ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

憲法が守られない現実に出会う

2015年09月30日 | 随筆
 水は決して低い方から高いほうへは移動しません。僅かに違う高低差でも、低い方へ低い方へと流れて行きます。しかし、人間は今いる処から何処へ移動していくのか、時と場合によって異なりもし、想像もつかないことが起きるかも知れません。
 先日とても不思議な出会いがありました。丁度夫と私は、何時ものようにスーパーへ買い物に行く途中でした。
 「駅まで後どのくらいありますか」と突然後ろから歩いて来たご老人に声を掛けられました。夫とほぼ同じ年齢か、と思われるその人は、スキーのストックのような杖を一本ついていましたが、小荷物を抱えつつも背は伸びており、話し方も明確でした。「真っ直ぐに後4キロ位です」と夫が答えました。
 広めの歩道で、三人くらいが楽に並べる広さです。駅までと聞いて、跨線橋もあるし老人には可成りの距離だと思い、立ち止まりました。「何処から来られたのですか」と今迄歩いた距離を心配して私が聞きました。「北海道・札幌です」思い掛けなく遠い地の名前を聞いて、驚いてしまいました。「ずっと歩いてこられたのですか」と聞くと「そうです。・・・私は身よりが全く無く、弧独な人間です。特攻の生き残りですよ。」と少し自嘲ぎみに言い、「最後に残った僅かな飛行機でしたが・・・出撃したら間もなく右エンジンから火が出て、不時着して生き残ってしまったのです。」と言い、「年を取って・・・、病気もあるしお金も底をついたし・・・生活保護を受けようと思ったのですが・・・・、市の窓口の人は、中々生活保護には厳しくて・・・係りの人は、建前を繰り返すばかりで・・・私のような人間の実情が良く解らないのでしょうが、要するに出しては呉れないのですよ。」とぽつりぽつり言うのです。
 生活保護を希望する人が増えて、なかなか厳しくなっている事は知っていましたが、このような高齢の人にまでも、と思わず絶句してしまいました。
 「住所が無いと貰えないのです。でも保証人が居ないとアパートは借りられません。だから結局こうして都会を目指しているのです。」なるほどそう言うことになるのか、知らなかった。と、愚かな私は「ではどうしたら」と考えたのでした。でも何故都会?と私の怪訝な顔に気付いたらしく、その人は「地方は冷たいのです。」と言うではありませんか。 都会は冷たく、地方は温かいと考えていた私は、虚を突かれる思いでした。「青森も秋田も・・・みなどの市役所も、結局その地に住所がないので、あれこれ言われて、駄目なのです。窓口はね、今は若い人が殆どで、規則を並べるだけで、解ってもらえないのです。そこへ行くと東京・大阪等大きい所には私のような人が多いので、何とかなるかと思って行くところです。」「教会やお寺にも泊めて貰いましたし、食事を頂くこともありました。」「NPOの施設にも親切に紹介して貰ったのですが、そこはご飯も食べさせて貰えないし、お風呂にも入れません。布団すらないのです・・・。」もう何日か、ろくに食事をしていないという感じでした。
 私はそう言う施設の実情を、見た事もないので知りませんでしたから、的確な助言は出来ませんでした。夫が「日本国憲法が基本的人権として、最低限の生活を保障して呉れる筈なのに。」と振り絞るような声で言いました。
 すでに何度も沢山の役所を回ったらしいその人は、家が無い為に住所が持てない。市役所等でも、そういう人をどう指導して、居場所を見付けてあげられるのか、係りの人が解らない。または、厄介者扱いして、法律を繰り返すばかりの対応しか出来ない。と身に浸みて解っているらしく、東京へ行く事だけを考えて居るようでした。「さっき水を一杯下さい、と女性に頼んだら、100円出しなさい、と言われました。」「もうこの年ですから・・・本当は死にたいのです・・・」とご老人は、こみ上げる涙で目の縁を赤くし、必死にこらえながら、途切れ途切れの言葉で言いました。
 私は胸が潰れる思いでした。本当にお気の毒に思えて、何とか出来ないものか、と考えましたが、知識の無い私に出来ることはたった一つです。夫の耳に「いくらかあげてもいいですか?」と囁きました。頷く夫に、私は素早くお札を取り出し、その人の前ポケットが見えましたので、「ほんの僅かですが、今夜の食事代位にはなるでしょう。気を悪くしないで下さいね。」と押し込みました。「ああ・・・。どうも有り難うございます。これで何日か助かります。何回も食べられます。」とそのご老人は言い、腰を深く折って頭を下げました。
 歩きながらの話しでしたから、スーパーの前で「どうぞ気を付けて」と別れました。
 「私達に出来る事ってあのくらいですよね」と私。「何とかああいう人を救う方法を、係りに周知徹底する必要があるね」と言う夫、ため息をつきながら、でもほんの少しの善意を素直に受け取って下さってよかったと思ったのでした。細い体で、歩き去って行く老人の背中が「種田山頭火」に重なりました。彼は「乞喰(こつじき)には大変な勇気が要る」と言い、しかし行乞(ぎょうこつ)をしないと食べて行かれない自分を哀しみました。幾ばくかのお金のある日は「心が安らぐ」と書いています。

うしろすがたのしぐれてゆくか
どうしようもない私が歩いている
ほろほろほろびゆくわたくしの秋  

などという彼の句を想い出しつつ、また「与える人の喜びは、与えられる人の淋しさとなる」と書いた山頭火の心から、「果たして私達は良いことをしたのかどうか?」と振り返ったりしました。「あれはあれで、良かったんだろう」と夫が言って、色づき始めた街路樹の舗道を、その先は言葉も無く歩いて戻りました。


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ある哀しいドラマが語りかけて来るもの

2015年09月18日 | 随筆
 過日哀しいテレビドラマを見ました。ある男性が、ある日突然失職します。このようなことは、現在ではそう珍しく無いことのようでもありますが、私達が成人した頃には、「職に就いた」と言った時は、大方は、定年までの職業に就いたことを意味しました。そして余程のことがない限り、突然解雇されることもありませんでした。
 ところが時代が変わり、私の娘の友人の一人は、同じドイツ語学科を卒業しましたのに、イギリスに行って勉強したり、少し働いて諸外国を見学する旅に出たりしていて、自らフリーターと称して定職に就かないまま何年か過ごしました。娘は国家公務員として働いていましたから、「貴女もいつまでも不安定な状態でいないで」と、定職に就くことを折りが在るたびに勧めていました。
 我家に泊まりがけで遊びに来たこともありましたが、自立した女性として、娘とも良く気が合うようで、何人かの学友と、週末などに東京近郷に一泊旅行をしていました。彼女は幼い頃に私達の市に住んでいた事があり、幼稚園や海辺の遊園地が懐かしそうでしたので、夫の運転に私も同乗して、あちこち出掛けて想い出多い処を回り、みんなで楽しく過ごしました。その後の詳しいことは聞きませんでしたが、能力の高い人でしたから、今はきっと立派になっておられる事と思います。
 売り手市場の時代でしたから、ゆっくりしていても職に就くことは容易だったかと思われ、諸外国の職業経験の豊富さが一層就職には、良い条件であったかも知れません。
 しかし今は、卒業前の就活がとても大変だと聞いています。実際に何社も受けて、そのあげくに契約社員になる人も多いようです。この度政府は、契約社員は最大3年、という枠を外して、何年でも契約社員を使い続けられるようにしました。しかし、一人一箇所3年で打ち切りとし、雇い主は、次の職を探して斡旋するように、と言う事になりました。
 この法に罰則があるのかないのか知りませんが、賃金の安い契約職員を長い間使える企業にとっては朗報ですが、それで一生を終えるかも知れない人にとっては、大変です。家を建てるにも、結婚するにも、子育てをするにも、先ず収入が安定していないとなかなか出来ません。人生の計画も立てられないような政策が、何故とられるのでしょうか。
 さて先のドラマの話ですが、突然職業がなくなった男性は、必死に次の職業を探すのですが、結局契約労働者にしかなれませんでした。恋人には、「定職があるから結婚出来ると思っていたのに、不安定では駄目」と言われて、彼女は去ってしまいました。失意の中を又々働いていた会社が倒産してしまいます。弟に切羽詰まった状態を告げた時、「僕は母さんの面倒を見ているし、子供の教育がある」と言われて、助けてもらうことを諦めざるを得ませんでした。
 次に決まった職業は、更に一段条件の悪い「きつい・汚い・危険」な、いわゆる3Kの職場でしたし、収入も減ったのです。期限付きですから、どんどん職場が変わり、変わる度に一層条件は悪くなる一方でした。年も重ねますから。当たり前と言えば当たり前です。とうとう怪我をしても手当も受けられず追い詰められて、彼が取った手段は・・・、皆さんは何だったと思われますか?それは  「自死」  です。
 私はこのような結末のドラマを初めて見ましたから、とてもショックでした。でも、これからはドラマの世界ではなく、「充分あり得る」と思ったのです。短い期間でしか勤めることが出来ず、雇い主が次を勧めるといっても、年を取ればそれだけで条件が悪くなるのは仕方がないことです。手に特殊な技術を持って居れば、それを生かす事も出来ましょうが、多くはそのような教育を受けて来て居る訳ではありません。
 亡くなった人の過去を調べた人達が同情して、「せめて身近に助けてくれる兄弟や親族があれば・・・」と言っていましたが、彼は既に助けを求めて断られています。助けを求められた方もぎりぎりの生活なのですから、それを責めるのも酷というものでしょう。私は持って行き場のない哀しみと怒りを、抱かざるを得ませんでした。
 同一労働同一賃金と、今回決まったのは、良いことではありますが、矢張り派遣では、三年で変わらなければならない、そこを何とかしなければ、職業を変える度にどんどん3Kなってしまうばかりです。たかがドラマと傍観していられない気持ちになりました。
 以前のように一生勤められる職業にするように、企業に義務づけることの方が大切な気がします。アメリカでは能力の高い人は、どんどん職業を変えて、変える程に出世出来るとして、こういった勤め方を推奨するところもあるようですが、日本人には日本人らしい勤め方として、一つの職業で一生続けて働く事が、その積み上げが技能や技術をみがき、生き甲斐にもなり、収入も安定していて、良いと思う人が大多数だと思えます。
 どんなに優れた人ばかり集めても、集団には必ず序列が出来て、ピンもキリも生じることをずっと以前、実際の体験から書きました。でも世の中は様々な人が集まって出来ているわけで、お互いが助け合い、思いやり、いたわり合って、お互いを我が身に置き換えて反省し慈しみあって生きていけたら、それが幸せな人生の基本だと思うのです。
 この制度が実践に移されれれば、間もなく現実がはっきりして、悪法・悪政と言われる時が来るのではないかと心を痛めています。貧富の差を益々拡大していくようで、いじめたり、さげすんだり、どう考えても私は住みたくない世の中になる様です。
 戦後の日本人は、貧しさのどん底から必死に立ち上がって、助け合い、いたわり合って、そして切磋琢磨し合い、何時の間にか世界3位の経済大国になりました。このことはまことに目出度いことですが、その経済力と引き替えに、大切なものを失ってしまったようです。労りの心を捨てて台頭して来たのが、経済最優先の、利己的思想です。自分さえ豊かになれば、会社さえ儲かれば、人件費の削減の為には、派遣社員を次々と替えて、利益を上げるのが有利だ。
 こんなことをしていたら、この先この国はどうなるのでしょうか。今日スーパーに社会見学に来ていた、小学校の低学年の子供たちに会いました。みな澄んだきれいな眼をしていました。どうかこの子達の幸せな一生を、保障する国であって欲しいと、心から祈らずにはいられませんでした。



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我が子を信じる親心 ー 「北の国から」

2015年09月06日 | 随筆
 我が子が生まれる喜びは、経験した多くの人が「この上ない喜び」と言います。そして日に日に育っていく子供が愛らしく、朝、勤務に出掛けて夕方帰って来ると、もう朝よりも大きくなっている(ダッコした途端に、朝お願いしますと手渡した時より重いと感じる、お乳の飲み方が力強い、或いは朝話せなかった新しい言葉を話す)こと等に気付いて、成長を実感する喜びは、恐らく子供を産み育てた事のある人はみな経験したことでしょう。
 ところが、その愛らしい子供が段々大人になっていくと、今迄決して見せなかった思い掛けない姿を見せる事があって、その度にハッとすることがあります。そんな時に親はどうするのか、或いはどうしたら良いのか、そういう事を「そうだよねー」と感動と共に実感するドラマがあります。
 ドラマ「北の国から」です。これは以前も書きましたし、多くの人達がこのドラマを実際に見ておられると思われますから、(もし未だだったら、DVD になっていて、借りられますから、是非お勧めします)大人になった息子純(吉岡隆)と娘蛍(中嶋朋子)、父親の黒板五郎(田中邦衛)に照準を合わせたいと思います。
 彼等がまだ幼く、ひよわな都会っ子として、北海道の布部の駅に降り立った処からドラマが始まり、こわれたあばら家を自分達の手で直し、無かった水道を苦労して川から引き、電気を起こし・・・、と数数の苦難を乗り越えて大きくなって行く過程を、様々な出来事を織り交ぜつつ描いています。愛し、苦しみ、結婚し・・・親を労るようになるまで成長して行く、一大ドラマです。
 妻(いしだあゆみ)の不倫によって離婚した五郎です。しかし子供たちにとっては優しい母親です。その母がある時富良野に訪ねて来て、ラベンダー畑で楽しい一日を過ごします。母親が家に来たことを匂いで感知する鋭い感覚を持った蛍ですが、その母親が富良野から帰る日が来ます。駅への見送りを拒否した蛍が、列車で手を振って去る母を追いかけて涙を流しつつ、川岸の道を力一杯走ります。この時の蛍の姿を、泣かずに見た人は恐らくいないでしょう。
 そんな蛍がやがて看護学校を終えて、富良野に戻って来ます。父五郎が蛍の為に就職先を決めて待っています。しかし、駅から出て来た蛍は「もう決めたの」と自分が決めた病院を告げます。てっきり喜んで呉れると思っていた父は、肩すかしを食らうことになります。鳩が豆鉄砲を食らったように、キョトンとした五郎でしたが、直ぐに気を取り直してニコニコし、「そうかい、決めたのかい」と言い、「うん。それが良い」と優しく納得するのです。何と広くて温かい親心でしょう。普通の親は、折角あなたの為に決めたのに、と愚痴をこぼしたり、未練を残したりするところもあるでしょう。
 この辺が、なかなか出来ない親の態度のように思いました。又、蛍が勤め先の医師と恋愛して駆け落ちしてしまいます。そのことを聞いて呆然とする五郎ですが、二人が働いている落石(おちいし)の診療所に、純の運転で訪ねて行く場面があります。診療所の裏に着いた時、偶然外に出て来た蛍に会います。「元気だったかい」と温かい言葉をかけます。こうなったことは、成ってしまったのだから、気にすることはない、と五郎は言い「父さんに対して申しわけないと思うなよ。父さんは味方だから。」と言います。このような場面で、私はあなたの味方だから・・・、と言える親は、どのくらいいるでしょう?。やがて医師に鮭のお土産を選んで、「先生に宜しく」と蛍を見送ります。少し歩き出した蛍の背中に、「ホタル!いつでも富良野に帰ってくんだぞー」と叫びます。蛍は走って戻り、「父さん私一人の時は、本当は毎日自分を責めているの。でもどうしょうもないの。ご免なさい」と泣きながらしゃがみ込んでしまいます。五郎は肩を抱いて立ち上がらせます。心を取り戻した蛍は、微かな微笑みを浮かべて診療所へ戻って行きます。「富良野までの8時間の長い時間を、父さんは一言も喋らずに、着いた時はもう夜になっていた」と純のナレーションが続きます。逡巡する五郎の心が、無言の中に痛い程伝わって来ます。「これでいいのだ」と心でつぶやいて、自立した娘の生き様を温かく見守って行こう、と自らを納得させていたのでしょう。
 どうしようもない愛に突き動かされて行動に出た娘に対して、これ程深く理解出来る親が、どのくらいいるでしょう。いいえ、これ程何もかもうち捨てて子供を信じることが出来る親がどのくらいいるのでしょう。私自身の自戒を込めて、私は涙を流してしまいます。
 本当に子供のためにのみ考えて、自分の立場や世間体を気にしないで、ひたすら子供のことを考える、朴訥だけれど温かく立派な父親であり、その心の広さは誰も叶わないと思われます。やがて蛍から「わたしを見捨てないで下さい。父さん愛しています」と手紙が届きます。父と娘の微妙な間が、見事に愛で繋がります。このドラマ全編を通して、格別感動深い場面です。
 純が、卒業後に単身上京して、挫折して戻って来た時、近隣の父親の友達の温かいフォローもあり、純はその人達の温かさに失った自信を取り戻し、劣等感を克服して、やがてゴミ収集車に乗って働き始めるのです。やがて純自身も、蛍には意見もする大人になって行くのです。落石から帰った時に、「父さん冬の間だけでも俺の処へ来ないか」と五郎を誘います。たった一人で、自分が建てた石の家に厳寒の冬を頑張る父親を労るのです。
 こんな人間ドラマが、北海道の大自然の中で子供たちの成長を追いかけて、時に東京や札幌や根室も含めて、21年もかけて繰り広げられていくのですから、これ程スケールの大きい、スパンの長いドラマは日本では初めてではないでしょうか。
 先頃日経新聞にこのドラマのシナリオを書いた倉本聡が、「私の履歴書」と言うシリーズで30回に渡って書いていましたが、最終回は先月末(2015年8月31日)でした。彼の代表作の一つである、このドラマが生まれた背景や、21年もの長い時間をかけて書き続け、ドラマが終わった2002年には、富良野に250万人の観光客が訪れたそうです。実の処私達もその中の二人で、北の国から、の舞台になった家なども見てきました。五郎の石の家の近くには、「今も五郎はここに住んでいます。そっとしておいて下さい」という立て看板が立っていました。あの立て看板は今も残っているのでしょうか。
 大人のドラマを、と言う現在の彼のフジテレビへの「建白書」には、とても大切で重いものを感じました。「シルバータイム(朝・ターゲットは高齢者)に良質なドラマを」という発想は、大いに頷けます。また、期待もしています。
 我が家の子供たちが幼かった頃に、家族で見たアメリカの「大草原の小さな家」のような作品を書きたかったという、倉本聡の発想は、多くの人々に感動を与え、未だレンタルビデオ屋には、このドラマスペシャル版の「95’秘密」等も含めて全巻が揃っています。
 もう一つこのドラマの優れた特徴の一つは、登場して来る人達がみな温かく、苦労に耐え忍び、明るく強く生きている事です。そして北海道の大地にしっかりと根を降ろした人々の、生き生きとした生活が、共感と感動を持ってしっかりと描かれている事でしょう。
 配役の確かさや、さだまさしの曲だけで歌詞の無い「北の国から」の曲とか出演者のテーマ曲なども、みな作品をグレードアップしています。バックの大自然の美しさは、カメラの技術でしょう。それぞれの人が、倉本作品を盛り上げています。
 私は、このドラマのように、子供たちは何時も明るく、挫けず、太陽を浴びて外を駆け回り、どろんこになって遊ぶ事が、健全な心身の発達に一番大切なことだと、自分の子育てを通して思っています。今、家で、電車で、バスの中でさえも、いい大人も子供も、みな一様に、画面をスクロールしたり、メッセージを打ったりしていますが、これはとても不健全に見えます。
 大切な「生きている時間」を、運動をするとか本を読むとか、好きな事に打ち込むとか、良い映画や演劇、音楽、絵画の鑑賞をして、広く様々な経験をして欲しいと思うのです。
 親は、子供の喜びや悩みに寄り添い、親の価値観を押しつけたりせず、何時も温かく見守る存在でいたい、と我が身の子育てを振り返り、このようなドラマを見て深く思うのです。

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