水は決して低い方から高いほうへは移動しません。僅かに違う高低差でも、低い方へ低い方へと流れて行きます。しかし、人間は今いる処から何処へ移動していくのか、時と場合によって異なりもし、想像もつかないことが起きるかも知れません。
先日とても不思議な出会いがありました。丁度夫と私は、何時ものようにスーパーへ買い物に行く途中でした。
「駅まで後どのくらいありますか」と突然後ろから歩いて来たご老人に声を掛けられました。夫とほぼ同じ年齢か、と思われるその人は、スキーのストックのような杖を一本ついていましたが、小荷物を抱えつつも背は伸びており、話し方も明確でした。「真っ直ぐに後4キロ位です」と夫が答えました。
広めの歩道で、三人くらいが楽に並べる広さです。駅までと聞いて、跨線橋もあるし老人には可成りの距離だと思い、立ち止まりました。「何処から来られたのですか」と今迄歩いた距離を心配して私が聞きました。「北海道・札幌です」思い掛けなく遠い地の名前を聞いて、驚いてしまいました。「ずっと歩いてこられたのですか」と聞くと「そうです。・・・私は身よりが全く無く、弧独な人間です。特攻の生き残りですよ。」と少し自嘲ぎみに言い、「最後に残った僅かな飛行機でしたが・・・出撃したら間もなく右エンジンから火が出て、不時着して生き残ってしまったのです。」と言い、「年を取って・・・、病気もあるしお金も底をついたし・・・生活保護を受けようと思ったのですが・・・・、市の窓口の人は、中々生活保護には厳しくて・・・係りの人は、建前を繰り返すばかりで・・・私のような人間の実情が良く解らないのでしょうが、要するに出しては呉れないのですよ。」とぽつりぽつり言うのです。
生活保護を希望する人が増えて、なかなか厳しくなっている事は知っていましたが、このような高齢の人にまでも、と思わず絶句してしまいました。
「住所が無いと貰えないのです。でも保証人が居ないとアパートは借りられません。だから結局こうして都会を目指しているのです。」なるほどそう言うことになるのか、知らなかった。と、愚かな私は「ではどうしたら」と考えたのでした。でも何故都会?と私の怪訝な顔に気付いたらしく、その人は「地方は冷たいのです。」と言うではありませんか。 都会は冷たく、地方は温かいと考えていた私は、虚を突かれる思いでした。「青森も秋田も・・・みなどの市役所も、結局その地に住所がないので、あれこれ言われて、駄目なのです。窓口はね、今は若い人が殆どで、規則を並べるだけで、解ってもらえないのです。そこへ行くと東京・大阪等大きい所には私のような人が多いので、何とかなるかと思って行くところです。」「教会やお寺にも泊めて貰いましたし、食事を頂くこともありました。」「NPOの施設にも親切に紹介して貰ったのですが、そこはご飯も食べさせて貰えないし、お風呂にも入れません。布団すらないのです・・・。」もう何日か、ろくに食事をしていないという感じでした。
私はそう言う施設の実情を、見た事もないので知りませんでしたから、的確な助言は出来ませんでした。夫が「日本国憲法が基本的人権として、最低限の生活を保障して呉れる筈なのに。」と振り絞るような声で言いました。
すでに何度も沢山の役所を回ったらしいその人は、家が無い為に住所が持てない。市役所等でも、そういう人をどう指導して、居場所を見付けてあげられるのか、係りの人が解らない。または、厄介者扱いして、法律を繰り返すばかりの対応しか出来ない。と身に浸みて解っているらしく、東京へ行く事だけを考えて居るようでした。「さっき水を一杯下さい、と女性に頼んだら、100円出しなさい、と言われました。」「もうこの年ですから・・・本当は死にたいのです・・・」とご老人は、こみ上げる涙で目の縁を赤くし、必死にこらえながら、途切れ途切れの言葉で言いました。
私は胸が潰れる思いでした。本当にお気の毒に思えて、何とか出来ないものか、と考えましたが、知識の無い私に出来ることはたった一つです。夫の耳に「いくらかあげてもいいですか?」と囁きました。頷く夫に、私は素早くお札を取り出し、その人の前ポケットが見えましたので、「ほんの僅かですが、今夜の食事代位にはなるでしょう。気を悪くしないで下さいね。」と押し込みました。「ああ・・・。どうも有り難うございます。これで何日か助かります。何回も食べられます。」とそのご老人は言い、腰を深く折って頭を下げました。
歩きながらの話しでしたから、スーパーの前で「どうぞ気を付けて」と別れました。
「私達に出来る事ってあのくらいですよね」と私。「何とかああいう人を救う方法を、係りに周知徹底する必要があるね」と言う夫、ため息をつきながら、でもほんの少しの善意を素直に受け取って下さってよかったと思ったのでした。細い体で、歩き去って行く老人の背中が「種田山頭火」に重なりました。彼は「乞喰(こつじき)には大変な勇気が要る」と言い、しかし行乞(ぎょうこつ)をしないと食べて行かれない自分を哀しみました。幾ばくかのお金のある日は「心が安らぐ」と書いています。
うしろすがたのしぐれてゆくか
どうしようもない私が歩いている
ほろほろほろびゆくわたくしの秋
などという彼の句を想い出しつつ、また「与える人の喜びは、与えられる人の淋しさとなる」と書いた山頭火の心から、「果たして私達は良いことをしたのかどうか?」と振り返ったりしました。「あれはあれで、良かったんだろう」と夫が言って、色づき始めた街路樹の舗道を、その先は言葉も無く歩いて戻りました。
先日とても不思議な出会いがありました。丁度夫と私は、何時ものようにスーパーへ買い物に行く途中でした。
「駅まで後どのくらいありますか」と突然後ろから歩いて来たご老人に声を掛けられました。夫とほぼ同じ年齢か、と思われるその人は、スキーのストックのような杖を一本ついていましたが、小荷物を抱えつつも背は伸びており、話し方も明確でした。「真っ直ぐに後4キロ位です」と夫が答えました。
広めの歩道で、三人くらいが楽に並べる広さです。駅までと聞いて、跨線橋もあるし老人には可成りの距離だと思い、立ち止まりました。「何処から来られたのですか」と今迄歩いた距離を心配して私が聞きました。「北海道・札幌です」思い掛けなく遠い地の名前を聞いて、驚いてしまいました。「ずっと歩いてこられたのですか」と聞くと「そうです。・・・私は身よりが全く無く、弧独な人間です。特攻の生き残りですよ。」と少し自嘲ぎみに言い、「最後に残った僅かな飛行機でしたが・・・出撃したら間もなく右エンジンから火が出て、不時着して生き残ってしまったのです。」と言い、「年を取って・・・、病気もあるしお金も底をついたし・・・生活保護を受けようと思ったのですが・・・・、市の窓口の人は、中々生活保護には厳しくて・・・係りの人は、建前を繰り返すばかりで・・・私のような人間の実情が良く解らないのでしょうが、要するに出しては呉れないのですよ。」とぽつりぽつり言うのです。
生活保護を希望する人が増えて、なかなか厳しくなっている事は知っていましたが、このような高齢の人にまでも、と思わず絶句してしまいました。
「住所が無いと貰えないのです。でも保証人が居ないとアパートは借りられません。だから結局こうして都会を目指しているのです。」なるほどそう言うことになるのか、知らなかった。と、愚かな私は「ではどうしたら」と考えたのでした。でも何故都会?と私の怪訝な顔に気付いたらしく、その人は「地方は冷たいのです。」と言うではありませんか。 都会は冷たく、地方は温かいと考えていた私は、虚を突かれる思いでした。「青森も秋田も・・・みなどの市役所も、結局その地に住所がないので、あれこれ言われて、駄目なのです。窓口はね、今は若い人が殆どで、規則を並べるだけで、解ってもらえないのです。そこへ行くと東京・大阪等大きい所には私のような人が多いので、何とかなるかと思って行くところです。」「教会やお寺にも泊めて貰いましたし、食事を頂くこともありました。」「NPOの施設にも親切に紹介して貰ったのですが、そこはご飯も食べさせて貰えないし、お風呂にも入れません。布団すらないのです・・・。」もう何日か、ろくに食事をしていないという感じでした。
私はそう言う施設の実情を、見た事もないので知りませんでしたから、的確な助言は出来ませんでした。夫が「日本国憲法が基本的人権として、最低限の生活を保障して呉れる筈なのに。」と振り絞るような声で言いました。
すでに何度も沢山の役所を回ったらしいその人は、家が無い為に住所が持てない。市役所等でも、そういう人をどう指導して、居場所を見付けてあげられるのか、係りの人が解らない。または、厄介者扱いして、法律を繰り返すばかりの対応しか出来ない。と身に浸みて解っているらしく、東京へ行く事だけを考えて居るようでした。「さっき水を一杯下さい、と女性に頼んだら、100円出しなさい、と言われました。」「もうこの年ですから・・・本当は死にたいのです・・・」とご老人は、こみ上げる涙で目の縁を赤くし、必死にこらえながら、途切れ途切れの言葉で言いました。
私は胸が潰れる思いでした。本当にお気の毒に思えて、何とか出来ないものか、と考えましたが、知識の無い私に出来ることはたった一つです。夫の耳に「いくらかあげてもいいですか?」と囁きました。頷く夫に、私は素早くお札を取り出し、その人の前ポケットが見えましたので、「ほんの僅かですが、今夜の食事代位にはなるでしょう。気を悪くしないで下さいね。」と押し込みました。「ああ・・・。どうも有り難うございます。これで何日か助かります。何回も食べられます。」とそのご老人は言い、腰を深く折って頭を下げました。
歩きながらの話しでしたから、スーパーの前で「どうぞ気を付けて」と別れました。
「私達に出来る事ってあのくらいですよね」と私。「何とかああいう人を救う方法を、係りに周知徹底する必要があるね」と言う夫、ため息をつきながら、でもほんの少しの善意を素直に受け取って下さってよかったと思ったのでした。細い体で、歩き去って行く老人の背中が「種田山頭火」に重なりました。彼は「乞喰(こつじき)には大変な勇気が要る」と言い、しかし行乞(ぎょうこつ)をしないと食べて行かれない自分を哀しみました。幾ばくかのお金のある日は「心が安らぐ」と書いています。
うしろすがたのしぐれてゆくか
どうしようもない私が歩いている
ほろほろほろびゆくわたくしの秋
などという彼の句を想い出しつつ、また「与える人の喜びは、与えられる人の淋しさとなる」と書いた山頭火の心から、「果たして私達は良いことをしたのかどうか?」と振り返ったりしました。「あれはあれで、良かったんだろう」と夫が言って、色づき始めた街路樹の舗道を、その先は言葉も無く歩いて戻りました。