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ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

ブログ引っ越しのお知らせ

2025年07月03日 | 随筆
 今年11月にgooブログが終了するとのことですので、はてなブログに引っ越しをしました。新しいブログのアドレスは以下の通りです。

 https://basama2009.hatenablog.com/

 新たに文章を掲載する日はいつになるか分かりませんが、よろしくお願いいたします。

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高僧を偲んで

2024年11月14日 | 随筆
 私はもうすっかり高齢者ですから、夫との残り少ない人生を「少しでも有意義に過ごせたら」等と考える事は、私には少し贅沢なことの様です。今日は過去に経験した思い出深い出来事から、私の心を育ててくれた有り難い経験について振り返ってみたいと思います。
 私が現在住んでいる家から少し離れたお宅に、以前東京外国語大学の学生さんが住んでおられました。我が家の娘より少し先輩に当たりますが、しっかりした女性でした。或る時お逢いしたら「考えるところがあって」と京都の花園大学へ進路を変えられたと聞きました。きっと深いお考えがあっての事かと思われましたが、その後のご様子は知らないままに年月が流れ、今は妹さんがお一人で住んで居られる様です。
 思えば私達がこの家で子育てした頃は、ご近所には沢山の子供達がいて、あちこちの家に集団で「お邪魔しまーす」と数人で子供部屋で遊び、庭のブランコや滑り台で遊んで「お邪魔しました」と集団でサッと来てサッと帰る一時期がありましたが、最近はどの家からも子供の声は聞こえて来なくなりました。子供が居ないと言うわけではないのですが外で徒党を組んで遊ぶ姿は見えなくなりました。
 大人の方は車社会ですから、「○○へ行って来ました」と紅葉を堪能して来られたらしく、もぎたての大きな林檎をご近所の親しい友人夫妻に頂きました。

 可成り遠い昔ですが、或る時私は夫と二人で京都旅行に出掛て、一度は行って見たいと思っていた妙心寺に立ち寄りました。妙心寺は、京都市右京区花園妙心寺町にある臨済宗妙心寺派の大本山の寺院です。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(無相大師)。日本にある臨済宗寺院約5,650寺のうち、約3,350寺を妙心寺派で占めているそうです。
 沢山の塔頭が建ち並び、一大寺院群を形成していて、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれているそうです。花園大学もこの地にあります。
 当時はそのような事も知らずに、立派な寺院に感動しながら見学させて頂いて、中央の斜面になっている庭園を囲んだ回廊を巡り、最下段にあったベンチから壮観な寺院の様子を回廊の下から眺めて、その後右側の登りの通路へと行きました。
 当時はそこでお茶を頂くことが出来ました。一人の学僧さんがお茶を出して下さいました。そして「花園大学の教授には、山田無文老師に憧れて来られた人も多かった」と云うお話をその学僧さんからお聞きしたのです。とてもおっとりと優しそうな温かみのある学僧さんでしたし、しばらくお話が弾みました。この経験が後々まで残って、とても良い思い出になりました。
 思い立った様に今又我が家にある無文老師法話集「禅を聴く」(1~6巻)を少し聴いてみました。明治以降では希代の名僧と法話集のケースにも書いてありますが、いかにも落ち着いた老僧らしいお言葉で、嚙んで含めるようなお説教でした。
 かつてフランスの大統領が訪日された際、「日本一の高僧に会いたい」と希望されたそうです。その時お相手に選ばれた高僧が山田無文老師(当時花園大学の学長でもあられた )だったそうです。

 フランスの大統領が無文老師の待つ場所に行かれた時に、静かに待って居られた老師に気(け)おされて「恐怖さえ感じた」と、当時の様子を示していた記事を微かに記憶しています。立派な人格を持って居られる人は、ただならぬ気を発するらしいです。ましてや昭和の時代の最高の高僧といわれる山田無文老師の発する凄まじいばかりの念の気迫に気圧(けお)されて、恐怖さえ覚えられたらしいです。
 そのような気迫とは、どのようにして生まれて来るものであろうかと、私は思わず緊張して読みました。京都から帰って早速我が家の書棚にあった「山田無文老師」のお説教を改めて聞きました。
 人間とはいかにあるべきかと、淡々と述べておられるお説教なのですが、今のこの時代に人間本来のあるべき姿を述べておられる・・・と心の底から感動しました。今も大切な我が家の家宝の一つです。
 11月も半ばになり苔庭にも少し枯れ葉が散っています。庭の落ち葉は掃くより拾うだけの日が多いです。今日は木曜日ですが、居間にいると聞こえるのは雀の声だけです。我が家の雀も夕方にならないとお米を食べにランンマ窓には来ません。
 苔庭に囲まれた石池と、その向こうの庭木々とブロック塀、お隣の苔庭の低めの木々も、紅葉がきれいに見えます。
 防寒具を纏った重装備の兵士の姿をテレビで見ながら、平和な日本に住んで居られることを感謝しています。

 生あるものも無きものも染めて陽は落つ平和な海に (あずさ)

 
 

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三つの偶然

2024年10月04日 | 随筆
 多分皆さんも過去に「偶然なのか奇蹟なのか」と思われるような出来事に、きっと何回か遭遇しておられる事かと思います。それはこの世の中でとても不思議な出来事であり、奇蹟としか言えないという思いを抱かされる事です。
 我が家ではそんな奇蹟的な事に何回か出会いました。そんな奇遇に「これは何と言ったらよいのか」と首を傾げています。そしてその奇蹟に感謝しています。
 
 数ヶ月前に夫が激しい体調不良に襲われて、結果的にコロナ感染症だと言う事でした。家族一同6回もコロナワクチンの予防接種をしていましたのに何故なのかとの疑問を抱きつつ、夫だけが入院となりました。
 ところがこの入院時に、家と病院を私は夫を送って三往復したのですが、三回とも同じ会社の同じタクシーでした。高齢者の私達は良くタクシーを使いますが、でもこの様に二週間の間に、しかもこれ程遠くまでタクシーで往復することはありませんでした。
余程ご縁があったのですね。有り難かったです。でもこんな偶然は信じられない出来事でした。家族にも沢山助けられました。

 直ぐ近くには我が家の掛かりつけの医院があるのですが、この時は運が悪くて、最初は自宅から40キロ位ある病院に夫が救急車で収容されてしまいました。コロナが流行っていたからでしょうけれど、私は夫に付き添って病院までの往復を何回かタクシーで行き来することになってしまいました。
 その時に乗ったタクシーがが同じ会社の同じ運転手さんだったのが不思議でした。運転手さんから「ご自宅は解って居ます」と言われて疲れた身体をシートに預けて、バイパスも大きく市の外回りをまわるようにして遠い距離でしたが、自宅の案内をしなくて良くて助かりました。この様に親切な運転手さんに続けて三回も恵まれるなんて、本当に奇蹟としか思えませんでした。

 そういえば可成り昔の事になりますが、私がある病院の整形外科で診て頂くことになって、バスセンターで時刻表を探していましたら、「何処へ行かれるのですか?」と声を掛けてきて下さった女性が「私も同じ病院へいくのです」と案内不足で時刻表の掲示の前で、マゴマゴしていた私達夫婦を助けて下さった方がいました。私を救ってくれた有り難い人の一人です。その女性と私は同じドクターの患者であり、同じ病気でした。彼女のアドバイスが大変参考になり、手術に踏み切る原動力になりました。不思議なことに彼女とはその後会うことはありませんが、私を救ってくれた有り難い人の一人です。

 また山口県という本州の西の遠い土地へ夫婦で旅行に行っていた時に「乙女峠」と云う切支丹弾圧の歴史のある土地の教会に「全国故郷(ふるさと)の道100選」に選ばれている美しい道があって「道の傍らのせせらぎの美しい谷沿いの道」を下って来た事がありました。想い出深い美しい道と歴史のある教会に出会いました。
 礼拝と見学を済ませて後の帰り道で、振り返ると夕陽に照らされた山の上の教会の尖塔が光って見えて、とても美しかったです。
 古くからの歴史のある教会でしたが、この日が「この教会の最後のミサ」に当たるのだと云う尼僧に偶然出会いました。長く過ごした教会に、心残りの深いような尼僧のお話を親しく聴かせて頂きました。見学した教会では、切支丹弾圧の歴史に詳しく触れた説明書が掲示されていて、詳しい様子が偲ばれて記憶に残る不思議な出逢いになりました。
 私達は意識せずに行動していても、何か見えない導きによって様々な出逢いに恵まれるようです。日頃は何気なく単なる偶然として見過ごしていますが、やがて結婚して生涯共に暮らすことに繋がる出逢いもあり、それはもう人智を越えたどなたかのご厚意に依るものとしか思えないようです。有り難い事です。
 人々は軽く偶然だと話題にしますが、「人と人の出逢い」ということは偶然と軽く考える事が出来ない場合もあると思えて来ます。残りの人生を共に過ごす人との出逢いは、本当に不思議です。

 穏やかな秋の一日ですが、どうぞみな様のこの先の人生が幸せで在りますように、思わず祈りたいと思っています。

東慶寺墓地に会ひたる黒き蝶我が石池に再び会ひぬ  あずさ



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三度巡った四国遍路

2024年08月24日 | 随筆
 もう数十年前の事になりますが、或る日突然私の先輩の女姓教師が私に笑顔を向けて「貴女は四国遍路に行かれた事がりますか?」と問いかけられました。「いいえ」と答えましたら一枚の写真を私に見せて「とても良いものですよ。貴女も機会があったら是非行っていらっしゃい。」と言われました。
 写真は40人位の団体旅行の集合写真で、ガイドさんや添乗員さんも加わってどこかの砂浜らしいところ(後に四国の「桂浜」だと気付きました。)での記念写真でした。「四国遍路」と言う言葉は知っていましたが、それは私の日常生活からは遠くかけ離れた言葉でしたし、突然云われましたので少し戸惑い気味に聞きました。
 私も夫もそれぞれの勤めがあって「共働き」でしたが、やがて二人とも退職して、自由な身になりました。夫も私も旅行が好きでしたし、国外へは行きませんでしたが、ごく身近への家族旅行や国内の旅行によく出掛けるようになりました。
 夫が運転する車でソーメン流しのある所へ行ったり、登山やキャンプをしたり、家族で良く出掛けてだんだん遠くへ行くようになりました。やがて暇人の私と夫は、二人で九州や北海道へも足を延ばす様にもなったのでした。
 現在手元に在る四国八十八カ所巡りの時の私達の資料を見ますと、四国では合計38ヶ寺回ったことになります。88ヶ所の約半数でしかありませんが、普段の旅行とはひと味違って想い出深い旅になりました。あの時勧めて下さった先輩教師に今も感謝しています。
 遍路に出掛ける人達は、先ず一番札所の近くにある遍路の支度が調えられる売店で、白衣とか、納経帳とか、納め札とか様々な必要品を買い整えるのです。私が嫁いだ家が真言宗でしたから、生家の浄土真宗とはしきたりも違います。そのお寺の住職さんが、私達が遍路に出掛けると言うことを知って、そのお寺の紋が刺繍されている紫の輪袈裟(首に掛ける)を私と夫の分の二本を持って来て「気を付けて行って来て下さい」と言われました。お心遣いに深く感謝しました。
 遍路の白衣は、一番札所の近くの売店で整えました。珍しかったのは、「納め札」というお札があり初回の人は「白」二回目の人は・・・と回数で納め札の色が変わって最高は金色になるそうです。
 今、我が家の箪笥には、当時着た遍路の白衣が糊付けされて入れてありますが、家族には「もし私達が亡くなったら、それぞれ襟の下端に名前の入った白衣を、各々の棺に入れて欲しい」と頼んであります。あの世まで同道して頂く積もりです。
 
 ところで不思議なのは、一回目の遍路の旅から帰った時の事です。留守を守ってくれていた息子にはとても感謝しました。幾日も不在にしていると、私達の地域では当時回覧板が回って来たりしましたし、会合もありました。何とかそのような行事もなく、無事に過ごせました。
不思議なことに帰宅して暫く身体を休めていると、幾日もしないうちに又遍路の旅に行きたくなって来るのです。本当に不思議なことですが・・・。結局今までに3回遍路の旅に出たことになります。

 遍路の旅は、想像していた以上に何だか心が落ち着いて、とても気分が良い日々でしたし、何故かホッとした充実感を覚えたりして、参詣したお寺のご本尊の前では「お会い出来て有り難う御座います」とか「お守り頂いて有り難う御座います」と掌を合わせました。本当に心安らぐ良い経験でした。
 旅を終えて少し感慨にふけっている内に、直ぐに又遍路の旅に行きたくなるのです。本当に不思議なのですが、三回回った遍路旅で、三回とも又直ぐに出掛けたくなりました。しっとりと心にしみわたるように、各お寺の雰囲気と祈りの日々の充実感が心の底に静かに溜まっていくのが解りました。多分この感情は、遍路として四国路を巡った人でないと解らないかも知れないと思う位です。
 遠い昔、遍路の途中で亡くなられた人も居られて、その様な人の小さな墓が道の傍にありまた。掌を合わせてお参りしたりしました。土佐の高知では、お手洗いへ寄って出てきましたら「お遍路さん何処か具合がわるいのですか?」と声を掛けて頂いたり、4番札所の近くでは、「丁度そちらの方へいきますから、乗りませんか?可成りとおいですから」と自家用車に乗せて頂いたりもしました。四国と言うところは誰もがお遍路さんには優しい様でした。ご本尊の前でお参りして、太子堂でお参りして、又ご本尊の前に戻って又お参りして、納経帳を記載して下さる方達のところへ行って記帳して頂くのです。時には団体のバスが着いて、記帳までに時間が掛かることもありましたし、その様な団体の方達は別に記帳のノートだけ回して・・・などというやり方もあったようです。私達は個人でしたから、一つ一つ時間を掛けてお参りし、記帳して貰って次へ行く、と言う繰り返しでした。祈りの時間も又趣きの深い処があって、一つ一つが豊かな時間でした。
 
 この様な経験を積み重ねての遍路の旅でしたが、多くの住人の方達は優しく温かく、何くれとお世話になりました。有り難いことでした。



南無大師お遍路道に鈴が鳴る野火焚く見ゆる菜の花の道


桂浜寄せ来る波の問いかけに答えの見えぬ我が遍路道

                         
                          あずさ


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専門家の皆さん頑張って下さい

2024年05月23日 | 随筆
 新型コロナの流行もようやく峠を越えたようです。以前は「予防ワクチンを打つように」という行政からの勧めに従って、私も家族もそれぞれかかりつけの医院や市が用意した会場で接種を受けました。私は毎月一回かかりつけの医院で診療を受けている身ですから、当然のことだと思って接種して貰いました。

 ところが最近このワクチンを接種した人が、癌に罹ると言う記事を文藝春秋6月号(京都大学名誉教授 福島雅典氏)の記事で読みました。今頃言われても後の祭りですが。
 以前或る県知事が、この先関東大震災級の大地震に襲われる危険性を発表して、結果的に何事も起きず可成りの批判を受けた事を少し思い出しました。一般家庭の備えと地方自治体の備えとは当然違いますが、各家庭では一応備えはそれなりに出来ますし、どの位の準備をするかも各家庭で異なりますから、その対応を<大げさ過ぎる>と否定したりする事は、個人に任せて良いかと思います。備えがあるかないかで違って来る事もありますし、「備えにまさる用心なし」ともいわれます。備えて損をしたと思うかもしれないし、しないで損をしたという場合もありましょう。その判断は年月を重ねて科学的に証明してくれるでしょう。

 古い話ですが、私の父は関東大地震に、当時の東京の中心地の近くで遭遇しました。大揺れの会社を逃げ出して、そのまま徒歩で故郷まで歩いて帰宅した時の事を子供の私に話して、当時万一その様な地震に遭ったらどうするか、何処へ逃げるか、何が必要か、今は遠い故郷の家で、地図を拡げて海からの距離を調べたりして父の話相手になりながら真剣に耳を傾けました。
 備えが出来るものと出来ないもの、避難場所、再会のための決め事など、故郷の家と、この今の我が家の様に、周りのビルに屋上が或るところとは違いますが、当時2万5千分の一の地図を拡げて父の話しを真剣に聴いた事を思い出しました。
 現段階では地震予知はとても難しい事だと思います。当然ですが、予知は学者によって異なりますし、それでも「備えにまさる用心無し」ですよね。各家庭で考えて対応したいものです。私達も飲み水のボトルとか毛布とか、万一の必需品を納めた冷蔵庫など、義父が建てて呉れた二階建ての物置に常備しています。
 一方、この予知が当たらなかったからと言って、専門家が非難される場合があります。だからといって国民に何も知らせないのでは困ります。現代地震学の理論を元に現状を知らせ、確率を併記するなりして、備えの程度は各家庭にある程度任せても良いのではないでしょうか。長い年月の積み重ねと科学の発達は、やがて国民を救うことに繋がると私は思います。

 予報が当たらなかったからと言って、科学者や政府を攻めすぎるのもどうかと思います。先の短い高齢者ですが、知らせない事より知らせて貰って結果の精度を共有していくことを望みます。 これはコロナワクチンの場合と似ています。私の知人もコロナの始まりの頃に、医師に「コロナかも知れません」と言われて自主的にご自分が家族と離れて対応されて、結果的に何事も無かった方がいました。自費での対応ですから費用が掛かったことと思いますし、受け入れの方も慣れない事で、大変だったと思いますが、賢い選択だったと私は今でもそう思っています。

 少し古い話ですが、当時鳥取県知事だったと思いますが、地震の発生予想を政府の専門家会議よりも地元の研究者の見通しを取り上げて、対策を取ったということがあったと記憶しています。これが当って当時地震があった時、県民の被害が少なくて済みました。
 地震学はなかなか難しいので、思い切って発表して助かった例ですが、これからもあることですから、私はこのように地方とか身近で研究を積み重ねておられる人達の意見も重視して対処してほしいです。
 東南海トラフの地震の予知についても様々発表されています。政府見解は様々な関係者(学者・業界・企業・行政)などによって構成されていますが、その内容は「30年以内に60~70%の確立で起きる」というものです。しかし、ここで問題になるのは、「専門家」の見解で、20%の確立で起きると発表されています。しかもこれは「参考値」と書かれています。地震学は科学ですし、この乖離を国民はどう受け止めたら良いのでしょう。私は専門家と言われる人達がいるのなら、その意見を優先すべきではないかと個人的に考えましたので、20%の確率の方を選び、それでも尚万一の時は何処へ逃げるか、水の確保とか、家族が離れ離れになった時の安否確認の掲示板はどの小学校か、とか一応何があっても家族が再会出来る方法を確認しました。みなさんはどうされていますか。
 当たったとか当たらなかったと言われる事が怖いのか、二つの結果を併記して国民に選択させるという事は、学者さん達の自信のなさか政府の責任のがれでしょうか。私には解りませんが、東南海トラフの地震が来れば20万人の犠牲者が出ると言われています。
 私の住む地方は この対象地域から遠いですが、過去の地震の被害を思い出して、飲み水のボトルの確保とキャップに書いてある賞味期限もしっかり調べて、冷え込む夜のための毛布などの清潔にも気を配ったりしています。どうか専門家の皆さんこれからも研究を深めて国民を安全に導いて下さい。

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