ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

美しく老いる

2018年11月21日 | 随筆
 人生の最終章にさしかかって、来し方を偲び行く末を思ったとき、これからの老いの年月を如何に生きて行くべきか、と問う心が湧いてきます。
 身の回りに居る優れた生き方の人を見習いたいと思って、周囲を見回して見ました。そんな時に思い出されるのは、何故か夫の友人で、学生時代に研究室が同じだったという女性です。つい先日も夫に「お誕生日おめでとう」と云う電話が入ったからかも知れませんが。何しろ遙か昔からのお付き合いにも関わらず、何時も優しい気配りのゆき届いた方です。
 その人と私が初めて顔を合わせたのは、或る短歌会が催された時で、たまたまその方の住んでいる市で開催されて、出席する私に同行した夫は、駅頭で卒業以来始めての再会を果たしたのです。勿論私は初めてお会いする方でした。
 処が、改札口近くで待っていて下さったその方に、私はまるで長い間のおつき合いの方に久し振りに逢えたような錯覚に陥り、思わず両手を差し出して握りしめていたのです。今考えるととても不思議です。たまたま夫より少し前を歩いて居ただけでしたのに、何故こんなに親しい感情が湧いて来たのでしょう。
 その時の事を、彼女も先日同じような感情で握手したと云い、あの時の事が忘れられないと云っておられました。その日彼女ともう一人の同級生と昼食を共にしながら2時間ほど話し込み、私はその脇でお話を聞いていました。直接彼女にお会いしたのは、その時だけでしたのに、その後の夫とその方とのメールや電話のやりとりから、私はその方に一層引かれて行ったのです。
 美しく老いるとは、こういう人のことか、と思うに到って、今は尊敬の念で様々なお話しを聞いています。そのAさんは、学生時代に同級生のB氏に恋をしたそうです。ところがB氏には、親の決めた許嫁(いいなずけ)が居て、この恋は実らなかったのですが、或る日Aさんと二人でバーンスタイン指揮の「ウイーンフィル」を聴きに行った事があったのだそうです。
 B氏は卒業して許嫁と結婚されました。B氏と夫は、長く電話やメールの交換があり、各々名産品の交換もあって親しく付き合い、彼が病気で大学病院へ入院した時も、遠いので二人で一泊してお見舞いにも行きました。B氏は大学教授で、背が高くてハンサムでした。奥様が外出されると寂しいらしく、よく夫のところへ長い電話が来ました。
 或る時電話で、Aさんは「私はB氏に卒業以来合っていない」と云ったそうで、何も知らなかった夫は「取りあえず電話したら?」と云いました。するとAさんは「私泣くもの」と云ったのです。意外な言葉に驚いて「えっ?何故?」と問うと「だって初恋の人だもの」と告白する彼女に夫は言葉を失って、しばし呆然としていたと云います。
そんな事があった後、B氏から「バーンスタイン指揮のベートーベンの第6のCDが欲しいのだけれど、中々見つからない」という電話がありました。「カラヤンなら今手元にあるけれど」と夫が云ったのに、「カラヤンではダメなのだ」と言うのです。何となく違和感を感じたもののその時はそれで話が終わりました。
 この続きは思いがけなく、くだんの駅頭の出会いへと続くのです。短歌会の表彰式も終わって、翌日の帰りも彼女たちは駅頭へ送りに来てくれました。そこで「B君がバーンスタイン指揮のベートーベン第6が欲しいと云っていた。カラヤンならあるといったのに、それではダメだと云うんだ」と夫が何気なく言ったのです。
 するとその時、Aさんは突然真っ赤な顔になって、両手で顔を覆いました。予期せぬ事態に、三人とも無言のまゝ彼女の感情の高ぶりが去るのを待ちました。彼女はその時、自分と同じくB氏もあのコンサートを忘れられないでいるのだ、と初めて知ったのです。当時70代の女性が、20歳の頃の
初恋を今も大切に胸に納めている純情さに、私は強い衝撃を受けました。
 卒業後、彼女は大学病院の医師と結婚しました。その医師の家はお寺でありましたから、忙しいご主人に代わって様々なお寺の行事を行ったり、ご近所の女性にお花を教えたり、広い寺院のお庭の草取りなど、本当に大変なお仕事を切り盛りしておられました。
 やがて私はネットでバーンスタインのCDを見つけて手に入れたのですが
、残念な事にB氏は已に鬼籍に入っておりました。夫はそのCDをAさんに送りました。彼女からは「毎夜一人で聞いて当時を懐かしく想い出しています」とお礼の電話がありました。
 現在Aさんは、身体を動かすには杖がいり、買い物や庭草取りなどの他、様々な行事もご近所の女性が次々に助けて下さって、困らないようです。「有難い事です」と電話で言っていましたが、私は「Aさんだからこそでしょう。あの温かい慈悲の心お持ちの人だから、以前お世話になった人達が見捨てて置かないのでしょう。」と思っています。
 美しく老いるには、それまでにどのような生き方をして来たのか、という前提が必要なのだと、今更ですが私は納得しています。生きて居る限り私達は、人に優しく温かく、思いやりを持って接する必要があるのだと、しみじみ教えられる出来事でした。


短歌に魅せられて

2018年11月05日 | 随筆
 特別に動機があった訳ではなく、短歌に惹かれてNHKの生涯学習講座で短歌入門を受講したのは、1991年(平成3年)6月でした。その年の1月に義父が旅立ち、お世話になった義両親の最後の親孝行の看病が終わりました。
 職を退いてからは、今迄出来なかった好きな事を学ぶのが、長い間の念願でもありました。
 受けた講座は再学習を除いても、30種類以上になります。短歌講座だけに絞ってみると入門から始めて現在に至る迄、入門を繰り返すこと6回、途中で少し休んだりして、次ぎの実作講座を1年間、そして平成10年4月以来、短歌友の会でずっと続けて学んでいます。原則この講座は添削はしないのですが、講師先生のほんの一言や一文字、僅か添削して頂いても、短歌は一変します。こういう経験を繰り返すほど、指導者の素晴らしい力量を感じて、研ぎ澄まされた感性に感動するのです。
 私の傍らにはいつも短歌の本があり、歌語字典、類語辞典、古語辞典、逆引き頭引き日本語辞典など辞書類も増えました。独りで静かな家の中でこつこつ学んだり短歌を推敲することが、現在の私の生活の中では、最高の幸せな時間です。
 創作活動は時間がかかりますが、充実感は格別です。沢山作ってパソコンに書き込み、時折夫が暇そうにしている時に、読んで意見を聞きます。大抵は即座に「ダメ」が出ます。一度で「いいんじゃないか」と合格することなんて滅多に無いことです。推敲し直しても、「もう一息、心を打つような言葉はないか」とか云われて、なかなか合格しません。手垢が沢山付いた様な言葉はいやですし、それが夫の作戦です。実際私には更に推敲して何とか良い作品をつくりだす、熱意の手助けにもなっています。
 しかし、中々良い短歌なんてスラスラ出来る訳もなく、根負けして最後は残念ですが、妥協の産物の短歌になったりします。折角ですから、挫折して放り出す事もしたくないし、何とかギリギリで、ハガキに書いたり、ネットで投稿して来ました。力不足の私には、幸せな時間と云いつつも、苦労の多いノルマです。
 思えば始めて新聞に載せて頂いた歌は、地方紙で馬場あき子選の平成8年6月の短歌です。

☆身の丈の幸せはあり喩うれば道端に咲くタンポポの花  

 ところが平成9年8月のNHKテレビの歌壇に岡井隆選で

☆ビードロの風鈴の音と共にある浴衣桐下駄綿あめ金魚  
を放映して頂きました。
 すっかり嬉しくなって、次々に新聞やテレビの歌壇に投稿しはじめたのです。
NHK全国短歌コンクール入選 平成9年11月

☆夏祭り果てて出店を畳み居る男は一瞬暗き目をする

日本経済新聞 岡井隆選 平成9年11月
☆玻璃を打つ時雨の音に目覚むれば生きねばならぬ一日がある

NHK友の会機関誌 「彩歌」 秋号 平成10年11月
☆新聞をめくる音のみ聞こえ来て職退きし夫との静かなる朝

などと次々に採って頂きました。自分の歌が活字になったりテレビ放映される等とは、全く考えてもみない経験でしたから、その喜びは喩えようもありませんでした。
 全国放送の時は兄弟姉妹にも知らせました。NHKから予め電話でお知らせがあったので、テレビの前に夫と並んで観ていたのですが、10首の発表があった後に順位の発表があり、そこで岡井隆選者から、「第2席」に採用して頂いたのです。急に心臓の鼓動が早くなって来て、起きていることが苦しいようで、放映が終わると早々に寝てしまいました。
 山口県の湯田温泉へ家族で旅行中の弟家族は、家族全員で観たと知らせて来ました。録画して送ってくれた別の弟や、姉妹からも電話や手紙が届いて、喜びを分かち合ってもらいました。今考えると何とも言えない想定外の経験だったのです。
 目の前に新しく生きる道が一筋見えて、サッと眼前が開けた感じです。人生には予想出来ない事が起きることもあるのですね。
 
 過去に幾度も自分は理系だと思っていたと書きましたが、男の兄弟は全員工学部に進みましたし、私自身も数学が好きでしたから、理系だと思い込んで来ました。しかし、後に父も数学を学ぶ為に渡米しようと、英語を学んでいて、そのまま高校の英語教師になったと聞いて、似ているのかも知れないと思っています。
 でも私は語学はとても苦手なのです。なのに何故か子供達は、語学は得意だったようです。表現力も私はずっと以前から我が子には叶わないのです。従って下手の横好きの如き現状は、私自身にも信じ難いところなのです。
 この話を今回夫にしましたら、夫が自分は理系だと思って、大学入試も理系を選択したら、担任教師に「君は文系なのに理系へ進むのか」と云われ、その時のショックは今も忘れないと云います。今思うとその教師の仰ったことが正しくて、自分という人間を正確に把握していなかったと、つくづく述懐しています。
 私も今になって、このように短歌を詠んだりブログを書いたりする等は、高校時代は到底想像も出来なかったのです。
 高3の頃に私と机を並べていた友人は、授業の合間にちょっとした暇があれば、ノートの端に窓の外の景色を、鉛筆でスラスラと見事な小作品に仕上げたり、紋様を幾つも重ねて素晴らしい美術作品を描いたりしていました。その上成績も良かったのです。やがて彼女は美術の教師になりました。早くに才能に目覚めた例と言えるでしょう。
 私達はそれぞれに、何世代も昔からの祖先のDNAを引き継いでいて、兄弟姉妹で似ている処があり、幼い時代や老いてからも、折に触れてDNAを強く感じることがあります。神様は各人に様々なDNAを選んで与えて下さり「どれでも好きなものを選んで生きて行きなさい」と教えて下さっているように思えます。
 私が職を退いてから、NHKで学習した事が一生の趣味になるとは思いもせず、又「ブログでも書こうかな」とポツリとつぶやいた時「それは良いね」とさっと私のブログを立ち上げて「さあ書いて」と息子に急かされました。そうでなかったら、私にはブログを立ち上げる程にインターネットの操作の技術は無く、到底無理でした。文章を書いてブログに上げる作業は簡単で、誰にも出来ることです。
 今迄見えなかったけれども、こんな得意分野があったのかと、自分でも驚く程に書く事が好きになりました。2009年3月3日から始めたブログは、455編の随筆になっています。
 まだこの先にどんな動機で何に興味を持ち、どんな事が起きるのか、私のこれから先の「生きる楽しみ」にも繋がっていると思ったりしています。
 人間とは、自分が何者なのか死ぬまで解らずに、ともかく根気良く日々努力を重ねているのでしょうか。その99%の努力に1%のひらめきを持つことが出来た人が、エジソンのように特別な結果と幸せを引き寄せる事が出来るのかと、興味は尽きません。
 今迄興味も覚えず、全く知らなかったことが解るようになったり、出来るようになったりする事は、この歳をしても大変な感激です。
 しかし、楽しみは苦しみも伴います。一つのリポートに5首の短歌を提出するのが、NHKの私の講座のノルマですし、週2~3首新聞などの投稿があります。それを仕上げるのに、四苦八苦することもあります。
 この様な年月を持てたことが、時に引っ張ったり押したりして、つき合ってくれた家族との、何よりの幸せでもありました。短歌は万葉集から始まって、現在まで続いている文学です。日本の歴史に花を添えています。私がNHK講座や歌壇の他に、購読している新聞に投稿したという行為も、きっかけは夫の一言であったり、何かに導かれたようでもありました。過去を振り返って考えると、そのような行動を起こした事と、それがたまたま活字になった喜びがエネルギーになって、現在も苦しみつつ歌材を探し、推敲に呻吟しながら、生きて居る充実感を頂いて居ると云えます。
「若い頃の苦労は買ってでもせよ」との格言がありましたが、今となっては買うことは出来ても、花を咲かせたり実らせたりする時間は無いようです。進む方向に戸惑うばかりの人生でしたが、世界に又と無い日本特有の文学であり、その粋を凝縮させた短歌に出会えたことを、深く感謝しています。

来し方の苦しき日にも歌ありて三十一文字に託す我が生 あずさ