外気温が低くなって、夜は肌に冷気を感じるようになりました。中秋の名月を懐かしむような思いで眺めていたのが、つい先日だった気がしますのに、すっかり秋が深まって冴えた白い月になりました。月の出も確実に一日ずつ時間が遅くなって来ています。
日本のお城は、日本人の感性によって建てられたせいか、一種独特の威厳と美しさがある様に思えて、私は大好きです。そして日本の城には「松と月」がとても良く似合います。
旅行好きの私達も日本全国のいろいろな名城を尋ねました。鹿児島の鶴丸城は残っていなかったので、西郷隆盛終焉の洞窟の中から外の景色を眺めました。その風景は、哀しみに満ちていたように記憶しています。洞窟はやや崩れそうなところも見受けられて、歴史の証明者も時の流れにあらがうことは出来ないのだと、訪れる者に問いかけているようでした。
当時「維新ふるさと館」にも行きました。西郷南州の上着が置いてあって、その頃は「自由に着てみて下さい」とありましたし、私が手を通してみましたら、ダブダブで手は指先まですっぽりと袖の中に隠れてしまって、如何に大きい人だったかが解りました。 今はそのような貴重な上着など着られないでしょう。大久保利通がひらりとコートの裾を翻した像もありました。
西郷南州が揮毫した「敬天愛人」という素晴らしく力のこもった書も見学出来ました。書はその人を現すといいますが、その通り西郷の人間の大きさと力強さを間近に見た思いで、とても感動しました。
西郷終焉の洞窟も見ましたが、現在はきっと風化の恐れがあって中は通れないし、見学も出来ないのかも知れません。文化財の維持保存については、私達はあちこちの見学で、その難しさを実感しましたが、またその重要性も歴史を風化させないようにと、痛感したのでした。
西南戦争で西郷軍と激しく戦った熊本城は、石垣に大きなへこみが沢山ありました。初めはこのへこみは何だろう?と思いましたが、やがて大砲が当たった弾痕だと気付きました。それらの砲弾の痕に直接触れてみて、当時戦った人達の勇ましくも哀しい心が伝わってくるように思いました。暫く手で撫でてみたのでした。
二回目に熊本城に行った時は、改築成った美しい二の丸御殿も加えて、その格調の高い様子や豪華な部屋の数々を感動を持って眺めてきました。瓦を替えるとか、外壁を塗るとか、様々手をいれなくてはならず、そうした維持管理も大変だと思いました。
池田輝政築城で千姫ゆかりの化粧櫓のある美しい白亜の姫路城も観に行きました。当時は等身大の人形が置かれて、遥か昔が偲ばれました。城攻めの兵士達が、広い路を一気に駆け上がれないように、城への道は幾曲がりもしていましたし、私達も休み休み登りました。化粧櫓もお城で過ごした女性たちの哀感が、籠もっている様に見受けられました。
北は一風変わった五稜郭がハイカラでしたし、エレベーターで登って周囲をぐるりと見渡しました。かつて遠くこの地までやって来て、此処で闘った人々を偲びました。高い所から眺めましたから、美しい五角形の公園が心に残りました。坂を下りつつ、異国のようなキリスト教の教会にも立ち寄ったりしつつ、当時夫の親しい友人の依頼で、パンフレットを頂いたり写真を撮らせて頂いたりもして来ました。
仙台では威勢良く騎乗姿の、伊達政宗公の凜々しい像が迎えてくれました。今はアルバムに貼った当時の写真と、買って来た絵葉書を切り貼りした編集のアルバムを眺めて、私達がまだ元気だった頃の感動を引き寄せつつ、当時に思いを馳せています。
東北地方の旅に出かけた時のことです。会津の鶴ヶ城にも立ち寄りました。たまたまお城の庭園で、お茶の会が開かれていて、「どうぞ、寄って行かれませんか」と誘って頂いて、城内の庭園の緋毛氈に席を空けて頂きました。ていねいに点てられた美味しいお茶を、二人で並ん座ってゆっくり味わわせて頂きました。
お城の庭園の緑の中で、お茶を点てて頂ける幸せが、夢のように思われました。庭園の一角の野点の席からお城を見上げ、夜にここからお城を見上げたら、そしてそこに月が照り輝いていたら・・・とその時ふとそう思って、何となくその様子を想像したのでした。
そういえば会津藩家老の一家と侍女たちも皆自刃し、家老の西郷頼(タノ)母(モ)たちの等身大の人形の展示がありました。主とそのような人達は、運命をどのように感じながら果てたのか、一つの時代の悲劇として忘れられられない想い出になりました。
戊辰戦争における会津藩の悲劇は余りにも悲しいものであり、土井晩翠がその悲しみを歌に込めたとするならば、この鶴ヶ城を置いて他に無いとさえ思っています。
荒城の月といえば、想い出すのは矢張り仙台の青葉城です。しかし仙台の青葉城では戦が一度も無かったらしいです。あの「植うる剣に照りそいし・・・」という歌詞の様な状態は、あり得なかったらしく(昔は戦が終わった後に、剣を土に刺す習わしがあったそうです)そのことから、この歌は、戊辰戦争があった会津若松城がモデルであると最近読んだ本にも書いてありました。(歴史の坂道 中村彰彦著)私は日本の歌から好きな曲を一曲挙げよ、と云われれば、迷うことなく「荒城の月」を挙げるでしょう。歌に秘められた哀しみや日本の自然の美しさ・・・、土井晩翠と滝廉太郎の、これは世界に誇る名曲だと信じています。
日本のお城は、日本人の感性によって建てられたせいか、一種独特の威厳と美しさがある様に思えて、私は大好きです。そして日本の城には「松と月」がとても良く似合います。
旅行好きの私達も日本全国のいろいろな名城を尋ねました。鹿児島の鶴丸城は残っていなかったので、西郷隆盛終焉の洞窟の中から外の景色を眺めました。その風景は、哀しみに満ちていたように記憶しています。洞窟はやや崩れそうなところも見受けられて、歴史の証明者も時の流れにあらがうことは出来ないのだと、訪れる者に問いかけているようでした。
当時「維新ふるさと館」にも行きました。西郷南州の上着が置いてあって、その頃は「自由に着てみて下さい」とありましたし、私が手を通してみましたら、ダブダブで手は指先まですっぽりと袖の中に隠れてしまって、如何に大きい人だったかが解りました。 今はそのような貴重な上着など着られないでしょう。大久保利通がひらりとコートの裾を翻した像もありました。
西郷南州が揮毫した「敬天愛人」という素晴らしく力のこもった書も見学出来ました。書はその人を現すといいますが、その通り西郷の人間の大きさと力強さを間近に見た思いで、とても感動しました。
西郷終焉の洞窟も見ましたが、現在はきっと風化の恐れがあって中は通れないし、見学も出来ないのかも知れません。文化財の維持保存については、私達はあちこちの見学で、その難しさを実感しましたが、またその重要性も歴史を風化させないようにと、痛感したのでした。
西南戦争で西郷軍と激しく戦った熊本城は、石垣に大きなへこみが沢山ありました。初めはこのへこみは何だろう?と思いましたが、やがて大砲が当たった弾痕だと気付きました。それらの砲弾の痕に直接触れてみて、当時戦った人達の勇ましくも哀しい心が伝わってくるように思いました。暫く手で撫でてみたのでした。
二回目に熊本城に行った時は、改築成った美しい二の丸御殿も加えて、その格調の高い様子や豪華な部屋の数々を感動を持って眺めてきました。瓦を替えるとか、外壁を塗るとか、様々手をいれなくてはならず、そうした維持管理も大変だと思いました。
池田輝政築城で千姫ゆかりの化粧櫓のある美しい白亜の姫路城も観に行きました。当時は等身大の人形が置かれて、遥か昔が偲ばれました。城攻めの兵士達が、広い路を一気に駆け上がれないように、城への道は幾曲がりもしていましたし、私達も休み休み登りました。化粧櫓もお城で過ごした女性たちの哀感が、籠もっている様に見受けられました。
北は一風変わった五稜郭がハイカラでしたし、エレベーターで登って周囲をぐるりと見渡しました。かつて遠くこの地までやって来て、此処で闘った人々を偲びました。高い所から眺めましたから、美しい五角形の公園が心に残りました。坂を下りつつ、異国のようなキリスト教の教会にも立ち寄ったりしつつ、当時夫の親しい友人の依頼で、パンフレットを頂いたり写真を撮らせて頂いたりもして来ました。
仙台では威勢良く騎乗姿の、伊達政宗公の凜々しい像が迎えてくれました。今はアルバムに貼った当時の写真と、買って来た絵葉書を切り貼りした編集のアルバムを眺めて、私達がまだ元気だった頃の感動を引き寄せつつ、当時に思いを馳せています。
東北地方の旅に出かけた時のことです。会津の鶴ヶ城にも立ち寄りました。たまたまお城の庭園で、お茶の会が開かれていて、「どうぞ、寄って行かれませんか」と誘って頂いて、城内の庭園の緋毛氈に席を空けて頂きました。ていねいに点てられた美味しいお茶を、二人で並ん座ってゆっくり味わわせて頂きました。
お城の庭園の緑の中で、お茶を点てて頂ける幸せが、夢のように思われました。庭園の一角の野点の席からお城を見上げ、夜にここからお城を見上げたら、そしてそこに月が照り輝いていたら・・・とその時ふとそう思って、何となくその様子を想像したのでした。
そういえば会津藩家老の一家と侍女たちも皆自刃し、家老の西郷頼(タノ)母(モ)たちの等身大の人形の展示がありました。主とそのような人達は、運命をどのように感じながら果てたのか、一つの時代の悲劇として忘れられられない想い出になりました。
戊辰戦争における会津藩の悲劇は余りにも悲しいものであり、土井晩翠がその悲しみを歌に込めたとするならば、この鶴ヶ城を置いて他に無いとさえ思っています。
荒城の月といえば、想い出すのは矢張り仙台の青葉城です。しかし仙台の青葉城では戦が一度も無かったらしいです。あの「植うる剣に照りそいし・・・」という歌詞の様な状態は、あり得なかったらしく(昔は戦が終わった後に、剣を土に刺す習わしがあったそうです)そのことから、この歌は、戊辰戦争があった会津若松城がモデルであると最近読んだ本にも書いてありました。(歴史の坂道 中村彰彦著)私は日本の歌から好きな曲を一曲挙げよ、と云われれば、迷うことなく「荒城の月」を挙げるでしょう。歌に秘められた哀しみや日本の自然の美しさ・・・、土井晩翠と滝廉太郎の、これは世界に誇る名曲だと信じています。