ろくに日本語を正しく使えない癖に、細かい言葉をあげつらうと言われそうですが、日常的な場面に戦争用語がよく使われて、私はその都度暗い気持ちになります。その典型的な例は、「戦略」という言葉です。私達のような戦禍の中を生きて来た人間に取っては、「戦」という言葉には、特別敏感に感じるものがあるのです。
「戦略」とは手元の電子辞書の広辞苑に依ると、「戦術より広範な作戦計画。各種の戦闘を総合し、戦争を全局的に運用する方法。転じて政治社会運動などで、主要な敵と味方との配置を定めることをいう。」とあります。
政治に携わる人達が、多くの政策を立てるに際して、敵と味方に分けて、まるで戦の最中のような言葉を使い慣らすということは、私には耐え難い程の不快感を起こさせます。「戦略」などという戦争用語を使わなくても、「計画」とか、「対策・政策」等の言葉で充分に意志は通じる筈だと思います。
戦略と言った方が、より一層強烈に印象づけられると思っているのかも知れませんが、敵と味方に分けて、戦いを有利にもっていこうとする意味の文字を使わずとも、対象のさまざまな局面に合わせて、適切な言葉の使い分けが出来るのが、日本語の素晴らしさではないでしょうか。
戦後70年経って、あの苦しい戦争からやっと逃れ、様々な苦労を耐え抜いて、何とか平和で戦さのない社会を作り上げて来た筈です。たかが言葉、と言われるかも知れませんが、「成長戦略」と言った場合、その敵は誰で、味方は誰なのでしょう。言葉ばかりが力んでいるようです。
中国との間の「戦略的互恵関係」という言葉も、しっくり来ません。アメリカではstrategy(ストラテジイ<戦略的>)という言葉を沢山使うようです。アメリカは軍備を背景に政策を進める国ですから、理解も出来ますが、日本は自らは戦わない筈の国ですから、せめて<長期的計画的>互恵関係といったらどうなのでしょう。ずっと温和な感じが出て、将来に渡って国交が友好的に発展して行くような希望を持たせてくれます。
「北朝鮮の拉致被害者は必ず救います」「それを第一に致します」「議員定数削減はお約束します。ですから、消費税を上げましょう」と言って、実際に実行されたのは、消費税を上げたことだけです。「必ず」「第一に」「お約束」などみな虚しく何処かへ消えてしまいました。総理や国会議員が何もしていない、と言っている訳ではありません。努力しても出来そうにない、もしくは、する積もりの無いことを易々と約束されると、国民の一人として、政治に対して不信感が募るばかりです。
国の経済が成長するということは、大企業も中小企業も、労使お互いが助け合って、働き安い職場を作り、同じ目的に向かって一致協力して事業を成し遂げることによって実現するものだと思っています。
同じ仕事をしていても、臨時と正規職員とでは、給与に大差がある。非正規雇用を増やして、企業の利益を挙げることばかり考えている企業に、未来を期待出来るでしょうか。これでは多くの人の将来の生活が脅かされて、少子化に拍車をかけることになります。何時首にされるか解らないし、一定の賃金が手に入らなくなれば、子育ても家を建てることも出来ません。つまり人生の設計図が描けないのです。
兎角お金がものを言うように聞こえることがありますが、経済第一と言って、不安定で、かつ厳しい労働を強いたり、その労働の対価が不十分だったりした国が繁栄したということが、古今東西あったでしょうか。
企業を支え、更には国を支えるのは、国民の労働ですから、使う人も使われる人も、もっとお互いに思いやりを持ち、支え合い協力しあう、信頼の基盤があってこそ、経済成長が実現するのであって、勇ましい戦争用語を多用しても、国民の心は醒めていくばかりではないでしょうか。
昨日の新聞に「認知症国家戦略」とありました。認知症を無くしたいのは全ての人の願いではありますが、何故認知症支援対策とでも言えないのでしょうか。これでは認知症が敵で、国家則ち為政者が相手の戦いの意味かと思ってしまいます。何故このような戦時言葉を使いたがるのでしょう。温かく心に響く言葉が使われていれば、これを読む人の心に将来への安心感が生まれて来るのです。
認知症になりたい人は一人もいません。これでは、もし戦略的に制度化されれば、認知症の人が差別や偏見に苦しみそうです。徘徊するからと、ベッドに縛り付けられたり、暴力的な扱いを受けたり、不幸にして認知症の症状が見え始めた人が、明るく「私は認知症です」と言えなくなったりしないでしょうか。
「よい記憶力はすばらしいが、忘れる能力は、いっそう偉大である」とハーバードが言いました。大らかに温かく、忘れてしまうことが何でもない普通のことで、忘却が多い人とも、共に労りあって生きていきたいものです。
人間は、忘れる能力があるからこそ、穏やかに生きていけるのであって、決して戦略を立てて生きて行く程不幸な生きものではありません。
「戦略」とは手元の電子辞書の広辞苑に依ると、「戦術より広範な作戦計画。各種の戦闘を総合し、戦争を全局的に運用する方法。転じて政治社会運動などで、主要な敵と味方との配置を定めることをいう。」とあります。
政治に携わる人達が、多くの政策を立てるに際して、敵と味方に分けて、まるで戦の最中のような言葉を使い慣らすということは、私には耐え難い程の不快感を起こさせます。「戦略」などという戦争用語を使わなくても、「計画」とか、「対策・政策」等の言葉で充分に意志は通じる筈だと思います。
戦略と言った方が、より一層強烈に印象づけられると思っているのかも知れませんが、敵と味方に分けて、戦いを有利にもっていこうとする意味の文字を使わずとも、対象のさまざまな局面に合わせて、適切な言葉の使い分けが出来るのが、日本語の素晴らしさではないでしょうか。
戦後70年経って、あの苦しい戦争からやっと逃れ、様々な苦労を耐え抜いて、何とか平和で戦さのない社会を作り上げて来た筈です。たかが言葉、と言われるかも知れませんが、「成長戦略」と言った場合、その敵は誰で、味方は誰なのでしょう。言葉ばかりが力んでいるようです。
中国との間の「戦略的互恵関係」という言葉も、しっくり来ません。アメリカではstrategy(ストラテジイ<戦略的>)という言葉を沢山使うようです。アメリカは軍備を背景に政策を進める国ですから、理解も出来ますが、日本は自らは戦わない筈の国ですから、せめて<長期的計画的>互恵関係といったらどうなのでしょう。ずっと温和な感じが出て、将来に渡って国交が友好的に発展して行くような希望を持たせてくれます。
「北朝鮮の拉致被害者は必ず救います」「それを第一に致します」「議員定数削減はお約束します。ですから、消費税を上げましょう」と言って、実際に実行されたのは、消費税を上げたことだけです。「必ず」「第一に」「お約束」などみな虚しく何処かへ消えてしまいました。総理や国会議員が何もしていない、と言っている訳ではありません。努力しても出来そうにない、もしくは、する積もりの無いことを易々と約束されると、国民の一人として、政治に対して不信感が募るばかりです。
国の経済が成長するということは、大企業も中小企業も、労使お互いが助け合って、働き安い職場を作り、同じ目的に向かって一致協力して事業を成し遂げることによって実現するものだと思っています。
同じ仕事をしていても、臨時と正規職員とでは、給与に大差がある。非正規雇用を増やして、企業の利益を挙げることばかり考えている企業に、未来を期待出来るでしょうか。これでは多くの人の将来の生活が脅かされて、少子化に拍車をかけることになります。何時首にされるか解らないし、一定の賃金が手に入らなくなれば、子育ても家を建てることも出来ません。つまり人生の設計図が描けないのです。
兎角お金がものを言うように聞こえることがありますが、経済第一と言って、不安定で、かつ厳しい労働を強いたり、その労働の対価が不十分だったりした国が繁栄したということが、古今東西あったでしょうか。
企業を支え、更には国を支えるのは、国民の労働ですから、使う人も使われる人も、もっとお互いに思いやりを持ち、支え合い協力しあう、信頼の基盤があってこそ、経済成長が実現するのであって、勇ましい戦争用語を多用しても、国民の心は醒めていくばかりではないでしょうか。
昨日の新聞に「認知症国家戦略」とありました。認知症を無くしたいのは全ての人の願いではありますが、何故認知症支援対策とでも言えないのでしょうか。これでは認知症が敵で、国家則ち為政者が相手の戦いの意味かと思ってしまいます。何故このような戦時言葉を使いたがるのでしょう。温かく心に響く言葉が使われていれば、これを読む人の心に将来への安心感が生まれて来るのです。
認知症になりたい人は一人もいません。これでは、もし戦略的に制度化されれば、認知症の人が差別や偏見に苦しみそうです。徘徊するからと、ベッドに縛り付けられたり、暴力的な扱いを受けたり、不幸にして認知症の症状が見え始めた人が、明るく「私は認知症です」と言えなくなったりしないでしょうか。
「よい記憶力はすばらしいが、忘れる能力は、いっそう偉大である」とハーバードが言いました。大らかに温かく、忘れてしまうことが何でもない普通のことで、忘却が多い人とも、共に労りあって生きていきたいものです。
人間は、忘れる能力があるからこそ、穏やかに生きていけるのであって、決して戦略を立てて生きて行く程不幸な生きものではありません。