ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

似通ったあの町この町

2011年07月29日 | 随筆・短歌
 「あの町この町日が暮れる 日が暮れる 今来たこの道 帰りやんせ 帰りゃんせ」という歌をご存じの人は多いかと思います。小さい頃から私も沢山の童謡を歌って育って来ました。幼い私が何時もこの歌を歌う時に、「お家がだんだん遠くなる」という歌詞にとても不安になりました。
 何故、帰ろう帰ろうと言いながら、お家がだんだん遠くなるのか、ということが疑問であり、不安の原因でした。帰ろうと思えば、直ぐに帰る方向に足が向いている筈なのに、(当時の私もそうしました)何故だんだん遠くなるのか、そして「お空に夕べの星が出る」のです。夕暮れが進み、家は益々遠くなっているではありませんか。何故もっと早く安心なお家に帰らないのか、小心の私にはこの童謡は「怖い歌」だったのです。
 勿論今は懐かしいばかりの、野口雨情作詞、中山晋平作曲の素敵な歌であり、時に口ずさみもします。歌詞全体をひとまとめにしてみれば難なく理解出来るのに、やっと理解し始めた幼い頭で、歌詞の意味を考え考えして歌っているので、次第に遠くなっていっているらしい家路に不安が募ったのです。ずっと後にこの部分が秀逸なのだと知りました。 
 退職してから、毎年少なくとも年二回は長い旅行をするようになり、古い話ですが、ある時九州へ行きました。福岡までは飛行機で行き、そこからハウステンボス・長崎方面へ行く予定でしたので、長崎線に乗り換えました。ふと気が付くと、列車は単線のレールの上を走っていました。福岡から長崎という、こんな幹線が単線だなんて・・・、と驚きを隠せませんでした。 やがて名も知らない駅で、時間合わせの為か少し停車しました。無人駅と思しき駅は、静かで誰も居ませんでしたが、手入れが行き届き、ホーム脇にはどこの駅でもそうであった様に、花が咲いていました。また、駅裏の建物は、何処と言って特徴が無く、何処にでもある家が線路間際まで並んでいて、平凡ないわゆる耐火ボードを外壁にした住宅で、「ここは何県か」と聞かれても答えようがありません。
 どの市や町へ行ってもそれぞれに皆慎ましく暮らしているようで、門から家迄の距離が何キロもあるというイギリスの豪邸のようなものも見あたらず、田畑の多い田園地帯でも、農地解放によって、こじんまりとしていてもそれぞれの自宅に、心安らかに住んでいる、といった様子が見て取れました。小さな庭でも良く手入れされているものが多く、瓦の家は、居住している人を安全に守ってくれているように感じられました。
 飛行機で福岡に向かっていく時に、ある山間の村の上を通りました。機上から見る豆粒くらいの家々は、集落毎にまったり点在したりしてこそいますが、どの家にもそれ相応の暮らしがあるのだなあと、感慨無量に思います。悲しいことも嬉しいことも、皆家に包まれて、こんな山あいでも、家の数だけの暮らしがあり、人間の営みがある、という当たり前のことが今更のように愛しく思えて来ました。
 当然ですが飛行機は福岡近くの海上を旋回しました。関門海峡近くに島があるとは知りませんでしたので、此処は瀬戸内海か?などと、勘違いしたりしている内に、静かに空港に降りたのです。その後日本のあちこちへ行って、日本が如何に沢山の島国で出来ているか、ということも自分の目で見て知りました。これだけ沢山の島国でも、何処も金太郎飴のような家や暮らしがあるのかと思うと、平等が行き渡ったとも言えるし、特徴が無いとも言えるように思ったのです。日本は識字率も高く、誰もが標準語を話し、従って国内である限りどこに行ってもまごつくことはありません。
 帰る家が有りさえすれば、安心して幾日でも旅行に行っていられます。普通7日~10日程の旅行も、最後は「未だ居ても良いね」という位元気でした。何処へも道は続き、日本の隅々までを繋いでいます。道路の良いことといったら、北海道では、西の海岸から東の海岸まで自家用車で行きましたが、ある区間で、ひたすら真っ直ぐな道路が、行けども行けども先は雲の中、といった一般道がありました。しかも誰が歩くのか、きちんとした歩道まで付いていて、実に快適なドライブでした。双方向やや広めの一車線ずつで、擦れ違う対向車も殆ど無く、当時の様子ではこれでも高速道路は必要か?と思われました。
 その後政治家たちの間で、北海道に高速道路が必要か、と論争になったことがありましたが、地元の人が、「必要ない」と答えていたことがあり、印象的でした。国の隅々まで、道路が行き届いて便利になりましたが、それにつれて、住宅も大きな施設も、ローカル色が失われてきたようで、淋しく思っています。飛騨白川郷の合掌集落や、うだつを上げた四国や美濃などの各地の商人の町、丹後半島の伊根の舟屋、南部の曲がり屋など、少し残った古い伝統的な家屋もありますが、多くは現代を生きる人々の建て替えにより、同じような機能的な家に変わってきています。
 最近になって、地方の文化を大切にしようとする動きが目立って来ましたが、ローカル色も個性も、大切に保持してこそ、日本の良さが残され、維持して行かれるように思えるのですが、どうでしようか。
 私の街でも古い街道が残っていて、荷車しか通らない道もあります。曲がりくねっていますから、勿論車は入れません。昔はそれで十分だったのです。私はそんな木漏れ日の当たる小道を歩くのが大好きです。

 囁き小路と我が呼ぶ細き裏小道ほのかに漂ふカレーの香り (再掲)

ほのかなる香の香りの路地に流れ独り居の媼健やからしき (再掲)

老ゆるほどふるさと訛りが口をつくねぐらに帰る白鳥の群れ(実名で某紙に掲載)

我が愛しき邪鬼(じゃき)たち

2011年07月22日 | 随筆・短歌
 自分でも何故なのか今だに分からないのですが、何時しか仏教に興味を持ち、仏様を尊崇する気持が強くなり、お寺について関心が高まってきました。ところで最近特に興味をもって眺めているのが「邪鬼」です。
 本尊を守っている四天王が、足の下に踏みつけている「よこしまな心を持つ鬼であり、邪悪なるもの」といわれるあの邪鬼です。私のささやかな知識によると、初めから今のように、四天王に踏みつけられていたのではなく、インドではストゥーパの門柱を支えていたようです。詳しいことは知りませんが、京都の東寺へ行きますと、薄暗い講堂にズラリと迫力を持って並んでいる立体曼荼羅と呼ばれる仏像群の中で、邪鬼を踏みつけているのは、四方を守っている四天王ばかりでなく、明王の中にも、憤怒の形相で邪悪なるものを踏みつけて居られるものがあります。
 明王の憤怒の形相は、人間を救おうとする並々ならぬ決意の形相であると言われます。勿論四天王は、固い決意で、本尊を守っているわけですから、それを表現するのに、邪鬼を踏みつける迫力は、その真剣さ、偉大さを認めさせるためにも必要なのだと思います。
 足の下の邪鬼は、ある者はこれ以上の痛みは無い、といった形相で踏みつけられ、又ある者は、参った!といった顔で、またあるものは恨めしそうに踏みつけている四天王を下から見上げています。それぞれに筋肉隆々の邪鬼で、決して易々と倒され音を上げる弱々しい邪鬼ではありません。
 面白いことに、隙あらばその足から飛び出して、反撃に打って出ようという形相のものがあるかと思うと、剽軽(ひょうきん)な顔で、踏みつけられていることをまるで楽しんでいるかのようにさえ思われるものもあります。
 私が見た中で一番古い邪鬼は、多分法隆寺の木造の四天王の邪鬼でしょうか。四天王は本来は憤怒の形相のところが、ここは何故か、比較的穏やかな顔をしておられます。従って、踏みつけられている邪鬼も、少しばかり穏やかな感じを受けます。「和」を尊ばれて、新しい国造りに励まれつつも命絶えた、聖徳太子の魂を慰める為に建立されたという説があるようですが、そういう事も一つの理由なのでしょうか。
 中でも広目天の邪鬼は正面を向いて、頭の上に広目天の両足を載せ、両肘を折った形で、耳の近くに掌を拳に握り、眼は下向きで、厚い瞼の下に細くあり、口だけが、左右に大きくへの字になっていて、じっとこらえている感じが出ています。ても広目天も邪鬼も何となく穏やかです。
 同じ四天王でも、東大寺の四天王となると、顔立ちも厳しくなり、従って邪鬼も、広目天の邪鬼などは、今にも飛び出そうと隙を狙っているようにも見えます。後ろ側の広目天と持国天そのものの顔立ちは、比較的怒りは押さえられているようですが、邪鬼は違います。
 更に高野山金剛峯寺にいたっては、鎌倉時代の仏師、快慶作という四天王は、一層迫力があって、邪鬼もまた並々ならぬ迫力があります。こういった邪鬼に何故心が引かれるのでしよう。
 私は仏像に興味を持ち始め、古寺を巡って仏像を眺める旅を始めた頃に、仏像彫刻の中で、一番先に気に入ったのが、中宮時の弥勒菩薩像と東大寺の戒壇院の四天王像だったのです。東大寺戒壇院を守る四天王は、日本人の身長に近い位の小ぶりではありますが、それは見事な像で、均整の取れた美しさと逞しさで、遠く中央アジアの様式の甲冑を身に付け、四天王のその精神がひたひたと伝わってくる見事な像に、感嘆しきりでした。
 その時は未だ邪鬼には余り興味は無かったのですが、ある時、邪鬼だけ少しばかり抜き出して、写真になっている資料本に出会いました。それを眺めている内に、邪鬼の立場にやや同情する心が芽生えたようです。
 よこしまな心を持った邪悪なるものとして、踏みつけられ押さえつけられていないと、世の中が平和に立ちゆかないといった様に、重い四天王の両足で踏みつけられ、身動き一つ出来ない様子は、何とも気の毒ではあります。平べったく潰れているものさえあります。
 四天王の強さを表現する為に、考え出された邪鬼なのか、四天王にはそれぞれ名前があるように、邪鬼にも名前があるものなのか、私は知りませんが、一つ一つの邪鬼をじっと眺めていますと、矢張り愛しき者と言えそうな感じがして来るのです。「將たる者は心に一匹の鬼を飼わねばならない」と將たる者の心得を言った武将がいましたが、リーダーの条件として、それくらいの心構えが必要なのでしょう。人間は心の何処かに、ある種の邪鬼を持っていることを悟らせようとしているでしょうか。又、これを作った仏師の、主役を引き立てようとする魂の有り様に、感動する心があるとも言えます。 
 東寺では、四天王ばかりでなく、明王の足の下に踏みつけられているものがいます。
例えば、降三世明王立像(こうざんぜみょうおうりゅうぞう)の足下に踏むのは、この明王が、むさぼり、いかり、おろかさという、三界の悪を 降伏(ごうぶく)することを目的としていますので、それを表す為に、ヒンズー教の煩悩を表す主尊と、無智を表すその妃を踏みつけているのです。東寺の講堂はこの世を救う為に、怒りに満ちた明王五体を左に、中央に本尊の大日如来を含む如来五体、右に菩薩五体を据えて、それを守護する四隅の四天王、加えて帝釈天と梵天の計21体の像によって出来ていて、まさに圧倒される思いです。眼が五つある、珍しい金剛夜叉明王像などは、戻って二度も見て来ました。
 京都駅から直ぐ近くにありながら中々行けなかったのですが、一たび空海発願の立体曼荼羅と言われる彫刻群に取り付かれるや、時間があれば通って眺めます。
 少し面白いことに、法隆寺の多聞天の邪鬼と、後に行った延暦寺の多聞天の邪鬼がやや似ていることに気付きました。延暦寺の多聞天は、体躯堂々としていて、身に付けた具足も少し腰を捻った出で立ちも力がみなぎっていて、法隆寺の静かな多聞天とは違いますが、邪鬼は少しユーモラスで、前向きであることや両手を肘から折っていることなど、共通点があります。法隆寺は、眼は下向きてですが、延暦寺では目玉が飛び出しています。
 こうして邪鬼に目を奪われて来ますと、沢山の寺院に四天王が居られますから、中々面白いものです。内部を写真に撮って来ることは出来ませんが、買ってきた資料や、手持ちの本などから、探し出して比べると、又新しい面白さが発見出来ます。
 仏様や、仏道に励む人達には、大変失礼に当たるのかもしれませんが、アルバムや本棚から引き出した本を眺めたりしながら、暑い夏の日の楽しみ事にしています。
 
 邪鬼もまた愛しと思へる日のありて薄暗き古寺に目を凝らし見る(あずさ)
 
 顔の高さに合掌しつつゆく僧の横顔若し永平寺回廊 (実名で某誌に掲載)

もっと寛容であったなら

2011年07月15日 | 随筆・短歌
 去年の秋に植えた金婚記念の沙羅の樹に、白い清楚な花が咲いて、私達を楽しませてくれています。植えた時はまだ緑の葉でしたのに、秋が深まって思いがけず真っ赤に紅葉して、心を明るく楽しくしてくれました。この花の咲く本来の記念日の今年の夏を、家族揃って無事に迎えられるだろうか、と心の何処かで不安を感じていたのですが、今は心安らかに眺めています。
 来年の今日という日があるのか、と思う気持は、矢張り私達のような年齢になりますと、事ある毎に感じます。あの日から後に、想像しえなかった大地震と津波があったのですから。あの3.11以来、政治も人々の考えも、とても変わって来た様に思えて、戸惑ったり考え込んだりすることの多い日々です。
 年一回の整形外科の検査を受けなければいけない時期なのてすが、半年くらい先延ばしにしてしまいました。この下書きをしてすいる現在、部屋の温度計は30℃を越えていますので、外は2℃プラスで、32℃を越えているでしょう。けれどもこの夏はエアコンを可能な限り使わずにいます。何かしら、私に出来ることがないかを考えながら、思いつくままウチワの風に昔を偲んでいます。国難を乗り切る為に、国民の一人として私に出来る事を探して、せいぜい努力している積もりなのです。節電から始まって、ガス、水道に迄気を遣うようになってきました。
 将来の日本が安心安全でありますように、それは誰もが考えることです。免役学者の多田富雄氏が、去年亡くなられました。能楽にも深い造詣を持っておられました。ご存じの方も多いと思いますが、2001年に出張先で突然脳梗塞で倒れて、半身不随になられました。当時は話すことも動くことも出来ませんでしたが、以来、リハビリに専念されて、奇跡的に不自由ながら話も出来るようになり、パソコンで執筆活動もなさって、沢山の書物を記され、能楽の台本も書かれました。
 昔は脳梗塞で倒れた人は絶対安静に、と言われて寝て過ごし、殆どの人が歩くことを諦めなければなりませんでした。現代医学の進歩で、回復の為には可能な限り早くからリハビリを始めるようになり、その為に可成り重度の人も杖にすがって歩けるようになりました。しかし、リハビリといっても簡単ではなく、又直ぐに回復する訳ではなく、何ヶ月も何年にも渡るそれはそれは辛苦の努力がいります。
 当時の小泉内閣は、こうした障害者のリハビリを最長180日に制限する「診療報酬改定」を2006年に行いました。都立病院などは、7割の人がリハビリを打ち切られたとあります。それによって、機能が落ちて寝たきりになったり、命を落とした人も居たそうです。(多田富雄「寡黙なる巨人」による)
 私の知人もご自分も病身でありながら、夫のリハビリを介助する日々を送っておられます。私が通っているフィットネスでも、初日は車椅子で来られて、奥さんとヘルパーさんとフィットネスの職員の三人に支えられながら、やっと機械に乗り移り、動かぬ手足を手を添えて貰ってのリハビリに、汗を流している人を見かけました。とても真剣に取り組まれ、それは涙ぐましい努力でした。毎日お逢いしていた訳ではありませんが、日を追って良くなられ、長い間の努力の甲斐があって、今は奥さんに付き添って貰いながら、杖で歩いて来られます。
 このような不自由な体の人達もそれぞれに希望を持って、病気の回復に励んで居られます。多田富雄氏の死の直前頃だったと思いますが、NHKの番組で、氏の病床からのお話を、テレビを通してお聞きました。
 「未来に希望がもてますか」といった問いだったと思いますが、「これからは寛容が大切です。ゆるすということ、そこに希望があります。」と仰っていたと、記憶しています。私はその「寛容」という言葉に強く引かれ、この言葉を深く胸に刻み込みました。
 現在の日本の状態を見ていますと、日本人の心には、残念ですが、「寛容の心」は今にも消えそうな灯火のような状態に思えます。多田氏が生きて居られたら、涙を流されたかも知れません。
 こんな迷いの中に暮らしていますと、時には心の癒しを求めて、詩を読んだりするのですが、今日は二つの詩を載せたいと思います。

    「 いのちの根 」    相田 みつお

 なみだをこらえて  かなしみにたえるとき
 ぐちをいわずに  くるしみにたえるとき
 いいわけをしないで だまって批判にたえるとき
 いかりをおさえて  じっと屈辱にたえるとき
 あなたの眼のいろがふかくなり
 いのちの根がふかくなる 


    「 そうしましょうね? 」  ポール・ヴェルレーヌ(堀口大学 訳)

 そうしましょうね? 愚者(おろかもの)や意地悪い人たちが、私たちの幸せを妬んだ り、そねんだりするでしょうが、
 私たちは出来るだけ高きにあって、常に寛容でありましょうね。

 そうしましょうね?「希望」が微笑しながら示してくれるつつましい道を、
楽しくゆっくりと私たちは行(ゆ)きましょうね、
 
 人が見ていようが、または知らずにいようが、そんなことはかまわずに。
 ・・・(中略) 
運命が行く末の私たちのため何を用意しているか
なぞは考えずに、歩調を合わせて歩きましょう、
 手に手をとって、混じりっ気のない気持で愛し合う
 人だけが持つ無邪気な心で、そうしましょうね?


犠打の精神と節電の対策

2011年07月08日 | 随筆・短歌
 このところ朝のウォーキングから帰ると、決まってテレビで大リーグを見ている日が多くなりました。居間に一つしか無いテレビですから、夫が夢中で見ていると、私もつい一緒に見ることになり、やがてすっかり大リーグのファンになってしまいました。仕事があるのに中々席を離れられません。余りテレビを見ない生活なのですが、この時間だけは特別です。
 野球はチームプレーですから、チームが勝つために、監督はバント(犠打)のサインを出したり、また気の利いた選手は自らの判断でバントをします。先に塁に出ている走者が塁を一つ進めれば、ヒット一本で一点入る可能性が出て来ます。その代わり自分がヒットを打つチャンスを捨てるのですから、その選手にとっては、折角巡って来た打席を、チームの為に犠牲にするわけです。
 フランスの野球選手は、決して犠打を打たない、と聞いたことがあります。チームの為に自分の打撃のチャンスを棄てることが理解出来ないと言うそうです。
 日本人は昔から、藩の為、主君の為に命を棄てることは武士道だと信じていましたから、犠打には余り抵抗感はなさそうです。しかしフランスばかりでなく、大リーグでも犠打を嫌う選手を見かけます。打率を上げることに、自分の選手生命をかけているのですから、それも分からなくは無いのですが、チームが勝つためには、やむを得ない事でもあります。チームの勝利の為には、犠打も作戦の内で、サインがあれば粛々と、しかも正確に犠打を打てる選手は、日本では貴重な選手です。
 川相という巨人の元選手は、犠打が得意で、きっちりと決めるので、犠打王と呼ばれました。とても上手い犠打で、安心して見て居られました。打者の犠打により、走者が塁を進め、次のヒットに期待する見事なチームプレーに、自己犠牲の日本人魂を見る気がしました。晩年の川相は犠打専門の代打選手になつたりしましたから、自分の打率は低かったと思います。
 さてこれは野球の話ですが、日常の社会生活の中で、私にも犠打が打てるだろうか、と考えています。あの大震災の時にも、自分が津波に流されることを承知で、住民に早く避難するように呼びかけ続けた女性がいて、後で遺体が見つかり多くの人の涙を誘いました。
 こういう自己犠牲の精神を貴ぶ気持があっても、なかなか実行することは、難しいと思うのです。でも一つの命と沢山の命を天秤にかけたら、答えは決まっています。それが実行出来るかどうか、と言うこことは、日頃の信念とか、心構えに掛かっていると言えるのでしょうか。
 今回の地震・津波は、1000年に一度 と言われています。犠打を打つ人の立場から考えて見ると、あれが悪い、これが悪い、と文句を並べている人々が、いささかみすぼらしく見えて来るように思えます。そう感じるのは、きっと私一人ではないでしょう。
 日本全体の復興発展の為に、犠打を打つ地域の住民(例えば既存の原発を安全に留意しながら動かすことに同意する)や、政治家(国民の利益を第一に考え、選挙区だけの都合にむやみに迎合しない政治家。安易な迎合は、自分の次の選挙を優先しているからでしょう)が居ても良いはずだと思ったりします。
 自分に出来そうでない事を人に要求するのは、いけない事ですが、節電と言われて、真面目に節電している老齢の方が、熱中症で倒れでいます。そんな中にあって、全く節電に協力していないのでは、と思われる業界があります。それはテレビ業界です。この未曾有のピンチに協力出来ない筈は無いと思います。何時も正義の象徴であるかのように、報道しているテレビが、どうしたことでしょうか。せめて24時間の三分の一でも、全放送局の放送を一斉にカットしたら、きっと大いなる節電になるでしょう。テレビが無くても新聞やインターネットがあれば、必要な情報は手に入ります。もし午後1時から6時迄、全局で放送を中止したら、節電に成るばかりで無く、国民は仕事に熱中したり新しい娯楽を探し、子供達の読書量が増えたり、学生は勉学に励んだりして、漫然と付けっぱなしでテレビを見ることがなくなり、まさに一石何鳥かになることでしょう。
 どうかこの国難に当たって、テレビ業界も鮮やかな犠打を決めてください。テレビ業界は聖域では無い筈です。国民と苦楽を共に分け合ってこそ、国民の為のテレビです。
 緊急の場合の報道を除いて、日頃から多くの国民が不要ではないか、と考えている番組は一掃していただきたいし、是非とも節電にご協力を御願い致します。
 先日の或る新聞に、2003年にアメリカからカナダにかけて起きた、大停電の記事が載っていました。この夏、日本がそんな事になったら、何万人の命が犠牲になるでしょう。1000年に一度の大津波を怖れる余り、既存で無傷の原発を稼働させないで、このような事になったら、後悔してもしきれないでしょう。60年余り、平和を享受してきた国が、未曾有の国難に直面しているのです。この危機をどう乗り切るか、まさに試されていると思っています。
 各業界、各人が出来る限りの犠打を放ちながら、冷静に智慧を出し合っていくしかないでしょう。節電の為にエアコンを使わず、亡くなられる弱者が出ないことも祈ります。


水玉のコーモリとさくらんぼ

2011年07月01日 | 随筆・短歌
 梅雨の最中です。梅雨といっても最近の梅雨はスコールのように、一時間に40~60㎜位は降ったりして、以前とは様子が変わり驚くばかりです。このような集中豪雨による災害が多くなりました。
 この何ともすさまじい土砂降りに初めて会ったのは、九州宮崎の堀切峠から先に向かっていた時だったと以前書いた記憶があります。良いお天気でしたのに、急に空が真っ暗になって、突然雨になりました。しかし、雨とはいっても頭の上から降ってくるというよりは、下から吹き上がって来るとしか思えない様な雨で、路面を飛び跳ねる水滴に、旅行支度で長パンツ姿の私達は、コーモリをさしていたにも関わらず、見る見るずぶ濡れになってしまいました。あの時の強烈な記憶が今だに残っていて、その時ほど酷い雨には、今もって遭っていない気がします。
 その日の雨ははサッと上がり見る見る青空が出て、何事も無かったような美しい風景が開けました。これが南の国にあるというスコールという雨なのか・・・、と初めて思ったのです。
 しかし、最近はこの様な雨が身近でも時折降るようになり、珍しい現象では無くなりました。地球温暖化のせいで、日本の何処でもスコールの様な雨に見舞われるようになってしまいました。地震で被災された地方が、今度は大雨の被害に遭うなんて、本当にお気の毒としか言えません。地盤が緩んでいますから、地滑りも起こり安く、道路が寸断されて取り残されたり、家に土砂が押し寄せたりします。
 雨も又良し、などと呑気にいって居られない時期ではありますが、ご近所の、手足が少し不自由になっていく病気の女性から、見事な水玉のコーモリ傘の絵手紙と、少し間を置いて青い器に山盛りのつやつや光った赤いサクランボの絵手紙が届きました。
 コーモリの時は、ああ梅雨が近づいたんだなあと思い、サクランボの時は、思わず美味しそう!と声を出てしまいました。「サクランボの美味しい季節になりました。サクランボ狩りにでかけられたらどんなに楽しいでしょう。」と添え書きしてありました。こうして温かい一筆を添えた絵手紙を頂けるなんて、とても嬉しいことです。しばらく机の上に飾って眺めて楽しんでいます。
 昨日午後に少し暇な時間がありましたので、急に思いついてババロアを作り、小分けして、小さな入れ物に流して夕方お届けしました。我が家では食後のデザートを食べることが習慣になっていますが、時折私の下手な手作りのお菓子を出します。今回もやや不手際があり、上手く出来た訳ではないのですが、口に入るものは、何でも美味しいと思う私なので、下手でも余り気にせず、ほんの一口召し上がって頂ければ、と持って行きました。その方はとても喜んで下さって、お届けした私も嬉しく思いました。
 こんなお付き合いが嬉しくて、又何時の日か、温かい絵手紙が届くのを心待ちにしています。少し不自由な手で描くこともリハビリになるようで、絵も上手ければ文字も中々お上手です。手が不自由でない私が書くより数段達筆です。勿論絵心の無い私に絵は描けませんので、何時も感心して眺めているばかりです。
 人は思いがけない時に、思いがけない病に見舞われたりします。病気を持って生まれてくる人も、その人が悪い訳ではあません。多くの人達が病に向き合い、闘い、希望を失わずに生きています。重い心身障害を持つ子供を持って苦しまれるご両親も多く居られることだと思います。以前も書いた気がしますが、神谷美恵子さんも、知人の医師にそういう人がおられて、初めは何故私達に・・・と悲しく思われたのですが、「貴女だから育てられる筈だ」と神が与えてくださった子供だと気付いて以来、その子の為に夫婦で一生懸命助け合って育てられたとありました。「この子があって私達が居る」と思われる迄になったとあり、涙を零しながら読んだことを覚えていてます。生まれて来た子供には罪はありません。まして生んだ親にも罪は無く、矢張り貴女なら育てられる筈だと、神に与えられたと考えることが、子供にも自分達にも幸せを呼ぶことだと思うのです。
 生まれたこと自体が奇蹟です。しかし生まれた日から、死に向かって一日一日近づいて行っています。良く生きる為の努力をし、今生きていることに感謝出来なかったら、幸せな人生だったと総括することは出来ないでしょう。
 どんな奇蹟によって夫婦となり、子供に恵まれ、今を生きているのか、それは誰も分からないことです。これから先も何一つわかりません。でも今日が良い日であり、明日に希望が持てれば、そしてそれが未来に繋がることを信じられれば、それが幸福な人生と言うものでしょう。
 喩え一生一人であっても、それが不幸だと言うことにはなりません。私の知人にも、独身ですが、何時も輝いて暮らして居られる人が沢山います。絵手紙の女性も、どのような人生を歩んで来られた人か知りませんが、矢張り輝いて生きて居られる一人です。
 今日は、これを読んで居られる皆さんにも、この輝いている頂き物のサクランボの幸せを、おすそ分けしたいと思います。よろしかったら、どうぞお受け取り下さい。

 洗髪の匂ひ残して擦れ違ふ茶髪に浴衣の娘らは明るし

 何故ここに居るのかと問ふ我がゐて立春に白き水仙活ける(全て実名で某誌・紙に掲載)