ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

「絆」のその後

2012年05月25日 | 随筆・短歌
 去年の3.11の大災害から1年3か月になろうとしています。災害直後から日本のあちこちから援助の手が差し伸べられ、「絆」ということばが流行語となりました。日本全国民が相互扶助の為に立ち上がり、諸外国からも援助の手が差し伸べられて、「絆」は今回の災害復興に立ち向かう日本人の心意気を示す代表語と云っても過言ではないようです。
 ところが最近そう信じることに若干の疑いを感じるようになりました。それはやっと実現し始めた大量の災害の瓦礫処理をめぐって、あちこちの自治体が援助の手を差し伸べようとしているのに、それに「待った」を唱える首長や住民が出始め、混沌とし始めたからです。「がんばれ東北」と大スローガンを掲げて、この大災害をお互いに助け合って乗り越えようとしたあの意気込みは何処へいったのでしょう。あれは口先だけだったのでしょうか。現実問題に直面して、「自分さえ良ければ」といった利己主義の本心が露わになってきたのでしょうか。もしそうだとしたら、ようやく見え始めたこの国の明るい未来が、再び暗雲に閉ざされるようで哀しい限りです。
 あんなに美しい心の日本人達だと、感動したあの温かい心は「幻」だったとは思いたくありません。
 協力出来ない理由は、「放射線は検出されていないと云うけれど信じられない」とか、「安全な範囲というがそれは不確かだ」ということのようです。
 専門の学者が調査して「安全だ」といったものを「信じられない」としたらどうしたら信じられるのでしょうか。確かに放射線の害については、未だ不確かであり、人体への年間許容量が、1ミリシーベルトとも20ミリシーベルトともいわれています。しかし、私達が病院でCTの検査を受けたら、一回に50~100ミリシーベルトの放射線を浴びるそうです。これを半年一回とか、一年一回受けてそれに不安を云わない人が、仮に1ミリシーベルトでも、駄目だというのは、余りにも非科学的であり、非理性的なのではないでしょうか。
 被災地から運び出される瓦礫に含まれる放射能の値が信じられないなら、受け入れ側で、しっかり検査測定すれば良いでしょう。県にその能力があるのなら、それを自治体に提供して、積極的に援助の行動を取って欲しいものです。選挙前だから、などと、民意におもねるような首長の態度や、民意と称する声高な意見に、肩入れしすぎる報道のあり方にも、問題を感じます。事は科学的に判断出来る筈の問題なのに、何故冷静に判断出来ないのか不思議です。
 私達は何時逆の立場に立つことがあるかも知れないのです。今回積極的に瓦礫受け入れを表明している自治体の中には、過去の地震や水害などの災害で、多くの皆さんから助けて頂いた恩返しという所が多いと聞きます。美しいお話です。是非子供たちにも教育の一環として伝えて欲しいと思います。
 昔は良かったと云うと、年を取った証拠だと笑われそうですが、お金を重視しがちな現代において、お金で買えない物、それは人の温かい心です。失われかけた温かい心を取り返す絶好の機会が今なのです。
 この瓦礫の搬入を拒否しようと立ち上がった人の中に、福島の放射能汚染で、自主避難してきた人たちが入っていると聞いて、私は愕然としました。避難しなくても安全だと判定された地域から、それでも信じられないからと避難してきた人たちを精一杯譲歩してその気持ちは解るとしても、二重生活になった費用の補償をせよ、とか、心の傷に弁償金を支払えとか、こうしてやっと逃げてきたのに、瓦礫が追いかけて来るのはたまらないという要求には、もはや言葉もありません。
 現地に残って生活せざるを得ない人達が大勢いて、その人達よりも少なくとも幸せであるはずなのに、人間はこれほど自己本位になれるものなのでしょうか。訴訟社会と云われるアメリカの価値観が、いつの間にか日本を浸食して、「取れるものなら取らなければ損だ」と云わんばかりです。
 被災地の首長からして、これだけ要求したのに、国の支払いが遅いと言い、要求は100%認めるべきだと主張しています。個人も自治体も要求要求の大合唱を見ていますと、何か虚しく思えて来ます。
 そんな中にあっても目を転ずると、東北のある町では、自分達の肉体労働で自主的に瓦礫を処理したり、住民の力、民間の力を引き出す工夫をしています。立派な町民であり、感心な住民の皆さんです。
 相田みつを の「人間だもの」の次の言葉が思い出されます。

 うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる 
 うばい合えば憎しみ わけ合えば安らぎ 

 5月25日の日経新聞には、「がれきを森の防波堤に」と、自治体や企業が智慧をしぼったり、演奏者達が、太鼓やギターの材料に再生法を工夫しているといったニュースが載っていました。こんなニュースから勇気を貰いながら、「私に出来ること」を探していきたいと思っています。 


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海軍さんの街

2012年05月16日 | 随筆・短歌
 連休あけに旅行に出ました。行き先の一つが大和ミュージアムのある広島県の呉でした。戦前から海軍の街、造船の街として賑わった街で、お天気が良かったせいか、明るく活気にあふれているようでした。駅の直ぐ近くに大和ミュージアムがあり、戦艦大和の1/10の模型が三階の高さのビルの中に収まっていました。
 夫がとてもこの船を見たくて、旅行の計画を立てたのが、今から3年前でした。ところが出発一週間前に、突然私が転んで膝に怪我をして、ギブスを巻かれてしまい、キャンセルになってしまったのでした。
 もう二度と行くことはあるまいと思っていましたのに、縁があったようで、再びコースを組み直して、念願を果たす機会に恵まれました。
 戦艦大和は微に入り細に渡って、忠実に再現したと云われるだけあって、堂々たる船体が大きな部屋に鎮座していたました。
 早速一人の男性が近づいて来て、「大和の船首の菊のご紋を入れて、記念写真を撮りませんか」と声を掛けてきました。私達もカメラは持っていたのですが、何しろ三年越しに実現した旅行でしたから、私が「記念になるから撮って頂いたら?」と勧めたのです。夫が戦艦の前に立つと、その人は、海軍士官の帽子を夫にかぶせました。「敬礼をして下さい」と云われて、夫が敬礼のポーズを取りました。夫の敬礼姿は初めて見ました。「良い写真になりましたよ、奥さんも一緒にどうですか」と云われました。私が余程うらやましげに見えたのでしょうか。私もついその気になって、手渡された水兵の帽子をかぶって、改めて夫の横に並び、生まれて初めて敬礼の姿勢をしたのです。どうしたら敬礼になるのか解りませんでしたから、耳の傍に手を当てて、肘を少し下げて敬礼のポーズを取りました。やがて「はいっ」と完成した写真を手渡されました。夫は威勢良く肘を上げた敬礼姿で様になっていましたが、私は情けなさそうな敬礼姿で映っていました。でもとても楽しく忘れ難い記念になりました。
 大和の回りをゆっくり見学してから、次に展示室へ行くと、様々な軍艦等の資料があり、山本五十六長官の飛行機が墜落した時の飛行機の残骸も展示してありました。別の展示室には人間魚雷回天の実物、海龍という二人乗りの潜水艦で、両翼に一本ずつ魚雷を抱え、本体そのものも魚雷になっているという大きな人間魚雷もありました。最近は、命の尊さとしきりにいいますが、こうして散って行った多くの兵士達は何を考えていたのかと思うと、胸が締め付けられる思いがしました。一方こうして守られてきた私達が、今この様に過ごしていることを考えると、目の前の人間魚雷や零戦に、あなたは今をどう生きているか、と問いかけられているように思えました。暫くは無言で眺めつつ、その場を動くことが出来ませんでした。
 観光地は年中無休で、美術館・博物館などは、月曜閉館の所が多いので、その気になっていました。ところが海軍さんの街は翌日の火曜日がお休みだということに気づいたのが、出かける三日前でした。慌てて到着した月曜日の午後に呉の見学を全て終えることに予定を変更しました。折悪しく、NHKの大河ドラマが平清盛だったために、呉も音戸ノ瀬戸への行き来の為に混んでいるらしく、それが少し誤算でした。
 「てつのくじら館」という実物の潜水艦(あきしお)にも乗って見ました。五階建ての高さがあるという潜水艦は、海上では喫水線までしか見えないので、陸上の潜水艦はとても大きく感じられましたが、狭い兵士のベッドやパイプと配線だらけの通路、狭くて孤独そうな?(私にはそう映りました。)艦長室などを眺めて、閉鎖された空間で働く人々の孤独感や圧迫感を体験いたしました。姿を海中に隠したこの地味な存在によって、こうして守られている日本の海に思いを馳せました。元海上自衛隊員かと思われる、しゃきっとした人に案内して頂きながら、実物の潜望鏡を動かして、呉の海に浮かんでいる船をとらえて、良く見えることに感動したりしました。
 夜のテレビ番組で見るべき番組の無い日は、映画が多いので、よく潜水艦の映画も観ました。夫は戦争の映画をよく観ますし、私はむごい戦ではなく、ハラハラドキドキの潜水艦の映画は、共に観たものです。無事に浮上出来ないのではないか、とか頭上の敵をどう回避するか、とか、艦長を中心とした仲間との厳しい闘いが映し出されたりすると、何しろ閉鎖空間なので、何時も不安との闘いとなります。こうして海が守られているのを知って、女の身としては、今与えられている平和の有り難さをしみじみと感じるのです。
 呉に来て忘れずに見たかったものに、入船山記念館があります。旧呉鎮守府司令長官官舎です。正門を入ると、旧呉海軍工廠時計塔や、移築した旧高烏砲台火薬庫(珍しい総石造りの)などが目を引きました。司令長官官舎は、木造平屋建てで、洋館部と和館部から出来ています。洋館部の天上や壁には、重厚な金唐紙が復元されていて、明治38年以来の様子が見てとれます。テーブルや椅子も豪華で、シャンデリアが付いていました。食堂のテーブルには、当時の艦上食のフルコースが並べられていました。前菜からステーキ、アイスクリームに至るまで、贅沢なメニューで、当時の庶民の食事とあまりにもかけ離れた生活に驚きもし、少し複雑な気がしたのも事実です。 
 この建物は40年間に渡って、呉鎮守府長官官舎として使われて来たもので、現在は重要文化財となっています。巡り合わせなのか、ボランティアさんも、タクシーの運転手さんも楽しい人ばかりで、道中のお話が面白く、こんなことも旅の楽しみの一つです。
 呉を後にした私達の話題は、特効兵器「回天」や「海龍」の重々しく痛々しい姿でした。同時に青年兵士達の望んだ祖国は、今のこの国の姿であっただろうかと思わずにはいられませんでした。終戦当時は、極貧に喘いでいましたが、少なくとも心は、今よりは温かかったように思えてなりません。「せめて私達は今以上に温かい心を持つように心がけたいものだ」と話しつつ次の予定地へ向かったのでした。


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バランスの妙と幸せについて

2012年05月04日 | 随筆・短歌
 大地が春になると、心も体も春になります。不思議なことですが、季節に合わせて上手くバランスが取れているようです。
 身体には、交感神経と副交感神経というのがあって、微妙にバランスを取っていることは、皆さんもご存じのことですが、世の中には相反する力を持つものが一組ずつあって、それが上手くバランスを保つ事によって回っていると思うと不思議な気がしてきます。
 電気のプラスとマイナスもそうですし、磁石のNとSもそうです。どちらか一方の力が崩れるとバランスが取れなくなって本来の働きが出来なくなります。
 では人間の心はどうなのでしよう。プラス思考といって、あたかもそちらが常に良いように思われているようですが、やはりある時は、マイナス思考があって、初めてプラス思考が上手く働くように思えます。それが無意識のうちに移行しているのですから、実に上手く出来ていると驚きを感じます。
 そう考えてみると、私たちは自分で判断して、自分で選択して生きているつもりでも、実はやはり何ものかに手を引かれて、生かして頂いていると考えないわけにはいかないようです。
 丁度春になって花が咲く頃、その花の蜜を吸って生きる蝶が生まれ、蝶によって花が受粉して子孫が増えて行きます。自然界にはこの様な相互関係によって、支え合っている植物や動物が数知れず存在します。一見それぞれが独立しているようで、実は持ちつ持たれつでバランスよく生きているのです。申し合わせて生まれて来る訳ではありませんが、みなそれぞれの生を全うしていれば、自然に相手の力になっているというのはすばらしい事です。
 きっと人間も存在するだけで、誰かの役に立っていると思わない訳にはいきません。全てこの世に生きとし生けるものが、お互いに必要としあっているということです。
 私がこんなことを突然考え始めたのには理由があります。私が通っているスポーツクラブで、様々な人の話を聞く内に、幸せを感じ取る心のバランスに、いささか疑問が生じて来たのです。
 或る人は、老いた夫婦二人で静かに暮らしていたのに、息子世帯が低所得の為に転がり込んできて、成長期の孫達と食べ物の嗜好も違うし困ると云うのです。又或る人は、大家族で賑やかに楽しく暮らしていたのに、娘夫婦の夫がアメリカに転勤になり、家族そろって行ってしまい、家を守るのに一人残されたと。
 これはどちらの場合も、不孝だと云う気持ちも解らないではありませんが、先のプラスマイナス調和という観点から考えると、それはそれで、幸せな面もあり、必要とされている家族の一例でしかないとも云えます。
 どう受け止めるかは、その人の考え次第ですが、自分を家族内のどの位置に置くかとか、自分の生き甲斐を何処に見つけるかということと相まって、決して不孝とばかり云えない気がします。
 そう考えてみますと、自分の置かれた境遇をプラスとマイナスの両面から見直してみる事も大切に思うのです。微妙なバランスを取りながら、世の中の事象がスムーズに動いていることに気づいたら、私達の心の中も、幸・不孝の境遇までが、バランスの上に乗っているように思えて来ました。そう思うと、ただ不孝なだけの人生なんて本当にあるのでしょうか。幸せな面を自分で隅に押しやっているだけなのかも知れないのです。そうでないと大自然の摂理に反する事になってしまいます。
 世はまさにゴールデンウィークの最中です。私はこの期間はもっぱら竹垣を洗ったり、アプローチや庭石の手入れ、家中のカーテン洗い、押し入れの掃除、と家族の手を借りながら一年一回の仕事をせっせとします。すっかり綺麗になる頃に休みが終わり、それからただちに旅行に出掛けるのです。
 約半年を掛けて計画を立てていますから、楽しみです。遠くない日に、足腰が思う様に動かなくなり、行きたくても行けなくなるでしょう。与えて頂いた時間を大切に楽しむのも、大いなる生き甲斐です。 

 鶯の初音を待ちて老いゆかな(実名で某紙に掲載)

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