ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

過ちは誰にもあるけれど

2014年08月24日 | 随筆・短歌
 「過ちて改めざる、是を過ちと謂う」皆さんご存知の論語です。過ちは誰にもあります。日常的に、聞き違い勘違いによっても起こります。気が付いたら、直ぐに訂正すれば良いものを、私なぞは、突拍子もない過ちを犯したりすると、つい気後れがして、そのまま無為に時間を浪費したりします。すると益々事態は悪化することになってしまいます。 
 この度の広島の大災害についても、行政の「避難指示が遅れたのではないか」といわれました。初めは、「少し遅れたと思う」と反省した市長の態度について、あるテレビのニュースで、「正直な市長ですね」と言われていました。私も今時珍しく、あれこれ言い訳をして責任逃れをしないことに、同じように感じていたのですが、今日のニュースでは、突然前言を翻して「指示書通りに行った」と言っていました。災害が起きた時間と避難の指示のでた時間を並べて見ても、誰もが「遅すぎた」と感じた筈です。矢張り責任を回避しようとしているのでしょう。
 災害は起きてしまったことで、この記憶を忘れずに、次に備えるのが行政の責任だと思いますが。最近の政治家はすべからく、自己保身に走りがちで、その姿をいやという程見て来ました。言い逃れは、不信感に繋がります。正直に誤りを認めて謝る方が清々しいし、特に今回の災害は夜中でしたから、適正な指示が出ても矢張りこのような被害が起こった可能性があります。
 誰しも雷が恐ろしいですし、加えて経験したことも無い程の大雨の中を、果たして深夜外へ逃げられたかどうか解りません。坐して死を待つ結果になったかもしれません。そのような場合、行政の責任をそんなに問うでしょうか。指示に従って避難した人は、3%位だと聞きました。
 もう一つ先のことを考えて、過ちに気付いたら改めて欲しいことがあります。それは次の東京オリンピックです。今何故東京でしなければならないのか、それが疑問です。多分それを景気浮揚の起爆剤と考える経済第一主義の念願なのでしょう。
 私はかねてから東北の大災害の復興を置き去りにして、オリンピックをする間違いを指摘して来ました。何処に予算をかけるか、国民の安心安全優先だとすれば、先ず東北の復興が先ではないでしょうか。更に今は、加えてこの天候不順と東京地方の酷暑の中で、オリンピックが果たして無事に出来るのでしょうか。戸外の種目は、熱中症になる選手や係員・観客が続出するのではないでしょうか。不幸にして、亡くなる人が出たりすれば、開催国として、どう責任を取ったら良いのでしょう。そうなる予想が立つ、この気候を熟知している私達日本人は、予めしっかり考えて、そのような危険から、多くの参加者を守らなければならないと思っています。もちろん政治家やオリンピック実行委員の人達も、当然対策は考えておられることと思いますが。
 一昨日のテレビのアンケートに「東京オリンピックが、季節的に是か否か」とありましたが、確か90%位の人がNOと言っていました。多くの人が突然の豪雨やこの蒸し暑さが、とても耐えられないと言い、母国よりも暑いとしいう外国の人もいました。特に屋外の競技は、悲惨な状態を招くのではないでしょうか。心配の先取りをしやすい私ですが、不安です。外国の選手には、きっと大打撃でしょう。マラソンなどは、競技にならないかもしれませんし、沿道の観客もばたばた倒れてしまうかも知れません。
 少なくとも秋にするとか、何処かの国に代わって頂くとか、私は出来たらそうして頂きたいと思います。現在でも、津波の災害と原発の事故以来、草が生えたままの、東北の荒れ野の状態や、放射能の汚染水をどう閉じ込めたら良いのか、計画が頓挫している状態で、汚染水の処理も目途が立っていません。「ようこそ、安全な日本へ」とこの状態では、とても言えないと思っています。そのような所に住まざるを得ない人々を、何時もお気の毒だと思っています。
 放射能汚染の処理は、頬被りして過ごす訳にはいかない状態であって、早く解決しなければ、とじりじりする思いで見つめています。
 大事な情報を隠したり、不安があっても「大丈夫」と隠蔽していれば、やがて真実が解った時の国民の怒り・失望は大きいものがあるでしょう。当たり障り無く傍観者になっていることはたやすいかも知れませんが、先に書きましたように、「過ちて改めざる、是を過ちと謂う」ように、改める努力や勇気が必要です。さもないと不幸に見舞われ、長く良心の痛みを抱え込むことにもなります。
 

御霊迎え

2014年08月11日 | 随筆・短歌
 旧暦のお盆が近づきました。私もお盆の仕度をしています。仏具を磨き粉で磨き、仏壇の隅々まで新しい布で拭きました。お花も買って来ましたし、お菓子の供え物や果実の籠盛りもリボンをかけて供えました。これで仏壇はもう一杯のお盆の装いになりました。仏壇の前の左右に、回り灯籠を二つ、組み立てて供えました。回り灯籠が影絵を写しながら回りだすと、今年もお盆が来たかとしみじみと思います。
 何故か今年ほど、義父母や娘を親しく思い出し、「有り難う」と幾多の想い出に浸りながら、懐かしく楽しく仕事をした年も無い気がします。
 我が家では毎年仏具磨きは男性がすることになっていたのですが、今年は妹が「今日は久しぶりに涼しかったので、仏具などみんなで磨いてもうお盆仕度をしたよ」と言うので、それでは私も、と例年より可成り早かったのですが、直ぐにとりかかったのです。
 今エボラ出血熱が問題になっていますが、子供たちの予防注射も、検診も、みんな義父母にお願いしたのだったと、二人の子供のそれぞれに出掛けて頂いた数を考えると本当に沢山お世話になったと、しみじみと感謝しています。夏の暑い日には、義父は黒いコーモリをさして、「暑い陽に当たらないように」といって、お昼寝前のおんぶをして下さいました。体の弱かった義母に代わって、二人がかりで、私達の不在の間のお守りを全て引き受けて貰ったのでした。黒いコーモリのおじいさんのおんぶは、ご近所て有名でしたが、義父は一向に気にしませんでした。暑い夏の日には、朝からビニールのプールに水を張って、日光で温め、水遊びをさせてくれました。もちろんご近所の友達も集まりました。
 私達が庭に二人乗りのブランコを設置しましたので、子供たちも大勢集まり、みんなで乗って遊ぶのですが、なかに腕白な子もいて独り占めして、時折子供たちでもめるのですが、「代わりばんこにね」とよく義母が順番を決め、列になって仲良く乗っていた光景が目に浮かびます。
 少し大きくなると、子供たちは大勢の友達と徒党を組んで、あちらの家、こちらの家と「おじゃましまーす」と声をかけて、ドドッと二階まで駆け上がり、ひと遊びして、また「おじゃましました」と風の如く去って行きました。男の子が草野球をするようになると、私達が息子にキャッチャーミットや面や胸当てや、ボールやバットなど、揃えてやると、みんなで共用していました。 この団地が出来た頃に、丁度家を手にした人々の年齢が似ていましたから、子供たちの年齢も近く、少し離れた市営住宅からも集まって、真っ黒になって一塁しかない野球に熱中していました。 中に三振すると直ぐに泣く子がいて、初めは、みんなで集まって慰めていましたが、やがて少し時間をおくと、自分から立ち直って、元気に仲間に戻るようになりました。子供の世界は何と爽やかなものかと思ったものです。
 日曜日には、夫が毎回キャッチャーを買って出ていました。同じ仲間でザリガニ取りや、蜻蛉やセミを追いかけました。今の子供たちを思うと本当に様変わりしていて、大勢集まって泣いたり笑ったり集団で遊べた幸せな時代だったと思います。その代わりお誕生会となると部屋に入りきらない位大勢集まり、歌を歌ったりゲームをしたり、自分達でルールを決めて楽しんでいました。私はせいぜいフルーツパフェやサンドイッチを作って出したりしただけです。義母がお赤飯を沢山蒸して、一人に一つのパックをお土産に持たせてくれました。何と有り難いことだったか、今思うとそれも又義父母の大いなる愛情に支えられていたのです。
 歳をとるにつれて義父母には、感謝の気持ちがどんどん脹らんで、フトしたことで大変お世話になったことを思い出すようになりました。ですから、お盆の御霊迎えは、私には、心を込めてする、有り難く楽しい仕事なのです。
 義父母に一番感謝していることは、夫を産んで下さったことです。これは何をおいても忘れられない有り難いことです。そして二人のわが子に恵まれ、楽しい家族ができました。何を忘れてもこのことだけは生きている限り忘れず、感謝しなくてはなりません。何と楽しい日々だったか、今はただ有り難い想い出として胸に焼き付いています。
 仏壇の遺影に向かって、「主人と巡り合うご縁を頂いて、有り難うございます。二人の子供も授かりましたし、良い家庭で、ささやかですが、幸せに過ごして居ます。娘はそちらで元気でしょうか。娘よ、もうじき私達も逝きますから、待っていてね。」と途切れる事の無い話しが続きます。
 この幸せな暮らしを続けていられるのも、皆さんに守って頂いているからだと思い、「お陰様で、今日も無事に元気で過ごさせて頂いています。」と心から手を合わせて感謝します。
 本当に、ご先祖さま、特に一緒に暮らした先だった人々の御霊をお迎えして、短い間ですが、共に暮らせるお盆を有り難いと思っています。

故郷の盆の慣わし笹寿司を今年も作る嫁して五十年(某紙に掲載)