ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

美しく老いるとは

2014年02月27日 | 随筆・短歌
 地球上の生きとし生けるものは、時と共に老いてゆきます。勿論人間も例外ではありません。人生の上り坂をたどっている時は、希望を持って怖れずグイグイ生きて行きます。
 しかしある年齢になると、果たしてこのままでよいのか、立ち止まって考え、より良い生き方を求めて、悩むようにもなります。
 まして老い先短くなると、残された日々をどのように生きるか、焦りにも似た気持ちで考えます。運命は、考えたってどうにも避けられないところもありますが、しかし人生には自分の意志で決めることができる部分も多々あります。
 例えば一日をどのように使うか、どんな趣味を持つか、生き甲斐を何に求めるか、など様々あると考えられます。
 私のような平凡な主婦にも、家庭を維持する為の仕事があり、おいしい料理を作って家族と共に楽しむとか、殊に家の水回りや庭回りを、毎日綺麗に掃除して、花を育て、気持ちの良い環境で生活がしたいですから、家事にもせっせと励みます。
 勿論これは、主婦だけの仕事ではありませんから、家族も手伝い、自ずと持ち場が決まって上手く循環し、維持されています。
 家事以外は、皆さんもご存知のように、このブログを書き、短歌等を作るのに四苦八苦し、毎週少なくとも二日は、フィットネスジムに通い、二週に一回は図書館へ行って、好奇心に振りまわされて本を読んだり借りたり、時にはCDやDVDを借りて来ます。 
 夫が毎週レンタルビデオ店から、気に入ったDVDを借りて来ますから、週の半分の夜は、映画やドキュメントを見て団らんを楽しみ、残りの夜は創作活動をしています。そして折々旅行や観劇・音楽会、家族や友人との会食などを楽しんでいます。
 これらの中で私の一生の友となるものは、今は創作活動と言えるでしょうか。ブログや短歌ばかりでなく、料理や俳句なども含めて。その為の勉強としても、読書等が周辺に存在します。
 しかしこれ等は恐らく誰もがしていることであり、問題は折角この世に生かして頂いているのですから、最後まで人間らしく、出来たら人様の役にも立ち、美しく老いたいと思うのです。死ぬ迄誰かの役に立っていたいという思いがあります。喩えそれが「和顔施」のようなものであっても。
 美しく老いるということでは、先頃ケネディー駐日大使が、成形手術をしない、ごく自然のお顔をしておられるのに、注目が集まりました。超セレブな家庭にあって、特別に若く見せようとせず、その自然な気品には、俳優さん達の美容整形に依る美顔になれていた私達を驚かせました。
 私達の日本の皇后陛下も、自然な気品を漂わせ、とても美しい自然な老いを感じさせておられます。そのお姿をテレビで拝見する度に、日本女性の鏡とも言える、お姿に感動を覚えます。
 気品というものは美容整形では決して表せません。身についた高い教養や日頃からの礼節、優しさ、慈悲の心などなどは、永い年月を積み重ねて、ようやく表に現れるものだと思います。
 私の友人達も、理知的でしっかりして居られ、心の優しい人達は、同じように自然な姿をしておられます。私も見習うように努めています。しかし、漏れ聞くところによると、最近はスポーツジム等の回りでは、主婦の美顔術が秘やかに流行っているそうです。すでに若者も、自分の顔にメスを入れ、一重まぶたを二重にしたり、美しくあろうと努力しているようです。
 女性も男性も若くあろうと、運動したりして体を鍛えるのは良いことだと思いますが、アンチエイジングとばかりに、効き目の曖昧なサプリメントに頼ったり、美顔術や美容整形に頼るのは如何なものでしようか。
 最近長い間美容整形に親しんで来た人の中に、「どう老いたら良いか解らない」と鬱に陥る人が居ると、ある新聞に出ていました。確かに、実年齢は80歳くらいの人で、せいぜい30代としか見えない女優さんも居られます。この人達ばかりではありませんが、第一線を退いたとき、どう老いたらよいか、解らなくなるのも頷けなくはありません。実年齢の自分の顔を映し出す鏡があったら、きっと別人としか思えないことでしょう。家族が「もはや死ぬ迄整形し続けるしか、救う道はないのでは」と言いました。それでは何処かへ本当の自分を置き忘れて来たようで、寂しくも思えます。
 本当の美しさとは、顔ではないということは、誰もが解っていると思うのですが、矢張り「色の白い人は七難隠す」と言われるように、外形的な美を最も重要視しがちになるのでしょうか。
 人間の美しさとは、老いるに従って、長年にわたり磨き抜かれた心の美しさの現れた顔、多くの皺に刻み込まれた苦労の滲む顔、そんな顔にあるのではないでしょうか。
 本来の顔には、人それぞれに親から受け継いで来たDNAの歴史があります。それを「気に入らない」からと言って人工的に変えてしとまうことは、その時点で戸籍を無くした人間になるようで、寂しい思いがします。
 その人の考え方、心の優しさ、行いの美しさが、最も価値あるものとして、私はもっと目を向けられて欲しいと思っています。そして私自身も、少しでもそうありたいと願って励みたいと思っているところです。こんな言葉があります。

 若い女性は美しい。しかし老いた女性はもっと深く美しい。
        ウォルター・ホイットマン(1819~1892) 

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ソチに咲く花

2014年02月17日 | 随筆・短歌
 冬期オリンピックで、選手の皆さんの活躍が報道されています。この大舞台で精一杯の力を発揮して競技し、それぞれに成果を上げておられます。
 私も毎日、テレビで応援し、素晴らしい演技や努力の結果には思わず惜しみない拍手を送っています。ソチまで届く筈もなく、誰も聞いていなくとも、精一杯の拍手で、その努力を讃えています。とても嬉しい瞬間です。
 41歳になるジャンプ一筋の葛西紀明選手が、銀メダルを手にされました。実にオリンピック7回目の快挙です。私は我がことのように嬉しくもあり、又そのたゆまぬ努力に頭が下がりました。
 私は今回のオリンピックに際して、かねがね、あのマラソンの円谷選手のような気の毒な選手を出してはいけないと密かに思っていました。選手は本当に身を削るような努力を重ねて、オリンピック選手の栄誉を勝ち取っています。しかし、それは又とても辛いプレッシャーにも耐えなければならないことです。
 「オリンピックがこんなにすごい所だとは思わなかった」という感想を述べた選手がいました。それ程その場に立てば、表現のしようもない程の凛とした空気がみなぎり、震えるようなプレッシャーでもあるのでしょう。
 送り出す応援者の励ましや心遣いに感謝しながらも「頑張って、きっとメダルを取って」と期待されることは、嬉しいに違いないのですが、半面ずっしりと重いプレッシャーでもあります。それをはねのけて、そして会場の気迫に打ち勝って成果を出すのですから、それはもう必死の闘いであろうと思います。
 「オリンピックを楽しみたいと思います」というコメントを出す選手がおられます。私は死力を尽くして全力で闘う、これ以上ない程の辛い競技を、楽しむ位の心の余裕を持ちたいという、選手の気持ちであろうと思って聞いています。そう考えないと潰れてしまう不安があって、必死に心の中で闘って居られるのだと解釈しています。
 緊張で足が震え、体が硬直して呼吸が困難になるほどの状態の中で、身に付けた実力がそう簡単に発揮出来るものではないと思います。
 インタビュアーに対しても、穏やかにコメントするということは、たやすい事ではありません。しかし、さすがにこれだけの選手ともなれば、幾つもの失敗や挫折を乗り越え、様々な経験を積んで来ておられるので、精神的にも実にしっかりしていて、僅か15歳とか、16、17、歳でも驚く程しっかりとした受け答えをしておられます。
 スポーツで鍛え上げた体は精神をも鍛え、心身共に見事に成長していくようです。現代の若者の逞しさを改めて感じて、とても心強く嬉しく思いました。日本中の皆さんが、きっと同じ思いをされたことかと思います。
 ジャンプ最年少の高梨沙羅 選手は、何時も落ち着いてしっかりした受け答えをしていました。今迄の各大会の結果を見れば、誰もが金メダル候補の選手であることは解ります。応援にも熱が入り、期待も大きくなります。
 しかし結果は、彼女は惜しくもメダルを逸しました。誰よりも悔しかったのは彼女だったと思います。結果がメダルに届かなかったのは、コーチのコメントに依ると、「追い風」が吹いた為のようです。ジャンプは向かい風の時には、体が浮くのですが、追い風では逆に失速するのだそうです。解説にも「上位3名の選手と違い、2本ともに追い風を受けたことでテレマークを入れられず、ウインドファクターではカバーしきれないマイナスの影響を被った」とありました。
 ジャンプ台のスタートに立った僅かな時間に吹く風で、飛距離が変わります。いわばそれは自然という人智を越えた空間を飛び抜ける以上、天才と言えども抗えないことなのでしょう。
 彼女は、試合後に「1本目も2本目も自分が納得いくジャンプが出来なかったのですごく残念です」「本当に実力があれば関係はないと思うので、実力が足りなかったのだと思います」と固い表情で必死に答えていました。風のせいにしないところが、より一層選手の立派さを際立たせていました。
 高梨選手を送った北海道の上川町の住民は、喩えメダルが取れなくとも、ふる里に帰った時は、花火を上げて快挙を讃え慰労するとテレビで知って、とても嬉しく思いました。未だ若く真面目な努力家ですから、責任を感じて、さぞ辛い思いをしているこであろうと案じています。未だ15歳です。きっとこの経験を今後の人生に生かしてくれることと信じています。
 男子フィギュアスケートの羽生結弦(はにゅうゆづる)選手が、実にスピード感溢れる華麗で多彩な演技で金メダルを獲得しました。素晴らしい演技でした。未だ全ての競技が終わったわけではなく、これからも様々な選手の活躍や、感動を分けて頂く機会があると思います。
 日本の片隅で、心から応援しています。

今回花となったオリンピックの選手の方達に「坂村真民」の詩をささげたいと思います。

 花
何が
一番いいか
花が一番いい
花のどこがいいか
信じて
咲くのがいい

 花
花には
散ったあとの哀しみはない
ただ一途(いちず)に咲いた
喜びだけが残るのだ

 

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立春から雨水へと季節は巡るけれど

2014年02月08日 | 随筆・短歌
 暦の上では春になりました。そろそろ私達も寒さの中で、知らず知らず身に纏ってしまった殻を脱ぎ捨てて、温かい春の光が体の中まで届くように身軽になりたいものです。ついでに身近な人達にも、温かい目を向けて、一緒に春を喜べたら、きっと幸せは二倍になりますね。その上、今生きている人達の事ばかりでなく、これから先を生きる若者達や、もっと何十年何百年も先を生きる人達のことも考えると、今、私達がしなければならない事が薄ぼんやりとではありますが、見えて来るような気がします。立春の次は雨水です。確実に日足は延びています。
 東京都知事選が近づいて、各候補がさまざまな意見を発表しています。それらの散らばっている良い政策を取り出して纏めたら、きっと一層良くなるのではと思ったり、時代が要求していることが明確になって来たりします。
 これらの意見を聞いていますと、様々な疑問が湧いて来ます。貴方はどうお考えでしょうか。
 原発はこれからも使って行くべきだと思われますか。
 オリンピックを世界一にすることと、弱者救済・ひいては東北の復興とではどちらに重きをおかれますか。
 老人ホームの建設はコストがかかるからと、他県の地方自治体に老人を送り込んでいる実態をどう思われますか。
年金が減りました。消費税は増税になります。しかし、大企業は減税です。どうもしっくり納得出来ないのですが、政策的にこれは正しいのでしょうか。
 大阪市が都になるために、市長が辞職しました。再選挙に6億円かかるそうです。経費削減を主張する市長の筈ですが、矛盾しませんか。
 国会が膨大な補正予算を決定しました。無駄だと言って、切った筈の予算も復活しました。国家予算は国民の為に使うという基本理念が、おかしくなっていませんか。
 自由には責任が伴います。非正規雇用の枠を外せば、企業は使い捨てできるので、有利かも知れませんが、雇用される若者は、結婚して家庭も持てず、家も建てられなくなるのではないでしょうか。これで若者は、将来に希望がが持てるでしょうか。
 国民に言うだけで、中身の空っぽの約束が多くないでしょうか。論議をしてもしなくてもさして変わらないのでは困ります。今だに拉致被害者は帰ってきていませんし、見通しも解りません。何よりも解決に向けて努力している姿が見えないのは、どうしたことでしょう。中間報告くらいほしいものです。国民が何を言っても、結局行き着くところへ行くだけのことのような気持ちになります。最終的には選挙をした私達に責任があると言うことになるのでしょう。
 震災から三年経って、原子炉建屋には人間が入ることもままならないものもあり、汚染水は溢れるばかりで、しかも詳しく報道されていません。廃棄物はせめて電力使用者の責任において、東京都が保管してくれるのでしょうか。原子力による発電も、その廃棄物といった危険なものも、全て地方が負担すかるのが、当然なのでしょうか。
 少し厳しいかもしれませんが、これからの日本のあり方を決める大切なことが目の前にあるのに、私達は黙って見ていて良いのでしょうか。私には東京にも福島にも大阪にも友人や親戚がいます。みな大切な人達です。
 私の実家は家系図から見て、250年以上は経っています。その間に一寸考えただけで、自然災害として、地震や津波、火山の爆発、暴風雪、地滑りや雪崩、冷害や干ばつによる被害、家を失い田畑を失い、農家は貧困に喘いで娘を売らなければといった辛い時代もありました。
 たった250年の間に江戸時代から明治に変わる間に、日本で内戦があり、その後日清戦争・日露戦争・第二次世界大戦、がありました。その都度家を焼かれ多くの人が亡くなり、地主は土地を、外地にいた人は財産も取り上げられて、絶望の淵に立たされました。多大な犠牲を払いながら、そのたび事に国民は耐え忍び立ち上がって、ようやく手にした現在の平和です。
 しかし、いまだ戦争の傷を抱えたまま、津波や原子力発電事故の後始末もままならない中で、これが当たり前だと思い込んでいる人達が多い時代になってきました。
 お金を儲けることが何より大切だと思う人が増えているようですが、お金よりも大切ものを捨てては悲し過ぎます。それは生まれ落ちた時から誰もが持っている一番大切な心、慈しみの心、すなわち仏心です。
 成熟した社会にあってもなお、話し合いで物事を解決出来ないことは悲しいですが、そう出来るように努力しなければならないと思います。自分がされていやなことは他人にしてはならないと言われます。自己本位で、しかも強烈な自我の持ち主が、自己主張をすれば、配慮型の人間は、不本意ながら黙って従うことになります。
 強い人間の回りには、へつらう人が集まりやすく、又強い人が身の回りを更に同調者で固めたりすると、ついに暴挙に走りがちなことは、歴史が何度も教えています。
 権力と責任ある立場の人は、身近に反対意見も言う良識ある人を置いて、その意見に耳を傾けて、自らの考えを正しく制御していかないと、やがては自分が見えなくなって、破滅の道をたどることになります。昔はその役目を寺院の和尚がしていたこともありましたが、今は誰がおられるのでしようか。外部識者による委員会といっても、ただ追認するだけの片寄った委員で構成されていたら、何の意味もありません。その役目は国民である私達が、民意として果たさなければならない、ある意味で重い責任を負っています。
 不幸な時代に生まれた人は、その不幸から逃れられません。しかし、そんな中にあっても、幸せを見つけることは誰にもできるのです。幸せは心の中にあって、自分が決めることだからです。
 足るを知り、家族や人々を愛し、太陽や大地の公平な恵みを有り難く思い、今日一日の無事を感謝することは、どんな人にも心一つでできることです。もう一歩進めて、友人知人、偶然言葉を交わした見知らぬ人にも、一言優しく思いやりのある言葉で対応できたら、きっと双方とも、もっと幸せになれるでしょうね。

 「置かれた場所で咲きなさい」という本の著者として有名なノートルダム清心学園理事長 渡辺和子氏の第二作「面倒だからしよう」を早速買って来ました。「置かれた場所で咲くも咲かないも、どのように咲くのかも自分次第」とありました。面倒だからという自分の怠け心と闘った時に、初めて本当の美しさ、自分らしさが生まれてくるという、氏の言葉に感動しました。
 そういえば、アンチエイジングに走って成形したりして、年齢不相応に若いことが、もてはやされるようですが、年を取るに従って心を磨くことで、その美しさがにじみ出ている人に出会うと、尊敬の念を禁じ得ません。皺の一つ一つが人生の苦難を乗り越えてきた、勲章のように見えるからです。
 私が尊敬している方達の中に、そんな人がおいでです。少しでも近づきたいものだと思っています。

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