、国家則ち為政者が相手の戦いの意味かと思ってしまいます。何故このような戦時言葉を使いたがるのでしょう。温かく心に響く言葉が使われていれば、これを読む人の心に将来への安心感が生まれて来るのです。
 認知症になりたい人は一人もいません。これでは、もし戦略的に制度化されれば、認知症の人が差別や偏見に苦しみそうです。徘徊するからと、ベッドに縛り付けられたり、暴力的な扱いを受けたり、不幸にして認知症の症状が見え始めた人が、明るく「私は認知症です」と言えなくなったりしないでしょうか。
 「よい記憶力はすばらしいが、忘れる能力は、いっそう偉大である」とハーバードが言いました。大らかに温かく、忘れてしまうことが何でもない普通のことで、忘却が多い人とも、共に労りあって生きていきたいものです。
 人間は、忘れる能力があるからこそ、穏やかに生きていけるのであって、決して戦略を立てて生きて行く程不幸な生きものではありません。


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武家屋敷の残像を追う

2015年01月21日 | 随筆・短歌
 過日私に学生時代のクラスメイトから、知覧の武家屋敷の絵葉書が届きました。現在東京に居を構えておられる彼女のご実家は、鹿児島県なのです。とても聡明で優しい人であり、私の尊敬して止まない一人です。自分をしっかり持っておられて、何時も他人に細やかな配慮をし、とても控えめで、みなさんが集まって写真を撮る時はさりげなく後ろに立ちます。そんな所が皆さんから尊敬されるのでしょう、だれもが立派な方だと言います。
 私達夫婦は旅好きで、以前知覧にも行きましたから、この絵葉書を見てとても嬉しかったし、急に楽しかったあれこれを思い出しました。
 知覧には、特攻の記念館がありますから、当然そこへ行く為の旅でしたが、直ぐ近くにある武家屋敷も、とても美しく見応えのある所で、私達は、特攻記念館から、徒歩で回って拝観して来たのです。 その日は不思議なことに、一人の観光客にも出会いのませんでした。もし、これから行かれる人がおられたら、是非此処を見落とさないようにお勧めいたします。国指定の名勝に指定されています。
 去年の九州一周のツアーでは、ガイドさんが「すぐ其処に武家屋敷があり、中々良いところです。今日は寄れなくて残念ですが、次回来られたら、是非ご覧になるとよいと思います」と仰いました。
 そんな事が、絵はがきから急に思い出されたのです。書架からアルバムを取り出してきて懐かしく眺めました。
 比較的こじんまりとした質素な武家屋敷ですが、それぞれにお庭が造られていて、実によく手入れが行き届き、さつきや菖蒲が咲いている頃でしたから、上品なそのお庭に一層引かれました。
 外の通りは自然の丸形石を積み上げたり、切石を積んだ同じような高さの石垣の上に、見事に刈り込まれた生け垣が道路の両側にずっと続き、ツゲや松がこれぞ武家屋敷の緑の生け垣と言う感じに、ずらっと見渡せます。その植え込みは、一段もあり2段に造っているものもあって、手入れの良さもあり、とても厚みを感じさせます。屋敷群全体が整然と統制が取れていて、マイナスイオンに溢れて、呼吸が急に楽になった感じがしました。
 中の庭へは、門をくぐって入りますが、家(家の内部は非公開でした)と庭が見られ、屋敷位置に立って眺めた庭園の奥に当たる道路側の垣根は、庭の内側から見ると借景のように山の形に刈り込まれていたり、松が高く配置されたりしています。手前の小さな池や、石の配置、植え込みなど、一つ一つ独特の個性があり、それぞれ全く独立した庭園に出来ていて、心を配って作られていることに感動したものです。一木一草にも意味がある、という庭師の魂が込められているようでした。
 掃き清められたお庭は「どうぞ自由に心ゆくまでご覧下さい」とでも言うように、ひっそりと静まっていました。
 良く晴れた日中でしたが、静かな環境の中でゆっくりと、心ゆくまで拝見させて頂きました。一軒ごとに100円玉一個を用意された筒の中に入れるとテープが回り、解説を聞くことが出来るようにになっていて、ぜんぶの解説を聞かせて頂き、全ての庭の記念写真を撮って来ました。
 拝見した庭の案内が、アルバムに張ってあります。取り出して眺めましたら、九州は全部で9日の旅でしたが、平成9年5月17日(木)とありますから、もう17年以上前になります。頂いた絵はがきは築山泉水様式の庭園で、森重堅氏邸です。この庭園は、山の形に刈り込んだ築山と、組石の上には立石や灯籠があり、手前に睡蓮を浮かべた池が配置さています。さつきが見事に咲いていました。 頂いて来た案内書を切り取って、アルバムに張ってありましたが、その案内書に依ると「森家は亀甲城の西麓にあり、領主に重臣として仕えた家柄で、住居や土蔵は、寛保初年(1.741年)に建てられたもの。曲線に富んだ池には、奇岩石を用いて近景の山や半島を表し、対岸には、洞窟を表現した穴石を用いて水の流動を象徴している。庭側入口の右側にある石は、庭園の要をなし、雲の上の遠山をなし、雲の上の遠山を現している、」とありました。
 また佐多美舟氏邸は最も豪華で広い庭園であり、此処には枯滝もしつらえてあります。佐多直忠氏の庭園は、母ケ岳を望む一隅に築山を設け中心部に3.5㍍の立石を置き多数の石組みと枯滝は大陸的で、一幅の水墨画のようだとありました。どれも素晴らしく、全てを写真に納めてきました。未だこの頃は三脚を持って出掛けており、二人並んで庭園に納まっているものもあって、可笑しい位です。 知覧の特攻記念館は云う迄もありませんが、武家屋敷、名品知覧茶と共に大切な日本の遺産とも言えると心から感じて、良い見学が出来たと嬉しく思いました。
 武家屋敷と言えば、金沢の長町という一角に、ズラリと武家屋敷が建ち並んでいます。町中でありながら美しい小川が豊かな水量で流れていて、武家に相応しい土塀が左右に連なり、こちらは知覧の懐かしいような武家屋敷と違って、中々威厳があります。
 外れに近く、野村家という武家屋敷の中が拝観出来、靴を脱いで上がらせて頂きました。格式の高い武家らしい間取りや戸障子、床の間など、調度品なども立派に配置されていました。特に中庭は、池を中心に、松や灯籠、手水鉢など、こちらも心を砕いたしつらえになっていました。
 金沢は、奈良・京都の行き帰りに何度も立ち寄りましたから、この武家屋敷も三回くらい行っています。武家屋敷の中程に、ごくこじんまりしたお庭を拝見出来る家があり、お掃除しておられたご老人が、傍らの木から細長い葉を一枚取って、「これがハガキの言葉の元の葉です」と「たらよう」というその木の葉を下さいました。文字が書けるとお聞きしたので、帰宅してから早速一枚の葉の裏に「般若心経」を書きました。びっしりと立派に書けましたし、また読めます。現在も仏壇に供えてあります。そのお宅では、小川からの取水・排水・木の植え方など、造園の方式に則って造られていると、ご自慢のお庭のようでした。
 武家屋敷と言えば、角館の武家屋敷も有名です。私達も一度は行って見たいと、ある秋に東北を回った時に立ち寄りました。藤沢周平の「たそが清兵衛」で、ロケに使った家に、タクシーの運転手さんが連れていって説明をして下さったので、特別な親近感をもって見て来ました。春は桜並木が大変美しいであろうと思われる河岸の道路へも回りました。
 武家屋敷は大通りの左右にあり、全体としては、大勢の使用人を持って、格式高く住んで居たと思われる立派な上級武士の家もありました。苔の生えた門をくぐると、木漏れ日が差した広めのお庭がありました。
 中には、広い部屋や土蔵に昔の蓄音機が並んでいたりして、考古館といった趣の家もありました。大きな井戸があり、一家とその下働きの大勢の人達が、それぞれ身分をわきまえて、礼儀を守り、主君に仕えて暮らしていた様子が偲ばれました。
 武家屋敷の出口近くに、かなり背の高いドウダンツツジの垣根が続く、珍しい屋敷もありました。着いた日の午後から日暮れまでと、翌日の午前と二回に分けて、いろいろな武家屋敷を拝見しました。道路は広く、如何にも武家屋敷通りらしく、紅葉の美しい道を、時代を遡ってゆるりゆるりと歩きました。上級武士の家並みの裏側に、例のロケの下級武士の家が在ったのです。
 武家屋敷と言われる所は、他に何処に在るのかと思って調べましたら、いつぞや行ったことのある、会津が出ていました。会津の家老一家が、落城の知らせに奥方を初め、子供達、使えていた女性達も皆殉死したのですが、その武家屋敷が載っていました。
 家老屋敷は中の様子が見学出来ました。広い奥座敷に、奥方や子供たちまで殉死した時の様子を等身大の人形を使って飾られていました。その凄惨さに思わず絶句してしまいました。
 たそがれ清兵衛で思い出しましたが、子供たちは男も女も、みな寺子屋へ通い、論語の素読をしていました。意味も解らずに暗記していく内に、意味が良く理解出来るようになり、やがてその心が身にしみこんで行ったものだと思っています。そうして武士の子供たちは、しっかりとした精神を培っていったのでしょう。
 武士の魂を培った、こういう学習の大切さを、昨今の多くのむごい犯罪から、切実に感じています。庭園のしつらえには禅の精神が宿り、管理する人の心を磨いてきたのだと思いました。
 時代と共に家庭、学校、社会の精神教育、道徳教育が衰退してきたように思え、世界に誇れる日本人の心をしっかりと培うべく、私達はどうしたら良いのか、考えさせられました。
 

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年賀状賛歌

2015年01月08日 | 随筆・短歌
明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 年賀状の枚数が減少していると聞きます。若い人達は、メールで送るらしく、如何にも現代らしい気もします。確かにその方が手軽で早いし、直ぐに返事が返せます。長さの制限もありません。聞くところによるとメールの返事は、直ぐに出さないといけないらしく、あまり間を開けると友達失格者として、縁が切れてしまうとも聞きます。そんなにせっかちにメールを出したり、返事を書いたりしていては、大切な読書の時間も趣味の時間もなくなって、疲れるばかりな気がします。メールも適切に間をあけて書くように、私は心がけています。
 しかし時代はもう対人関係までが、そんな悠長な事をいって居られない程めまぐるしく、友人として交わる為には、頻繁にメールを出して繋がっていないと、置いていかれるようですね。不安の強い時代とも言えそうです。
 私は古い様式の年賀状が嬉しく、それも、出来たら一枚一枚手書きのものが一番嬉しいです。この忙しい世の中で、そのような賀状が書ける人は、時間と暇を持て余している私の様な老人か、余り付き合いを広げないようにしている人位なのでしょう。社会全体のゆとりが減っているようです。
 そう言う私も、朱鷺の絵入りのハガキに賀春と筆書きして、紅い「元旦」の印を押し、左下隅にもう長いこと使って、磨り減った住所氏名のゴム印を押します。出来るだけ余白を残して、そこへ一人一人に思いを寄せて書きます。書くのが趣味ですから、さして苦にはならず、楽しんで書きます。職を退いて年々枚数が減って、今年は、「老齢になりましたので、来年から新年のご挨拶を失礼させて頂きます。」というハガキが一枚届きました。こういうハガキも届くようになると、私も日頃余り親しいお付き合いしていない人には、迷惑をかけないように考えていかなければならないかも知れない、と思いはじめています。
 パソコンが普及して、自宅で印刷の賀状も増えました。それらには、みな何かと現状や思いが自筆で綴られていて、それを読むのが楽しみです。何度も読んで、その人のこの一年が頭に入るまで楽しみます。また工夫された賀状の自筆の絵や、写真に見入ったりします。それぞれに個性があり、やはり私の尊敬する人達の心境が、そちこちに現れていて楽しいです。手書きの洋画や版画、ご自分で撮った写真、いつぞやは出来たばかりのスカイツリーなど、これらはハガキ入れに保存してあります。折に触れて眺めるだけで、その人が偲ばれます。
 こういう交わりが、喩え一年に一回でも、交わされる事によって、慰められたり励まされたりする訳ですから、私は年賀状という習慣には、他をもって替えがたい長所があると思います。
 今年の賀状の最高齢の方は、100歳になられた夫のかつての上司、私の方は90歳くらいになられた恩人でした。皆さんのしっかりされているのに驚くと共に、その方々を目標に、私もがんばりたいと思っています。
 そんな賀状の中に、『「始めるのに遅すぎることはない」の先人の言葉に倣い・・・平家物語を読破しました』という一枚があり、その言葉が心にすとんと落ちました。長い間の病気と闘いながら、随筆や詩を書き、沢山の読書をしておられる人からでした。

 人は多分誰でも、長い人生の間には忘れられない言葉が心の底に沈んだまま年を重ね、折々思い出しても、再び心の底に閑かに眠らせているのではないかと思います。
 時に応じて、自らを慰め、励まし、勇気づける適切な言葉が、意識の表面に浮かび上がって来たりすると、それがどんなに人生を豊かにしてくれることでしょう。
 自分の思いを伝えるには、どうしても言葉は必要不可欠です。
 言葉に依って、私達は励まされ、労られ、愛され数えきれない恩恵を受けています。例えば一枚の賀状についても、そこに書いてある言葉が通り一遍の形ばかり、それも印刷だけで肉筆の一字も書いて無いものは、懐かしさも温もりの心も伝わって来ないため、読む意欲を失ってしまいます。たった一言「お元気ですか」でもよい、そこから心の温もりが伝わって来るのです。
 一年間を振り返り、相手の現在を偲び、心を込めて賀状をしたためることは、私の好きな時間です。一年にたった一度ですが賀状の交換によって、相手の現在の健康状態や、考えて居ること、行っていることなど、一年前に書かれた賀状から読み取って、更に身の上に思いを馳せて、手書きで書き記す、その事そのものが好きであり、大切なことだと思っています。きっと皆様も、肉筆で書かれた心の籠もった賀状は、特別な思いで大切に保管されたのではないでしょうか。

一枚のハガキに籠もる真心を受けとめ新年の一歩踏み出す(あずさ)


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