ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

荒城の月

2022年09月25日 | 随筆
 外気温が低くなって、夜は肌に冷気を感じるようになりました。中秋の名月を懐かしむような思いで眺めていたのが、つい先日だった気がしますのに、すっかり秋が深まって冴えた白い月になりました。月の出も確実に一日ずつ時間が遅くなって来ています。
 日本のお城は、日本人の感性によって建てられたせいか、一種独特の威厳と美しさがある様に思えて、私は大好きです。そして日本の城には「松と月」がとても良く似合います。

 旅行好きの私達も日本全国のいろいろな名城を尋ねました。鹿児島の鶴丸城は残っていなかったので、西郷隆盛終焉の洞窟の中から外の景色を眺めました。その風景は、哀しみに満ちていたように記憶しています。洞窟はやや崩れそうなところも見受けられて、歴史の証明者も時の流れにあらがうことは出来ないのだと、訪れる者に問いかけているようでした。
 当時「維新ふるさと館」にも行きました。西郷南州の上着が置いてあって、その頃は「自由に着てみて下さい」とありましたし、私が手を通してみましたら、ダブダブで手は指先まですっぽりと袖の中に隠れてしまって、如何に大きい人だったかが解りました。 今はそのような貴重な上着など着られないでしょう。大久保利通がひらりとコートの裾を翻した像もありました。
 西郷南州が揮毫した「敬天愛人」という素晴らしく力のこもった書も見学出来ました。書はその人を現すといいますが、その通り西郷の人間の大きさと力強さを間近に見た思いで、とても感動しました。
 
 西郷終焉の洞窟も見ましたが、現在はきっと風化の恐れがあって中は通れないし、見学も出来ないのかも知れません。文化財の維持保存については、私達はあちこちの見学で、その難しさを実感しましたが、またその重要性も歴史を風化させないようにと、痛感したのでした。
 西南戦争で西郷軍と激しく戦った熊本城は、石垣に大きなへこみが沢山ありました。初めはこのへこみは何だろう?と思いましたが、やがて大砲が当たった弾痕だと気付きました。それらの砲弾の痕に直接触れてみて、当時戦った人達の勇ましくも哀しい心が伝わってくるように思いました。暫く手で撫でてみたのでした。
 二回目に熊本城に行った時は、改築成った美しい二の丸御殿も加えて、その格調の高い様子や豪華な部屋の数々を感動を持って眺めてきました。瓦を替えるとか、外壁を塗るとか、様々手をいれなくてはならず、そうした維持管理も大変だと思いました。

 池田輝政築城で千姫ゆかりの化粧櫓のある美しい白亜の姫路城も観に行きました。当時は等身大の人形が置かれて、遥か昔が偲ばれました。城攻めの兵士達が、広い路を一気に駆け上がれないように、城への道は幾曲がりもしていましたし、私達も休み休み登りました。化粧櫓もお城で過ごした女性たちの哀感が、籠もっている様に見受けられました。
 北は一風変わった五稜郭がハイカラでしたし、エレベーターで登って周囲をぐるりと見渡しました。かつて遠くこの地までやって来て、此処で闘った人々を偲びました。高い所から眺めましたから、美しい五角形の公園が心に残りました。坂を下りつつ、異国のようなキリスト教の教会にも立ち寄ったりしつつ、当時夫の親しい友人の依頼で、パンフレットを頂いたり写真を撮らせて頂いたりもして来ました。

 仙台では威勢良く騎乗姿の、伊達政宗公の凜々しい像が迎えてくれました。今はアルバムに貼った当時の写真と、買って来た絵葉書を切り貼りした編集のアルバムを眺めて、私達がまだ元気だった頃の感動を引き寄せつつ、当時に思いを馳せています。
 東北地方の旅に出かけた時のことです。会津の鶴ヶ城にも立ち寄りました。たまたまお城の庭園で、お茶の会が開かれていて、「どうぞ、寄って行かれませんか」と誘って頂いて、城内の庭園の緋毛氈に席を空けて頂きました。ていねいに点てられた美味しいお茶を、二人で並ん座ってゆっくり味わわせて頂きました。
 お城の庭園の緑の中で、お茶を点てて頂ける幸せが、夢のように思われました。庭園の一角の野点の席からお城を見上げ、夜にここからお城を見上げたら、そしてそこに月が照り輝いていたら・・・とその時ふとそう思って、何となくその様子を想像したのでした。
 そういえば会津藩家老の一家と侍女たちも皆自刃し、家老の西郷頼(タノ)母(モ)たちの等身大の人形の展示がありました。主とそのような人達は、運命をどのように感じながら果てたのか、一つの時代の悲劇として忘れられられない想い出になりました。
 戊辰戦争における会津藩の悲劇は余りにも悲しいものであり、土井晩翠がその悲しみを歌に込めたとするならば、この鶴ヶ城を置いて他に無いとさえ思っています。

 荒城の月といえば、想い出すのは矢張り仙台の青葉城です。しかし仙台の青葉城では戦が一度も無かったらしいです。あの「植うる剣に照りそいし・・・」という歌詞の様な状態は、あり得なかったらしく(昔は戦が終わった後に、剣を土に刺す習わしがあったそうです)そのことから、この歌は、戊辰戦争があった会津若松城がモデルであると最近読んだ本にも書いてありました。(歴史の坂道 中村彰彦著)私は日本の歌から好きな曲を一曲挙げよ、と云われれば、迷うことなく「荒城の月」を挙げるでしょう。歌に秘められた哀しみや日本の自然の美しさ・・・、土井晩翠と滝廉太郎の、これは世界に誇る名曲だと信じています。
 

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あまりにも碧い海と薩摩の女性

2022年09月03日 | 随筆
 先ほどからアルバムを開いて、過去の旅の想い出をたどっています。九州の平戸島を巡り、長崎のあちこちを見学して、外海(そとめ)の遠藤周作記念文学館などへの往復の旅などです。遠藤周作といえば、「人間がこんなに哀しいのに、主よ海があまりに碧いのです」と書いた有名な「沈黙」の著者です。
 私はこの「沈黙」が大好きで何回となく読み返しました。小説の解説はやめて、確かにこれ程美しい「碧い海」は見た事がありませんでした。 私の住んでいる所は日本列島の中程の少し海に近い所です。でも冬の怒濤のような白波や、夏の青いブルーの海しか知りませんでした。お天気の良い日の南の国の「コバルト・ブルー」と云う碧さは、見た事がなかったのです。
 九州は「枕崎」まで行ったことはあるのですが、少し曇りの日で、海の碧さには当時は気が付きませんでした。宮崎の海岸でも碧いとは思いませんでした。ただ宮崎ではスコールのような雨に「下から降ってくるのではないか」と思う程短時間ですが、跳ね返る激しい雨に叩きつけられた経験があります。
 枕崎へは、「一度機会があったら行ってご覧、砂風呂も珍しいし」と亡母が云いましたが、勧められるだけの価値は充分にありました。薩摩富士と呼ばれる開聞岳は、富士山よりもなだらかで裾広がりの美しい山です。ここでも夕方近くで、海はあの碧い海とは思えなかったのです。

 遠藤周作記念文学館の外海(そとめ)の岡からの海は、表現が難しい程の美しさでした。敷地の端から見下ろした海は、確かに「碧い」と云う表現が正しいと思いました。 
 「沈黙」にあった「海があまりに碧いのです」と云う表現がピッタリのコバルトブルーだったのです。「外海(そとめ)の海は人生の哀しみを飲み込みながら生きている」と強烈な感動を覚えました。 
 感動といえば、鹿児島への旅で出会った「鹿児島の女性」の凜とした態度にも感動しました。
 私には鹿児島県出身の大学時代の友人が二人いました。残念ながら既に二人とも故人ですが、どちらも極めて優秀で立派な友人でした。私は夏休みになると早速帰省してのんびりしましたが、その二人は学生時代には、「帰省は大変だ」とあまり故郷へは帰りませんでした。でも鹿児島は「文旦」が名物だと云って、大きな夏みかんの形をした柑橘類の生のものや、苦(ニガ)いところを取り去った皮の部分の砂糖漬けを戴きました。珍しかったですがそれがどれほど旅の荷物になるか、想像もできなかったのです。
「足が疲れるので、列車の中を歩いたりしている」と云われたのですが、東京から鹿児島の距離は、当時は急行でも大変な苦痛を伴う程の時間が掛かった事を知りませんでした。後に自分達が旅行してやっと解ったのです。
 二人ともやや控え目な人でしたが、背筋が一本通っていて優しくて温かく、私にはこの上ない良い友人でした。
 これを書いていて、今は二人とも居ないと云う事が残念で仕方がありません。一人の友人は京都の大学教授になった人と結婚されて、いつでしたか私も祇園祭に招かれたこともありました。
 もう一人の方のご主人が、一寸した段差に躓いて転び、頭部を打撲して「急性硬膜下血腫」になって亡くなられてしまいました。友人の懸命の看病の甲斐もなく異界へと旅立たれました。闘病中のご主人は「有り難う」「有り難う」を繰り返されていたと聞きました。
 その後友人は「外で遊んでいる子供達が輝いて見える」と便りをくれました。そして「この世の万物はみな美しい」と<人間の最終段階の高みに昇りつめた姿>をみせてくれました。彼女の担当医が「あなたのように完成された人間に僕はなれない」と云われたと聞きましたが、私は今でもその話しをされたお二人を尊敬の念を抱いて想い出しています。
 
 在る時旅の途中で、鹿児島市の有名デパートに立ち寄り、お昼を取りました。可成り年配のご婦人と同席になりました。その方は小学校高学年位の女生徒を一人伴っていました。やがて食事を運んで来たウェートレスが、その子のスカートに少し液体を零しました。その時スカートを拭き取って去ろうとしたウェートレスに、ご一緒のご婦人が少し咎めるように云うのが聞こえて来ました。
 「あなたはこの人がこのようだからそんな態度を取るのでしょう」「いいえ」とウェートレスはうろたえた様子でした。ご婦人の言葉があまりにも凜とした物云いでしたし、やがてその階の責任者と覚しき男性も来てお詫びして、「ほんの少し障害があるのかな?」と思われる女生徒の汚れを拭き取って、一件落着になりました。「拭き取って頂けばそれでいいのす」と穏やかな声でご婦人が云いました。
 その毅然とした老婦人の態度に私達は圧倒される思いでした。確かに「こうすれば良いのでしょう」と云わんばかりの態度のウエイトレスでした。それから何事も無かったように、ご婦人が私達に話しかけて来ました。
 「鹿児島市は日本で一番所得が少なく、灰も降りますが、私は鹿児島が好きなのです」と、上品な温かい口調で云われました。私達は少しばかり楽しい話しを交わし、一寸した出会いのごく短い交流ですが、忘れられなくなりました。「灰が降る」と云う事も想像出来ない私達でしたが、「それでも好きだ」と言う郷土愛にも感動しました。けじめの付け方の立派さにも感動しました。薩摩人として歴史上の偉人にも小説やテレビドラマで沢山出会いましたが、晩年になって旅先でのこの「凜としたご婦人」との出会いも又忘れられません。
 往時茫々と云いますが、そのような時間も今となってみれば皆懐かしく、よい想い出です。感動が零れ落ちて消えてしまわない事に感謝しています。
 

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