日本の現代短歌を牽引されて来られた歌人(特に前衛短歌運動の旗手として戦後の歌壇をリードし、皇室の和歌の指導役も務められ、文化功労章を受賞された)者岡井隆(おかい・たかし)先生が7月10日、心不全のため東京都武蔵野市内のご自宅でご逝去されました。92歳でいらっしゃいました。(名古屋市出身。)
岡井先生は私にとっては恩人のような方であり、尊敬して止まない師でありました。私は拙い短歌を時折新聞に投稿したり、NHKの講座で短歌を学んび、少ないですが全国の様々な短歌会で選んで頂いたり、あるいは新聞に載せて頂いたりして今日に至っています。活字になった短歌は現在までに651首になります。(所属無しで、どこかの同人になっているわけではありません。)
岡井先生との最初の出会いは、1997年8月22日の「NHK歌壇」で第2席に入選させて頂いた時が最初でした。
ビードロの風鈴の音と共にある浴衣桐下駄綿飴金魚
放映近くなって、NHKから電話が入りました。「間違いなく自作であるか」とか短歌の放映日の連絡でした。この年の前年から私の住んでいる地方紙に投稿短歌が載るようになり、約1年の年月が過ぎていました。
1年かかって馬場あき子先生と宮英子先生に2首ずつ選んで頂きましした。そんなピカピカの一年生でしたから、NHKテレビの「歌壇」とお聴きして、一層嬉しくて早速私のきょうだい達にも放送日を知らせて、心待ちにしていたのです。
いよいよその日が来てテレビの前に夫と二人で並んで、放映を待ちました。
先ず10首の短歌が読み上げられて、やがてその日の選の中から選者の先生が、優れたものを、特に「入選歌」として選ぶことになりました。何とその第二席に私の短歌が選ばれたのです。思いもかけない出来事に、急に私の心臓がバクバクしてきて、歌壇の時間が終わると共に早々に床について寝てしまいました。今でもあの日の感動を思い出すと、胸が震える位です。
後に当日の放映に使ったB5版の紙に縦書きの「ビードロの・・・」の「短歌と氏名」の印刷物もNHKから届きました。記念に額に入れて、今も私の机の前に飾ってあります。
現在はその額に、以前岡井先生が叙勲されたお祝いをお伝えした私の手紙の返事の「岡井先生直筆のおハガキ」も入れて、今回の訃報を伝える「日本経済新聞」のお写真とともに飾ってあります。穏やかなお顔で微笑んでおいでです。
日本経済新聞の歌壇は長い間岡井先生の選が続き、私も時折載せて頂いていたのでした。現在の選者は三枝昂之先生です。
私がやっと推敲を仕上げた短歌を投稿して、新聞に載せて頂いた最初は1996年でしたから、かれこれ24年の短歌暦になります。
次の短歌は、2020年春以降に「日本経済新聞」に載せて頂いたものからです。
水底の石塊(いしくれ)透けて動かざり捨て去った筈の哀しみ残る
外海(そとめ)にて「あまりにも碧い」海をみき遠藤周作文学館静もりて建つ
最後は私の短歌作品で、活字になった短歌の651首めになり、日本経済新聞の三枝隆之先生の選です。
九州の隠れキリシタンの里、外海に行った時は、とても良いお天気の一日で、「碧い海」とはこういう色なのか・・・と思う位に美しいコバルトブルーでした。九州の出津文化村内に建てられている「遠藤周作記念文学館」には、遠藤の名著「沈黙」に寄せて「沈黙の碑」が建てられていました。
そこには「人間がこんなに悲しいのに 主よ 海があまりにも碧いのです」と刻まれていました。何とも言えない感動で胸が一杯になりました。
二人で出かけた切支丹殉教の地を巡る旅は、平戸島から始まって、何泊かしつつ、最後が外海の「遠藤周作記念文学館」だったのです。遠藤周作を尊敬して止まない夫と二人で、想い出深い良い旅でした。
私も長い時間を生きて来て、短歌と巡り会えたことを有り難く嬉しく思っています。下手の横好きですが・・・。
日経歌壇への投稿は一時中断していて、今年二月から又投稿を再開しました。投稿は再び地方紙と二紙になり、老いてボチボチですが、続けるところに意義があると信じて、老いの身に鞭打っています。
岡井先生によって短歌の道に導かれ、長きにわたってご指導頂いた弟子の端くれとして、厚い感謝の思いをもって哀悼の意を表します。
岡井先生は私にとっては恩人のような方であり、尊敬して止まない師でありました。私は拙い短歌を時折新聞に投稿したり、NHKの講座で短歌を学んび、少ないですが全国の様々な短歌会で選んで頂いたり、あるいは新聞に載せて頂いたりして今日に至っています。活字になった短歌は現在までに651首になります。(所属無しで、どこかの同人になっているわけではありません。)
岡井先生との最初の出会いは、1997年8月22日の「NHK歌壇」で第2席に入選させて頂いた時が最初でした。
ビードロの風鈴の音と共にある浴衣桐下駄綿飴金魚
放映近くなって、NHKから電話が入りました。「間違いなく自作であるか」とか短歌の放映日の連絡でした。この年の前年から私の住んでいる地方紙に投稿短歌が載るようになり、約1年の年月が過ぎていました。
1年かかって馬場あき子先生と宮英子先生に2首ずつ選んで頂きましした。そんなピカピカの一年生でしたから、NHKテレビの「歌壇」とお聴きして、一層嬉しくて早速私のきょうだい達にも放送日を知らせて、心待ちにしていたのです。
いよいよその日が来てテレビの前に夫と二人で並んで、放映を待ちました。
先ず10首の短歌が読み上げられて、やがてその日の選の中から選者の先生が、優れたものを、特に「入選歌」として選ぶことになりました。何とその第二席に私の短歌が選ばれたのです。思いもかけない出来事に、急に私の心臓がバクバクしてきて、歌壇の時間が終わると共に早々に床について寝てしまいました。今でもあの日の感動を思い出すと、胸が震える位です。
後に当日の放映に使ったB5版の紙に縦書きの「ビードロの・・・」の「短歌と氏名」の印刷物もNHKから届きました。記念に額に入れて、今も私の机の前に飾ってあります。
現在はその額に、以前岡井先生が叙勲されたお祝いをお伝えした私の手紙の返事の「岡井先生直筆のおハガキ」も入れて、今回の訃報を伝える「日本経済新聞」のお写真とともに飾ってあります。穏やかなお顔で微笑んでおいでです。
日本経済新聞の歌壇は長い間岡井先生の選が続き、私も時折載せて頂いていたのでした。現在の選者は三枝昂之先生です。
私がやっと推敲を仕上げた短歌を投稿して、新聞に載せて頂いた最初は1996年でしたから、かれこれ24年の短歌暦になります。
次の短歌は、2020年春以降に「日本経済新聞」に載せて頂いたものからです。
水底の石塊(いしくれ)透けて動かざり捨て去った筈の哀しみ残る
外海(そとめ)にて「あまりにも碧い」海をみき遠藤周作文学館静もりて建つ
最後は私の短歌作品で、活字になった短歌の651首めになり、日本経済新聞の三枝隆之先生の選です。
九州の隠れキリシタンの里、外海に行った時は、とても良いお天気の一日で、「碧い海」とはこういう色なのか・・・と思う位に美しいコバルトブルーでした。九州の出津文化村内に建てられている「遠藤周作記念文学館」には、遠藤の名著「沈黙」に寄せて「沈黙の碑」が建てられていました。
そこには「人間がこんなに悲しいのに 主よ 海があまりにも碧いのです」と刻まれていました。何とも言えない感動で胸が一杯になりました。
二人で出かけた切支丹殉教の地を巡る旅は、平戸島から始まって、何泊かしつつ、最後が外海の「遠藤周作記念文学館」だったのです。遠藤周作を尊敬して止まない夫と二人で、想い出深い良い旅でした。
私も長い時間を生きて来て、短歌と巡り会えたことを有り難く嬉しく思っています。下手の横好きですが・・・。
日経歌壇への投稿は一時中断していて、今年二月から又投稿を再開しました。投稿は再び地方紙と二紙になり、老いてボチボチですが、続けるところに意義があると信じて、老いの身に鞭打っています。
岡井先生によって短歌の道に導かれ、長きにわたってご指導頂いた弟子の端くれとして、厚い感謝の思いをもって哀悼の意を表します。