ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

三十一文字に込めた歌人のこころ

2011年08月26日 | 随筆・短歌
 日頃から短歌に親しむ一人としては、恥ずかしいのですが勉強が浅く、短歌論的なことはとんと解らず、歌の批評など出来る力はありません。最近河野裕子さんの歌集「蝉声」(せんせい)を読みました。それはもう、死を前にされた人にしか歌えない、壮絶な、しかし家族への思いやりや人間の温かみに溢れた歌集でした。涙が途切れなくこぼれ落ちて、三日間かけてやっと読み終えました。河野さんの胸の内が痛いほど伝わってきて、辛くて一気には読み切れなかったのです。
 思えば、去年8月になり、河野先生(直接師事したことはないのですが、平易な言葉の温かい歌が好きで、何時も身近な師として尊敬していました)も最近お身体が悪いようだ、と心配しながら歌集「母系」をインターネットで注文しました。注文したのが8月9日で届いたのが8月15日だったのです。先生はその三日前亡くなられていたのでした。歌集「母系」を読みたいと思ったのは、何となく虫の知らせのように思えました。
 「蝉声」は、河野先生の最後の歌集です。皇后さまからお見舞のご伝言とスープが届き、そこにはせめてスプーン二杯でも、という皇后様の温かいお言葉が書かれていたようです。普通は一杯でも、と云いやすいのですが、二杯というあたりは、歌人としても有名な皇后さまの何と温かくていらっしゃるのか、まるでそれを私が頂いたメッセージのように、お優しくまた嬉しく感じたのです。
 「蝉声」には、とても感激した歌が沢山、沢山あるのですが、無断転載禁止ですから、ここにご紹介出来ないのが残念です。
 蝉は7年もの長い間地の下に暮らし、最後の一ヶ月くらいを地上で過ごします。儚い命だと云われますが、昆虫としては、地下と地上を加えると長い命とも云えると家族が教えてくれました。この世に於ける人生の価値は、長いか短いかといった単なる時間ではなく、この世をどう生き、何を残したかが問われます。
 河野裕子さんは64年の人生にこれだけのお仕事をされたし、愛する家族にも恵まれて、私には素晴らしい人生であり、掛け替えのない優れた歌人だったと思います。
 話がすこし変わりますが、正岡子規の「瓶にさす藤の花ぶさ短かければたたみの上にとどかざりけり」という有名な短歌があります。愚かな私は、昔、何故この歌がよいのか、ということがわからなかったのです。短ければ届かないのは当たり前です。でも今になって、ようやく子規のこころが解ってきたような気がします。
 子規は病床六尺から出る事が出来ませんでしたから、寝たまま瓶に活けられた藤の花を眺めて歌っています。もし、もうほんの少し藤の花房が長かったら、畳に届いたであろうのに・・・。子規としては、畳に届かない花が、何とも哀れな現実だったのではないか、自分の果たせない心情を、藤の花に託して歌ったに違いない、と気付いたのです。
 するとこれは涙なしには読めない一首となります。子規自身も六尺の病床から出られないで、苦悶の毎日を過ごして居たわけですから。その願望は、読む人にせつせつと伝わって来ます。
 このような解釈が正しいのか、正しくないのか、不勉強な私には解りませんが、年を取って、読み返してみると、また違った面から読み取れて、思わぬ発見をすることがあります。そして、自分の読む歌も変わってゆくのです。
 何時の遍路の時でしたか、松山の子規記念館に立ち寄りました。とても立派なものでした。その後子規顕彰全国短歌大会に投稿しましたら、思いがけず一首採って頂き、授賞式にお誘いいただきました。でも余りに遠くて、とうとう伺えませんでした。その時の私の短歌は、父の最後を偲んだ次の歌でした。

 訪ふ度に言葉少なくなりし父黙して三月つひに逝きたり  

 矢張り優しい父でした。そして温かい大家族でした。
 去年の8月22日に書いた「河野裕子さんの死を悼む」と題した私のブログに載せた歌を再度載せて、締めくくりたいと思います。

 昨日より今日が優しくあるやうに老いてゆきたし侘び助の咲く(実名で某誌に掲載)

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小さな家の終戦記念日

2011年08月19日 | 随筆・短歌
 8月15日は終戦記念日でした。毎年この頃になると、幾つかの知られざる戦争秘話が明かされたり、現在生き残っている数少ない人々の、実戦の体験として、生の声をお聞きする番組がTVで放映されています。私達も毎年録画して、可成りの番組を観ています。
 今日はそれぞれの方達が経験されたであろう様々な体験を思いつつ、身近で経験した終戦の日と、その後について想い出してみようと思います。
 終戦の日は、日本中がとても良く晴れて、暑い日でした。「天皇陛下のお言葉が、ラヂオで放送されるから、拝聴するように」との知らせがあり、我が家もラヂオをつけました。ご近所の人も少し集まって来ましたので、居間の玄関側を全て開け放ち中央の柱の傍に、祖父がラヂオを外に向けて置きました。玄関側に集まって来た人達と部屋の中の私達家族が、緊張して耳を澄ませて待っていました。心配そうに「負けたのではないか」と囁く人もいて、不安だったことを記憶しています。
 玉音放送は、「耐え難きを絶え、忍び難きを忍び」と聞こえたように思いますが、雑音が激しくて良く聞こえず、内容を理解することは出来ませんでした。ですが、集まった人達も家族も一様に、「これで戦争は終わった」と言っているのを聞いて、「終わったのか」と子供心にも虚脱したような気持になったのを覚えています。
 私は「お坪」と呼ばれていた庭に、一人そっと出て、降りしきる蝉の声に、何となくもの悲しい思いが胸に込み上げてきたことが忘れられません。何時も終戦記念日というと、あの日の抜けるような青空と、降るような蝉時雨と、そしてあの玉音放送を想い出します。ひそひそと声を落として話す、大人達の不安そうな顔も忘れられません。
夫は樺太に居て終戦になりましたので、終戦はもっと厳しい状態でした。内地ほど暑くはなかったけれども、矢張り良いお天気だったようです。義姉は、女学校の寮に入っていましたが、全校生徒がグランドに集められて、一斉に在学証明書を手渡され、これを持って内地の女学校に編入させて貰うように言われた後、直ぐに解散して、お別れだったと聞きました。義母と義姉と夫の三人は、間もなく一人一個のリュックが許されて、内地に引き揚げることになりました。樺太から貨物船に乗り、真っ暗な船倉にじっと声も立てずに引き揚げてきたと言います。ソ連の潜水艦によって、何隻かの引き揚げ船が沈められていたのです。暗闇の中でお産が始まって、「お産婆さんかお医者さんが居ませんか」と船員が暗闇を尋ね回っていたそうですが、誰も声を上げる人も居らず、その後のことは知らないと、今でも辛そうに言います。
 青森から鈍行の汽車にぎゅうぎゅう詰めになって、丸一日もかかって引き揚げて来ました。夫たちは室内に入れず、やっと洗面所の近くに立つことができたそうです。すると或る兵隊さんが、ついと自分が腰を降ろしていた洗面台からおりて、小学生だった夫を洗面台に乗せて下さり助かったと云っています。「これからは君たちの時代だから、きっと頑張って立派な国を造って欲しい」と仰ったそうです。見ず知らずの方でしたが、夫は今もって、その言葉が忘れられず、自分は何ほどのことも出来なかったと悔やんでいます。
 親戚に軍医がいて、やがてマラリアに罹って帰って来ましたが、私の家族には戦争に行った人は居ませんでした。父は運良く、何時も爆撃から奇跡的に逃れて転勤になりました。 戦争が酷くなると、父は母や私達子供を祖父が居た実家に避難させ、単身赴任をしていましたが、幸運にも終戦の年の春に、実家の近くに転勤いたしました。その数ヶ月後、私達が住んでいた市は大空襲に遭って灰燼に帰してしまったのです。終戦後数年たってから、私は焼け野原になったその市の、私達の住んでいた家跡を尋ねて行きました。案内してくれた人の話では、ご近所の私の友達が殆ど亡くなってしまわれたとお聞きして、胸をえぐられるほど悲しい思いをしました。焼夷弾が雨あられと降ってきて、負ぶわれたまま亡くなった人、近くの川まで逃げたものの、そこで息絶えた人、生きて再び会えたのは、案内してくれたその友人ただ一人だけでした。
 もし私達がその市から終戦前に実家に引き揚げていなかったら、私は今ここにいません。また、父が終戦の4月に転勤になっていなかったら、矢張りどうなっていたかわかりません。人生がどこでどう繋がって生きたり、また死んだりするのか、そんなことを深く考えさせられました。
 樺太では、中学生以上の男性は抑留され、労働に従事させられましたので、義父が帰って来たのは、終戦の二年後でした。途中二回漁師の漁船をチャーターして脱出を計って失敗しました。二度目は北海道との中間点で漁船の舳先が割れて、海水が入ってきて沈没しそうになり、危うい所をソ連の監視船に拿捕されて、奇跡的に命が救われたことは以前書きました。義父は家族が無事に内地に帰れたか知らず、夫達も父親の生死は不明でした。 後に義母が繰り返し私に当時の話をしてくれたとき、引き揚げてから生き延びられたのは、義父の給料が引き揚げた家族に、直ぐに支給された為だということでした。
 終戦を挟んで、疎開もあり、夫は学校で引き揚げ者として虐められたといいます。「樺太来い」と言われては、もう一人の樺太からの引き揚げ者の人と、何時も休み時間に体育館で、手を組んで馬の役目をさせられて、上級生のボスを乗せてグルグル歩き回ったと言います。休み時間は教室にはいられない決まりで、それが辛かったようですが、陰湿ではなく皆カラッとしていて、同級生には虐められることもなく、小児結核で三年間学校を休んだりしていた夫は、大自然のきれいな空気と太陽に当たり、放課後はチヤンバラゴッコに明け暮れて、すっかり健康になったといいます。
 疎開者の虐めは私も目撃しており、「ガンジー」と呼ばれていた目鼻立ちの整った上級生の男子が、矢張り体育館で虐められていて、泣きながら相手につかみかかっていた様子を、痛々しく思って眺めていたものです。優秀な人物だったので、尚更虐められたのではないかと思っていました。後に、きっと立派な人物になられたことでしょう。そう思っています。沢山の人が転校してきて、やがて戦後に元の家に引き揚げて行きました。出会いと別れが繰り返され、そのまま居着いた人は無く、戦後の復興の日々が始まったのでした。 こうしてみると、恐らく日本のあちこちで様々なドラマがあり、戦後生まれの人も60歳を越え、もう第一線を退いています。66年は長くもあり、アッという間でもありました。戦没者は実に310万人を越えました。これだけの尊い命を犠牲にした太平洋戦争から、私達は何を学び、何を反省し、それを今日の社会にどう反映させているのでしょうか。そう思うと何か頼りなく後ろめたい気持に襲われます。亡くなられた方達のみ霊に報いる為にも、私達の国は、どういう国で有るべきか、この終戦記念日を毎年契機にして、問いかけ続けて行きたいと思います。これから先の66年に何があるのか解りませんが、私はもうこの世には居りません。しかし、戦争だけは再び繰り返してはいけないと、深く心に誓っています。

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二つの原爆記念日の狭間で

2011年08月12日 | 随筆・短歌
 8月6日には広島の、9日には長崎の原爆記念日でした。今以て沢山の人々が辛い病魔と闘い、遺族として悲しみ、また同じ日本人として、悲しみを共有しています。
 今年は特別に、テレビでそれぞれの記念式典や、原爆投下に到るドキュメントや、裏話など見る機会が多くありました。66年が経っても、今だに悲しみや苦しみと闘っておられます 原爆投下直後の現場は余りにむごく、私達夫婦も、もう20年以上前に、広島や長崎へ行き、原爆記念館に立ち寄り、悲劇の様子を目の当たりにして、大きな衝撃を受けました。
 ボロボロの衣類や、へし曲がった飯盒、人間の影の石・・・、爆心から3.5㎞離れていても、熱線に素肌を晒した人は、火傷を負ったと聞いています。焼けた皮膚はずり落ちて、とても正視出来るものではなかったようです。水を求めて人々は彷徨い、倒れて行きました。長崎の平和公園には、そういった人達に清らかな水を湛えた平和の泉も造られていて、供養されていました。数え上げれば際限がありません。涙なくして見られる筈もなく、広島の平和記念資料館や長崎の原爆資料館を出る時は、暫くは人に顔を合わせられない思いでした。
 長崎では、永井博士の如己堂にも立ち寄りました。この狭いひと間に家族三人がどの様な暮らしをされたかと思いますと、今だに悲しみが湧いて来ます。人の親として、または子の立場として、それは言い表しようの無い悲劇だと感じました。
 雨の日でしたし、平和公園では傘も立たない位の吹き降りの中をお参りしたり、写真を撮ったりして歩き回り、如己堂と浦上天主堂を歩いてすっかり疲れ果てたことを覚えています。
 私の友人も当時広島市に住居がありましたが、幸いご自身は疎開していましたので、直接被災されませんでしたが、お父上がしばらく後に亡くなられ、母上もまた可成り間を置いてからでしたが亡くなられました。後にごきょうだいも次々にガンと闘うことになり、近年になってご自身もガンが見つかり、治療を受けておられます。当時は被爆しなかったわけですが、戦後は広島で過ごされましたので、長く経っていても発病するのか、彼女からは病気の原因についてはお聞きしていませんので分かりません。
 日本人の30%がガンに罹るそうですが、被爆に依るとは言い切れなくとも、広島や長崎の原爆と何らかの関係が疑われつつも、原因がハッキリしていない人も多く居られるそうです。
 追い打ちを掛けるようにして、この度の大災害に依る福島の原発事故で、三度目の被災者が出ています。目に見えない放射線の恐怖に、おののく人々の不安も理解出来ます。医学的に未だ何処まで大丈夫なのか、と言う結論は出て居ないのではないでしょうか。何年先迄被害が現れるのか、それさえはっきりしていません。
 かといって怖れる余りに日本を脱出出来る筈もなく、どう折り合いをつけて暮らすか、一人一人が良く考えて、将来の見通しの上に生活の基盤を造り上げなければならないのですから、中々判断も迷いがちなことでしょう。一説には医療で受けるCTやレントゲンに依る被爆、飛行機で海外旅行の度に当たる放射線も無視出来ないと聞きます。それと現在問題になっている野菜や畜産の牛肉を食することで、被爆する量を比較したら、どちらをより重視すべきなのか、考えさせられます。むしろやたらとCTの検査をする方が、より問題が大きいのかも知れません。無学なので分かりませんが、専門家の責任ある説明をお聞きしたいものです。
 どれも事実として忘れないで後世に残し、被爆治療の発展や、除去の方法、予防の方法を確立しなければならないことだけは確かです。
 次に詩を一編載せさせてください。

仮包帯所にて    峠 三吉

あなたたち
泣いても涙のでどころのない
わめいてもことばになる唇のない
もがこうにもつかむ手と指の皮膚のない
あなたたち

血とあぶらと汗と淋巴液とにまみれた四肢をばたつかせ
糸のようにふさいだ眼(め)をしろく光らせ
あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐だけをとどめ
恥しいところさえはじることをできなくさせられたあなたたちが
ああみんなさきほどまでは愛らしい
女学生だったことを
だれがほんとうと思えよう
焼け爛(ただ)れた ヒロシマの
うす暗くゆらめく焔(ほのお)のなかから
あなたでなくなったあなたたちが
つぎつぎと這(は)い出し
この草地にたどりついて
ちりちりのラカン頭を苦悶(くもん)の埃(ほこり)に埋める
何故(なぜ)こんな目に遭わねばならぬのか
なぜこんなめにあわねばならぬのか
何の為に
なんのために
そしてあなたたちは
すでに自分がどんなすがたで
にんげんから遠いものにされはてて
しまっているのかを知らない

ただ思っている
あなたたちはおもっている
今朝がたまでの父を母を弟を妹を
(いま逢ったってたれがあなたとしりえよう)
そうして眠り起きごはんをたべさせた家のことを
(一瞬に垣根の花はちぎれ いまは灰の跡さえわからない)

おもっているおもっている
つぎつぎと動かなくなる同類のあいだにはさまって

おもっている
かつて娘だった
にんげんのむすめだった日を        以上
          

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鼓の演奏に魅了される

2011年08月05日 | 随筆・短歌
 無知な私は、若かった頃は、日本伝来の和の芸術は、西洋の芸術に比べて劣るように思えて、余り理解を深めようとしませんでした。バイオリンやピアノの素晴らしさに比べたら、和楽器は一段劣るように思っていたのです。ところが年を取ってきますと、和の芸術の深さに俄然目覚めさせられて来ました。
 中でも能楽が好きなので、たびたび観に行くのですが、度重なると真正面の真ん中に陣取るような事はせず、かえって少し外れた席のチケットを買ったりします。真正面は意外と前の人の頭で、見えないことがあり、何回も通うとまた違った方向からの鑑賞も悪くないと思うようになりました。。
 芸術の「本物の善し悪しを理解しようと思ったら、最も優れたものを鑑賞しなさい」と言われます。そこで私も、最近図書館から人間国宝の人の、様々な演奏CDを借りてきて、孤独で静かな時間に耳を傾けています。
 鼓という楽器があります。何気なく見たり聴いたりしていたのですが、様々なドラマでも、しばしば鼓を打つ場面があり、その芸術性と精神性の高さに惹かれるようになりました。そこでこの度鼓の人間国宝の堅田喜三久氏のCDを借りて来ました。
 今までにも、箏曲、琵琶、尺八、謡曲(能)など借りて聴いていますが、やはり熟練した人の演奏は胸を打つものがあります。
 堅田氏の小鼓独奏曲「重陽」を聴いていて、初めは小走りに打ち出すのですが、やがて強・弱のふくらみのある響きが現れ、微妙な間を取って、打ち上げられていきます。この「間」の何という素晴らしさなのでしょう。また聞こえるか聞こえないか分からない程の微弱な音で有りながら、しっかりと打たれているというのも、「見事!」としか、言いようがありません。「ヨォ~ォッ 」「イョーッ・オォーッ・オーッ」「ヨホッ」いう様々なかけ声もただならぬ思いを伝えてきます。何故なのでしょう。この精神性の高さというか気品というか、貴族や身分の高い武士の間で伝えられて来ただけあって、私には、本当に近寄りがたい、けれども心が無限の宇宙を浮遊するような心地良さや、水分の多い瑞々しい空気をタップリと呼吸する安らぎが感じられて、とても気持良く、知らないうちに背筋がシャンとしているようです。
 「豊かな音と、凜としたかけ声にのせて、自分の心を思う人に届ける」そんな言葉にならない思いを伝える技に、うっとりしてしまいます。
 私は邦楽鑑賞も全くの素人ですが、多くの人の心を打つ響きには、矢張り同じように感動します。日本では古来から、奇数を「陽」、偶数を「陰」として、「陽」の重なった日を節句として、祝います。その「陽」の重なりで最も数の多いのが九月九日ですから、これを「重陽の節句」として祝いました。菊の季節なので、菊の節句、として祝い、宮中では「菊花の宴」が催されたそうです。
 その言葉から想を得て、邦楽の作曲家の第一人者であった杵屋正邦氏(故人)が堅田喜三久氏のために作曲したものだそうです。堅田氏はアメリカなど、海外の活動も広く行い、私には得難い機会でした。座して名演奏が聴ける幸せな時代になりました。
 以前は自分の本や音楽CDは、自分のものとして買う物でしたが、今はすっかり図書館で借りるものになりました。本当に幸せな時代です。
 本音を言えば、私もこの年ではありますが、鼓を習って、心の修行に励みたい気持があります。でも、肩が痛くて、鼓すら肩に載せられないのでは、と思いますし、第一音痴で、リズム感も悪いので、そんな訳にはいかないと諦めています。
 高齢であることに、また生まれ持った才能が無いことに気付き、現実に戻ってしまいましたが、聴く人があって、初めて名演奏も生きて来るのだと思えば、こんな私でも、存在することの意味は有るのかと思っています。

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