ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

岡井隆先生を偲ぶ

2020年07月31日 | 随筆
 日本の現代短歌を牽引されて来られた歌人(特に前衛短歌運動の旗手として戦後の歌壇をリードし、皇室の和歌の指導役も務められ、文化功労章を受賞された)者岡井隆(おかい・たかし)先生が7月10日、心不全のため東京都武蔵野市内のご自宅でご逝去されました。92歳でいらっしゃいました。(名古屋市出身。)
 岡井先生は私にとっては恩人のような方であり、尊敬して止まない師でありました。私は拙い短歌を時折新聞に投稿したり、NHKの講座で短歌を学んび、少ないですが全国の様々な短歌会で選んで頂いたり、あるいは新聞に載せて頂いたりして今日に至っています。活字になった短歌は現在までに651首になります。(所属無しで、どこかの同人になっているわけではありません。)
 岡井先生との最初の出会いは、1997年8月22日の「NHK歌壇」で第2席に入選させて頂いた時が最初でした。

ビードロの風鈴の音と共にある浴衣桐下駄綿飴金魚

 放映近くなって、NHKから電話が入りました。「間違いなく自作であるか」とか短歌の放映日の連絡でした。この年の前年から私の住んでいる地方紙に投稿短歌が載るようになり、約1年の年月が過ぎていました。
 1年かかって馬場あき子先生と宮英子先生に2首ずつ選んで頂きましした。そんなピカピカの一年生でしたから、NHKテレビの「歌壇」とお聴きして、一層嬉しくて早速私のきょうだい達にも放送日を知らせて、心待ちにしていたのです。
 いよいよその日が来てテレビの前に夫と二人で並んで、放映を待ちました。
 先ず10首の短歌が読み上げられて、やがてその日の選の中から選者の先生が、優れたものを、特に「入選歌」として選ぶことになりました。何とその第二席に私の短歌が選ばれたのです。思いもかけない出来事に、急に私の心臓がバクバクしてきて、歌壇の時間が終わると共に早々に床について寝てしまいました。今でもあの日の感動を思い出すと、胸が震える位です。
 後に当日の放映に使ったB5版の紙に縦書きの「ビードロの・・・」の「短歌と氏名」の印刷物もNHKから届きました。記念に額に入れて、今も私の机の前に飾ってあります。
 現在はその額に、以前岡井先生が叙勲されたお祝いをお伝えした私の手紙の返事の「岡井先生直筆のおハガキ」も入れて、今回の訃報を伝える「日本経済新聞」のお写真とともに飾ってあります。穏やかなお顔で微笑んでおいでです。
 日本経済新聞の歌壇は長い間岡井先生の選が続き、私も時折載せて頂いていたのでした。現在の選者は三枝昂之先生です。
 私がやっと推敲を仕上げた短歌を投稿して、新聞に載せて頂いた最初は1996年でしたから、かれこれ24年の短歌暦になります。
 次の短歌は、2020年春以降に「日本経済新聞」に載せて頂いたものからです。

 水底の石塊(いしくれ)透けて動かざり捨て去った筈の哀しみ残る
 
 外海(そとめ)にて「あまりにも碧い」海をみき遠藤周作文学館静もりて建つ

 最後は私の短歌作品で、活字になった短歌の651首めになり、日本経済新聞の三枝隆之先生の選です。
 九州の隠れキリシタンの里、外海に行った時は、とても良いお天気の一日で、「碧い海」とはこういう色なのか・・・と思う位に美しいコバルトブルーでした。九州の出津文化村内に建てられている「遠藤周作記念文学館」には、遠藤の名著「沈黙」に寄せて「沈黙の碑」が建てられていました。
そこには「人間がこんなに悲しいのに 主よ 海があまりにも碧いのです」と刻まれていました。何とも言えない感動で胸が一杯になりました。
 二人で出かけた切支丹殉教の地を巡る旅は、平戸島から始まって、何泊かしつつ、最後が外海の「遠藤周作記念文学館」だったのです。遠藤周作を尊敬して止まない夫と二人で、想い出深い良い旅でした。
 
 私も長い時間を生きて来て、短歌と巡り会えたことを有り難く嬉しく思っています。下手の横好きですが・・・。
 日経歌壇への投稿は一時中断していて、今年二月から又投稿を再開しました。投稿は再び地方紙と二紙になり、老いてボチボチですが、続けるところに意義があると信じて、老いの身に鞭打っています。
 
 岡井先生によって短歌の道に導かれ、長きにわたってご指導頂いた弟子の端くれとして、厚い感謝の思いをもって哀悼の意を表します。


嵯峨野に寄せる想い

2020年07月16日 | 随筆
 先日仏壇のご本尊様の下壇から、ひらりとおふだが一枚零れ出てきました。何かしらと思って見ましたら、裏に曼荼羅山寂庵とありました。蓮の花びらの形のその紙には、カラーで観音さまが実にフリーに美しく描かれていて、「寂」と小さな落款が押してあります。
 寂庵さまの庵には、京都へ行って嵯峨野を回った三回の中で、二度お邪魔しています。一回目は可成り遠い昔ですが、義父母の納骨に京都のご本山の寺院(智積院)へ行った時です。嵯峨野は天竜寺から常寂光寺・落柿舎・二尊院・祇王寺・寂庵・化野の念仏寺その他清涼寺や大覚寺などに足を延ばして、気ままに拝観させて頂きお参りしました。
 私達が初めて伺ったその日は、丁度瀬戸内寂聴さまは、東北の天台寺へおいでになっていてお留守でした。お寄りして「寂庵だより」を頂いて来ました。初回のその時は「どうぞ気楽にお立ち寄り下さい」とあった気がします。
 初めてお参りした時は、庵と畑と駐車場があって、今のような緑の木々に囲まれた静かな寂庵さまではありませんでした。二回目は、奈良・京都を巡った9泊の旅の中でした。次第に木立の緑が美しく、趣の深い庵になっていきました。
 清涼寺では、後に五臓六腑も収蔵した宝物殿が拝観出来るようになって、私達も4月8日の午前11時ころから、と言う指定の拝観日に出かけて、甘茶を頂いたり、布で出来た珍しい五臓六腑を拝観したのです。
 その後また嵯峨野を巡りましたが、その時も確か祇王寺辺りから寄り道して、寄せて頂きました。今はもう祇王寺も落柿舎も拝観出来ないようです。
 ところでこの寂庵さまのお札は、私達がお参りした日ではなく、京都の清涼寺のバス停で出会ったご婦人から頂いて来たものです。
 清涼寺からの帰り道に、近くのバス停でバスを待っていましたら、とてもお元気なご婦人二人と言葉を交わす機会がありました。「今二人で寂庵さまへ行って来ました。お札を撒いてくださって、沢山頂いて来ましたから、一枚あなた達にも上げましょう」とこのおふだを頂いたのでした。不思議なご縁でした。
 それが今回ひらりと仏壇から出て来たお札なのです。ご縁とはこのようにして思いがけなく繋がって行くものなのですね。懐かしくもあり、暫く眺めて、また仏壇の中壇に納めました。
 今回は、たまたま懐かしくて嵯峨野の寺々をパソコンで引いて見て、現在の嵯峨野の様子が良く解りました。寂庵だよりは366号をもって廃止になっていて、寂しい思いをしています。
 嵯峨野で出会った親切なお二人は、その後お元気だろうかと、お札がつないでくれたご縁に思わず手を合わせたのでした。


出会い <神さまのお計らい>

2020年07月01日 | 随筆
 長い人生のひとときを振り返ってみる時「不思議な出会いを繰り返して来た」と思われる事が忍ばれます。私にも確かに幾つか、そんな経験がありました。決して出会う筈の無かった人間同士が、ふとした折りに出会って忘れられない人として心に残ったり、仮に出会うべくして出会ったと思える人に会った時にも、その原因はとても説明の付かない事として心に焼き付いています。
 奇跡などと云わずとも、自然にそうなった過去を思い起こしてみますと、それは何時も温かい感謝の気持ちを纏って思い出されます。
 例えばこんな事がありました。九州へ足を延ばして、さて博多港からフェリーに乗ろうとした時のことです。あらかじめフェリーの切符はとってありましたので、港と印刷されてある場所へ車で向かいました。そこは海辺ではありましたが、何も無いコンクリートの広場だったのです。おかしいと思って車を止めて、下車してウロウロと廻りを眺めていました。
 すると小型のトラックが直ぐ近くに来て止まり、雨の中を一人の男性が降りて来られました。「何をしているのですか?」と私達に聞かれたので「港はここかと・・・」と云いましたら「ずーっと以前はここが港でしたが、今は違いますよ。」と云われたのです。そして「真っ直ぐに行って角を右に曲がり、ずうっと行って・・・、可成りの距離ですよ。<博多港>の案内表示が出ていますから、良く見て行きなさい」と教えて下さったのでした。其処は誰人一人居ないコンクリートの広場でしたから、あの時雨の中を傘もささずにトラックから降りて話しかけて下さった人が居なかったら、私達は船の時間に間に合わず、大変な事になっていたでしょう。「神さまに出会った」と50歳前後に思える親切な男性に感謝したのです。
 それにしても、今は使われていない古い港の場所が未だに書いてある旅の案内(旅行会社の切符入れの印刷)は、大変な間違いを訂正せずに、その年まで使っていたものだと驚いたのでした。
 迷うと云えば、天橋立から鳥取砂丘方面に向かった道のりで、何処で間違ったのか、今も不思議な出来事がありました。当日は豊岡のホテルに予約をいれてあり、川に掛かった橋が見えましたので、「このあたりは城崎近くかな、明日はこの橋を渡るのか」等と漠然と思って、のんびりと車に乗っていました。ところがどうも間違ったようで、川辺と思われるところをウロウロとしてしまいました。
 たまたま道路の脇で工事中の人たちが数人おられました。「さっきから車で行ったり来たりしているようですが、何処へいくのですか?」と私達に声を掛けてくれた人がありました。「豊岡です」と云いましたら「ここは海辺ですよ。橋などどこにもないですよ。」と云われました。ふと気づくと橋はいつの間にか消えていました。「豊岡なら今来た道を戻って左に曲がって上り詰めると道路標識があります。」とのこと、何が何だか分からないままに教えて頂いた通りに車で上りつめ、右に曲がった途端に今夜のホテルの案内の看板があったのでした。
 看板からわずかに手前で、右手に曲がって下ったために間違えたのだと分かりました。それにしても、あの橋は何処に消えたのか、と夫と話しました。夫は赤い鉄橋が見えたと云いますし、私には薄い緑色の鉄橋が見えたのです。どちらの記憶も橋の形まで明確だったのです。なぜ二人同時に事もあろうに海の傍でこのように間違った認識をしたのか、今もって不明です。夫は「二人とも長い車の旅で、疲れていたからだろう」と言いました。
 それにしても、もし工事の方が声を掛けて下さらなかったら、あのような海沿いの、家も無く人も居ない道路(丹後半島の先端)で迷っていても、聞くにも聞けずきっと困り果てたと思います。本当に奇跡的に当日道路工事の方達と出会ったのでした。そのような場所での工事は、滅多に無い工事だったのではと、後に地図を拡げて親切な方達と好運に感謝しました。
 以前書いた乙女峠での最後のお祈りの為に、たまたま居合わせた尼僧との出会いとか、長崎の踏み絵板との出会いとか、岡山の林原美術館(現在は閉鎖)での展示品の素晴らしさ(小さいけれど良い美術館でした)とか、萩焼や陳寿官釜とか、人・物様々にその時一回だけの貴重な出会いというものがあります。本当に不思議としか言い様がありません。
 千載一遇と言われますが、旅先にあっての出会い(更には人生においての出会い)とは、常に自らの計らいではなく、神さまのお計らいによるものであって、その出会いによって人生が大きく変わって行くのですから、出会いは幸・不幸の根源的な事柄に関わるもの、と言えるでしょう。
 夫との出会いが無かったら、私はどんな人生を歩いていたかと思うと、この世に生まれた事から始まって、全ては出会いの積み重ねであったと思えます。そんな奇跡的な出会いが出来たことを有り難く思い返して、幾たびも想い出に浸っています。